「古典芸能」和泉流狂言と日本人の心

日本浪漫学会副会長代理 河内裕二
2021年2月10日

日本浪漫学会は、先人が大切にしてきた日本人の心を世界と後世に伝えてゆく活動を行っている。濱野成秋会長は和泉流宗家とは三十年に及ぶ親交を続けられており、この度神田明神で開催された和泉流宗家狂言会に私も同行した。古典芸能である狂言は約六百年の歴史を持つ。伝統を守り継承してゆくとはどういうことなのか。「オンライン万葉集」の活動の一環として公演を鑑賞した。以下はそのコメントである。

公演前に二十世宗家と。左から濱野成秋会長、二十世宗家和泉元彌氏、河内裕二副会長代理。

令和3年1月31日午後2時より、東京都千代田区外神田にある神田明神内の文化交流館EDOCCO 4階「令和の間」にて、和泉流宗家EDOCCO狂言会が行われた。昨年7月から始まったこの狂言会は今回が13回目となる。
 天平2年(730)創建の神田明神は東京で最も歴史ある神社の一つで、江戸時代より江戸総鎮守として江戸の人々を守護してきた。公演当日も御社殿前には参拝者の長い列ができていた。

公演の副題には「睦月~コロナと闘う皆様に感謝を込めて」とあり、演目に新作狂言小舞「アマビエ」も加えられている。もともとは神事であった狂言をこの場所で行うことには、和泉流宗家の皆様や関係者の方々の、新型コロナウィルス感染症の一日も早い終息を願う強い思いが込められている。年明け早々に緊急事態宣言が再び発令された。社会に重苦しい空気が広がる中、狂言の「笑い」で人々の心を明るくしたいという厚情にも感動したが、何より和泉流宗家全員で力を合わせ万難を排して伝統を守り続ける姿に感銘を受けた。とくにご子息、ご息女がみな狂言の道を歩まれ、逞しくご成長されていることに心を打たれた。一切の妥協や迷いを感じさせない堂々とした謡や舞を披露された。芸は体で覚えるしかない。無形の芸術である狂言を受け継いでゆく覚悟と日々の努力は大変なものであろう。

公演ポスター

舞台芸術は劇場という生きた空間がなくては成立しない。とくに狂言は最小限の演出により観る側が想像力を働かせて舞台を作り上げる。演者によって披露される「型」には六百年の歴史があり、観衆はその重みを厳粛に受け止める。張り詰めた空気が場を包む。その空気が笑いによって一瞬にして和らぐ。空気は「肌」で感じるもので、生の舞台でなければ味わうことはできない。現在は外出自粛やテレワークで直接人と会う機会が減り、人や場の発するエネルギーや空気を身体で感じることも少ない。たいへん貴重で心豊かな時間となった。

公演終了後は場所を移して和泉流宗家の皆様と濱野会長、河内で歓談。宗家会理事長の和泉節子氏から和泉流宗家の歴史を始めご自身の死生観や宗教観など様々なお話を伺った。いつも明るくお元気な節子氏だが、今年で嫁いで54年が経ったとのこと。多くの苦難を乗り越え、強い家族の絆を築いて和泉流宗家をここまでにされた。伝統の継承は如何に大変なことか。節子氏のお人柄に触れて温かい気持ちになった。

第13回公演内容

狂言のおはなし

公演プログラム

十世三宅藤九郎氏による「狂言のおはなし」では、約六百年の伝統を持つ狂言の特徴や今回の演目の解説があった。その中で筆者はとくに松の木についての話が印象に残った。舞台の松は神様が現れる影向の松がモデルで、狂言はその松に向かって捧げられていた芸能であったので、現在でも狂言師は舞台上には神様がいらっしゃると思って演じているとのこと。これまで和泉流狂言を何度も拝見したがその演技には一度も小過どころかわずかな綻びすら感じたことがない。喜劇として滑稽な登場人物を演じながらも、常に緊張感が伴うのは、神事だった頃の精神が受け継がれているからであろう。狂言は神様とともに生きてきた日本人の心を観衆に伝えている。

