人生を詠う              九州支部長 市川郢康
 
 
 母は昭和34年1月に華道家元池坊より華道教授職1級の免許を取得している。その後亡くなる直前まで裏庭に植えた四季折々の花を使って、お弟子さんたちに生け花の指導に当たっていた。
 
     裏庭に咲く紫陽花は時を超え
        母の思い出尚も匂ふや
 
 母の生まれ故郷八女市星野村では5月の茶摘みが終わると、棚田の田植えが始まる。日本の棚田百選にも指定された星野村の棚田の見学に多くの人が訪れる。
 
     棚田には赤や黄色の曼珠沙華
        暮れる夕日に色づく稲穂
 
 幼い頃過ごした八女市星野村。母の生まれ育った旅館の近くを星野川が流れ、一面の茶畑。夏になると用水路から数多くの沢蟹が現われた。
 
     田んぼへと沢蟹歩む蝉しぐれ
        涼しさ嬉し夏の夕暮れ
 父は筑豊炭田で坑木の仕入れをする係だった。エネルギー革命の煽りを受け、閉山となるまでヤマの男として生きて来た。九州から北海道まで炭鉱を転々とし、そこで僕はボタ山と炭住を見て暮らした。
 
     団扇持ち浴衣姿で盆踊り
        ボタ山見える炭住広場
 
 令和3年6月16日、大阪府寝屋川市に住む義兄が享年78歳で亡くなった。長年小学校の校長を務めた。子供の教育に全力を注いで責務を全うした人物だった。
 
     涙ぐむ教え子の髪白くとも
        義兄の御教え永久に生きなむ
日本浪漫歌壇 夏 水無月 令和三年六月十九日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 歌会の当日は雨だった。関東地方も数日前に梅雨入りが発表されていたので雨が降るのも仕方がない。雨が続くことで逆に六月になったことを実感する。梅は春の季語だが六月に雨が続くことを梅雨と書くのはなぜだろう。しかも梅雨と書いて「つゆ」と読む。気になったので辞典で調べてみた。花ではなく実に関係していた。梅の実が熟す時期に降る雨を中国の長江流域で「梅雨」と読んでいたのが江戸時代に日本に伝わったとされるようだ。しかし諸説あるとのこと。この時期の雨をもともと日本では五月雨と呼んでいた。梅雨の字を「つゆ」と呼ぶようになったことについても「梅の実が熟して潰れる『潰ゆ(つゆ)』からや「カビで物が損なわれる『費ゆ(つひゆ)』からなど諸説あって、要するにはっきりわからないのである。今年は例年より一週間ほど遅い梅雨入りとなったが、明けるのはいつになるのだろうか。
 今回の三浦短歌会と日本浪漫学会の合同歌会は、六月十九日の午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子の四氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の桜井艶子、清水和子、玉榮良江、田所晴美の四氏も詠草を寄せられた。
 
  東海の益荒男成りしマスターズ
     亡き夫ならばいかに思ふや 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。ゴルフのメジャー大会である「マスターズ」で松山英樹選手が日本人として初優勝を果たした。亡き夫はゴルフが好きだった。もし彼が生きていてこの快挙を知ったとしたらどんなに喜んだであろう。ゴルフのニュースに亡くなった旦那様のことを思い出されながら詠まれた一首。
 最近では野球の大谷選手やテニスの大坂選手など世界の第一線で活躍する日本人アスリートも登場しているが、体型によるものなのか長い間スポーツ界では日本人が活躍できなかった。いわゆる「世界の壁」があった。加藤さんによれば、とりわけ男子ゴルフはこの「壁」が高く、これまで幾多の日本人トップ選手が挑戦しても誰もメジャー大会で勝つことはできず、マスターズ制覇は男子ゴルフ界にとって祈願だったとのこと。
 
  ワクチンの接種予約は成功も
     スマホ操作に奮闘五時間 光枝
 
 この歌を詠まれた嘉山光枝さんはワクチン接種の予約にとても苦労された。嘉山さんのお話では、予約電話は混み合って一切つながらないため、スマホによるネット予約を行ったが、操作法がわからなかったり不具合が出たりして完了するまでに五時間もかかったそうである。
 この歌においては、他でもない「五時間」というのが秀逸である。結句にキレを出すためには一音になる数字を選ぶことになるが、二、四、五、九とある中でさすがに九では長すぎる。次に長く、奇数の五が最善だろう。筆者の私感だが、偶数は奇数よりも安定感があり優しい印象を受ける。奇数の「五」という数字が「奮闘」という言葉と相まって、慣れない作業への不安や苛立ち感を上手く醸し出している。
  コンビニの防犯カメラに燕の巣
     親鳥ひたすら餌をはこびくる 尚道
 
 三宅尚道さんの作で実際に目にした光景を詠んだもの。誰もが一度はつばめの巣を見たことがあるだろうが、さすがに防犯カメラの上の巣はないだろう。「防犯カメラという人間が同じ種族の人間を疑って取り付けている装置にお構いなしにつばめが巣を作るのが、人間をあざ笑っているかのようでとても面白い」というのは濱野会長のお言葉。
 
