三崎港にて「三崎白秋会」に招かれて詠む
             日本浪漫学会会長 濱野成秋
 
 日ノ本の世は安倍首相の暗殺事件とそれに続く国葬。世界はウクライナ戦争にて日本も危うし。されど三浦半島の突端三崎港では歌人北原白秋を忍んで地元白秋会の招きで船遊びにくわわりたる。これぞ巣寂しき人生の厚恩なり。
 現地の海は波穏やかにして、船上、三浦短歌会会長三宅尚道氏の見事な白秋披露に白秋の浪漫はよみがえり、帰りの道々歌作自ずと興る。
 
  三崎にて六首を詠ず
 
 三崎港に到着。私の車にて。運転は河内裕二副会長、同乗者は三浦氏淵源の岩間満美子と私。到着は夕暮れちかくにしてまずこれを詠める。
 
  はぐれ来て暮れ行く三崎の主はいずこ
     憂えと伴に今帰り来よ
 
 折しも桟橋から船が出る。
 
  陽の入りを船に乗りゐて待つほどに
     三崎の波は穏やかに満つ
 
 船上は歌人ほか、白秋作詞「城ヶ島の雨」を歌ってくれる地元コーラスグループの先生生徒のみなさまで賑わう。
  白秋の三崎の浜は賑わひて
     柳川語るは吾一人かも
 
 三宅翁の銘講釈続き、時の過ぎるも忘れて帰航すれば、早乙女の浴衣姿。
 
  波止場よりくるめき躍る白波の
     浴衣乙女に憂ひ目語らむ
 
 会うは別れの始めとか。ご準備御礼して車上の人となる。
 
  海今朝も揺れるしらなみ狂おしく
     薄暮となりて三崎を離る
 
 思えば今日も幻か。欧州戦争はいかにむごきか。やがて我が国もまた乱れるか。
 懊悩絶えることなく、車を走らせる。
 
  三崎からの潮の遠鳴り後にして
     暗がりの中 車走らす
 
 以上六首は即興短歌にて、車中では河内、岩間ご両人も秀逸の即興詩人にて。「オンライン万葉集」への掲載は船に同乗された諸氏もまた作歌されんを期待して。 
   2022.10.3 佳き日に感謝して
三崎にて白秋を偲びて詠みし歌
             日本浪漫学会副会長 河内裕二
 
 コロナ禍で中止を余儀なくされていた白秋を偲ぶ催しが、令和四年十月二日に十分な感染予防対策を行った上で数年ぶりに開催された。白秋の作品の舞台となった場所を詳しい解説とともに船で巡る貴重な体験ができた。主催された三崎白秋会および関係者の皆様に心より感謝申し上げたい。
 
  三崎にて詠みし六首
 
 城ヶ島大橋のたもとの浜に白秋の歌碑が立つ。三宅尚道先生のご説明では、建立は昭和二四年で、今の場所に移ったのが昭和三五年。碑に刻まれた「城ヶ島の雨」の一節は白秋の直筆である。
 船の帆のような形をした歌碑を海から眺めて詠む。
 
  白秋の詩魂息づく港町
     海守り居る帆のごとき詩碑
 
 船で三崎の湾を巡る。海は穏やか。船上には穏やかな表情をした白秋の写真もある。古代中国の思想では人生を青春、朱夏、白秋、玄冬の四つの季節に分けた。秋の日に人生も思いながら詠む。
 
  朱夏過ぎて寄せる波風静まりて
     白秋むかへ海に出でゆく
 
 地元合唱連盟の有志の皆様による「城ヶ島の雨」の合唱。しばし聴き入る。
  秋晴れの空を遊べる鳥たちも
     船追ひ聴きし献歌の調べ
 
 船は港の入り口に立つ紅白の灯台の間を抜けて外海に出る。海は変わらず穏やか。
 
  艶めいた紅き灯台後にして
     いざ繰り出さむ相模の海に
 
 太陽が沈むには少し時間が早かったが、夕日に照らされた海は黄金色に輝いて厳かであった。なぜか故郷の海を思いだした。これほど美しくなくても心に広がるのはやはり故郷の海である。
 