狂言 福の神

福の神を二十世宗家和泉元彌氏、参詣人を史上初女性狂言師和泉淳子、三宅藤九郎の両氏。舞台は出雲大社。
 毎年暮れに出雲大社に参詣し、豆まきをして年を越す二人の男の前に福の神が現れる。富貴繁盛を祈願する参詣人に福の神は富貴になるには元手がいると言う。元手がないから来たのだと言い返す参詣人に福の神は元手とは金銀米銭のことではなく、五常の徳を守り、神を敬い、慈悲を持ち正直でいることだと諭す。話したらのどが渇いたと福の神。参詣人に神酒を催促し、日本大小の神祇と酒神である松の尾の大明神に神酒を捧げ、自らも飲む。富貴になりたければ、早起きし、慈悲を持ち、夫婦仲や人付き合いを良くせよ、さらに私のような福の神にたくさん神酒を捧げれば楽しくなることは間違いないと言って笑いながら福の神は帰ってゆく。
「笑う門には福来たる」と言うが、福の神は笑いながら現れ、笑いながら去ってゆく。役を演じた元彌氏の明るい笑い声が今も耳に残る。

狂言「福の神」を演じた三氏。
左より十世三宅藤九郎、二十世宗家和泉元彌、史上初女性狂言師和泉淳子の各氏。

狂言小舞 鮒

和泉采明、和泉慶子の両氏による連舞で地謡を和泉元彌氏が務める。
 狂言の所作の基本となるのが狂言小舞で、「鮒」では勧進聖の一行を乗せた舟の前に現れた琵琶湖の水神である鮒が舞う。
 「狂言のおはなし」で三宅藤九郎氏が説明されたが、小舞は役柄を演じないので装束は着ず、今回は正月で特別な会ということで正装である紋付、裃を着用して舞を演じる。
 美しい所作と躍動感。若い二人の息の合った連舞に鮒が飛び跳ねる光景が目に浮かんだ。

狂言小謡 景清

謡は和泉元聖、和泉元彌の両氏。
 狂言の台詞の発声の基礎となるのが狂言小謡。「景清」は平家物語の一節で、坂東武者に崇敬された神田明神とのご縁に因んで選ばれた演目。
 親子とはいえここまで一糸乱れぬものか。二人の息の合った謡は見事であった。

新作狂言小舞 アマビエ

和泉和秀氏が舞を和泉淳子氏が地謡を務める。
 新型コロナウィルス感染症の終息と疫病退散を願って作られた小舞。
 この小舞でアマビエが肥後国の海に出現したとされるのを知った。和秀氏の立派な体格を活かしたダイナミックな舞と力強い台詞にコロナも退散するはず。頼もしさを感じた。後で伺ったが、和秀氏はまだ12歳とのこと。驚いた。

和泉流宗家の皆様。中央でご挨拶するのは和泉元聖氏。左より十世三宅藤九郎、和泉采明、二十世宗家和泉元彌、和泉和秀、和泉慶子、史上初女性狂言師和泉淳子、和泉流宗家宗家会理事長和泉節子の各氏。

故郷の御心

February 8, 2021
by Seishu Hamano

 
故郷の友人を亡くし、その御心を讃へて詠める。
Dear Ikuo Yasumoto
You passed away from this weary world
Not leaving any massage to me.
It was only yesterday when I was writing a last Words note to my family and
Wished to hear your frank comments.
Calling you up by phone, but unexpectedly Heard your beloved wife reluctantly saying that he is no more in this world…
On the last day in January this year,
You vanished away to the unknown world
never coming back again.
Alas! I had no idea what to say, what to do,
Only because you were so reliable and healthy,
Un-comparable with me.
 
親愛なる安本郁夫君
貴君は吾人に何ほどの 言葉も遺さず唐突に
この浮き憂き世から去り給ひぬ。
昨日のことであった、我は遺言書を書いていて君のコメントが欲しくて電話した。と、
奥方出られ神妙に 打ち明けられしに驚きぬ
夫君は何処もはやこの世の人に非ずと。
今年になりてこの1月、最後の日に
夫君は未知の黄泉へと旅立ちて
二度と還らぬ人となりしと。
何と! 我は茫然自失、
君は実に頼もしく健康で
吾人とは比べ物にならぬほどでありたるに。
 
Dear Ikuo, we often joked
Our grave very close and even after death
Let’s meet often and enjoy karaoke after dark
Which might cause claim from neighbors.
Ikuo and I were in the same class in Tomioka Higashi Elementary School, growing up to be a farmer and I a teacher and writer, both were
Creatures benevolent to this life world.
You’re actually very benevolent and faithful.
 