  くちびるや歯牙にまとひし言の葉を
     秋風に舞ふ瞳に告げをり 成秋
 
 濱野成秋会長の作。この歌は次の松尾芭蕉の俳句の本歌取り。
  
  物いへば唇寒し秋の風 芭蕉
  
 濱野会長によると、芭蕉はこの句の詞書で、余計なことを言うと災いを招くので言葉を発するときは注意しなさいと説いたそうで、俳聖ともあろう人物が詩歌でごく当たり前の市井の道徳を説いていることにがっかりしたと仰る。自分をさらけ出してこそ文学であろうと。
 人間はときに他人を非難したくなるが、「まとひし」と表現したようにたいていその言葉を声に出すことはしない。では非難しないかと言えば、否である。目は口ほどに物を言うというように、口では言わず、目で告げて非難しているのである。そんな嫌らしい我が心を見てくださいという歌であるとのご説明。参加者の皆さんも確かに人間は目で物を言っているが、とくに日本人の場合はそれが強いのではないかとのご意見であった。
  
  スーパーの入口にある貼り紙に
     「トンビに注意」今日は梅雨入り 良江
 
 作者は本日欠席の玉榮良江さん。ご本人に伺うこと出来なかったので、歌の内容についてはわからないが、実際に張り紙がされていたのをご覧になったのだろう。三浦ではとんびはよく見かけるそうだが、さすがにスーパーという場所との組み合わせは意表を突くもので、強く印象に残ったために歌に詠まれたのではないか。
 
  夕空に生気みなぎる点描画
     騎虎の勢ひむくどりの群れ 裕二
 
 筆者の作。毎年この時期になると住んでいる街の駅前にむくどりの群れがやって来る。その数たるや驚くほどで、鳴き声も大きくて人の話し声も聞こえないほどである。何かの拍子に一斉に飛び立つと右に左に旋回し、その光景は巨大な点描画が動いているかのようでその迫力に圧倒される。実際にむくどりの群れをご覧になったことのある嘉山さんより「まさにこの歌のようだった」というお言葉をいただいた。
  小雨降るブーゲンビルに鎮魂す
     万葉の歌父と捧げん 弘子
 
 作者は嶋田弘子さん。筆者は太平洋戦争の激戦地としてガダルカナル島という名は何度も聞いたことがあるが、同じソロモン諸島のブーゲンビル島については初めて聞いた。嶋田さんのお父様は戦争中にこのブーゲンビル島におられたので、戦後は島を訪れることなく亡くなられたが、きっと訪れたかったのでは。そう思われた嶋田さんは今から十二年ほど前にお父様の魂と一緒に行くつもりで、ブーゲンビル島に慰霊の旅をされた。本作はその旅の歌である。「万葉の歌」とは『万葉集』にある大伴家持の歌から詩が採られた『海行かば』のことだろう。
 
  九時に寝る忙しき頃の夢を見て
     五時四〇分 今日も日曜 和子
 
 清水和子さんの詠まれた歌であるが、ご本人が本日は欠席されていて内容について詳しく伺うことはできなかった。五時四十分というかなり細かい時間に何か特別な意味があるのだろうか。忙しくしていた頃には夜は九時に寝て翌朝早く起きていた。今は早く起きる必要がないのにその頃の夢をみて五時四十分に目が覚めてしまったという実体験を詠った歌だろうか。
 
  木漏れ陽の光鋭く空を裂く
     心ふるえる白内障オペ 艶子
 本日欠席の桜井艶子さんの作品。白内障の手術をしたことのある三宅さんはこの歌の「光鋭く」の部分などがよくわかると仰る。友人の加藤さんのお話では、桜井さんが手術を受けたのはこの歌会の前日とのことなので、歌は手術前に詠まれたことになる。「木漏れ陽」や「空」というあまり手術とイメージの重ならない言葉に「鋭く」や「裂く」のような言葉を組み合わせて下句の手術とイメージを繋げ、全体がうまくまとまるように工夫されている。
 
  クラス会年重ねたる老の身を
     忘れ乙女にもどるひと時 晴美
 
 加藤さんのご友人の田所晴美さんの歌。田所さんは千葉にお住いで、三浦で行われる歌会に参加することは難しいため投稿でのご参加となった。クラス会では皆が当時に戻ってしまうのは、クラス会に出席すれば誰もが経験することではないだろうか。クラス会での楽しい笑い声が聞こえてきそうな誰もが共感できる素晴らしい一首である。
 
 今回も皆さんの歌から多くを学ぶことができた。とくにお父様と戦争・平和への思いが込められた嶋田さんの歌を拝読して、平和であることが当たり前のように生きてきた筆者やさらに若い世代は戦争の記憶を風化させてはいけないと思った。戦没者追悼式で現在の上皇と天皇が「おことば」で毎回「過去を顧み、反省し、再び戦争が繰り返されないことを願う」と述べられていることを思い出した。本日も充実した歌会であった。
日本浪漫歌壇 春 卯月 令和三年四月十七日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 四月二十日頃のことを二十四節気で「穀雨」と言う。穀物を潤す春雨が降ることから名づけられた。この時期に降る雨について調べてみると、穀物を潤す雨で「穀雨」と同義の「瑞雨」、草木を潤す「甘雨」、菜の花が咲く頃に降る「菜種梅雨」、春の長雨の「春霖」、花の育成を促す「催花雨」、卯月に降る長雨の「卯の花腐し」など多くの名前がある。
 歌会当日はあいにくの雨だったが、三浦は畑が多く野菜の栽培が盛んである。植物にとっては恵みの雨になっただろう。四月十七日は午後一時半より三浦短歌会の皆様と日本浪漫学会が合同で歌会を行った。会場は三浦勤労市民センター。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、玉榮良江の六氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の桜井艶子氏も詠草を寄せられた。
 
