日本浪漫学会主催 第二十五回「浪漫うたの旅」
 
歴史探訪
  出雲尼子氏の源流を求めて
             日本浪漫学会 福田京一
 
   近江の海夕波千鳥汝が鳴けば
      心もしのに古思ほゆ     柿本人丸
   さざなみや志賀の都は荒れにしお
      昔ながらの山桜かな     平忠度
   定めなき世をうき鳥の水隠れて
      下やすからぬ思ひなりけり  道誉法師
 
 月山富田城にて
 
 もし一五七八年六月二十八日信長が羽柴秀吉に播磨国上月城に籠城している尼子軍を見捨てずに、共に毛利軍と戦い続けるように命じておれば信長の庇護の下、尼子氏は復活できたかもしれない。しかし、秀吉が引き上げたのち孤立した上月城は毛利軍に降伏した。尼子氏最後の大将・勝久が兄・氏久と共に自害したとき、全ては終わった。
 月山の頂上に立つ山中幸盛塔を見ると、戦国時代の末期に歴史の舞台から消えた尼子一族の結末に戦国武将の皮肉な運命を見ることができる。尼子氏は歴史の一時期、中国地方では守護大名大内氏と毛利氏を凌ぐ大大名であった。この尼子氏の約百五十年の歴史が主君の跡を追うように非業の死を遂げた幸盛で幕を閉じたのである。
 幸盛自身の本家である尼子氏は遥か昔近江から来たのである。ところが調べてみると、出雲の尼子氏についてはかなりの史実が明らかにされているのに、彼らの出身地である近江の尼子氏については不明な点があまりにも多い。近江は京都に隣接する地域として古代から近世の初めまで、朝廷、貴族、豪族、寺社、武士団、幕府の間で抗争が途絶えることはなかった。おそらく応仁の乱頃から戦国時代にかけて戦乱のなかで尼子氏関連の史料が焼失してしまったのではないかと考えられる。それはさておき、近江の尼子氏の源を現地にも足を運んでできる限りたどってみた。先ずは参考のため系図を提示しておく。
 
 尼子氏の由来
 
 六六七年に近江大津宮に遷都した第三八代天智天皇(在位六六八―六七一)の弟・大海人皇子は第四十代天武天皇(在位六七三―六八六)として六七三年に即位した。同天皇が六七二年に飛鳥浄御原宮に遷都するまでの間、近江は政治の中心地であった。
 天武天皇は天智天皇の皇女鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)を皇后にしたが、彼にはすでに皇后の姉である太田皇女との間に大津皇子をもうけていた。また中臣鎌足の娘氷上娘(ひかみのいらつね)を夫人とした。さらに額田王との間にも十市皇女がいた。そして尼子郷の由来となる尼子娘(あまごのいらつめ)がいた。
 彼女は筑紫国宗方群の豪族・胸形徳善の娘で尼子娘と称し、天皇の嬪(妃、夫人の下位を占める身位。寝所に仕える女官)となり、高市皇子の母となった。現在の犬上郡甲良町尼子は彼女がその辺りに移り住んだので尼子という地名になった。
 
 宇多源氏から佐々木氏へ
 
 第五九代宇多天皇(在位八八七―八九七年)の第八皇子敦実親王の三男・雅信は九三六年臣籍降下の際、源姓を賜って宇多源氏の始祖となる。雅信の孫の成頼が守護代となって、近江に下向して、その孫の経方のとき、蒲生郡佐々木庄の下司職となって小脇に住み、そこで佐々木の姓を称した。
 安土町にある佐々木氏の氏神・沙沙貴神社は敦実親王を祀っている。源経方が佐々木庄に入った頃、蒲生には昔から沙沙貴山という豪族がおり勢力拡張には困難を極めた。しかし徐々に佐々木氏は沙沙貴山氏との関係を深め、姻戚関係になって吸収合併していった。
 経方の孫・秀義は平治の乱のとき源義朝に属したが、義朝が敗れ、平氏の政権になってから、追われて相模國の渋谷荘まで逃れた。その後、一一八〇年源頼朝が兵を上げたとき秀義は四人の息子と共に頼朝の元に駆けつけ、源平の合戦で大いに活躍した。鎌倉幕府が発足すると佐々木氏の一族(定綱、経方、盛綱、高綱の四兄弟)は各地の守護職に任ぜられた。その地域は近江をはじめ、長門、石見、隠岐、淡路、阿波、土佐、上野(群馬)、越後、伊予、備前、安芸、周防、因幡、伯耆、出雲、日向にまで及んだ。
 しかし、承久の乱(一二二一年)では佐々木氏一族の多くが後鳥羽上皇側に付いて敗れたため、ほとんどの守護職を失った。ただ、定綱の嫡男・信綱は北条泰時の妹婿であり、幕府側についたので、その後幕府に厚遇され近江国守の地位を得た。再び佐々木氏は鎌倉幕府と親密な関係になったが、同時に在京御家人として朝廷との関係も維持し続けていた。幕府は朝廷との良い関係を保つために、朝廷につながりのある佐々木氏の存在は貴重であった。
 
 佐々木六角氏の盛衰
 
 信綱には四人の息子、重綱・高信・泰綱・氏信がいて、それぞれ始祖とする大原・高島・六角・京極の四家が分かれ、三男泰綱が佐々木六角氏として家督を継いで近江守護職についた。泰綱は三男であったが、兄弟のなかでただひとり北条家からきた正室の子であったからである。さらにそれぞれの庶子家はその分家が独立していき、鎌倉中期以降、佐々木氏の諸流は近江全域に根付いていった。
 佐々木六角氏が京極氏の二人(京極高氏と持清)の時期を除いて一貫して近江守護職を継承していった。この六角氏が守護として蒲生を中心とする近江南部で、守護ではなかった京極氏が近江北部で守護職を執行するという変則的な形で近江は統治されていった。
 六角泰綱は佐々木氏の大黒柱として佐々木一族をまとめ上げることはできなかったが、近江で独立国のように一大勢力をなしていた。そして南北朝期には朝廷と足利幕府との複雑な関係や一家の内紛、京極氏との対立などを経ながら戦国時代を迎えた。六角義賢と義治父子は、一五六八年織田信長の進軍を前にして、戦わずして居城である観音寺城を見捨て、甲賀の石部城に拠点を移した。そこで抵抗を続けたが、柴田勝家が率いる織田軍の攻勢によって一五七四年石部城は落城し、一族は敗走した。その後六角氏の子孫は紆余曲折を経て、江戸時代には加賀藩の藩士となり明治まで続いた。
 佐々木京極氏の流れ
 