親愛なる安本君、生前よく冗談
飛ばし合ひたるぞ、彼我の墓所も近隣ゆえ
墓友達ともなりし故 日暮れと共に会ひ交え
歌会なるも一興ぞ。宵ともなれば彼の双墓は
騒がしきやと近所から
クレームありても然るべき。
君とは登美丘東小学校でも同級ぞ、
長じて汝は農家にて 吾は教師で物書きに。
されど生きとし生けるもの
かけたる愛に代わりなし。
貴君はいつも誠実で思いやりに満ち溢れ。
 
Human is mortal. Even a shogun
Nobody in Edo period stay alive.
Nevertheless always expecting eternity
Never could we realize but in the end
Stay under the cold stone.
Drums in the village festival sound pity
‘Cause no pedestrians are my acquaintance
But so far as our home village is same,
Our friendship will last forever in our mutual heart
Even after our flesh decayed away.
 
人間誰しもいずれは死ぬるもの。
江戸期の人で今もって生存する者誰もなし。
将軍様とて現身の果てぬを願ひて神仏に
永遠の生をば希いつつ気づけば冷たき墓の下。
ふるさとの祭り太鼓は哀しけれ
路ゆく人のみな変はり居て
されど故郷よ奥津城よ互いの心に宿れるは
同じ思いぞ変りなし
たとえ血肉は尽きるとも。
 
Joroku, a cozy utopia, filled with mercy,
Every summer tapping drums singing Kawachi-ondo
Good memory not only to the living but also to the dead,
Mercy, mercy is the best alive forever.
Ikuo Yasumoto and I do believe
We are so happy
Born and brought up here
In this Kawachi country,
Staying forever together with our ancestors.
 
丈六こそは桃源郷。慈悲の心に満ち溢れ
夏ともなれば太鼓の音。河内音頭の
想い出は死しても変はることなしに
人は変はれど思いやる心は朽ちず果てもせず。
安本君よ、君も吾も幸せぞ 河内に生まれし
先達と 共に永劫暮しをる。  合掌

三浦短歌会 一月歌会詠草 令和三年一月三十日  濱野成秋
 
 短歌の結社としてはもう古い方に属するだろう。今年で七十四年になる三浦短歌会。神奈川県の三浦半島を城ケ島に向かったところにある。
 正月三十日、宗匠の三宅尚道氏の車で料理屋旅館「でぐち荘」に向かう。随行は日本浪漫学会の副会長代理河内裕二氏。詠草を寄せられた三浦短歌会の会員は嘉山光枝、加藤由良子、三宅尚道、桜井艶子、三宅良江、嶋田弘子、清水和子の各会員に日本浪漫学会から河内裕二と濱野成秋が加わる。
 今は昨年春先より猛威を揮うコロナ感染症の最中で集会が出来にくい。だが意を決して集まった歌人たちは意気軒高である。
 
  初日の出畑道に立ちて手を合わせ
     コロナ感染終息願ふ   光江
 
  久々に息子は帰省せりなにげなく
     吹く口笛に時は戻りぬ  由良子
 
  短歌会七十四年経過して
     三浦の短歌二集歩ませ  尚道
 
  時経れば百年なりとも親しきに
     父母兄みな逝くそを如何にせむ 成秋
  息詰めて来光の時唯待ちぬ
     去りしあの時われのみぞ知る 艶子
 
  駅ホームの点字ブロックに人立ちて
     障害者への場所と知らさる 良江
 
 秋である。写生歌である。朗々と読み上げる。樹木と色と動物と。その動きの中で枯葉が舞う。英語に driftというのがあり、これは漂い落ちる感であって、dropでも fallでも scatterでもない。それを「舞い散る」と詠んだところが近似してゆかしい。
 
  あいみょんを聞きつつ深夜外に出る
     秋季ただよいブルームーン高し 由良子
 
  感染者五千人超え続いても
     八時になれば朝ドラ始まる 弘子
 
  今日も又何とはなしに日は暮れて
     ふくらむお餅を眺めて待ちぬ 和子
 
  厳冬の心に咲きし寒椿
     花弁ちりばむ春待つ君に 裕二
 右の歌で特に皆が心を寄せたのは「エデンの園」というホームに住んで今年九十一歳の清水和子会員の歌。本日は足止め欠席。ホームでは与えられぬ餅を密かに焼いて頃合いになるのを待っているご本人は、ほんとうに待っているのは何? 訪れる身内? それともやり甲斐のある何か? いや業平のいう、昨日けふとは思はざりしをの…? とは誰も口には出さねど、他人ごとではないとはこのことで。
 
  その名さへ忘られし頃飄然ひょうぜん
     ふるさとに来て咳せし男 啄木
 
 啄木はコロナウイルスで死んだわけではない。だが、肺を患い心細い足取りで飄然と故郷に姿を見せては咳をする男。ここなら死に場所にしてよいとする心情は今も昔も変わりはない。
 終わって持参せし河内裕二副会長代理の五首を披露して勉強会。
歌会の後は別室にて新年会。地魚に鮑に本場のマグロに。天下の三崎港の御膝元である。終わって海辺。対岸に富士の霊峰。いましも暮れゆく夕凪の彼方を酔眼にて望みをり。未だ脈打つことのせつなさを噛み締めて。

東京女子大名誉教授 佐藤 宏子

1.「至高のひと時」とは?