  沖に出で秋のゆふべに旅人は
     光れる波にふるさとを思ふ
 
 楽しい時間は早く過ぎる。船着き場に戻ると人もまばらで店も閉まっている。祭りの後の寂しさ。旅を終えて皆が帰路につく。
 
  夕闇の三崎去りゆく人びとを
     もだし見つむる二匹のかもめ
 
 三崎を愛した白秋が実際に三崎で過ごしたのは十か月程度である。長さではないのだろう。様々なことがあってたどり着いた三崎で、傷ついた白秋の心は三崎の風景と人びとに癒やされた。
 百年余り経った今でも白秋が変わらずに三崎の人びとに愛されているのは、彼の詩や短歌が人びとの心の中で生き続けているからである。文学の持つ力を再認識した。
   令和四年十月三日
三崎の白秋に思いを馳せて
             日本浪漫学会 岩間滿美子
 
 穏やかに晴れ渡る秋の日に、白秋祭の船上から望む大空の下、美しい合唱を聞かせてもらった幸せを歌う。
 
  遥かなる雲居の果てに白き秋
     悠々として歌い遊ぶにや
 
 夕陽が海に反映してできた一直線の帯はまるで、天照大神が白秋祭に遊びに来る道のように神々しかったので。
 
  わたつみに光の道を造られて
     天照もや白秋を訪ぬ
 
 申し分のない秋晴れの日に、夕日を受けて船の上から白秋の碑に手合わせて詠む。
 
  秋の日に眠る如くの静寂しじま
     白秋の碑に夕陽ゆうひを副える
 
 三崎の人たちの白秋を思う心が、永々と白秋を偲ぶ祭をまもってきたことに敬意を評して歌う。
 
  海のごと心寛きの三崎びと
     白秋の宴今がたけなわ
 
 不遇の白秋が、他ではない城ヶ島の地を訪れてくれたのだから、せめて白秋を記念する日に我々も城ヶ島を訪れよう。
  白秋の憂い去らざる城ヶ島
     せめて晴れたる秋の日訪ぬ
 
 船を降りて来ると華やいだ乙女の一群が、今を美しさの盛りと、さんざめきながら、通り過ぎて行った眩しさを歌う。
 
  秋の日に見えし程よりねび勝る
     乙女らの行く三崎の浜に
 
   令和四年十月三日
日本浪漫歌壇 秋 長月 令和四年九月十七日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 大型の台風の接近によりいささか落ち着かない日となった。日本では年間二十五回前後の台風の発生があるが、今回は十四号。この先もまだ台風への警戒が必要である。備えはできても、結局のところ静かに通り過ぎるのを待つしかない。台風が来れば、家屋の破壊や農作物の被害など残す爪痕に心が痛むが、通り過ぎた後に広がる晴れ渡った秋の天気は、すがすがしい。今回の台風で大きな被害の出ないことを願う。
 歌会は九月十七日午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、、嶋田弘子、清水和子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の六氏と河内裕二。三浦短歌会の羽床員子、嘉山光枝の二氏も詠草を寄せられた。
 
  夕暮れにつくつく法師鳴きはじめ
     夜は虫の音秋はすぐそこ 光枝
 
 作者は本日欠席の嘉山光枝さん。夏になると蝉が鳴き始めるが、種類によって鳴く時期は少し異なる。ニイニイゼミは他の蝉より早い時期に鳴き、歌にあるつくつく法師は他より遅く晩夏から初秋ごろに鳴く。つくつく法師の独特な鳴き方は耳に残る。夜にはバトンを受け継いだかのように虫たちが鳴く。毎年変わらない自然の営みであるが、作者が表現するように私たちは五感で感じることで変化を実感する。カレンダーの日付ではそうはいかない。
 
  夢もなし「歩け歩け」と医師の声
     「もう夕食か」万歩計持つ 和子
 清水和子さんの作品。明るい前向きな歌とも取れるが、作者によればその逆で悲観的な気持ちを詠まれた歌である。「夢もなし」とは、「夢も見ないほど熟睡」ではなく「将来の夢もない」という意味で、歩かないと寝たきりになると医師に脅されるように言われ、一生懸命に歩いているとお腹もすかないのに夕食の時間となり、食堂に行かなければならないのなら、せめてその距離を万歩計に刻んでおく。本作にはやりきれない気持ちが表されているが、もう一人の自分の存在が重要である。自らを客観視し歌にする自分は、人生を完全に悲観してはいない。だから歌が詠める。
 
  百年ももとせの遠きに生くる歌人うたびと
     友の衰へ嘆ける夏の日 成秋
 
 作者は濱野成秋会長。体に堪える夏の暑さは、歳を取って体が衰えたことを痛感させる。夏の暑い日に久しぶりに会った友は、老けて衰えたように見えた。実体験をされたのだろうか。作者は島木赤彦の歌集『太虚集』(大正一三年)にある次の歌に共感され詠まれた。
 