  ゆく春の橋の上なるおぼろ月
    黄砂のせいとつれないラジオ 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。「おぼろ月」というと唱歌『朧月夜』を口ずさんでしまうのではないだろうか。『朧月夜』は作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一で、このコンビは他にも『故郷』『春が来た』『春の小川』などの素晴らしい日本の歌を作っている。「白地に赤く日の丸染めて」で始まる『日の丸の旗』も彼らによるものである。
加藤さんも「菜の花畠に入り日薄れではないが」と先ず『朧月夜』に言及され、ご自身が夜空に浮かぶ月を見て今日はおぼろ月だとロマンチックな気分になっていたら、ラジオで十年ぶりに関東でも黄砂が確認されたというニュースがあり、飛来した黄砂のせいで月が霞んでいたと知り少々興ざめしたとのこと。たしかにどこか不毛なイメージのする乾燥した砂漠の砂で霞むのと霧や靄などの空気中の水分に包まれて霞むのとでは「おぼろ月」も気分的に異なるだろう。
 おぼろに霞んだ月の美しさに日本人はずっと魅せられてきた。『新古今和歌集』にも朧月夜の歌がある。
 
  照りもせず曇りも果てぬ春の夜の
     朧月夜にしくものぞなき 大江千里
 
 この柔らかな光の感じを好むからこそ日本家屋では障子が使われるのではないだろうか。谷崎潤一郎の随筆に『陰翳礼讃』というのがあるが、日本人はあまりギラギラ明るいのを好まない。陰影の中で映えるものを美しいと思うのである。
 
  満人の近くの店から漂へる
     食欲そそる中華の匂ひ 光枝
 
 作者の嘉山光枝さんのご自宅の近所には中華料理屋があり、お昼時に美味しそうな中華料理の匂いが時々風に乗ってやって来る。その何気ない日常を詠った一首。
 初句の「満人の」によって歌のイメージが膨らむ。お店をされているのは中国の方だそうだが、東北部の満州出身かどうかは不明とのこと。そこをあえて満州出身とすることで彼らに対して興味を抱かせる。満州というと満鉄や満州国さらに終戦後に命がけで日本に引き上げてきた引揚者のことなどが頭をよぎる。ある時はロマン、またある時は悪夢。日本人にとって「満州」は中国の他の地名にはない特別な意味合いを持っている。
 「雪の降る夜は楽しいペチカ」という歌詞で始まる作詞北原白秋、作曲山田耕筰の『ペチカ』という童謡がある。筆者はずっとロシアについての歌だと思っていた。ペチカとはロシアの暖炉のことだからである。しかしこの歌はもともと一九二四年に発行された『満州唱歌集』に収められた唱歌で、当時の満州を舞台にしている。歌を依頼された白秋と耕筰の二人は満州まで行って制作した。今回その事実を知った。
 
  病超へ遂げし娘の記録見て
     揺れる母御の心測れり 和子
 
 作者は清水和子さん。白血病を克服し日本選手権で優勝を果たした水泳選手の池江璃花子さんの話を聞いて詠まれた歌。池江さんご本人ではなく彼女のお母様の心境を歌われたのは、清水さんご自身がいつも母親としてお子さんのことを心配しているからで、お子さんが重い病気になった池江さんのお母様の気持ちを考えずにはいられなかったとのこと。
「今の若いお母さんは気持ちが強くて娘を絶対に勝たせてあげたいと思うかもしれないが、自分などは水泳が続けられなくてもオリンピックに出られなくても体を大事にしてただ元気でいてくれたらそれでよいと思ってしまう」と清水さんは仰る。食糧事情が悪く戦争もあって多くの人が亡くなった時代を生き抜いてきた清水さんの「ただ元気でいてくれたらよい」というお言葉には重みがある。たとえ清水さんの仰るように世代によって考え方に違いがあるにしても、わが子を想う親の気持ちは変わらないだろう。『万葉集』にも次のような歌がある。
  
  あの人もこの人も「いい人ね」って
     思える今日の元気な証拠しるし 弘子
 
 作者の嶋田弘子さんは、最近短歌は必ずしも古典的でなくてもよいのではないかと思われたそうで、俵万智や若い歌人の自由な歌からご自身も「五・七・五・七・七」の定型に縛られない歌をお詠みになったとのこと。他人を良く思えない時は、自分の調子があまり良くないと経験から感じておられて、そのご自身のバロメーターを歌にされた。誰でも自分のことを知るのは難しい。他人に対する気持ちから自分の状態を知る。たしかに自分の心に余裕がないと、人に対して優しくなれないものだ。
 
