本学会相談役 鈴木孝夫慶應義塾大学名誉教授追悼

畏敬の師とその時代

2.鈴木孝夫は明治以来つづく世捨て人の系譜

⑴慶應義塾は世捨て人も養成する

慶應義塾に入学して直観した言説は、福沢先生以下、文学部の先生は、みなさん、世捨て人ではないか、という感慨だった。俗に、「起きて半畳、寝て一畳。天下盗っても二合半」と言われる、芭蕉や山頭火に通じる言葉が慶應義塾にも通じた感があった。慶應義塾は政財界に幾多の大物を送ったけれども、文学部にあっては世捨て人づくりの本店ではないか。そんな雰囲気が横溢しているとさえ思えた。

理財科には通じない逆説が文学部では罷り通っているのは嗤える。だが当たっている。筆者のように、国立私立の両方で教鞭を執ってきた人間にいわせると、こう言っても過言ではなかった。

鈴木孝夫は『人にはどれだけの物が必要か』というタイトルの自著まで出しているが、いかにも医学部を捨てて文学部に来た仙人らしい。彼は言う、古代ローマやビザンチンの皇帝たちが愚民政策の常套とした「パンとサーカス」。こいつによく似たグルメにゴルフにテニスが今の日本。ホモ・エコノミクス(経済人)とホモ・ファベル(技術者)ばかりが目立って、環境破壊に取り組むホモ・フィロゾフックス(思想家)の姿を視えないと指摘。

この書の出版は平成6年。四半世紀前だが、その後この発想で汚染問題は表面化したけれども、今日に至っても、解決したと考えるには程遠い。鈴木はまたこの時点で、世界人口は56億、21世紀には100億を越すと嘆くが、ますます極貧化した国情がひろがり、その犠牲者として死んでいく新生児の数は増えるばかりである。彼の読みは残念ながら当たっているのに、どの富裕国もほとんどその手当てが出来ていない。

鈴木流に見ると、ジオポリティックス(地政学)が国家主義のエゴの下、戦前のコロニアリズムそのままに進む第二・第三の新興国の及ぼす勢いに先進国がひるんで退行現象を起こしてしまったせいとでも、診断できる。東大にはいるが、慶應義塾の文学部には、現行の官僚主義を愛でる者はいない。

顧みれば創設者の福沢諭吉はいつも国家指導の、つまり民衆を置いてきぼりにした政策主導のビューロクラシー(官僚主義)を慨嘆していた。だからこそ、その傘下に甘んじて惰眠を貪ることを潔しとはしなかった。その精神的脈流を受けて福沢の代弁者のように気炎を吐いていたのが鈴木ではなかったか。

⑵日本の、明治初年、戒告当時の実情に思いを馳せよう。

近現代の覇権主義の台頭に呼応して富国強兵策を国是とした明治政府はヨーロッパの国家体制の安定策に必要不可欠なロジックとして外周に「利益線」後に「生命線」と呼ばれた線引きをして自国を守る戦略を立てた。日本は朝鮮半島を利益線の対象にしていたから、日清日露の戦争が不可欠かのように是認した時代でもあった。それは欧米列強とロシアの脅威もあり、やむを得ぬ状況下でもあったともいえるが、強引な派兵工作は現地の民衆はもちろん、国内の下級兵士の立場から見れば、かなり無理無体は政策だった。当時はまだ国家安泰のためなら、民衆は喜んで命を捧げて当然とする風潮があった。公害問題も然りである。民衆が我慢さえすればよい、モクモクと黒煙を吐く工場や機関車や軍艦は国力発展のシンボルぐらいにしか考えられていなかった。労働問題や政体の改革など問題にならない時代でもあった。

しかし福沢をはじめ、指導者を失って欧米列強の植民地主義に国土を席捲されるさまを気の毒に思って革命家を保護するなどしていたから、やはりカウンター・カルチュラルな思考回路をすでに持っていた知識人はいたのである。

福沢型あるいは鈴木型の発想は当時の庶民からも受け入れ難い。体制派からみれば、かかる思想は排斥されるべきであり、帝国大学と名の付く7つの大学からは、学長自らが軍国主義に逆らう例はきわめて少なかった。