  夏の日は暮れても暑し肌ぬぎつ
     もの言ふ友の衰へにける 赤彦
 
  晴れた朝吾子らの位置をゼンリーで
     見届け楽しむコーヒーの香り 弘子
 
 嶋田弘子さんの歌。「ゼンリー」とはスマートフォンのアプリの名前で、そのアプリに登録したスマホは位置情報を知ることができる。お子さんたちとグループ登録している作者は、彼らが現在どこにいるのかを確認し、何をしているのかを想像する。お子さんのことをずっと心配されていた日々もこのアプリで終わり、今では安心してコーヒーを楽しむことができる。「晴れた朝」とあるので、家にいるお子さんたちを確認し、朝食を食べてこれからどこかに出かける姿でも想像されているのであろうか。
  秋勝り萩の花咲く庭に降り
     静謐の中友を言祝ぐ 滿美子
 
 作者は岩間滿美子さん。知り合いにおめでたいことがあった。すっかり秋の様相になった庭に出た際に、その方のことを思ってお祝いの言葉をつぶやくと、草花が聞いてくれたような気がした。庭に咲く花も友を祝っているかのようであり、「静謐の中」という句があることで、つぶやかれたお祝いの言葉だけが広がってゆく。生きにくい世の中においては人の幸せを喜ぶことは、実はそんなに簡単なことでもない。ネットで問題になっている誹謗中傷の類いはそれを示すだろう。上句で表される庭の花の美しさは、下句の友の幸せを願う美しい気持ちに向かう助走であり、結句に集約される。
 「ことほぐ」には、「寿ぐ」と「言祝ぐ」の二つの漢字表記がある。「寿ぐ」は結婚のお祝いのイメージが強いので、「言祝ぐ」にされた。
 
  いつになくこころ弾めり昼下がり
     彩なす秋桜はなと風に吹かれむ 裕二
 
 筆者の作。秋桜を見た人から話を聞いた。ある晴れた日の午後のこと、公園に咲くきれいな秋桜を前にして心が弾む。秋の風に吹かれながら、しばらく花を見つめる。見た人の気持ちになって詠んだ歌である。
 
  中秋の名月橋の上にあり
     在位七〇年エリザベス女王逝く 由良子
  
作者は加藤由良子さん。先日亡くなった英国女王を詠まれた。日本的な風景を想像させる上句から下句は世界的な出来事に展開する。美しい中秋の名月のイメージが、気品あるエリザベス女王と重なる。「橋」という言葉も象徴的である。長きにわたり英国と世界の架け橋となった女王は世界の人々に愛された。そんな女王を思って下句を読むと、このような大きな出来事があっても中秋の名月は変わらずに美しく輝いているとまた上句に思いが戻る。素晴らしい歌である。
  おほよそは歓迎されぬ我なれど
     裏山の蚊の歓迎止まぬ 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。この歌は諧謔を含む狂歌である。思わず笑ってしまうのは、誰もが蚊によく刺される人とそうでない人がいるのは知っているが、それがなぜなのかはよくわからないからである。血を吸うのは産卵前のメスだけで、しばらく痒いだけであれば、気づかぬうちに刺されてしまった自分の「負け」を認めて諦めの気持ちでいられるが、蚊はマラリヤやデング熱を始めとする多くの伝染病を媒介し、毎年世界中で多くの人が亡くなっている。場所によっては笑えない歌である。
  
  散歩する亡夫の姿見つけたり
     一年前のグーグルアースに 員子
 
 作者は本日欠席の羽床員子さん。グーグルのストリートビューに、自宅近所を散歩する生前の旦那様の姿が映っていた。そのことにとても感動されて詠まれた。「見つけたり」という言葉から作者の喜びが伝わってくる。撮影時に散歩されていたのも、画像を発見されたのも偶然であるが、作者の変わらぬ愛が偶然を引き寄せたのだと思わせる歌である。
 