  銀も金も玉も何せむに
     まされる宝子にしかめやも 山上憶良
 山上憶良の「子等を思う歌」の一首である。
 
  この世をば散りて去りたるさくらばな
     実をば結ばめ春は来ずとも 成秋
 
 濱野成秋会長の歌。桜の花でご自身の気持ちを表現されている。一般的な桜であるソメイヨシノは、花は美しいが実を結ばない。桜の花のように自分も散ったら終わりなのだろうか。たとえ散ってしまって春が来なくとも実を結んで次の世代に残してほしいというお気持ちがある。ご自身のお仕事などを振り返ってみても、たいして実を結んでいない気がして、この歌が出てきたと仰る。参加者の皆さんもそれぞれ歩んでこられた道は違えど同じ気持ちであると共感された。
 『新古今和歌集』に後徳大寺左大臣の桜の歌が収められている。
 
  はかなさをほかにもいはじ桜花
     咲きては散りぬあはれ世の中 後徳大寺左大臣
 
 世の儚さは桜の花の他には喩えようがないと言っているが、濱野会長の歌にも通ずるところがあるだろう。
 
  だんボール入りし柔らか春キャベツ
     家族総出の収穫すすむ 良江
 作者は玉榮良江さん。玉榮さんの作品はいつも鮮明に情景が浮かんでくる。描写が巧みだからだろう。三浦はキャベツ畑が多く、春にはこの歌のようなシーンがよく見られる。キャベツは夏にも収穫されるが、収穫のスピードが要求されるのか家族総出で行うのは春だと仰るのは嘉山さん。柔らかくて甘い春キャベツも採れたては鮮度がよく当然美味しいのだろう。
 
  相模湾一望にして春霞
     湯舟につかり友と語らむ 艶子
 
 今回はご欠席の櫻井艶子さんの作品。ご友人と熱海に行き楽しい時間を過ごして幸せを感じた時に詠んだとのことで、この作品も玉榮さんの作品と同様に情景がはっきり浮かんでくる。まるで絵画を見ているかのようで描写に無駄がない。友と語らふ声までが聞こえてきそうである。「相模湾」という具体的な場所を示す固有名詞の使用もこの歌では成功している。作品に現実感を与えるとともに、この辺りを知る者なら海には何が見えるのか。伊豆大島か伊豆半島か三浦半島かなどと想像できるのもまた楽しい。。
 
  花時に自粛求むる時の
     太子偲びて現在いまを生きゆく 裕二
 今年は聖徳太子の千四百回忌の年で、四月の初めに奈良の法隆寺で法要が行われた。百年に一度の節目だったが、新型コロナウイルス感染症の影響で感染防止対策を行って規模を縮小しての実施となった。その様子をニュースで見て筆者が詠んだ歌である。
 美しく桜が咲いても昨年に続き花見はできす、接触や蜜を避けるため人に会うこともままならない。この生活はいつまで続くのだろうか。日本のように人びとの自粛に任せてそれなりに行動が抑えられている国は珍しいと言われている。国民性と言えばそれまでだが、なぜそうなったのか。聖徳太子が作った十七条の憲法は第一条「和を以って貴しと為す」で始まる。日本人はその精神を現在まで受け継いできたのではないか。聖徳太子は当時猛威を奮った流行り病で亡くなったとされている。三宅さんのお調べになったところでは天然痘のようだ。太子はちょうど今の筆者の年齢で亡くなった。千四百年の時を越えて、今一度太子の教えに耳を傾け、コロナ禍を生き抜いてゆかねばならない。そんな気持ちでこの歌を詠んだ。
 
  夫とゆく揃いのマスクでコロナ禍を
     浮世さだむや総合病院 弘子
 
 上句を読んで仲の良いご夫婦が一緒にご旅行にでも出かけられるのかと思って下句に進むとお二人で通院されることがわかり一気に緊張が高まる。本作は先日夫に病気が見つかりご夫婦で病院に行かれたという嶋田弘子さんの歌。二人で通えるのは嬉しいが、その場所が病院でしかもコロナ禍。夫の病気とコロナの両方が心配になる。どうしたものか。その浮き世を定めてくれるのが大きな総合病院というまとめ方はお見事である。
  自衛隊訓練生はひたすらに
     パドル動かす春のうしほに 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。自衛隊武山駐屯地に陸上自衛隊高等工科学校があり親元を離れて全国から学生が集まってくる。今の時期は学校前の長井の湾でカヌーをやっている姿をよく見かけるそうで、学生は必死にパドルを漕いでカヌーを進めるが、腕力の違いが如実に現れると仰る。まだあどけなさが残る新入生も厳しい訓練を受けて卒業する頃には心身ともに逞しくなり立派な自衛官になって巣立ってゆく。在学中は給与が支給されるのだから規律や訓練は相当厳しいだろう。三宅さんの歌からもその厳しさが伝わってくる。
 「春の潮」という言葉から受ける温かい海でみんながのんびり遊んでいるような印象とそのような場所で「ひたすらにパドル動かす」と彼らが真面目に厳しい訓練に取り組んでいるという二つの言葉の組み合わせが秀逸であると仰るのは清水さん。たしかにその通りである。遊びたい盛りの若者たちが楽しくしている人たちを横目にストイックに訓練に打ち込むその姿が目に浮かんでくる。
 歌会を終えていつものようにカフェ・キーに移動する。お茶をいただきながらしばらく歓談する。
 今回の勉強では、五・七・五・七・七で各句を前後逆転させたり言葉を少し変えたりすることで短歌としてとても引き締まったように思う。その助言をされた濱野会長は後で申し訳なかったと言われたけれど、散文の調子から詩的な短歌に仕上がった感があり、皆さんに参考にしていただけた。筆者自身も皆さんの歌を読ませていただき、その歌をどのような思いで詠まれたのかを伺って、その思いを伝える表現を工夫するやり方を濱野会長の助言から学ぶことができて大変勉強になった。
 コーヒータイムを終え、お店を出るころには雨も小ぶりになっていた。港の向こうには城ヶ島が見える。今日はまさに「雨はふるふる」である。新型コロナウイルス収束の兆しは見えないが、これまで外出許可が下りずにご欠席されていた清水さんに初めてお目にかかることができた。今回も実りの多い大変充実した一日となった。

