シンポジウム資料 開催:初芝体育館 2021.5.9

地元出身警鐘作家 濱野成秋

☆八ヶ岳構想で出発した政令都市堺市はこれで躍進する

[筆者略歴]登美丘中学4期生。慶大アメリカ文学専攻卒。東大アメリカ研究所研究員。東北大助教授を経てニューヨーク州立大客員教授。日本女子大大学院教授。早大・青学・一橋大講師、京都外大大学院教授。警鐘作家としてTVや新聞論評。著書編著30点。主要著書『日朝、もし戦えば』(中央公論社)、『日本の、次の戦争』(ゴマブックス、電子書籍キンドル)、『ユダヤ系アメリカ文学の出発』(研究社)、『愚劣少年法』(中公)、『ビーライフ!白亜館物語』(中公)、短編集『別れる季節』ほか文芸選書5点ほか学術書多し。現在ネット検索できる『オンライン万葉集』を主宰し、「日本の和の心」を世界に発信中。登美丘中学創立50周年記念式典卒業生総代。

[開催目的]今を去る15年前の2006年4月、堺市は政令指定都市に移行しましたが、当時、東区の中心であった登美丘町北野田の商店街はシャッター通りとなり、疲弊の極にありました。私共と町内会連合会は市民の意向を重視して大規模再開発を提起し、市政も協力体制にあって4本の高層ビルを建設でき、文化会館を始め多くの施設を導入できました。あれから早くも15年が経過。果たして現在も活性化が継続中か? あるいは停滞が著しいのか。その原因は何なのか?

Ⅰ文化会館の活用で強力な求心力を持とう

[経緯概説]今までの15年間の前半(市民活動によるもの、2007~2015)と後半(行政OBの運営によるもの、2016~2021)に分けてルックバックしてみよう。

⑴15年前の文化産業構想:池崎守氏と筆者がペンクラブの早乙女貢氏、越智道夫氏らを招聘して堺区でシンポジウムを開催。堺市長も積極的に同調されて、市政を「富士山構想」から「八ヶ岳構想」へ。東区を文化村の中核都市と位置づけた。これは東京都渋谷区のBunkamura the Museum に匹敵する。発信型イコール集中型。「遠心力」centrifugal force→「求心力」centripetal force

⑵「界隈」は消滅しても住民の団結は続いた:北野田シャッター通りは高層ビル4本の建築へ。地蔵さんはじめ「界隈」が消滅する無念さはあったが、市民の生活を支える施設をもって町全体の崩壊は救われ、近代化に変身できたとき、市民の大活躍が復活した。

⑶東区の文化会館・図書館のオープン:前期つまり市民の自主運営・自主企画が次々成功。NHK大河ドラマ主演中の伝統狂言宗家和泉元彌氏が登美丘中学創立50周年祝賀行事に。文化会館開設後、FM局が開局。カフェの賑わい顕著。ところが後期、市民のNPOから旧市役所OBによる運営に移行。貸舞台・貸ホールとなり、館内は灯が消えた如し。

提言:地元住民が企画運営し市の財政的予算を得て、採算・損益分岐点で不可能とならぬ運営で次々と発信、東区の求心力を。また登美中・登美高の大活躍にみるように、吹奏楽部・ダンス部の目覚ましい活躍を堺の文化村の宝にして文化活動の未来を担う人材となって欲しい。

Ⅱ日本初「世界防災センター」World Anti-disaster Centerの開設を堺市東区で実現しよう

未発達の法整備:コロナ禍でWHOがクローズアップされているが、日本はバイオだけでなく、自然災害や原発公害など、多様な問題を抱えている。ハイウエイの大雪対策一つ取ってみても、我が国は、いまだ十分な組織化がなされないままである。コロナ対策もワクチンづくりも遅々として進まず、急場しのぎの施設で外国製ワクチンに頼る始末。特に遅れが目立つのは、先進国では当たり前となっている産官学協同体が機能する組織づくりがないこと。法整備がなく、国会においてでさえ、的確な議員立法として上程するに至っていない。標記センターは法整備の在り方を含め、世界の最新情報で対応策を政府に提示できます。