むろん帝大系でも教授陣において問題視する傾向もあり、それが高じると、○○事件と呼ばれて、官憲の弾圧対象になっていた。今から考えると、なぜあの程度の国家論に官僚主義者がこだわったか苦笑するほどの窮屈な時代だったとしかいいようがないが、鈴木孝夫氏はその時代でではなく、現代において、言論の自由で、いや、言論のフレキシビリティのお陰で、いや言論の「自由裁量権」のお陰で、異端視されず、問題視されなくなったのであろう。(つづく)

本学会相談役 鈴木孝夫慶應義塾大学名誉教授追悼

畏敬の師とその時代

⑴鈴木孝夫先生との出会いは60年安保の年

鈴木孝夫先生と私の出会いは昭和35年春、日吉から三田へ、英米文学専攻生として本格授業を受けに来た初日のことであった。授業はSimeon Potterの Our Language で、英語の組成を歴史的に説く歯ごたえのあるテキストで行われ、受験英語とは段違いに難解な内容をものともせず、驚くべき博学で内容の面白さに耽溺なさって饒舌に名講義を展開される鈴木先生には圧倒された。福沢諭吉の再来か。この授業はまさに慶應義塾に相応しい、悲痛な思いさえ籠められている。教室にいる学友は皆、一様にそう思ったはずだった。

というのは、当時は1960年。60年安保の真っただ中だった。国会周辺は全学連のデモ隊が何万と犇めく。現代アメリカ文学が専門の大橋吉之輔教授が戦時中にダンテの『神曲』を持っていただけで、特高に捕まり暗所に連れ込まれて拷問された話をなさると、我々もまた学徒動員が待ち構えている強迫観念に捉われ、清水谷公園から国会への行列に加わった。そんな時代だったからである。

厨川文夫教授は古代中世英語学の権威で、慶應義塾は明治維新の直前、江戸城の開門を巡って戦乱の最中でも講義を休まず続けられた話をされた。学問とは、一時的な感情の高ぶりに左右されてはならずと諭される。鈴木孝夫の授業がまさにそれだった。彼は政治抜きの学者肌で、講義内容から明確にされたのは、欧米の思想体系が必ずしも政治思想に毒されて歪んでいる存在ではないということであった。
 
偏在や偏見に陥る勿れ。まだ19歳の僕も自分自身にそう言い聞かせた。渋谷の東横デパートの屋上から眼下を睥睨すれば、ここに蝟集する人々の歩くさまがよく見える。自分もまた都会のゼロ記号になってはならぬ。そうは思えどエゴ・セントリックに考えても所詮はゼロ記号意識から解脱できない自分が情けなかった。

渋谷の下宿に帰ると机の上には、渋谷の大盛堂で買い込んだ大岡昇平の『野火』や『俘虜記』、田宮虎彦の『足摺岬』、火野葦平の『土と兵隊』、それに忘れもしない大江健三郎の『死者の奢り』や『ワレラノ時代』が積み上がり、学研連の「文学研究会」の話題に不可欠の作家群やサルトルやカミユの不条理実存主義の思想群や、「怒れる若者たち」グループのコリン・ウイルソンのDeclarationの英語論文。へたばるものか。父や兄の奮闘を思えば学問など苦労のうちに入らず。と、また自分に言い聞かせて読書とノート取りの日々だった。

この時代、鈴木先生は岩波の、今でも売れている名著『言葉と文化』を書き、大橋先生はNorman Mailerの評論White Negroを『三田文学』に翻訳され、さっそくそれを読んだ僕はsquareあるいは organization manというキーワードに対峙するhipsterという語に憑りつかれた。メイラーは1950年代というAmericanism全盛時代に順応主義者として生きるアメリカ大衆に失望していたから、beatという「打ちのめされた世代」とは別にhipsterという、敢然と冷戦という米ソの対立状況に立ち向かう存在を明記したわけだが、自分もまたかかる立場を採らねば、わざわざ関西から上京して学問の門を敲いたことにはならないと思った。