 今回歌会で取り上げられた「ゼンリー」や「グーグルアース」のような先端技術が家族の絆を強め、愛を育むことに筆者が意外な気持ちになったのは、実際にそれらを使っていないからだろうか。ネットは効率や利便性を追求するが、その方向性が何となく家族とは結びつかない気がする。思い込みだろうか。結局、家族の問題が解決できるのであればそれでよい。時代は変わったのである。
日本浪漫歌壇 夏 水無月 令和四年六月十八日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 歌会に向かう電車は混み合っていた。新型コロナウイルスの感染者数はもう一ヶ月以上も前週の同じ曜日より減少を続けているので、多くの人が休日に観光地に出かけているのだろう。鎌倉駅でほとんどの乗客が降りていった。思い出してみると、昨年もこの時期には感染者数が減少し、それまで出されていた緊急事態宣言が解除された。しかし七月末にまた急増し、再び緊急事態宣言が発令された。今年はどうなるのか。感染の波が繰り返されないことを願う。歌会は六月十八日午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、櫻井艶子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の九氏と河内裕二。
 
  戻らねば我が物顔のどくだみが
     君の小径を占拠するかも 弘子
 
 作者は嶋田弘子さん。ご友人でご自宅の庭にある花の小径を大切にされていた方が、急に引っ越さなければならなくなり、嶋田さんがそこを管理することになった。しばらくして行ってみると、その小径はどくだみで埋め尽くされていた。人が居なくなると、たちまちこのようになってしまう。戻りたくても戻れないご友人の心情や、さらにフクシマや現在戦争中のウクライナの人たちのことも考えてしまったとのこと。事情があるのだから仕方がない。でも、早くしないと「どくだみ」に乗っ取られてしまうよ。そんなお気持ちから「占拠」という言葉を使われたそうである。
 
  お祭りも海も花火もみな中止
     夏のたのしみなき三年目 光枝
 嘉山光枝さんの歌。三崎のことを詠まれたが、日本全国で皆が同じ経験をしているだろう。夏の風物詩とも言える「祭り」「海」「花火」の三つは、もう三年も中止になっている。毎年夏に感染者が増えている事実を考えると、この先もできないのではないかとさえ思えてくる。中止が続けば、それが常態化して再開が難しくはならないだろうか。厳しい夏の暑さに耐えられるのも楽しいことがあってこそ。味気ない夏はいつまで続くのだろうか。
 
  螢火の小川の岸に立つ父母の
     着物も帯もいづこに去るや 成秋
 
 作者は濱野成秋会長。かつては蛍も身近で見られ、歌のように家族で蛍狩りというのも珍しくなかっただろう。濱野会長は蛍狩りでご両親がお召しになっていた着物を今でもはっきり覚えておられるが、それらはどこへ行ってしまったのだろうかと思われ、この歌を詠まれた。結局残るのは記憶の中にだけと仰った。場所が「小川の岸」になっているのは、下駄履きで来たお父様が、渡った小川の先で蛇を踏まれたという思い出があるからとのこと。お話をうかがって漱石の俳句「蛍狩われを小川に落としけり」を思い出した。
 
  胆管癌三十三年目で完治したと
     でんわの老友声トーン高し 由良子
 
 加藤由良子さんの作品。高校来のご友人より電話があり、病院に行ったら「癌は完治したのでもう通院しなくてもよい」と医師に言われたとのことだった。不安の日々から解放されたかのように、それを伝える彼女の声はトーンが高く歌うようで、本当に良かったと思われて、彼女の報告を歌にされたそうである。三十三年とは相当長い期間であるが、「三」は「みつ」の語呂合わせで「満たされる」や「願いがかなう」という意味になり縁起がよい数字であるとどこかで聞いた。三十三年、偶然だろうか。
  現人うつせみはいつか散りぬる宿命さがなれど
     千紫万紅けふも咲きたり 裕二
 
 筆者の作。「現人」とは字の通り「現在生きている人」という意味である。この世に生きている身体を表す「現し身」としなかったのは、肉体は滅んでも魂は残るというようなニュアンスを加えたくなかったからである。この歌は、人は等しくいつかは死ぬがその人生は様々であると述べたもので、武者小路実篤の言葉「人見るもよし、人見ざるもよし、されど我は咲くなり」ではないが、人生を「花」に喩えたものである。
 
  二年経ち又脊が伸びたか若き人
     吾優先席に埋もれてゆく 和子
 
 作者は清水和子さん。新型コロナウイルス拡大のために長く遠くに出かけられなかったが、約二年ぶりに電車に乗ると、誰もが以前より気持ちに余裕がなくなっていると感じられた。そのような世の中で若者はさらに大きくなるが、自分はどうすることもできずにただ埋もれてゆくしかないのかと思われた。その悲しみを詠まれた歌である。
 