頂いたテーマは「忘れ難い思い出」、あるいは「人生における至高のひと時」。いくつかの出来事が頭に浮かびました。白夜のアラスカの無人の荒野でアルプスより険しい山々に取り囲まれて感じた無に等しい人間の存在の認識。言葉で恋に落ち、自分の中にその言葉に応じる言葉が生まれたときの驚きと喜び。このようなことは人に語るべきことではないでしょう。あるいは「至福の時」は、ドイツの作曲家アレクサンダー・ツェムリンスキーの 美しい小品 “Selige Stunde”が歌うように、憂いに満ちた外の世界を忘れ、愛する人の腕の中で感じるものなのかも知れません。

このようなロマンティックな一時ではありませんが、九十年近く生きてきますと、思いがけない時に、静かな喜びを感じる瞬間に出合うことがあります。記憶の中に、これまでの自分の生き方や物の見方を納得させられる出会い、経験、社会事象が蘇る瞬間です。

2.小石川と私

現在、私は文京区千石というところに住んでいますがこの土地に地縁も血縁もありません。ただ、今から八十年前、1940年12月から1945年3月まで四年余り「小石川区西丸町35番地」というところに住んでいました。現在の文京区千石です。現在ここには、かつての駕籠町、西丸町、丸山町を偲ばせるものは殆ど残っていません。空襲を生き延びた大銀杏の古木が一本、大企業の社長の邸宅だったチューダー朝風の邸宅が天理教の教会になっているくらいです。

白山通りを挟んで超高級住宅が並ぶ大和郷があり、財閥や爵位をもった人たちに邸宅が並んでいる一方で、まるで江戸時代のような提灯屋、組紐の職人の工房があり、寿々本の寄席があり、肉屋も魚屋もお屋敷向けと庶民向けの二軒が並び、高級食材店と西丸町市場が向かい合っていました。窪地には「貧民窟」と言われた長屋さえありました。日本社会の階層の縮図を目の当たりにしての日々の暮らしでした。

2010年の春、知人がこの地に高齢者向けの集合住宅を建てたという知らせがありましたので、見せていただくことにしました。65年間世田谷の代沢という地域で一戸建ての住宅に住んでいましたが、縁者をすべて見送って一人になると、それほど広くはない庭の手入れすら八十歳近い身には負担に感じられ、老後の生活形態を考えるようにはなっていました。

その新築の集合住宅は、魅力のない建物でした。高齢者向きの設備は整っていましたが、建築デザインなどには殆ど配慮がない建造物でした。まだ、入居が始まっていない時でしたので、種類、サイズの異なる部屋を見せていただき、「さて、そろそろ口実を見つけて退散しよう」と思っていた時、最上階に案内されました。

北西向きの部屋には、室内と同じくらいの広さのヴェランダがついていました。巣鴨から池袋までの低層の住宅群が眼下に広がり、さらにそのかなたに埼玉あたりまでの広い空。その時、思わず「ここだったら住んでもいいわ」と言っていました。それから八か月後、そこが私の居住地になり、現在もそこで暮らしています。

何故、その時にここに住もうと思ったのかは、自分でも説明がつきませんが、眼下に広がる黒っぽい低層住宅の屋根が連なった景色に、1945年4月13日の山の手空襲で焼け野原になったこの辺りの光景が重なったのかも知れないと感じています。

3.明化小学校

1941年1月、私は明化小学校の一年生に編入しました。銀行員だった父の転勤にともなっての愛媛県松山市からの転校です。その年の12月には日米開戦ですから、教室で落ち着いて授業を受けたという記憶はあまりありません。先生方は生徒たちの給食の食材の手配、安全の確保、防火体制の整備など、授業どころではなかったのではないかと思います。本を読むのが好きだった私はしばしば先生に頼まれて、授業の埋め合わせに読んだ本のお話をしていました。「オサトちゃんのお話」として結構人気がありました。最後の「お話」は五年生の一学期の終わりころ、少彦名命が稗だか粟だかの茎をばねにしてぴょんと飛ぶことを話している最中に、慌ただしく先生が教室に戻ってこられ、授業は今日で終わり、宮城県鳴子温泉への集団疎開が決まったことを告げられた時でした。