兄は私が東京に出立するという日に、母に向かって言ったそうだ、それは後年、兄自身から聞いたことなのだが、「成生はもう大阪へは帰って来よらんよ」

それは異母兄弟として育った、自分から見れば、母のたった一人の息子であり、兄とは姑を介在して戦中から続いた確執が絶えない、その時代に郷里を後にした私の存在を、兄は見事に見抜いて言った言葉であった。 

「親不孝者か、自分は…」

この思いは、学生時代はおろか現代に至るまで続いている悔悟の念である。確かに慶應義塾の門に入ったことは正解であった。ここに来なければ、私は関西人として政治も社会の矛盾撞着ともあまり拘泥せず、平凡な暮しで生涯を終えたはずだった。

賢明な兄はそんな弟の行く末まで見抜いていたわけだが、自分としては塾生として日々4年間送った毎日が自問に自問を重ねる日々であり、どの師を前にしても未だ浅学の我が胸中を思えば自信喪失でその空白を埋めるが如き悪戦苦闘の日々ともなったのだった。

60年安保の響きは現在の静けさからみれば、想像を絶するほど、喧噪著しいものがあった。

連日連夜、国会周辺を十重二十重に取り巻いて「岸を倒せ!」「日米安保反対!」のシュプレヒコール。全国の主要都市でもこのシュプレヒコールは鳴り響く。それは曇天の梅雨空に響きわたり、東大生の樺美智子さんが警官隊に圧し潰されて亡くなった。22歳だった。僕らはアメリカ政府の手先にされて、また軍隊に無理やり放り込まれ、朝鮮半島に送り込まれるのだろうと、参加者全員がそう危惧したのだ。まだ朝鮮戦争が終結して7年だった。

現在、「日米同盟」と呼ばれる、US-Japan Security Treaty には、当時の若者たちの悲痛な叫びが届いたせいか、「即入隊、即原子戦争」というメイラーが『白い黒人』で示唆したinstant deathのイメージは明白ではない。それはソヴィエト(今のロシア)が共産国としての国家権力を放棄宣言したのが最大の原因であると言われるが、果たしてそうか。喉元過ぎれば何とやらで、日本人の心の中で、警戒心がその後急速に薄れ果て雲散霧消してしまったのが主たる原因ではないか。日本人は「仕方がない」とすぐあきらめる。それだと筆者には思えるのだが、これも鈴木先生の思考回路の影響かもしれぬ。

それはともかく、自分は生涯をかけて、この日本の国を良くせねばならないと心に決める大きな起因はこの期に培われたと思う。当時、自分自身の知識体系が果たしてどこまで可能か、自分自身の開発力に挑戦する日々であったが、今にして思えば、僕の達成目標の一つは、鈴木先生の知識体系であったことは疑う余地もない。(つづく)

「古典芸能」和泉流狂言と日本人の心

日本浪漫学会副会長代理 河内裕二
2021年2月10日

日本浪漫学会は、先人が大切にしてきた日本人の心を世界と後世に伝えてゆく活動を行っている。濱野成秋会長は和泉流宗家とは三十年に及ぶ親交を続けられており、この度神田明神で開催された和泉流宗家狂言会に私も同行した。古典芸能である狂言は約六百年の歴史を持つ。伝統を守り継承してゆくとはどういうことなのか。「オンライン万葉集」の活動の一環として公演を鑑賞した。以下はそのコメントである。

公演前に二十世宗家と。左から濱野成秋会長、二十世宗家和泉元彌氏、河内裕二副会長代理。

令和3年1月31日午後2時より、東京都千代田区外神田にある神田明神内の文化交流館EDOCCO 4階「令和の間」にて、和泉流宗家EDOCCO狂言会が行われた。昨年7月から始まったこの狂言会は今回が13回目となる。
 天平2年(730)創建の神田明神は東京で最も歴史ある神社の一つで、江戸時代より江戸総鎮守として江戸の人々を守護してきた。公演当日も御社殿前には参拝者の長い列ができていた。