筆者の阪神淡路:阪神淡路大震災のさい夙川にあった友人宅の救出に向かい、知事部局と協議の上、時の自治大臣の野中広務氏と永田町の大臣室で協議し、6800億円の緊急支援を取り付けた。これは成功したが、二重ローンの問題をはじめ、読売新聞と日赤本社の協力で1兆円基金創設を進めたが、損保事業とのバッティングで省内が難航。基金制度だけでは自然災害抑止は困難となった。標記センターは災害に伴う財政問題の打開策も実働可能なファクターを入れて提示できる。

NBCR対策推進機構:その後、筆者はこの機構の特別顧問となり、日本医師会や自衛隊幹部と長年地道な活動を共にすることになった。日本医師会の支援、消防・自衛隊・地方自治体の理解と協力で全国の医師を対象に治療法教育で成果を上げた。日本における防災センターが不可欠だと判断したのは、この活動から得た教訓からであった。すなわち、折しも東京五輪パラを目前に、日本は保健所・警察・自衛隊・医師団・消防がコロナと闘いながら各領域ごとに努力するけれども、いまだに領域をまたぐ連係プレイが出来てないまま五輪開催に突入するわけである。

提案⑴:堺市東区は国も認める危機管理機構として「世界防災センター」を開設しよう

「世界防災センター」を東区に開設し、①国の防災機構と直結して情報収集と「防災士」教育を行う。②bio-, chemi-, nuc-, radio- 対応の最新知識教育。医師・看護師の最新教育。③WHO(世界保健機構)、ユニセフ(unicef、公益財団法人日本ユニセフ協会)、国連安全保障理事会とのドッキング。もちろん、区議会、市議会、国会、国連、各国大使館や研究機関とのパイプも構築する。筆者はNBCRと並行して、青山学院大学では長年公官庁館員のリカレント教育を担ってきたが、このセンターは国庫援助でカリキュラム化し修得単位を普遍化させる。

提案⑵:Civilian Controlはつねに財政支援政治と行政の協力がなければ結実できない。予算を順当にもらい、消化して市民のためになる住民主導型組織の運営で実効を上げよう

民主主義国家におけるcivilian control は19世紀末のアメリカで台頭したindustrialization(産業主義)で本格化しました。discretion(自由裁量)を最大限に。但しdiscretionary zone(自由裁量の権限範囲)の規定なし。それでも産業主義が統制型の国家主義より繁栄したのは、市民の着想が繁栄に結びついて欧州経済圏を凌駕できた。我が国の公共機関においては、とかく管理第一主義になるか特殊法人のように全面的に任せた結果資金管理不能となった。コントロールに必要な方式は、法人化させた上でdiscretionary zoneを決め、次々と出る企画の損益分岐点を診て、さらにzoning(権限範囲)を拡大させ予算組に反映させる方式がよい。市民と行政の人事比率は7対3と決め、以上を「東区方式」として堺市のパワーアップに役立ててほしい。(以上)

河内裕二 令和3年4月1日

1.心に響かぬは歌ならず

ミュージックはあるがソングはない。

作詞家の阿久悠の言葉である。ほとんど歌詞が聞き取れない歌がミリオンセラーになる歌謡界の状況を憂えて彼はそう述べた。歌謡曲がJ-POPと呼ばれるようになった1990年代後半のことである。この言葉は、1998年に書かれたエッセイ「音楽と文楽」においては「音楽だけで文楽がない」と別の言い方がされる。「文楽」は「ぶんがく」と読み、文を楽しむという意味で、「ぶんがくと読むが文学じゃない。文楽と書くがぶんらくじゃない」とある。阿久らしい洒落た表現である。音楽を聴く人は、音は楽しんでいるが、文すなわち言葉は楽しまなくなった。彼は歌詞を軽視する世の中の風潮を嘆き続けていた。歌は言葉の存続にも関わる問題であるとし、次のように述べる。

歌に盛られた小さな言葉の一つ一つが、意外に重いことに気づいたり、思いもよらない広い世界へ導くものだということを、歌は使命として負っていたし、歌う人も聞く人もそれがあってこそ、しんみりしたり、元気づけられたり、心を開いたり、暗示を受けたりしていたのである。それは、たぶん、日常の言葉にも影響を与えていたと思う。(『昭和おもちゃ箱』120頁)