 一方、京極氏はどうなったか。信綱の四男・氏信は父から現在の米原市柏原辺りの柏原荘に所領を与えられ、京極氏の始祖となってその地に本拠を置いた。氏信の曾孫で、のちに婆娑羅大名といわれた佐々木(京極)高氏(道誉)(一三〇三―一三七三)は幕府の在京御家人で六波羅探題に仕えると同時に、朝廷から検非違使に任ぜられていた。彼は後醍醐天皇の行幸の際には警護役を担った。承久の乱の後、一三三二年上皇を隠岐に連れいくときにも警護の責任者となった。高氏は忠臣として足利尊氏のために戦い続け、幕府の創設に大きな貢献をなした。そして京極家は室町時代に赤松・山名・一色とともに交代で務める侍所の所司(軍部の長官)になり、さらに出雲国、隠岐国、飛騨国の守護に任ぜられ、北近江の三郡(浅井・伊香・坂田)の守護にもなった。こうして京極氏は本家の近江國守護六角氏を凌ぐほどの権勢を振るった。背景には室町幕府が近江における六角氏の権勢を牽制するために京極氏を厚遇したとも言われている。
 京極高氏(道誉)の時代から下って、一四四九年持清が近江守護職に復帰したものの家督争いが続くなか、京極氏の威信は次第に衰えていった。一四七〇年持清の死後、家督相続をめぐって京極政経は兄の政光と甥・高清と争うことになった(京極騒動)。相続したのは政経であったが、両者の戦いは一五〇五年まで続き、同年政経とその子材宗は美濃守護土岐氏らの援軍を受けた高清軍に敗れた。その後、政経は出雲の尼子清定の元に身を寄せ、その地で一五〇八(?)年に亡くなったと言われている。
 京極家の当主となった高清は伊吹山の太平寺城から麓の上平寺に城郭を築いて移り住んだ。しかし、今度は彼の息子兄弟が家督を巡って争う事態に陥って、北近江での京極氏の権勢は下降線をたどった。
 一五三二年頃からは家臣の浅井亮政が北近江で支配権を強めていった。京極氏の反攻を抑えるために亮政は六角氏の臣下となって、京極高清・高延父子と和睦をした。嫡男・久政、その子・長政も六角氏の庇護のもと、京極氏を抑えつつ北近江での地盤を固めていった。一五六三年六角氏にお家騒動(観音寺騒動)が起きると長政は六角氏から離れたので、六角氏は北近江に侵攻した。だが長政は六角氏の軍を撃退した。
 一五六七(?)年長政は信長の妹・市を妻として迎えて浅井・織田は同盟関係になった。長政は信長が近江に侵攻する前に、京極高次と浅井長政との間には確執があったが、本家筋の京極氏をたてて和睦を結び、実質的に北近江の盟主になっていた。したがって、信長が一五六八年に佐和山城から高宮に軍を進めて、上洛に際して観音寺城にいる六角氏に協力を求める書状を送り、その返事を待っている間、京極氏は浅井長政とともに信長に従っていたことになる。高宮の目と鼻の先にある尼子はその時、浅井氏の支配下にあったと考えられる。
 ただ京極氏は本能寺の変のときは明智光秀に加担した。そのため苦境に陥ったが、高次は姉竜子を秀吉の側室に差し出して許しを得た。代わって秀吉は高次の正室に元京極氏の家臣だった浅井氏の三姉妹(茶々、初・江)のうち初を与えた。高次の妻・初は淀君の妹であり、京極家と豊臣家は強い絆で結ばれ、京極氏は大津六万石を得た。その後、関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、寝返って東軍につきその勲功によって若狭八万五千石の大名になった。さらに出雲の松江の城主になった後、讃岐丸亀藩六万石の城主になった。京極高次は秀頼の義理の叔父であり、のちに江を娶った徳川秀忠の義理の兄になった。こうして戦乱の世の中をしぶとく生きながらえた京極氏の直系もまた明治まで生き延びた。
 