公演の副題には「睦月~コロナと闘う皆様に感謝を込めて」とあり、演目に新作狂言小舞「アマビエ」も加えられている。もともとは神事であった狂言をこの場所で行うことには、和泉流宗家の皆様や関係者の方々の、新型コロナウィルス感染症の一日も早い終息を願う強い思いが込められている。年明け早々に緊急事態宣言が再び発令された。社会に重苦しい空気が広がる中、狂言の「笑い」で人々の心を明るくしたいという厚情にも感動したが、何より和泉流宗家全員で力を合わせ万難を排して伝統を守り続ける姿に感銘を受けた。とくにご子息、ご息女がみな狂言の道を歩まれ、逞しくご成長されていることに心を打たれた。一切の妥協や迷いを感じさせない堂々とした謡や舞を披露された。芸は体で覚えるしかない。無形の芸術である狂言を受け継いでゆく覚悟と日々の努力は大変なものであろう。

公演ポスター

舞台芸術は劇場という生きた空間がなくては成立しない。とくに狂言は最小限の演出により観る側が想像力を働かせて舞台を作り上げる。演者によって披露される「型」には六百年の歴史があり、観衆はその重みを厳粛に受け止める。張り詰めた空気が場を包む。その空気が笑いによって一瞬にして和らぐ。空気は「肌」で感じるもので、生の舞台でなければ味わうことはできない。現在は外出自粛やテレワークで直接人と会う機会が減り、人や場の発するエネルギーや空気を身体で感じることも少ない。たいへん貴重で心豊かな時間となった。

公演終了後は場所を移して和泉流宗家の皆様と濱野会長、河内で歓談。宗家会理事長の和泉節子氏から和泉流宗家の歴史を始めご自身の死生観や宗教観など様々なお話を伺った。いつも明るくお元気な節子氏だが、今年で嫁いで54年が経ったとのこと。多くの苦難を乗り越え、強い家族の絆を築いて和泉流宗家をここまでにされた。伝統の継承は如何に大変なことか。節子氏のお人柄に触れて温かい気持ちになった。

第13回公演内容

狂言のおはなし

公演プログラム

十世三宅藤九郎氏による「狂言のおはなし」では、約六百年の伝統を持つ狂言の特徴や今回の演目の解説があった。その中で筆者はとくに松の木についての話が印象に残った。舞台の松は神様が現れる影向の松がモデルで、狂言はその松に向かって捧げられていた芸能であったので、現在でも狂言師は舞台上には神様がいらっしゃると思って演じているとのこと。これまで和泉流狂言を何度も拝見したがその演技には一度も小過どころかわずかな綻びすら感じたことがない。喜劇として滑稽な登場人物を演じながらも、常に緊張感が伴うのは、神事だった頃の精神が受け継がれているからであろう。狂言は神様とともに生きてきた日本人の心を観衆に伝えている。

狂言 福の神

福の神を二十世宗家和泉元彌氏、参詣人を史上初女性狂言師和泉淳子、三宅藤九郎の両氏。舞台は出雲大社。
 毎年暮れに出雲大社に参詣し、豆まきをして年を越す二人の男の前に福の神が現れる。富貴繁盛を祈願する参詣人に福の神は富貴になるには元手がいると言う。元手がないから来たのだと言い返す参詣人に福の神は元手とは金銀米銭のことではなく、五常の徳を守り、神を敬い、慈悲を持ち正直でいることだと諭す。話したらのどが渇いたと福の神。参詣人に神酒を催促し、日本大小の神祇と酒神である松の尾の大明神に神酒を捧げ、自らも飲む。富貴になりたければ、早起きし、慈悲を持ち、夫婦仲や人付き合いを良くせよ、さらに私のような福の神にたくさん神酒を捧げれば楽しくなることは間違いないと言って笑いながら福の神は帰ってゆく。
「笑う門には福来たる」と言うが、福の神は笑いながら現れ、笑いながら去ってゆく。役を演じた元彌氏の明るい笑い声が今も耳に残る。

狂言「福の神」を演じた三氏。
左より十世三宅藤九郎、二十世宗家和泉元彌、史上初女性狂言師和泉淳子の各氏。

狂言小舞 鮒

和泉采明、和泉慶子の両氏による連舞で地謡を和泉元彌氏が務める。
 狂言の所作の基本となるのが狂言小舞で、「鮒」では勧進聖の一行を乗せた舟の前に現れた琵琶湖の水神である鮒が舞う。
 「狂言のおはなし」で三宅藤九郎氏が説明されたが、小舞は役柄を演じないので装束は着ず、今回は正月で特別な会ということで正装である紋付、裃を着用して舞を演じる。
 美しい所作と躍動感。若い二人の息の合った連舞に鮒が飛び跳ねる光景が目に浮かんだ。