シンポジウム資料 開催:初芝体育館 2021.5.9

地元出身警鐘作家 濱野成秋

☆八ヶ岳構想で出発した政令都市堺市はこれで躍進する

[筆者略歴]登美丘中学4期生。慶大アメリカ文学専攻卒。東大アメリカ研究所研究員。東北大助教授を経てニューヨーク州立大客員教授。日本女子大大学院教授。早大・青学・一橋大講師、京都外大大学院教授。警鐘作家としてTVや新聞論評。著書編著30点。主要著書『日朝、もし戦えば』(中央公論社)、『日本の、次の戦争』(ゴマブックス、電子書籍キンドル)、『ユダヤ系アメリカ文学の出発』(研究社)、『愚劣少年法』(中公)、『ビーライフ!白亜館物語』(中公)、短編集『別れる季節』ほか文芸選書5点ほか学術書多し。現在ネット検索できる『オンライン万葉集』を主宰し、「日本の和の心」を世界に発信中。登美丘中学創立50周年記念式典卒業生総代。

[開催目的]今を去る15年前の2006年4月、堺市は政令指定都市に移行しましたが、当時、東区の中心であった登美丘町北野田の商店街はシャッター通りとなり、疲弊の極にありました。私共と町内会連合会は市民の意向を重視して大規模再開発を提起し、市政も協力体制にあって4本の高層ビルを建設でき、文化会館を始め多くの施設を導入できました。あれから早くも15年が経過。果たして現在も活性化が継続中か? あるいは停滞が著しいのか。その原因は何なのか?

Ⅰ文化会館の活用で強力な求心力を持とう

[経緯概説]今までの15年間の前半(市民活動によるもの、2007~2015)と後半(行政OBの運営によるもの、2016~2021)に分けてルックバックしてみよう。

⑴15年前の文化産業構想:池崎守氏と筆者がペンクラブの早乙女貢氏、越智道夫氏らを招聘して堺区でシンポジウムを開催。堺市長も積極的に同調されて、市政を「富士山構想」から「八ヶ岳構想」へ。東区を文化村の中核都市と位置づけた。これは東京都渋谷区のBunkamura the Museum に匹敵する。発信型イコール集中型。「遠心力」centrifugal force→「求心力」centripetal force

⑵「界隈」は消滅しても住民の団結は続いた:北野田シャッター通りは高層ビル4本の建築へ。地蔵さんはじめ「界隈」が消滅する無念さはあったが、市民の生活を支える施設をもって町全体の崩壊は救われ、近代化に変身できたとき、市民の大活躍が復活した。

⑶東区の文化会館・図書館のオープン:前期つまり市民の自主運営・自主企画が次々成功。NHK大河ドラマ主演中の伝統狂言宗家和泉元彌氏が登美丘中学創立50周年祝賀行事に。文化会館開設後、FM局が開局。カフェの賑わい顕著。ところが後期、市民のNPOから旧市役所OBによる運営に移行。貸舞台・貸ホールとなり、館内は灯が消えた如し。

提言:地元住民が企画運営し市の財政的予算を得て、採算・損益分岐点で不可能とならぬ運営で次々と発信、東区の求心力を。また登美中・登美高の大活躍にみるように、吹奏楽部・ダンス部の目覚ましい活躍を堺の文化村の宝にして文化活動の未来を担う人材となって欲しい。

Ⅱ日本初「世界防災センター」World Anti-disaster Centerの開設を堺市東区で実現しよう

未発達の法整備:コロナ禍でWHOがクローズアップされているが、日本はバイオだけでなく、自然災害や原発公害など、多様な問題を抱えている。ハイウエイの大雪対策一つ取ってみても、我が国は、いまだ十分な組織化がなされないままである。コロナ対策もワクチンづくりも遅々として進まず、急場しのぎの施設で外国製ワクチンに頼る始末。特に遅れが目立つのは、先進国では当たり前となっている産官学協同体が機能する組織づくりがないこと。法整備がなく、国会においてでさえ、的確な議員立法として上程するに至っていない。標記センターは法整備の在り方を含め、世界の最新情報で対応策を政府に提示できます。