 京極尼子氏はどこへ
 
 近江尼子氏はこうした流れのなかで生まれた。京極氏の始祖である佐々木氏信より五代目、高氏(道誉)の孫・京極高詮(たかのり)の弟高久は家臣として甲良荘尼子郷を与えられた。高久は一三四七年頃本家京極氏の勝楽寺の前衛城として尼子城を築き地名の尼子を姓とした。高久の嫡男詮久(のりひさ)が近江尼子氏の始祖となった。その弟・持久が京極氏の守護代として出雲に赴き、雲州尼子氏の始祖となった。
 出雲の尼子氏の場合と違って、本家筋の近江尼子氏については、十分な史料がないのである。尼子郷を含む甲良荘、を京極氏が治めていたことを示す史料でさえ道誉の時代から百五〇年くらいまで、つまり応仁・文明の乱(一四六七―七七)までである(太田、136-37)。尼子氏に関しては甲良町ホームページに「近江尼子氏は二代氏宗の頃に戦乱で落城し、当時としては広大な尼子城(館)と共に歴史上から消えていった。」とあるのみである。
 では、氏宗が居城を失ったあと何処へ行ったのか。
 後述する土塁公園に立っている説明板(一九九六年尼子むらづくり委員会作成)によれば一四二八年氏宗は「甲良荘円城寺に築城しその後数代居城する」とある。氏宗から数えて次の四代の記述はなく、七代宗光は「織田信長の近江乱により以降甲良荘雨降野に築居する。」つまり、尼子氏は一四二八年から一五六八年の間、円城寺に居住していたことになる。これが事実だとして、では尼子氏は応仁の乱から戦国時代、強大な氏族間の覇権争いのなかをどのようにして生き延びてきたのか。また尼子氏の分家はどうなったのか。
 説明板によれば八代宗貞は石田三成の「幕下に居する」とあり、かなり低い地位の家臣になったとみられる。九代宗成は「彦根藩主井伊直孝の家臣となる 故あって尼子氏から外戚樋口氏に改姓」したという。だが支流も含む確かな系図がないので、二代氏宗以降の尼子一族の消息は謎のままである。
 今は、いくつかの状況証拠を元に憶測するのみである。
 戦国時代には、尼子のある犬上郡は基本的には六角氏の統治の下にあったと考えられている。しかし、一五三〇年頃から北近江に台頭した浅井氏は京極氏と共に南近江の六角氏との間で覇権争いが続いた。両陣営の狭間にある犬上郡の佐和山城(一二世紀後半頃、佐々木定綱の六男時綱が山麓に館を構えたのが始まり)をどちらが占拠するかが勝敗の分かれ目になった。一五三五年六角定頼が浅井亮政・京極高延を攻めて佐和山城を奪った。一五五二年京極高広(高延改め)が反撃して六角義賢から城を奪還した。実際に入城したのは京極氏ではなく、浅井氏が城代として送り込んだ百々内蔵介であった。
 五六三年には浅井長政が甲良三郷などを勝楽寺に安堵しているところから京極氏の尼子郷における支配権は消失していたことは確かである。
 江北と江南の間に位置する甲良荘の近江尼子氏は一五五〇年頃まで生き延びていたとしても、どのような形であったにしろ六角氏・京極氏・浅井氏の三つ巴の権力闘争に巻き込まれたのは間違いない。そこで考えられる仮説のひとつは、近江尼子氏は二代氏宗以後、本家の京極氏に吸収されたのではないか。そうだとすれば、彼ら一族は織豊時代以後、江戸末期まで京極氏と運命と共にして無事に生きながらえたことになる。
 あるいは、戦乱で離散した一族の何者かは京極氏にとって代わった浅井氏の家臣になって、一五七〇年の姉川での負け戦で散ったのか。それとも、戦国時代、京極高清の頃、京極氏は犬上郡での支配権を失っていたので、六角氏の配下になった者もいたのでは、と想像もできる。従って信長が佐和山城に入城したとき、すでに南近江に逃げていったと考えられる。
 大きな勢力同士が争った戦乱の時代に弱小武士団であった尼子一族がとりえたもうひとつの選択は、雲州尼子氏が支配する出雲か岡山(備前・備中・備後・美作)に移住することだったのではないか。鎌倉幕府の初めより佐々木氏一族は近江をはじめ隠岐、出雲、因幡、石見、伯耆の国の守護となり、現地には守護代を配置していた。佐々木氏の末裔が頼れるいくつもの支流がその方面にあったと考えて不思議ではない。
 一四四七年応仁の乱が終わると六角氏が近江守護として近江を支配するようになったが、覇権を巡って北近江の京極氏や浅井氏との抗争は絶えることはなかった。このような状況のもとで、両陣営の中間に位置していた京極氏支流の近江尼子氏が応仁の乱から戦国時代にかけて戦火を逃れて、中国地方に移り住んで雲州尼子氏の家臣に組み入れられたのではないかと言われている。このようなことは一部事実であったようだが近江尼子氏一族が山陰・中国地方に移住したことを示す確かな史料はないらしい。
 確かなことは、信長が一五七〇年に同盟を破棄した浅井・朝倉連合軍を姉川で打ち破ったのち、佐和山城に丹羽秀長を入城させたとき、北近江と南近江の狭間にある犬上郡は平定された。丹羽秀長のあと、羽柴秀吉、石田三成の所領となってその領主を次々に変えながら、関ヶ原の戦いの後は明治まで彦根藩に属した。
 
 出雲尼子氏の興亡
 
 尼子高久の次男持久は一三九五年出雲国守護京極高詮の守護代として出雲の月山富田城に入城し、雲州尼子氏の始祖となった。経久のとき京極氏の支配から完全に脱却し、一五〇八年頃には出雲を平定して、中国地方で毛利氏、大内氏と覇権を競うほどの戦国大名になった。
 しかし一五六六年尼子義久のとき毛利元就によって難攻不落の富田城も落城し、尼子氏は滅亡した。そして義久・倫久・秀久の三兄弟は毛利家の家臣になった。義久には跡継ぎがいなかったので倫久の子を養子にむかえ、久佐元和と名乗らせ。時が経って一六二四年その子就易より、姓を佐々木に戻した。
 一方、富田城落城後、山中鹿助幸盛が雲州尼子氏支流の勝久を擁して一族の再興を企て、一五六九年に毛利氏が支配する富田城奪還を試みたが失敗した。その後体制を立て直して強力な毛利軍に再度挑戦したが、一五七八年に上月城で再興の夢は途絶えた。ついでながら、鹿助幸盛もまた佐々木氏の末裔のひとりであった。
 このように、一五七〇年代には近江源氏の末流は西国と近江で領地を完全に失ったのである。
 
 近江尼子氏の遺跡
 
 応仁の乱の頃、京極氏と六角氏は東軍と西軍に分かれ、敵同士になって戦った。勝楽寺の山城からみて正面の位置にある尼子郷は、両勢力の分岐点に位置していたので、戦場になった。また両氏とも一族内で内紛が絶えず、相手側に寝返ることもあって、周辺の尼子氏のような弱小の領主たちはその時々の複雑な力関係のなかで生きる道を選ばねばならなかった。このような歴史の流れのなかで近江尼子氏は、どこかに散っていったのだろう。
 一九八八年滋賀県教育委員会が土塁と堀跡を発見し、それが尼子氏宗の頃に落城した尼子城の跡の一部であると認定した。そして築城後六五〇余年経過した一九九六年に尼子集落の村づくり事業としてその一部が修復され、現在土塁公園となって保存されている。その近くにある住泉寺の一隅に尼子氏の墓石らしきものがあると田中政三氏は著書で書いているが、確認できなかった。