  糖尿の祖母への土産は「白い恋人」
     一日一個の制限つきで 員子
  
 作者は羽床員子さん。「祖母」とはご自身のことで実体験を詠まれたとのことである。甘い物はもちろん塩分や水分も糖尿では制限しなくてはならず大変であると仰るのは、亡くなった旦那様が糖尿病を患っておられた嘉山さん。北海道土産であれば、他に甘くない物もありそうだが、一日一個としてまでも祖母に大定番の「白い恋人」をあげたかったお孫さんの気持ちは何とも微笑ましい。とても楽しい旅行だったのでしょう。きっとその楽しさもあげたかったのである。
  新蛍にいぼたる独り飛びたる夏の宵
     虚空に向かい心預ける 滿美子
 
 作者は岩間滿美子さん。幻想的な光を放ちながら一匹の蛍がゆっくりと宙を舞う光景が浮かぶ上句に、作者が独り何もない空を見て心を預けようという気持ちの下句。どこか儚く寂しさを漂わせる一匹の蛍に自らを重ね合わせる。蛍のように自分も輝きたいと願いながら消せない寂しさを抱えて生きてゆこうという作者の思いが読み取れる。心に余韻を残す歌である。
  
  裏山の枇杷は豊作 忘れてた
     「揺籃ゆりかごのうた」声出して歌う 尚道
 
 三宅尚道さんの歌。枇杷の実がたくさんなっているのを見て、枇杷は何かの歌に出てくるのではないかと考えたら、童謡「揺籃のうた」の二番の歌詞に「枇杷の実」があったのを思い出した。それで歌を思い出すために声に出して歌ってみたとのことである。調べてみると「揺籃のうた」を作詞したのは北原白秋である。
 
  恋しくて傘にかくれて泣きました
     疎開なるもの御存知ですか 艶子
 
 櫻井艶子さんの作品。櫻井さんは七歳の時に二、三ヶ月間お姉様とお二人で親戚の家に疎開されたご経験がある。今も雨が降るとその時のことを思い出されるそうで、歌にある恋しがっている人はご両親である。実際に終戦となり、お父様が疎開先のお二人を迎えに来られた時には、足音を聞いただけでお父様だとわかったそうである。
 櫻井さんによれば、「疎開」を知らない若い世代の人たちに話しかけるつもりで、今回ご自身では初めて短歌で口語表現を用いられた。その手法は見事に成功している。この歌の下句は問いかける形になっているので、それを聞く若者の存在が示される。そのため、上句と下句は戦時中の若者と現在の若者という対照をなすが、疎開経験を持ち出すことで両者の間に七十年以上の時間の隔たりを作り、「疎開」について問うことでそれを埋めて両者をつなぐ。素晴らしい歌である。
 
 今回の歌会では「字空け」について考えさせられた。三宅さんの歌は字空けのない形になれば、三句「忘れてた」が前の二句につながるのか後の四句につながるのか分からない。意味的にはどちらも可能であるが、どちらになるかで意味は変わる。上句としてまとめて二句につなげ「枇杷は豊作忘れてた」とするのが普通であろう。しかし作者は四句の「揺籃のうた」を「忘れていた」という意味で詠んでいる。字空けがなければそのように読み取るのは難しい。字空けは意味を左右するほど重要な役割を果たすが、それだけではない。そこで溜めが生まれるのでリズムを作り出したり、場面や内容を転換したり、漢字が続く場合などには視覚的に見やすくすることも可能である。筆者はまだ用いたことはないが、使い方によっては効果的である。
日本浪漫歌壇 夏 文月 令和四年七月十六日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 七月中旬といえば平年では梅雨明けの時期であるが、今年は観測史上最速の六月二十七日に梅雨明けとなった。異例はそれだけでなく、梅雨が明けると最高気温が三十五度を超える猛暑日が続いた。七月に入ってようやく気温は一段下の真夏日まで下がったものの、三十度超えでは依然として暑い。幸いこの数日は雨天のためか三十度を下回る夏日が続いている。これほど最高気温を気にするようになったのは、外出時にマスクを着用するからである。身体に熱がこもれば熱中症になる。
 歌会は七月十六日午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の七氏と河内裕二。三浦短歌会の清水和子氏も詠草を寄せられた。
 
  新聞はどこから読むのと聞く友に
     テレビ欄だと即答をする 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。ご友人との会話で新聞が話題となり、普通は一面から順に呼んでいくと思うが、ご自身は後ろから読んで最後に一面に行くと言って驚かれた。小説なども同様に結末を最初に読むことがあると伺ったが、推理小説には、ミステリーとサスペンスがある。最後まで犯人やトリックのわからないのが「ミステリー」で、すでに読者にはわかっている犯人を主人公が追い詰めていくのが「サスペンス」である。嘉山さんは『刑事コロンボ』がお好きなので、要するにサスペンス派ということである。
 