筆者の阪神淡路:阪神淡路大震災のさい夙川にあった友人宅の救出に向かい、知事部局と協議の上、時の自治大臣の野中広務氏と永田町の大臣室で協議し、6800億円の緊急支援を取り付けた。これは成功したが、二重ローンの問題をはじめ、読売新聞と日赤本社の協力で1兆円基金創設を進めたが、損保事業とのバッティングで省内が難航。基金制度だけでは自然災害抑止は困難となった。標記センターは災害に伴う財政問題の打開策も実働可能なファクターを入れて提示できる。

NBCR対策推進機構:その後、筆者はこの機構の特別顧問となり、日本医師会や自衛隊幹部と長年地道な活動を共にすることになった。日本医師会の支援、消防・自衛隊・地方自治体の理解と協力で全国の医師を対象に治療法教育で成果を上げた。日本における防災センターが不可欠だと判断したのは、この活動から得た教訓からであった。すなわち、折しも東京五輪パラを目前に、日本は保健所・警察・自衛隊・医師団・消防がコロナと闘いながら各領域ごとに努力するけれども、いまだに領域をまたぐ連係プレイが出来てないまま五輪開催に突入するわけである。

提案⑴:堺市東区は国も認める危機管理機構として「世界防災センター」を開設しよう

「世界防災センター」を東区に開設し、①国の防災機構と直結して情報収集と「防災士」教育を行う。②bio-, chemi-, nuc-, radio- 対応の最新知識教育。医師・看護師の最新教育。③WHO(世界保健機構)、ユニセフ(unicef、公益財団法人日本ユニセフ協会)、国連安全保障理事会とのドッキング。もちろん、区議会、市議会、国会、国連、各国大使館や研究機関とのパイプも構築する。筆者はNBCRと並行して、青山学院大学では長年公官庁館員のリカレント教育を担ってきたが、このセンターは国庫援助でカリキュラム化し修得単位を普遍化させる。

提案⑵:Civilian Controlはつねに財政支援政治と行政の協力がなければ結実できない。予算を順当にもらい、消化して市民のためになる住民主導型組織の運営で実効を上げよう

民主主義国家におけるcivilian control は19世紀末のアメリカで台頭したindustrialization(産業主義)で本格化しました。discretion(自由裁量)を最大限に。但しdiscretionary zone(自由裁量の権限範囲)の規定なし。それでも産業主義が統制型の国家主義より繁栄したのは、市民の着想が繁栄に結びついて欧州経済圏を凌駕できた。我が国の公共機関においては、とかく管理第一主義になるか特殊法人のように全面的に任せた結果資金管理不能となった。コントロールに必要な方式は、法人化させた上でdiscretionary zoneを決め、次々と出る企画の損益分岐点を診て、さらにzoning(権限範囲)を拡大させ予算組に反映させる方式がよい。市民と行政の人事比率は7対3と決め、以上を「東区方式」として堺市のパワーアップに役立ててほしい。(以上)

河内裕二 令和3年4月1日

1.心に響かぬは歌ならず

ミュージックはあるがソングはない。

作詞家の阿久悠の言葉である。ほとんど歌詞が聞き取れない歌がミリオンセラーになる歌謡界の状況を憂えて彼はそう述べた。歌謡曲がJ-POPと呼ばれるようになった1990年代後半のことである。この言葉は、1998年に書かれたエッセイ「音楽と文楽」においては「音楽だけで文楽がない」と別の言い方がされる。「文楽」は「ぶんがく」と読み、文を楽しむという意味で、「ぶんがくと読むが文学じゃない。文楽と書くがぶんらくじゃない」とある。阿久らしい洒落た表現である。音楽を聴く人は、音は楽しんでいるが、文すなわち言葉は楽しまなくなった。彼は歌詞を軽視する世の中の風潮を嘆き続けていた。歌は言葉の存続にも関わる問題であるとし、次のように述べる。

歌に盛られた小さな言葉の一つ一つが、意外に重いことに気づいたり、思いもよらない広い世界へ導くものだということを、歌は使命として負っていたし、歌う人も聞く人もそれがあってこそ、しんみりしたり、元気づけられたり、心を開いたり、暗示を受けたりしていたのである。それは、たぶん、日常の言葉にも影響を与えていたと思う。(『昭和おもちゃ箱』120頁)

「歌は世につれ世は歌につれ」などと言われるが、歌が世相を映す鏡であるとすれば、言葉に無神経な社会になったことになる。時代や社会を言葉で表現する作詞家として阿久は誰よりもその変化を感じ取り、危機感を抱いていたのだろう。

1990年代に私は20代だった。当時、文学専攻の若者だった私が、テレビやラジオや街角で毎日耳にした流行歌こそが阿久が疑問視したミリオンセラーの歌だった。今にして思えば、人並みに流行には乗っていたが、歌に全く興味が湧かなかったのは、流れていたのが「ソング」ではなく「ミュージック」だったからだろう。心にしみなかったのだ。

あれから随分の年月が経った。最近心にしみた一曲がある。春日八郎の歌う「別れの一本杉」である。私の生まれる15年以上も前の1955年(昭和30年)に大ヒットした望郷演歌の名曲である。作詞は高野公男、作曲は船村徹。ふたりは音楽学校時代からコンビを組んで活動し、この作品でようやく成功を掴んだ。高野は翌1956年に結核のため26歳の若さで亡くなるが、船村は友の死の悲しみを乗り越えて活躍を続け、戦後歌謡界を代表する作曲家となる。船村は自伝にこう書いている。