 
 夢幻の如し、されど
 
 稀有の戦略家であり、教養人であり、その破天荒な立ち振る舞いと身なりで「バサラ風流ヲ尽シテ」と『太平記』で形容され、波乱万丈の生涯を終えた佐々木(京極)高氏(道誉)は次の句を残している。
 
  ことし猶花を見するは命にて
  古郷は月や主になりぬらん
  人はむかしの秋にかわらず
 
 佐々木六角氏の重臣伊庭氏の出であるといわれている連歌師・宗祗法師(一四二一―一五〇二)には次の三句がある。
 
  はなにしてしりぬ世のはるかぜ
  世の中よいづれが先といひいひ
  世にふるもさらにしぐれのやどりかな
 
 これらの句は、武士(もののふ)が激動の中世に生きることをどのように捉ええていたのか、その一端を教えてくれる。
 武士は生き抜くために、二君に仕えたり、主君を次々に変えたり、親戚同士、兄弟同士が争い、子や姉妹を人質に差し出すこともしばしば。時に部下をも見捨てて敵に命乞いをする。それでいて、その時々に命をかけて戦い、大義に生きた。花、うき世、命の三重奏がその土地、その時、その人によって奏でられたのだ。その歌には過酷な現実から逃避することなく、ありのままの世と短い命を凛とした倫理性をもって受け止め、短い一生を生き抜く強い意志が秘められているように思う。それはよく言われる風流とは一味違った感受性が創り出したものだといえよう。
 近江は昔も今も美しい湖と豊穣な土地に恵まれている。だが北陸、東山、東海の道から都への入り口に位置する近江は古代から近世にかけて常に日本の政治の要衝であったので、たえず戦場となり、実に多くの血が流れた。無辜の農民の血は言うに及ばず、大きな力に滅ぼされた数々の武士団の血もまた大地を赤く染めた。
 現在の平和な風景からは想像できない激しい生存競争が近江を舞台に繰り広げられた。だが耳を澄ませば歴史の記憶から落ちこぼれた死者たちの呻き声が聞こえるようだ。現下の世界情勢をみれば、その声に耳を傾けることはあながち無意味でもあるまい。
和歌・連歌出典と参考資料・文献
『万葉集』
『小倉百人一首』
『千載和歌集』
『新撰古今集』
『菟玖波集』
『新撰菟玖波集』
『信長公記』
「中世の石部 第一章第一節近江守護佐々木氏の成立」、『新修石部町史通史篇』湖南市デジタルアーカイブ、一九八九年
『近江源氏と沙沙貴神社』安土城考古学博物館、二〇〇二年
『図録 戦国大名尼子氏の興亡展図録』島根県立古代出雲歴史博物館、二〇一二年
『甲良町誌』甲良町史編纂委員会、一九八四年
『法養寺誌』甲良町法養寺誌編集委員会、二〇〇四年
山田徹・他『鎌倉幕府と室町幕府』光文社新書、二〇二二年
田中政三『近江源氏』 二巻 弘文堂、一九八〇年
徳永眞一郎『近江源氏の系譜』創元社、一九八一年
林屋辰三郎『佐々木道誉』平凡社、一九九五年
村井裕樹『戦国大名佐々木六角氏の基礎研究』思文閣、二〇一二年
寺田英視『婆娑羅大名佐々木道誉』文春新書、二〇一九年
下坂守「京極氏の系譜と事歴」、『室町幕府守護職家事典 上巻』所収、新物往来社、一九八八年
北村圭弘「南北朝期・室町期の近江における京極氏権力の形成」、『滋賀県文化財保護協会紀要31』所収、二〇一八年
太田浩司「京極家の流れと京極道誉」『甲良の賜』所収、甲良町教育委員会、二〇〇九年
妹尾豊三郎『尼子物語』ハーベスト出版、二〇〇三年           
妹尾豊三郎『尼子氏関連武将事典』ハーベスト出版、二〇一七年
日本浪漫学会主催 第二十五回「浪漫うたの旅」で会うた武人たち
 