  子供のころ自転車屋さんあった場所
     今は軽自動車三台並ぶ 由良子
 加藤由良子さんの作品。子供の頃に近所にあった自転車屋さんはすでに無くなり今はその場所が駐車場になっている。その光景を見て昔あった自転車屋さんとその二階で生活していた店主のご家族を思い出された。近くには八百屋もあったがそれも無くなった。みんなよい人たちばかりだった。今はいなくなってしまった人たちのことを思い出されて詠まれた歌である。
 
  書く人に残日かぞへと責める身に
     炎天傾かたぶき降る里しぐれ 成秋
 
 作者は濱野成秋会長。一族についての歴史書を書き始められた方に、あるとき濱野会長がアドバイスをされた。その調子で書いていると、この先の残りの人生を考えて、完成できないと自戒の念も込めて助言された。しかしすぐにその発言を後悔された。下句にそのお気持ちが表現されている。「降る里」は「古里」と掛詞で「炎天」とあるのでお盆を連想させる。先祖のお墓参りもしていない自分が、先祖の歴史を一所懸命に書いている方に無神経な助言をして、お天道様がお怒りになった。素晴らしい表現である。
 
  列島が真赤に染まる天気予報
     梅雨は明けしもいまだ六月 員子
 
 羽床員子の作。今年の六月は異例だった。早々と梅雨が明け、六月とは思えない真夏のような暑い日が続いた。その厳しい暑さを天気予報で表現された。日差しで「真赤に染まる」のではなく、テレビの天気予報に映し出される色が真赤というのが面白い。
  御社みやしろの白木の門にやおら触れ
     病むおとおもふ薄月の夜 裕二
 
 筆者の作。弟の具合が最近よくないと聞いていたので、地元の神社の近くを夕方に通りかかった際にお参りしようと寄ってみた。ところがすでに拝殿に入る門が閉まっていて、仕方なく門前で拝礼した。「薄月夜」は俳句では秋の季語なので七月の歌会には相応しくないのではとも思ったが、短歌であるのと内容として季節感がとくに重要ではないことから、歌のイメージ合う「薄月の夜」とした。
 
  梅雨開けて常ならぬ世となりしとも
     なほ常なりし日々を楽しも 滿美子
 
 作者は岩間滿美子さん。今の世情や心情をストレートに詠われた。どこか哲学的で深みのある歌である。岩間さんのお話では、少し前に行かれたご旅行で、ある方から「天の声」についての持論をうかがったそうで、その方の考えでは、神様は口をきかないので、人を使ってその声を伝えている。人が語るのを聞いてそれをありがたく思えば、その言葉は「天の声」であり、その「声」を拾って生きるとよい。本作は「天の声」は日常の中にあるとご自身に言い聞かせるように詠まれた歌なのかもしれない。
 
  さまざまな人は過ぎ行く空港に
     我も過ぎゆく那覇の夏空 尚道
  
 作者は三宅尚道さん。実際に那覇空港で多くの人が行き交うのを目にされて、歌のように思われた。本作は旅が人生の喩えであるかのようで、一読すると、「月日は百代の過客にして」で始まる松尾芭蕉の『奥の細道』の序文が思い浮かぶ。芭蕉が北に向かうのに対し、三宅さんは南の沖縄へ。結句の青く眩しい空のイメージがどこまでも広がってゆく。
  「足音で育つ」と云われる野菜哉
     長靴履いてサクサク豊作 弘子
 
嶋田弘子さんの歌。嶋田さんは家庭菜園を始めるときに農家の方から野菜は「足音で育つ」と教わった。半信半疑だったが、たしかによく通って育てた野菜はできがよい。実際に音が影響するのかはわからない。ただ今年も手をかけ、愛情をかけて育てるとよい野菜ができるのを実感された。インパクトのある言葉で始まる上句に対し、下句は言葉の響きとリズムがよく、野菜作りの楽しさが大いに伝わってくる。
  
  床並べ語り疲れて寝返れば
     娘の寝顔に幼な見えたり 和子
 
 作者は本日欠席の清水和子さん。久しぶりにふたりの娘さんとホテルに泊まり、三つの布団を並べてお休みになった最近のご経験を詠まれた。本当に楽しい時間を過ごされたのでしょう。子供はいつまでたっても子供で、寝顔を見て昔を思い出されたのでしょうか。よい親子関係であればこそ生まれてくる歌である。
 