歌は心でうたうものである。テクニックがどんなに優れていても、心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く者を感動させることはできない。(『歌は心でうたうもの』2頁)

歌とは何か。阿久は「ミュージックではなくソング」だと言い、船村は「テクニックではなく心」だと言う。ふたりの考えは同じだろう。耳ではなく心に響くのが歌なのである。船村は自身の人生について「邦楽を西洋音楽より下に見る風潮や、街の片隅や黙々と生きる人々の哀感をうたう歌謡曲や演歌を蔑む傾向に対する反逆だった」と述べる。彼がその作曲家人生を歩み始めることになった出世作が「別れの一本杉」である。

2.村の外れで涙は溢れる

 
泣けた 泣けた
こらえきれずに泣けたっけ
あの娘と別れた哀しさに
山のかけすも鳴いていた
一本杉の石の地蔵さんのよ
村はずれ

男は生涯で三度しか泣いてはいけない。

そんな言葉を子供の頃に聞いた気がする。「人前で」という言葉が入っていたかもしれない。泣いてもよいのは、生まれた時と親が亡くなった時とあと一度。最後の一つがどうしても思い出せないが、要するに男は簡単に泣いてはいけないということだ。現在ではこの言葉も「男らしさ」「女らしさ」を前提とする発言として「ジェンダーハラスメント」と見なされるだろう。しかし転んだ子供に親が「男の子なのだから泣かない」などと言う光景は、昔は日常的によく見られた。男は泣くもんじゃない。かつては皆の共通認識だった。

「別れの一本杉」は「泣けた 泣けた」という歌詞で始まる。恋人との別れが哀しくて泣けるのだが、堪えていた涙が村外れに来ると溢れてしまう。人前では泣けないというのもあるだろう。しかし堪えきれなくなるのは、村外れでいよいよ故郷との別れになるからだ。カケスまでもが鳴く。カケスは漢字で「懸巣」と書く。木の上に枯れ枝などで巣を懸けることが名前の由来である。鳥名までもがどこか故郷を思わせる。恋人や故郷をただ離れるのではなく捨てるという気持ちだろう。男にとって三度しか泣けない残りの一回である。別れを経験しない人はいない。たとえ恋人を残して故郷を去ったことがなくても、別れの辛さや哀しさは誰もが理解し共感できる。自然に歌の世界に引き込まれてゆく。

村外れにある一本杉とその脇の地蔵。情景が目に浮かぶ。仏教では地蔵菩薩は六道すべてに現れて衆生を救うとされる。村に来る旅人や先祖を出迎え、また去る時には見送る場所になる村の境界には地蔵が立っていることが多い。作詞した高野公男は故郷の茨城の風景を思い浮かべて書いたが、歌った春日八郎の故郷の福島にも同じ風景があった。日本には同じような場所が数多く存在するだろう。一本杉と地蔵は、自分が生まれる前からそこにあり、たとえ村が変わっても、自分が死んでも、変わらずにいつまでもそこにある。泣けたのが駅のホームでは土着な感じは出ない。

船村によると、高野が付けた歌のタイトルは「泣けたっけ」だった。レコード収録が決定した際に、プロデューサーが「別れの一本杉」に変えた。歌詞も含めて「泣けた」が多すぎるからとの理由だったが、その変更は見事である。「泣けたっけ」では情景が浮かばない。「別れの一本杉」であれば、情景が浮かび郷愁を感じられるし、さらに一本杉の佇まいから孤独や寂しさも伝わってくる。

「泣けたっけ」という言葉には作詞した高野の思いが込められている。発表当時この歌の新しさは口語体の歌詞だった。さらに言えば、地方訛りのある話し言葉が使われている。高野は茨城の出身だが、「っけ」という語尾は他の方言でも使われる。地方出身者にはどこか懐かしく聞こえただろう。高野は東京で「地方」にこだわっていた。相棒の船村には「おれは茨城弁で作詞する。おまえは栃木弁でそれを曲にしろ」と言ったそうだ。彼らの作る歌が、故郷を離れて都会で暮らす人びとの心をとらえないはずがない。私も20代で愛知から上京した。

3.遠い故郷と赤い頬っぺた

 
遠い 遠い
想い出しても 遠い空
必ず東京へついたなら
便りおくれと云った娘
りんごの様な赤い頬っぺたのよ
あの泪

東京に出てきた理由は語られない。捨てる思いで後にして戻れないから故郷は遠い。故郷は北海道や九州でなくても茨城や栃木でもよい。遠いのは心の距離だからだ。歌の故郷はどこなのかわからない。具体化が避けられているので誰もが自分の故郷になる。三橋美智也の『リンゴ村から』(1956)のように故郷とりんごが結びつけば、生産地の東北地方か長野の話になる。「りんごの様な赤い頬っぺた」であれば、東北や長野出身者は「りんご」に、他県の出身者は「赤い頬っぺた」に気持ちが向くだろう。「空」と「りんご」の二語が出てくることで、あるいは故郷で聴いた当時は誰もが知っていたであろう「リンゴの唄」(1945)を思い出すかもしれない。