小学校時代、大泉学園にあった学校の農園でのお薯作りなど楽しかったこととともに嫌だったこともいくつかありました。その一つが御真影礼拝でした。講堂の壁に天皇、皇后の写真が掲げられていて、普段は襞のある繻子のカーテンのようなものに覆われているのですが、天長節、明治節、紀元節などの式典のおりには、そのカーテンの紐をひいて開く役目を命じられ、お辞儀の練習などをさせられるのが嫌でした。何故兵隊さんたちはこの人のために死ななくてはならないの、というのが子供の素朴な疑問でした。それは、今も変わっていません。

戦争との関った記憶として忘れられないことが二つあります。一つは強制疎開と称する家屋の取り壊しです。現在の千川通りに面した家屋を空襲での延焼を防ぐという理由で取り払う作業で、小学校の四年以上が動員されました。大人が綱を掛けて引き倒した家の木材を小学生が仕分けし、女性たちが馬車で積むという作業です。釘を踏み抜いて怪我をする同級生が沢山いました。労力の浪費を実感する空しい作業でした。

四年生の秋だったように記憶しますが、生徒全員が講堂に集められました。交換船でアメリカから帰国された方のお話を聞くためです。三人の中年の男性が講師でした。最初の二人の方は、日本の勝利を確信しているような威勢の良いお話でしたが、三番目の方がこう言われました。「坊ちゃん、お嬢ちゃん、よくきいてください。アメリカも本気で戦っているのです。」その方は、いかにアメリカの人たちが、戦時下で物資を節約し、戦費を捻出しているかを話されました。赤鬼、青鬼としてポスターに描かれているのとは違う人間としてのアメリカ人を子供心に認識した瞬間でした。

4.東京大空襲

不謹慎なことですが、東京大空襲は、見たこともない美しい空として記憶にとどまっています。空襲警報が発令され防空壕に入るよう両親に促されましたが、眠くてまた布団にもぐったことを記憶しています。再度起こされたのですが、両親は私を防空壕に連れていくのを諦め、私が窓にしがみついて空を眺めるのを咎めませんでした。真夜中というのに空は美しい青、空一面には無数の赤いキラキラ光るものが舞っていました。焼夷弾に使われていた金属箔が炎を受けて輝いていたのだと後で知りましたが、決して忘れることのできない光景です。後にニューヨークの近代美術館で倉俣史朗さんのデザインした透明なアクリルの中に沢山の赤い薔薇の造花を浮かべた椅子を見た時、彼にインスピレーションを与えたものの一つが九歳の時に見た東京大空襲の日の空だったと知って妙に納得したことを覚えています。以来、戦争の記憶が他人に語り継げるものかどうかという疑問を抱くようになりました。

5.Oちゃんのこと

Oちゃんは二年下でした。彼女と仲良しになったきっかけは覚えていませんが、週一度のお琴のお稽古に通っていた先生のお宅が丸山町の彼女の家の近くだったので、行きかえりにいつの間にか仲良くなったのだと思います。末っ子だった私は、妹ができたような気持ちでした。最後に会ったのは、1944年の夏、明化小学校の集団疎開に加わって出発するのを学校の前で見送った時です。海軍の佐官だった彼女の父君は敗戦の時、大本営の報道部長だったと思います。

私は香川県の父方の祖母のもとに疎開していましたので、東京に戻ったのは1945年の暮れ、小石川の家は4月13日の空襲で焼失し、両親と兄が移っていた世田谷の家が新しい住まいになりました。それでも六年生だった私が明化小学校を卒業したいと言い張った理由の一つはまたOちゃんに会えると思っていたことでした。

学校が始まる前日、兄からOちゃん一家の死を伝えられました。敗戦から数日後、彼女は父君の部下に連れられて皆より早く帰京したそうですが、帰宅した夜、彼女と弟さんは毒で、ご両親は日本刀での最後だったとのことでした。彼女の家は間もなく取り壊されて、地主だった隣の家の庭に取り込まれ、現在何の痕跡はありません。戦争の本当の責任者は誰?という問いは、今も私の心離れることはありません。