  不滅の美学に賭けた若庭の里
    廃落武人になき不滅の実業家
             日本浪漫学会 会長 濱野成秋
 
  足立全康は現代の武人である
 
 この武道の達人と美術館で会った。
 中世の城郭を背景に、長髪も結わずに慧眼を光らせる、孤独な一匹狼に遭ったのである。この男の存在を考えると、わが父君を思い出す。
 島根県安来市の市街地からも外れた田園に全康は生れ育つ。折からの日中戦争。太平洋戦争の激動期と戦後の苦難の時期。彼も艱難辛苦の末、美に目覚め、日本画に目覚めて、この広大な庭園と美術館を自らの財産だけで出現させた男。彼は今もって生き続ける。肉体は絶え果てるとも、心は永遠だ。美庭に支えられて。安来産の鋼鉄の如く生き続けているのである。
 安来は全国でも珍しい特殊鋼の産地である。
 特殊鋼とはハイスの2種、3種、ホットダイスなどと呼ばれ、鉄をカットし、削り出す鋼鉄であって、その純度は鉄の比ではなく、いくら熱して叩いてみても、鉄は鉄。とうてい特殊鋼にはかなわない。
 だからかつてはここから産出する玉鋼で軍刀を量産した。
 零戦の胴体を走る鋼鉄線にも成った。
 ゼロ戦は空中戦になぜ強いか。それは操縦士が狭いコックピットの中で力一杯ペダルを踏み込むと鋼鉄製のワイヤーロープはその命令を間違いなく尾翼の上下フラップに伝える。と、尾翼が跳ね上がり、風圧にも負けず頑張るから、機体は宙返りして敵機の背後にピタリと付ける。
 ダダダダ…ペラとペラの間から飛び出す7・7ミリ機銃弾で…そんな話をよく聞いた、父から、防空壕の中で。
 自分が買った安来の玉鋼でゼロは連戦全勝だった、と父。
 東亜機工株式会社の社長は我が父親だったわけだが、敗戦は哀れである。8月15日の、あの、父の号泣ぶりを筆者は昨日の出来事のように、鮮明に覚えている。
 その目で足立全康の偉業の年譜を、安来に来て、エアコンの利いた立派な美術館で読むわけである。
 全康の人生はまぎれもなく、今に生きる。
 筆者の父も愛国の武人であったから、今に生かしてあげたいけれども、もはや回生の機会はない。いまやむかし。その陰は中空に。
 だが筆者のみ知るこの父の最後の仕事は岐阜県山中にあるマンガン鉱山の坑道の奥にあった。父が作った「幻の御座所」である。幼い自分はこの坑道に入った体験を持つ。
 ここで暮らすんやで。
 父の言葉で僕は泣いた。いやや、こわい、いやや、いやや…
 松代はダミーでここが本物。
 そんなことをやる父は狂っていたか?
 元総理の岸信介氏が戦後、スペースシャトルが有楽町に展示されたとき、父との縁で私を招待してくれた。彼の隣席はなぜか一つ空いていて、僕はそこに座った。その日のことも忘れ難い。御座所の構築を頼んだ岸氏もきっと父のことを想い出して僕を呼んでくれたのだろう。伝記にも、何にも書けない動きが多々あったのだ。
 だが今は、すべてはまぼろしである。
 かかる昭和前期の武人たちの体験は、加藤隼戦闘隊も橘中佐や江川北川作江の武勇伝も今は歴史家のみ知る域になっている。真下飛泉の存在も専門家の記憶に遺るだけとなった。
 「戦友」か。ここは御国の何百里 離れて遠き満州の…と続くから、たいていの国民は満州事変あたりの作かと思うであろうが、じつは日露戦争のときの、どう読んでも友愛を軍政直下の命令より上とする歌なのだが、「飛泉」と書いて「非戦」をイメージさせる作詞家の心情など、今更議論をしても誰も聴くまい。時の流れの、遥か彼方に去ってしまうと、政治家も心情も作詞家の心情も、何もかも一緒くたになって忘却の底なし沼に落ち込んでしまうのである。
 その同時代、足立美術館の祖、足立全康は稀有にも、現代の空間に見事に容を成して現存しているから凄い…と思いながら、筆者は身術館で独り佇み、彼の年譜を読んでは自分の体験した時代のうごめきを想起して涙の湧き出るのを禁じえなかった。
 
  信念の結晶は肉體がほろぶとも
 
 この美術館は精神力で生き続ける全康の居城である。不落の名城である。日本式大庭園には年間幾万人訪れようとも、矢玉一つ跳ばない。傷一つ生じる憂えもない。幻の城は威容を誇る。永遠を繰り広げてやまない。
 リアリズムより永遠性の高いロマンスを、この美術館はよく心得ている。我が浪漫学会人には、この足立美術館の大庭園は時間制限のない空間ロマンの至宝に見える。筆者はいつも人に語る。「人間の心のリアリティはリアリズム小説では語りつくせない」と。
 その典型が足立庭園なのである。
 作者の足立全康は実業家であるから、芭蕉や子規、式部といった虚業に専念した人ではない。だから工場も土地も建物も、ありとあらゆるアーティファクト(人造物)は皆、彼が代価を与え自ら進んで取り組める富である。巨万の富に徹したリアリストが全康のはずである。
 ところが、愉快なり。
 そのリアル極まる蓄財を投じて創ったこの庭園は価格づけをするも失礼千万といえるほど、超俗性に満ちている。全康氏はリアリズムを跳ね飛ばした、あの久米の仙人のような風貌で、その財貨を夢の構築物に容態変化させてしまったのである。
 この庭園はもはや美の空間そのものである。筆者は赤松の生え揃うフィギュアを見て思わず一首想い浮かんだ。
 
  若松も白砂に赤き幹そろえ
     美学に生きよと我等に諭す 成秋
 想いを中世には馳せれば足利義満もその権力を恣にして金閣寺を造営した経緯が浮かぶ。権力者義光も見事な庭園を後世に遺した。金閣寺は焼失させられ、三島の同名作品に化けてしまったが。金閣寺庭園も束の間に生きたこの権力者の置き土産となった。稀有なサバイバルである。だが政情不安で都に野盗が出没する時代に飢え死にした民の骸など気にも留めず、この権力者は美庭に耽ったか、の感が拭えない。だから美の中に醜悪が窺える。永遠の美の極致ではない。この種の美醜混在したアーティファクトは西洋にも多い。
 ベルサイユ宮殿もその典型である。
 ベルサイユの庭を歩いた時、筆者は権力者の金銭の浪費を憚らぬ貪欲ぶりに少々腹が立った。足立庭のもつ永遠の美とは異なった傍若無人さに、美というより醜悪さが鼻に突いた。
 美には醜悪さを背負った美の悪霊がある。
 アメリカ・マサチューセッツのコンコードに住む哲人たちは、開発者たちが森のスペースに値付けして鉄道の駅に近いか遠いか、それで価格差を取り決めたり、黒煙を吐いて驀進する機関車の線路から遠いか近いかで代価を決めた。かかる「自然」は自然VS人工の差異にしかすぎない。
 だから林や森の威容さに襲われることはなかった。
 コンコードの森はフロリダのジャングルとは異なり、荒地はなく、テイムな住にこごちのよい、ガーデンとなっている。
 エマソンもソロウも、ウィルダネスよりガーデンと史跡を愛した里見弴、吉屋信子、小津安二郎たちと似ている。
 ポーの幽玄とは大分にことなる。
 むろん、幽玄の美もコンコードのこごち良さも、義光の貪欲さも鑑識眼の視野外にあるが、それを知らずして美を味わえと言われても、戸惑う。殺人鬼信長の華麗な安土城を只で見せてやると言われても、戸惑いは隠しきれない。「浪漫の美」とはそういうものなのである。
 では足立庭園に「幽玄の美」があるかというと、それとは雰囲気を異にする。明るくて安全で。
 映像に目を転じて考えると、別の審美眼と出会う。
 映像作品『レベッカ』であるが、この死霊を擁するマンダレーの森の暗闇は鬱々として鎮まる、ポーのアッシャー家が古城に映す累代の怨念に似たうめき声に通じる。が、足立の美庭に、それはない。美庭は美庭でも、古式の石塔に象徴される陰々滅滅たる盛者必滅の想いはこの大庭園のどの隅をまさぐり診ても窺い知れないのである。そこに見るのは足立翁の風貌とは180度異なる無垢な若さである。
 「無垢」、つまりイノセンスの美なのである。
 赤松、孟宗竹、枯山水の、どれを取っても、若々しく生き生きとしている。気味悪くない。シェイクスピア『マクベス』の、三人の魔女が暗躍する森とは正反対の無邪気さがある。若い美である。
 