狂言小謡 景清

謡は和泉元聖、和泉元彌の両氏。
 狂言の台詞の発声の基礎となるのが狂言小謡。「景清」は平家物語の一節で、坂東武者に崇敬された神田明神とのご縁に因んで選ばれた演目。
 親子とはいえここまで一糸乱れぬものか。二人の息の合った謡は見事であった。

新作狂言小舞 アマビエ

和泉和秀氏が舞を和泉淳子氏が地謡を務める。
 新型コロナウィルス感染症の終息と疫病退散を願って作られた小舞。
 この小舞でアマビエが肥後国の海に出現したとされるのを知った。和秀氏の立派な体格を活かしたダイナミックな舞と力強い台詞にコロナも退散するはず。頼もしさを感じた。後で伺ったが、和秀氏はまだ12歳とのこと。驚いた。

和泉流宗家の皆様。中央でご挨拶するのは和泉元聖氏。左より十世三宅藤九郎、和泉采明、二十世宗家和泉元彌、和泉和秀、和泉慶子、史上初女性狂言師和泉淳子、和泉流宗家宗家会理事長和泉節子の各氏。

故郷の御心

February 8, 2021
by Seishu Hamano

 
故郷の友人を亡くし、その御心を讃へて詠める。
Dear Ikuo Yasumoto
You passed away from this weary world
Not leaving any massage to me.
It was only yesterday when I was writing a last Words note to my family and
Wished to hear your frank comments.
Calling you up by phone, but unexpectedly Heard your beloved wife reluctantly saying that he is no more in this world…
On the last day in January this year,
You vanished away to the unknown world
never coming back again.
Alas! I had no idea what to say, what to do,
Only because you were so reliable and healthy,
Un-comparable with me.
 
親愛なる安本郁夫君
貴君は吾人に何ほどの 言葉も遺さず唐突に
この浮き憂き世から去り給ひぬ。
昨日のことであった、我は遺言書を書いていて君のコメントが欲しくて電話した。と、
奥方出られ神妙に 打ち明けられしに驚きぬ
夫君は何処もはやこの世の人に非ずと。
今年になりてこの1月、最後の日に
夫君は未知の黄泉へと旅立ちて
二度と還らぬ人となりしと。
何と! 我は茫然自失、
君は実に頼もしく健康で
吾人とは比べ物にならぬほどでありたるに。
 
Dear Ikuo, we often joked
Our grave very close and even after death
Let’s meet often and enjoy karaoke after dark
Which might cause claim from neighbors.
Ikuo and I were in the same class in Tomioka Higashi Elementary School, growing up to be a farmer and I a teacher and writer, both were
Creatures benevolent to this life world.
You’re actually very benevolent and faithful.
 
親愛なる安本君、生前よく冗談
飛ばし合ひたるぞ、彼我の墓所も近隣ゆえ
墓友達ともなりし故 日暮れと共に会ひ交え
歌会なるも一興ぞ。宵ともなれば彼の双墓は
騒がしきやと近所から
クレームありても然るべき。
君とは登美丘東小学校でも同級ぞ、
長じて汝は農家にて 吾は教師で物書きに。
されど生きとし生けるもの
かけたる愛に代わりなし。
貴君はいつも誠実で思いやりに満ち溢れ。
 
Human is mortal. Even a shogun
Nobody in Edo period stay alive.
Nevertheless always expecting eternity
Never could we realize but in the end
Stay under the cold stone.
Drums in the village festival sound pity
‘Cause no pedestrians are my acquaintance
But so far as our home village is same,
Our friendship will last forever in our mutual heart
Even after our flesh decayed away.
 