6.終わりに

戦時下の子供時代の数年の記憶が、なぜ重い意味をもっているのかと不思議に思われるかも知れませんが、それから現在まで、日本の国の歩み、政治、社会の在り方に疑問を投げかけてきた「へそ曲がり」の自分の生きてきた道を振り返ると、小石川で過ごした子供時代の記憶の持つ力の大きさを改めて認識させられるのです。

濱野成秋

これは会心の作だ

とにかく、英語の勉強になる本である。口語というのは、常日頃から意思疎通するのに頻繁に用いる伝達手段だから、知れば知るほど役立つ。そうは思えど、日本は不利この上ない。国土は欧米諸国から遠く離れたアジアの一角だし、外国人としてアメリカ国内に住んでいるだけで自然と身に付くはずの口語には、いつまで経っても親しめない。悲しい。切ない。コンプレックスだらけ。

僕の場合、子供の頃に父親が進駐軍をたくさん呼んでダンスパーティをしょっちゅう自宅でやった関係で口語表現が飛び交い、そいつが役立って今日の仕事に繋がる。しかし外人教師の来る教会で学んだ高校時代やステークハウスで基地の外周に住んでいるGIとのやり取り以外、アメリカ行きまで、苦労の連続だった。だからこの本は会心の作である。買って毎日バッグの中に入れ、1時間といわず、暇さえあらば声出して覚えるとよい。

使い分けが大事です

日本語抜きの英語論文などは、工夫をすればそれなりに上達するけれども、口語語法はだめ。結局ACLSという、フルブライトより難関と言われた大学教師だけのテストに筆者は食いついてトップ当選。おかげでNY州立大の客員教授に。だがそこで自分が喋っていたのは、おそろしく丁寧で上品な正調英語だった。Would やcouldなど、仮定法がざらの表現である。気取らぬ会話がランチ会話というのが普通のはずだが、やはりProfessor Hamanoと普段から呼ばれていると、窮屈だが正調ばかりの英語を使う。Wannaなんで表現など使わないように、get in touch withというような表現も避けてmake contact with などと言ってみたりで、大人社会とはそういうものなのだった。

だから日本語でいえば「お金魚がお元気で水泳してらっしゃる」というような英語を真面目くさって話していたんだろう。これが外国人というものなのだ。

英語学習法の本を幾つ書いた

僕は英語学習本で研究社から「合格ラインシリーズ」と称して、単語、熟語、英文法の3点セットを出し、単語集はミリオンセラーだった。それはNY州立大でディベートをやったり、車を売るの売らないので揉めた時の弁護士の卵との電話での猛烈な論戦の果てに、大雪のなか、ダウンタウンへ行き、和解をして大いに語り合った、そんな想い出も綯い交ぜになって出した。忘れもしない僕が州立大バッファローの大学院でポストモダンのアメリカ文学を院生に教えていた年とほぼ同時期だが、Malamud, Barthelme, Fiedler, Brautigan, Vonnegut…数え上げれはきりがないほど沢山の作家たちとインタビューしており、研究社の『英語青年』に原語で連載。中公の月刊文芸誌『海』に発表していた。自分でも恐れ入るが、これが僕の英語人生だったが、口語表現を大分使ったかというと、さほどでもない。

学習書としてのこの本

「日米口語辞典」は、辞書として使うのではなく、学習書として使いたまえ。

そのやり方を伝授しよう、すべてQ&A方式で、「声だし」でやること。それもゆっくり考えているようではダメ。0.1秒以内で答えられるまで間髪を入れず英語を言う。大声を出せ。小声でもぞもぞ言っているようではモノにならない。見出し語だけやったのではだめ。例文がたくさんあるだろ、それをまず日本語を先に読んで、英語を自分で作る、声出し式でね。このQ&A即声方式は、僕が非常勤で教えていた一橋大でも、早稲田でも、生徒たちにしっかりトレーニングしたよ。受験勉強だけして来た学生を、たった1年で通訳が出来るように仕立て上げたわけだ。そういうことなら出来るだろう。

TPOをわきまえて使おう

著者の皆さん、編集部のみなさん、ご苦労さま。自分の長くて短かった人生とこの本の完結とを一緒にしては気の毒だが、僕は敗戦後の負けじ魂をもってアメリカでは朝鮮戦争の元軍人だった男を猛烈に議論して打ち負かした。つまりそういうのに使っていた表現がいっぱいあるから、君らTPOに気を付けて使いたまえ。今夜は呑みたい気分である。(京都外大客員教授)