  月山富田城はエリオットのウエストランド
 
 翌日、筆者はここから車で20分のところにある月山富田城にわが身を置いた。その頂きになる本丸の」小さな大地にて睥睨すれば、尼子一族の最盛期の心境にとても至らぬ、諸行無常の諦念に満ち溢れた自分の姿であった。
 
  亡び果てし尼子の城に越し来る
     我が現身うつしみよこれが終焉 成秋
 
 佳人薄命というが、月山富田城にあったのは、苛烈な負け戦の果てに見棄てられた廃城であった。可哀そうに。
 安来市立歴史資料館館長の平原金造氏の博学な説明をうけて、この城は面目を回復させたけれども、気の毒に、最後に戦った、嘗ての配下毛利一族の力攻めの果て五百年を経ると、もはや風雪の為すがままであった。風雪とは惨い。時間とは情け知らずだ。
 登りつ筆者はしばしばこの和歌を思い出す、
 
  人住まぬ不破の関屋の板廂
     荒れにし後はただ秋の風  藤原良経
 せめて城屋の板廂でも遺っておればと目で弄るも、自然の神も信長の如し。情け容赦なく遺れる人工物を召し上げていた。
 遺したのはただ佇まいだけ。朽ち果てた廂の断片さえ隠れ棲まわせるを赦さなかったのである。
 活き活きと息づいた足立美術館とはかけ離れた荒涼たる風景がここに実感できた。これもまた自然美には違いないのだが。
 これは度重なる戦で連戦連勝した武人たちが「勇者のみ佳人を得る」の類の美人とは凡そ不似合いな姿である。
 持ち主が戦で滅ぶとその庭も雑草で見苦しくなる。だが足立美術館は別だ。命の絶えることのない庭なのである。
 全康殿よ、見事だ、君の、この疲れをしらぬ美学は。
 西の京を誇った大内氏の館が思い浮かんだ。
 今、その庭園には、「人こそ見えね秋は来にけり…」の寂寞感が季節を問わず纏いつく。拭っても拭っても、拭い切れないだろう。
 ポーの散文詩にみるアルンハイムの地所には幽玄の連続性はあるけれども、足立氏の庭園にある「生の息吹」は少ない。久米の仙人のような風貌の足立全康に真正面から逢うと、彼の眼光に、どちらかというと、フロストやホイットマンの息吹を感じるから不思議である。
 戦前戦中、足立氏は日本式庭園の完成度を診ていたにちがいない。金閣寺と苔寺の庭園にプラスして兼六公園の老松群や前田公の美庭の石灯篭を重ね合わせたとでもいうか、類まれな現代人による古式美である。これには横山大観の日本画数十点と金箔螺鈿の紫檀茶棚のコレクションの展示館も併設されているが、全康氏の思いの結晶とも言える壮大な庭園の迫力には圧倒されて碌に鑑賞する気にもならない人も多かろう。
 全康氏は立派な武人である。
 彼をただ、信念の人と片づけてはいけない。
 まだ実業家として巨万の富を得た夢多き人と片付けてもいけない。
 全康氏は彼独自の流派に生きる武人である。
 若き日、彼は大金持ちしか買えない横山大観の絵に魅せられて金も充分にないのに「大観の絵を買うぞ」と密かに心に誓ったと年譜は語るが、この決意は、「よしこの地で大大名になってやる」と決めた尼子一族の初代と似ている。足立美術館と月山富田城とは車で20分の距離。同じ空気を吸うと同じ発想をするか? とんでもない。時代も境遇も異なるけれども、足立も決意を固めて大阪で自転車を漕ぐような仕事から身を起こして、大成功。
 尼子には当初から高い役職が保障されていたが、巨万の富を得て後、滅び去った。だが足立はほぼ無から身を興して大成功し、世界が羨む美の極致を創り上げた。皮肉にも現代の武人の美庭の至近距離に居て、尼子は裸同然の城跡を風雪に晒している。なぜ斯くも惨めな没落を招来したか。
 