人間誰しもいずれは死ぬるもの。
江戸期の人で今もって生存する者誰もなし。
将軍様とて現身の果てぬを願ひて神仏に
永遠の生をば希いつつ気づけば冷たき墓の下。
ふるさとの祭り太鼓は哀しけれ
路ゆく人のみな変はり居て
されど故郷よ奥津城よ互いの心に宿れるは
同じ思いぞ変りなし
たとえ血肉は尽きるとも。
 
Joroku, a cozy utopia, filled with mercy,
Every summer tapping drums singing Kawachi-ondo
Good memory not only to the living but also to the dead,
Mercy, mercy is the best alive forever.
Ikuo Yasumoto and I do believe
We are so happy
Born and brought up here
In this Kawachi country,
Staying forever together with our ancestors.
 
丈六こそは桃源郷。慈悲の心に満ち溢れ
夏ともなれば太鼓の音。河内音頭の
想い出は死しても変はることなしに
人は変はれど思いやる心は朽ちず果てもせず。
安本君よ、君も吾も幸せぞ 河内に生まれし
先達と 共に永劫暮しをる。  合掌

三浦短歌会 一月歌会詠草 令和三年一月三十日  濱野成秋
 
 短歌の結社としてはもう古い方に属するだろう。今年で七十四年になる三浦短歌会。神奈川県の三浦半島を城ケ島に向かったところにある。
 正月三十日、宗匠の三宅尚道氏の車で料理屋旅館「でぐち荘」に向かう。随行は日本浪漫学会の副会長代理河内裕二氏。詠草を寄せられた三浦短歌会の会員は嘉山光枝、加藤由良子、三宅尚道、桜井艶子、三宅良江、嶋田弘子、清水和子の各会員に日本浪漫学会から河内裕二と濱野成秋が加わる。
 今は昨年春先より猛威を揮うコロナ感染症の最中で集会が出来にくい。だが意を決して集まった歌人たちは意気軒高である。
 
  初日の出畑道に立ちて手を合わせ
     コロナ感染終息願ふ   光江
 
  久々に息子は帰省せりなにげなく
     吹く口笛に時は戻りぬ  由良子
 
  短歌会七十四年経過して
     三浦の短歌二集歩ませ  尚道
 
  時経れば百年なりとも親しきに
     父母兄みな逝くそを如何にせむ 成秋
  息詰めて来光の時唯待ちぬ
     去りしあの時われのみぞ知る 艶子
 
  駅ホームの点字ブロックに人立ちて
     障害者への場所と知らさる 良江
 
 秋である。写生歌である。朗々と読み上げる。樹木と色と動物と。その動きの中で枯葉が舞う。英語に driftというのがあり、これは漂い落ちる感であって、dropでも fallでも scatterでもない。それを「舞い散る」と詠んだところが近似してゆかしい。
 
  あいみょんを聞きつつ深夜外に出る
     秋季ただよいブルームーン高し 由良子
 
  感染者五千人超え続いても
     八時になれば朝ドラ始まる 弘子
 
  今日も又何とはなしに日は暮れて
     ふくらむお餅を眺めて待ちぬ 和子
 
  厳冬の心に咲きし寒椿
     花弁ちりばむ春待つ君に 裕二
 右の歌で特に皆が心を寄せたのは「エデンの園」というホームに住んで今年九十一歳の清水和子会員の歌。本日は足止め欠席。ホームでは与えられぬ餅を密かに焼いて頃合いになるのを待っているご本人は、ほんとうに待っているのは何? 訪れる身内? それともやり甲斐のある何か? いや業平のいう、昨日けふとは思はざりしをの…? とは誰も口には出さねど、他人ごとではないとはこのことで。
 
  その名さへ忘られし頃飄然ひょうぜん
     ふるさとに来て咳せし男 啄木
 
 啄木はコロナウイルスで死んだわけではない。だが、肺を患い心細い足取りで飄然と故郷に姿を見せては咳をする男。ここなら死に場所にしてよいとする心情は今も昔も変わりはない。
 終わって持参せし河内裕二副会長代理の五首を披露して勉強会。
歌会の後は別室にて新年会。地魚に鮑に本場のマグロに。天下の三崎港の御膝元である。終わって海辺。対岸に富士の霊峰。いましも暮れゆく夕凪の彼方を酔眼にて望みをり。未だ脈打つことのせつなさを噛み締めて。