 今回の歌会では掛詞について考えた。掛詞とは、同音異義を利用して情物と心情の二つを表す技法で、和歌ではよく用いられる。濱野会長が「降る里しぐれ」という結句で効果的に使用された。和歌では掛詞はほとんど仮名で表記されるが、現代の短歌においては仮名で表記すると全体のバランスを悪くし、不自然さが出てしまう場合もある。漢字で書いてもう一方の漢字を想像させるのが現実的である。
 筆者も今回の自作の結句を掛詞にしようとした。しかしうまくいかずに諦めた。具体的には、神社に行ったが閉まっていた不運を「運のない夜」とし、「運」を「付き」と言い換えて「付きのない夜」とする。それと掛けて「月なしの夜」とすれば掛詞になるのではと考えてみたが、全体として適切な言葉とは思えず、歌の内容や雰囲気から最終的に「薄月の夜」とした。もちろん「付き」という言葉は「ある」や「なし」とは言っても「薄い」とは言わないので「薄月の夜」は掛詞にはなっていない。それでも「あまり付いていない夜」というのが結句から強引ではあっても連想される気がして筆者は満足している。
日本浪漫歌壇 春 皐月 令和四年五月二十一日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 歌会の開催された五月二十一日は二十四節気では小満と呼ばれる。『大辞泉』によると「草木が茂って天地に満ち始める」という意味である。雨が降ったり止んだりの天気になったが、午後一時半より三浦勤労市民センターに九名が集まった。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の八氏と河内裕二。三浦短歌会の櫻井艶子氏も詠草を寄せられた。
 
  花終へて赤く色づくさくらんぼ
     鳥ついばめば種散乱す 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。ここでいう「さくらんぼ」とは山桜とか吉野桜の実のことで、今の時期はその実を鳥が食べて種を落としていくため、洗濯物を干すのに注意されているそうである。世の中は変わっても自然の営みは変わらず、時が来れば花は咲くし、鳥も飛び交う。そんなお気持ちで詠まれたとのことである。
 
  フロントに花びら四、五片はりついて
     病院帰りのわれを迎へり 由良子
 加藤由良子さんの作。耳が痛くなり心配になって病院に行って診てもらうと、とくに何でもなかった。医師によると、耳掃除をしすぎるとよくないとのこと。ホッとして帰ってきたら車のフロントガラスに桜の花びらが張り付いていた。もしかすると行きにも付いていたのかもしれないが、気にする余裕はなく、帰ってきてはじめて気がついた。その花びらに心が癒やされたとのことで、安堵されたお気持ちを詠まれた。
 
  春よ春 おごれる心はちれて
     上京せしは十八の春 艶子
 
 本日欠席の櫻井艶子さんの作品。櫻井さんは松竹歌劇団(SKD)のメンバーだったそうなので、オーディションに合格して上京された時のことを詠まれたのだろうか。「驕れる心」とあるが、加藤さんは「三浦のような田舎からSKDのメンバーに選ばれて花の東京に行くのはすごいことで、当然自信に溢れ、選ばれし者という気持ちになったのだろう」と仰る。今振り返ると当時のご自身は何故に驕っていたと思われたのだろうか。ご本人にうかがえないのが残念である。「春」が三度も使われて、当時の喜びに満ちた様子が伝わってくる。
 
  喪中なる我も明るきマニキュアを
     つけて歩めば足取り軽し 員子
 作者は羽床員子さん。旦那様を亡くされて半年が経った。暗く沈む心を明るくもっていこうと明るいマニキュアをし、明るい色の服を着たりされているそうで、歌の内容にみなさんも共感された。
 
  初孫の初給料のお誘いは
     大好物のあんかけうどん 弘子
 
 嶋田弘子さんの歌。一読しただけで作者のうれしさが伝わってくる。子供が初任給で親に何かをするというのはよく聞くが、孫となれば喜びもひとしおであろう。嶋田さんは行きつけのお店のあんかけうどんが大好きで、そのことをお孫さんは覚えておられて、初任給が出た際に行こうと誘ってくれたとのこと。高価で気取ったものではなく庶民的な「あんかけうどん」というのが微笑ましいと仰ったのは清水さん。作者だけでなく読者も幸せに包まれる歌である。
 