  尼子は斯くして富田城を放す
 
 尼子一族の出発点は比較的恵まれていた。都で贅沢三昧に暮らす佐々木京極家の配下として認められ、守護として当地に派遣された。最初から支配階級であった。守護制度は中央政権がよほど強力な権力を持ってなければ、地方へ飛ばした守護を操ることが難しい。鎌倉時代以降、恩賞の大小で武士団は動いたので、戦国の世になって尼子が京極をあっさり裏切っても当然の成り行きとも見なせる。
 だが、その後の武士団の抗争ぶりは武略のみならず陰謀や調略、だまし討ちが横行していた。下っ端の、普段は田畑を耕す農民がつねに家来として駆り出されて、殺し合いをさせられるから、この身分関係は決して誉めたものではない。
 尼子は庶民階級に温かかったとする通説があるが、権謀術数に長けた毛利元就も尼子に攻められた時には、吉田郡山の小さな城郭に農民家族も何千人と匿い、温かい炊き出しを与えて労っている。近隣に布陣した尼子軍団が冬将軍の到来で凍死寸前となり、退き上げると見るや、その「しんがり」(最後尾の弱体軍団)に討って掛からせた。つまり「恩」に報いて当然というわけだ。
 下級武士団として農民たちも手なづけていたのは、武人の常套手段で、信長の「楽市楽座」や信玄の堤防工事、「人は石垣、人は城」の哲学もこの類であり、秀吉も家康も天下人となるには盛んに農民を利用している。尼子の場合も月山富田城の建築と守りの維持体制は下級軍団の命がけ防衛をやらせたから、どうも、あんまり誉めたやりくちとは言えない。
 元就は息子二人に吉川と小早川の二つの勢力圏に養子として入れ込むかたちで毛利軍団を多極化させ、大内と尼子という巨大軍団を策謀もって戦わせて両者をへとへとにした後、漁夫の利をもって自分の勢力だけを巨大化させることに成功。それをもって富田城を攻略、調略に次ぐ調略で籠城する尼子軍勢を寝返らせて、最終的にはこの広大な城には百五十名だけになったというから、毛利も悪きゃ、裏切り去る部下たちを押し留めることの出来ない尼子も情けない。
 権力抗争の果てとは斯くして埋没の途を辿るのである。
 
 中世の家名主義第一のなかで夥しい数の城郭が出現し、夥しい数の戦乱が続いたけれども、その家名が殆ど維持継続されなかった。ところが他方、個人主義の中で、こう言っては過言かも知れないがエゴイストだらけで、先祖を敬うことも少なくなった時代に、立派に後世に受け継がせるに足る価値ある庭園を誕生させた足立美術館の壮挙は立派である。奇跡である。その招来にどれだけ永続性があるか、幸あれと祈らずにはおけない。(了)
日本浪漫学会主催 第二十五回「浪漫うたの旅」
 
  出雲うた紀行
             日本浪漫学会 岩間滿美子
 
 昔から旅は大きなものを授けてくれると言われていまように、この旅もその通りになり大きな土産を背負って帰って来ることが出来ました。
 ほとんどご縁の無い尼子氏の歴史、足立美術館の思いも掛けない秘密、尼子氏を熱く語る郷土の方々との出会い、R.ハーンの足跡とご子孫の方や関係者の方々との出会い、月山富田城登頂の感激、尼子氏後の松江の城に纏わる歴史、安来の雲樹寺との出会い、松江市役所の危機管理課の方々と面談、旅の宿『竹葉』との出会い等々心に残るものは挙げきれません。
 そして、今回の旅にこうした運びになって行くようにと手配をしていただいた濱野、河内両先生には心より感謝申し上げます。
 また、三日目からご一緒された福田先生には、自らのお車で交通事情のままならない地を回ってくださったことにこの上なく有難いことと感謝いたしております。そして率直かつ明快なご発言に感じ入りましたし、初対面の私の気持ちを汲み取っていたことにも稀有なことと重ねて御礼申し上げます。
 こうした思いの中で、八首詠みました。
  出雲路に散りしもののふ幾多在り
     今も山桜咲て弔う
 
  春の暮れ遠く近くに山桜
     咲き出れどもなおさびしくて
 
  今出雲咲きい出したる桜には
     先争わぬ麗しさ覚ゆ
 
  はるばると月山富田城に登り来て
     もののふの跡なぞりて忍ぶ
 
  連れ立ちて旅行くほどに分け合うは
     真心なりしか思いのたけか
 
  吾こそと騒ぎ立てたる心こそ
     出雲の桜は癒し宥めむ
 
  出雲なる国なかに允つ優しさに
     競い疲るる心癒せと
 
  道化ぶりどぜう掬いに見えたるも
     道化に非ずその技を見せ
日本浪漫歌壇 春 弥生 令和五年三月十八日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 東京の桜の開花発表は平年より十日ほど早い三月十四日であった。最高気温が二十度を超える日が数日続いたのが、早い開花に影響したのだろう。暖かい日が続き、すっかり春になった気分だったが、歌会当日には雨が降り、風は冷たかった。桜の花が長く楽しめると思えば、少々寒いのも我慢できる。入学式にまだ桜の花は見られるのだろうか。
 歌会は三月十八日午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の七氏と河内裕二。
 
  包丁を毎日曜日研ぎくれし
     夫の心情十年後ととせご気づく 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。亡くなったご主人は、毎週日曜日の朝食後に何も言わずに包丁を研ぎ、終わるとご自分の部屋に戻って行かれた。その行動をずっと気にも留めなかったが、亡くなってから十年が過ぎて、ご夫婦での生活を振り返った時に、それはきっと旦那様の愛情だったのだと思われて歌に詠まれたそうである。
 
  ぬか床のきゅうりが苦い?宝物
     無くしてなるものかと手を入れる 弘子
 嶋田弘子さんの歌。お母様から受け継いだぬか床を現在も大切に使われている。嶋田さんにとってそれは宝物で、漬けた漬物をいつもご家族で美味しくいただいていたが、ある時きゅうりの味が苦くなった。このままではぬか床はダメになってしまう。「無くしてなるものか」という気持ちでできることはすべてやり必死に元のような状態にまで回復させた。かれこれ一か月もかかったとのこと。
 
  眼から鼻花粉は来たりくさめする
     年中行事の如く始まる 尚道
 
 作者は三宅尚道会さん。花粉症の方は共感できる歌である。まさに「年中行事」で、毎年同じ時期に苦しむことになる。三宅さんも花粉症になってもう二十年だそうで、それまで平気だった人もある日突然花粉症になると言われると、筆者のように花粉症でない者は不安な気持ちになる。花粉症の歌が詠めるとしても、この「年中行事」に参加するのは遠慮したい。
 