「別れの一本杉」が歌われた昭和30年代には集団就職で多くの若者が東京にやって来た。農村部の中卒者が多かった。文科省の統計では、昭和30年の高校進学率は51.5%である。中卒者は日本の高度経済成長を支える「金の卵」と呼ばれ、彼らを就職先に送り届けるために運行されたのが集団就職列車だった。昭和29年4月5日の青森発上野行きの列車が第一号と言われるが、山口覚の『集団就職とは何か』などを読むとそれ以前にもあったようだ。「別れの一本杉」の九年ほど後にヒットする井沢八郎の「あゝ上野駅」は歌詞の設定がより具体的である。就職列車で上野駅に降り立った農家出身の若者が、辛い配達の仕事をしながら啄木のように上野駅で国訛りを聞いて故郷にいる両親を思い出すのである。この時代をイメージして作られた映画に2005年公開の『ALWAYS三丁目の夕日』がある。昭和33年の東京を舞台とするこの映画では、星野六子という女性が集団就職列車で青森から下町の自動車修理工場にやって来て住み込みで働く。まだあどけなさの残る彼女は特徴的なリンゴのような赤い頬をしている。

「あゝ上野駅」や『ALWAYS三丁目の夕日』も彼らの気持ちを慮って心を動かされるが、「余白」のある「別れの一本杉」の方が心にしみる。より詩的だと言えばよいか。最後の「あの泪」という語にしても、戻れない故郷にいる恋人のなみだだから、戻るが入る「涙」ではなく「泪」なのだろう。作者の思いが込められている。

4.都会の片隅にて何を思ふや

 
呼んで 呼んで
そっと月夜にゃ呼んでみた
嫁にもゆかずにこの俺の
帰りひたすら待っている
あの娘はいくつ とうに二十はよ
過ぎたろに

誰でも夜は寂しい気持ちになる。夜空に浮かぶ月は人の心も照らすのか。月を見るとなぜだか故郷を思い出す。古くは唐に渡った阿部仲麻呂が帰れぬ故郷を思い「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」と詠んだ。故郷を思う時、最初に思い浮かぶのは、風景か人か思い出か。女性が浮かべば望郷演歌になる。

故郷には自分の帰りを待つ女性がいる。彼女は手紙すら来ない相手を嫁にもゆかずにひたすら待っている。東京の空に浮かぶ月を見上げなから、男はどんな気持ちになったのか。彼女の名前を叫ぶのではなく、そっと呼ぶのだ。慚愧の思いだろう。だが帰るわけにはいかない。東京でまだ何も成し遂げていない。

「とうに二十は過ぎたろ」とは何歳ぐらいを指すのだろうか。22、3歳か、あるいは20代後半までいくのだろうか。童謡「赤とんぼ」の姐やは15歳で嫁にゆくが、三木露風が作詞したのは34年も前の大正10年で姐やは奉公に来ていた女中のことだから、昭和30年代の歌の結婚年齢には参考にならない。厚生労働省の「人口動態統計」で調べてみると、昭和30年の女性の平均初婚年齢は23.8歳である。全国平均より農村部はもう少し若くなるとすると、待っている女性は結婚適齢期を越えてこのままだと結婚が難しくなる年齢だろう。結婚するのなら今直ぐにでもした方がよい。時間の余裕はない。

男は東京でどんな生活をしているのか。月を見て望郷の念がこみ上げてくるのだから、不本意でつらく厳しい生活だろう。こんな生活がいつまで続くのかと焦りや苛立ちを抱えて生きているのではないか。挫折して失意の底に沈んでいるようには思えないので、夢や希望を捨ててしまったわけではないだろう。ひたすら堪え忍ぶ日々か。

男の態度から恋人に待っていてほしいという心情は伝わってこない。どこかで自分のことは忘れて別の人を見つけてほしいと思っているのではないか。未練はあるがこれ以上待たせておくわけにもいかない。手紙を出さないのも、出せば将来を期待させるから。手紙で別れを告げることも考えただろう。しかし待ち望んだ手紙が別れの手紙だった時の彼女の悲しみは如何ばかりかと考えると書くことができない。手紙も来ない状況に実らぬ恋と諦めて自ら新たな道に歩み出してくれたなら、そう考えるのは男のずるさか優しさか。離愁に満ちた歌である。

「別れの一本杉」が発表された昭和30年は日本の高度経済成長が始まった元年である。翌31年には経済白書に「もはや戦後ではない」という有名な言葉が登場して戦後復興の終了が宣言され、高度成長は昭和48年のオイルショックまで続く。人々が豊かさや機会を求めて都会に出る。生まれ育った場所を離れた時に初めて故郷が誕生する。この時代に多くの故郷が生まれた。

望郷歌「別れの一本杉」について考える場合、都会と田舎であるとか、変わってしまった自分と変わらない故郷といった単純な二項図式で捉えるべきではない。船村が言ったように歌は心なのである。室生犀星が「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で始まる詩で表現したように、故郷は思うものであり、思うことで故郷は生まれる。「別れの一本杉」は故郷をうたうのではない。この歌をうたう時に心の中に故郷が生まれるのである。心の中にそれぞれの一本杉が。