  いほは仮寝の宿よと天の声
     されどふすまはやはらかぬくきぞ 成秋
  
作者は濱野成秋会長。「天の声」とはもうひとりの自分の声であり、いま毎日寝ている温かい布団は仮住まいに過ぎず、いずれ長い眠りにつくのは冷たい場所だとささやく。このような気持ちになるのは、体が弱かったために子供の頃からいつも死を意識していたことやご両親を案じながら自分の生きる場所を求めて故郷を後にしたことがあるからであり、心地よく暮らす現在の地にあっても「汝が庵は仮寝の宿」と思えてくるとのこと。文学の道を歩む者の心は、安住することのない永遠の旅人のようなものなのかもしれない。
  見つめたるわれの視線を感じてや
     雲に隠れし春の夜の月 裕二
 
 筆者の歌。仕事の帰りなどに夜空を見上げると晴れた日には星や月が見える。星は変わらないが、月は見るたびに「表情」を変える。悲しそうなときもあれば、力強く見えるときもある。先日気持ちが沈んでいたときに見上げた月は優しげで美しかったが、しばらく見ていると雲に隠れてしまった。まるで見つめられて恥ずかしくなったかのようであった。その夜の月を思い出して詠んだ歌である。
 参加者から百人一首の紫式部の歌にどこか似ているというご指摘があった。言われてみれば、たしかにその下句「雲隠れにし夜半の月かな」と似てなくもないが、筆者はただ単純に「雲に隠れた月」を描写しただけで、とくに意識したものではなかった。
  
  杜若池端かきつばたいけはたに立つ人影の
     業平に似て憂いを誘う 滿美子
 
 岩間滿美子さんの作品。根津美術館で開催された特別展「燕子花図屏風の茶会」に行かれて経験されたことを詠まれた。かきつばたの咲く頃になると、『伊勢物語』の主人公とされる在原業平のことを思われるとのことで、有名な尾形光琳の燕子花図屏風を観た後に、美術館の庭園を散策すると、池のほとりに実際にかきつばたが咲いていた。そこにひとりの男性が立っていた。その光景が三河の国の八橋で美しく咲くかきつばたを見て「かきつばた」の歌を詠んだ業平を想像させた。
 
 「かきつばた」の歌とは、句頭に「かきつばた」を置いた業平の次の望郷の歌である。
  唐衣きつつなれにしつましあれば
     はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ 業平
 
  誰も来ぬ一日なれど裏山に
     来たる狸を猫に教はる 尚道
 
 三宅尚道さんの歌。実際のことを詠まれたのだとすれば、狸は夜行性なので、誰の訪問もなく一日が終わろうとしていたところに狸がやって来たのだろう。狸は日本の昔話や民話では人を化かす動物として登場する。近年は、農作物を荒らす招かれざる客としてあまり歓迎されていないようであるが、筆者などは見かけるのが実物の狸ではなく、信楽焼のたぬきの置物ばかりなので、狸に対して勝手にひょうきんでプラスなイメージを抱いてしまう。猫は警戒心から狸の登場を嫌がったのかもしれないが、作者は狸であっても来てくれたことにどこかうれしい気持ちになったのではないか。
 
  ビートルズ流して飛ばした第三京浜
     あの頃のわたし何着てたっけ 和子
 
 作者は清水和子さん。最近目の具合が悪くて手術をされたりして、あまりよいこともなく歌が考えられなかったときに、なぜかふっと浮かんできたとのこと。どうしてこの歌なのかわからないが、ただ、若いときのことはよく思い出されるそうで、それが年をとることなのでしょうと清水さんは仰った。
 流れていた曲も周りの風景もはっきり覚えているのに、自分のことだけは覚えていない。ご自身はお洋服がお好きなのに、なぜかその時着ていた服も思い出せない。歌謡曲の歌詞になりそうな上句は筆者でも思いつきそうであるが、下句は清水さんならではの表現でとても出てこないと思った。
 
 今回の歌会では三宅さんの仰った「感情表現を直接書かずに感情を伝えるのが短歌である」という言葉が印象に残った。というのも、筆者が短歌を始めたばかりでなかなか歌が詠めなかった頃に、濱野会長も同じことを仰ったからである。その時は、つまり論文ではなく小説を書くということかと思い、文学研究者の筆者は少々気が重くなったが、先人の歌を読んだり、歌会に参加して勉強させていただいたりしているうちに、少しずつコツがつかめてきた気がしている。しかしながら清水さんのように、歌が自然に浮かんでくるようになるには、まだまだ作歌が必要である。