  在りし日の姿思ひて読むメール
     用件のみも言葉優しく 裕二
 
 筆者の歌。日々の仕事においては手紙ではなくメールでやり取りをすることがほとんどになった。過去のメールを確認することが必要になりキーワードで検索すると、探しているメール以外にも予期せぬメールが検索にかかることがある。先日も偶然に亡くなった方から生前にいただいたメールが出てきた。亡くなられてもう七年ほどになる。その方のことを思い出しながらメールの文面を読んでみると、用件のみを伝えるものであったが、言葉使いなどは生前にいつも優しくしてくださったその方のお人柄がにじみ出ていた。
  大阪は見所多しと息子より
     行く先々の写メール届く 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。大阪に転勤なった息子さんから送られてくる関西の様々な場所の写真を見ると、旅行気分になるそうである。楽しい気持ちを母親と共有したいと思う息子さんとその写真を楽しみにしている嘉山さん。心温まる歌である。
 
  思ふまま生きられぬとも年嵩ね
     なほ迫り来る波迎えなむ 滿美子
 
 作者は岩間滿美子さん。ある程度の年齢になれば、この歌に共感する人は多いのではないだろうか。「迫り来る波」をよけるのか、それとも迎えるのか。これまでの人生の経験を活かして「波を迎えて」よりよい人生を送りたいというお気持ちで詠まれたのだろう。筆者もそうしたいものである。
 
  いにし世を知らぬ存ぜぬ子らたちに
     すさむ思ひを語るも空し 成秋
  
 濱野成秋会長の作。「慌む思ひ」とは戦時中や終戦直後の大変な時期のことで、子供たちに話そうとしても、そんなことは関係ないという態度を取られてしまう。作者にとって非常に重要な現実も彼らにとってはただの歴史に過ぎない。歴史は繰り返すと言うが、再び戦争が起こらないようにするには、戦争とはどういうものなのか知る必要がある。しかし聞く耳を持たないのではどうしようもない。空しいお気持ちを歌に詠まれた。
  手の切れしヴィトンのバッグが買い取られ
     八千円にてらとランチす 員子
 
 作者は羽床員子さん。「手の切れし」というのは、縁が切れたのではなく持ち手が切れたという意味。そのような状態のバッグでも八千円で買い取られるとは驚きである。修理して中古品で売るのだろうが、持ち手が切れるほど使い込まれたものでも欲しい人はいるのだろうか。
  
  トンネルを越えれば雪国白銀に
     今一度会いたし待つ人なけれど 和子
 
 作者は清水和子さん。川端康成の「雪国」を思わせる上句に、下句は百人一首にある「小倉山」で始まる藤原忠平の歌の下句「いまひとたびのみゆきまたなむ」を思わせる。どこか聞き覚えのある歌になっているが、光景が目に浮かんできて、映画の一シーンを見ているようである。待つ人はいないけど会いたいという気持ちも理解できるし、三月とはいえ北国の山間部ではまだ雪が残っている場所もあるだろうから、現実の光景と言ってもおかしくない作品だろう。
 
 春夏秋冬、日本の四季は素晴らしい。季語を入れなくてはいけない俳句とちがい短歌は季節感を全面的に表す必要はないが、それでも季節感は歌に彩りを添える重要な要素である。今回は三宅さんと清水さんの作品が季節の歌であった。自然を描写すれば自ずと季節が現れる。次回は四月。春を迎え、桜を詠む歌は何首よせられるのであろうか。

格言 「親の言葉は自分の永遠」

葉山カフェ・テーロにて 濱野成秋

 
 戦前は「親孝行」を徳目の第一に挙げていたが、現在は、個人主義のエゴを良しとする風潮からか、自分が第一であり、自分が幸せを求めて、何が悪い、となる。だが、高齢で己が肉体が果てる時、何も残らないと気づいて後悔する向きがつよい。自分の努力など消えて当然とあきらめるか? 肉体は枯れ果てた庭木と同じだが、百年程度しかもたない自分の心も思い入れも、一緒にくたばることになる。
 
 高齢の親はそれを知っている。だから筆者のように著書を遺す。自分史ではないが、著書の大半はそのたぐい。若い息子はそれをうざったいとガラクタ同然に処分してしまうかも。せいせいするからね、一時的に。だが生き永らえてみると自分の存在が怪しくなる。世間の泥沼にどっぷり浸かって、心が飢えて、寒さにふるえて、この先、死ぬしかない運命で。只の、朽ちる肉体でしかない。遺された手段は余命の使い方だけだ。まず温かい飯にありつきたい。それでうろつく。泥沼で、右往左往。…俺は親として哀しむ、その姿を。
 折角、親の愛が言葉となって、君の老後の安定と親自身の君への「心」を遺すために、遺贈した家の中に遺した著書群だから、大事に読んでみてくれ。それをむげに斬り棄てると、一時的解脱感があっても、君自身が徐々に、自分の人生の存在理由も怪しくなりだす。わが子に棄てられる恐怖感も湧いてくる。泥沼のなかで君ら親子がまたもや醜悪な生存競争になる。
 
 だから君、息子よ、しばらくは抵抗感があっても、親の言葉たる著書をとって置きなさい。自分も枯れた庭木にならず、永遠の生の息吹を得られるから。君自身が85歳になったとき、実感するはずだ。
 君、これを読んだ君よ、子孫に立派な言葉を遺しなさい。親の言葉と自分の言葉がちゃんと仏壇にしまわれて、ちゃんと永遠に続くから、未来世代も時々は読んで、蘇生させてくれる。 親があって自分があり、孫子よ、君らがあってこそ、未来に生き、その果てに、僕や君と一緒に、永遠に生きられる。では一足先に逝って待ってるぜ。