「歌は世につれ世は歌につれ」などと言われるが、歌が世相を映す鏡であるとすれば、言葉に無神経な社会になったことになる。時代や社会を言葉で表現する作詞家として阿久は誰よりもその変化を感じ取り、危機感を抱いていたのだろう。

1990年代に私は20代だった。当時、文学専攻の若者だった私が、テレビやラジオや街角で毎日耳にした流行歌こそが阿久が疑問視したミリオンセラーの歌だった。今にして思えば、人並みに流行には乗っていたが、歌に全く興味が湧かなかったのは、流れていたのが「ソング」ではなく「ミュージック」だったからだろう。心にしみなかったのだ。

あれから随分の年月が経った。最近心にしみた一曲がある。春日八郎の歌う「別れの一本杉」である。私の生まれる15年以上も前の1955年(昭和30年)に大ヒットした望郷演歌の名曲である。作詞は高野公男、作曲は船村徹。ふたりは音楽学校時代からコンビを組んで活動し、この作品でようやく成功を掴んだ。高野は翌1956年に結核のため26歳の若さで亡くなるが、船村は友の死の悲しみを乗り越えて活躍を続け、戦後歌謡界を代表する作曲家となる。船村は自伝にこう書いている。

歌は心でうたうものである。テクニックがどんなに優れていても、心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く者を感動させることはできない。(『歌は心でうたうもの』2頁)

歌とは何か。阿久は「ミュージックではなくソング」だと言い、船村は「テクニックではなく心」だと言う。ふたりの考えは同じだろう。耳ではなく心に響くのが歌なのである。船村は自身の人生について「邦楽を西洋音楽より下に見る風潮や、街の片隅や黙々と生きる人々の哀感をうたう歌謡曲や演歌を蔑む傾向に対する反逆だった」と述べる。彼がその作曲家人生を歩み始めることになった出世作が「別れの一本杉」である。

2.村の外れで涙は溢れる

 
泣けた 泣けた
こらえきれずに泣けたっけ
あの娘と別れた哀しさに
山のかけすも鳴いていた
一本杉の石の地蔵さんのよ
村はずれ

男は生涯で三度しか泣いてはいけない。

そんな言葉を子供の頃に聞いた気がする。「人前で」という言葉が入っていたかもしれない。泣いてもよいのは、生まれた時と親が亡くなった時とあと一度。最後の一つがどうしても思い出せないが、要するに男は簡単に泣いてはいけないということだ。現在ではこの言葉も「男らしさ」「女らしさ」を前提とする発言として「ジェンダーハラスメント」と見なされるだろう。しかし転んだ子供に親が「男の子なのだから泣かない」などと言う光景は、昔は日常的によく見られた。男は泣くもんじゃない。かつては皆の共通認識だった。

「別れの一本杉」は「泣けた 泣けた」という歌詞で始まる。恋人との別れが哀しくて泣けるのだが、堪えていた涙が村外れに来ると溢れてしまう。人前では泣けないというのもあるだろう。しかし堪えきれなくなるのは、村外れでいよいよ故郷との別れになるからだ。カケスまでもが鳴く。カケスは漢字で「懸巣」と書く。木の上に枯れ枝などで巣を懸けることが名前の由来である。鳥名までもがどこか故郷を思わせる。恋人や故郷をただ離れるのではなく捨てるという気持ちだろう。男にとって三度しか泣けない残りの一回である。別れを経験しない人はいない。たとえ恋人を残して故郷を去ったことがなくても、別れの辛さや哀しさは誰もが理解し共感できる。自然に歌の世界に引き込まれてゆく。

村外れにある一本杉とその脇の地蔵。情景が目に浮かぶ。仏教では地蔵菩薩は六道すべてに現れて衆生を救うとされる。村に来る旅人や先祖を出迎え、また去る時には見送る場所になる村の境界には地蔵が立っていることが多い。作詞した高野公男は故郷の茨城の風景を思い浮かべて書いたが、歌った春日八郎の故郷の福島にも同じ風景があった。日本には同じような場所が数多く存在するだろう。一本杉と地蔵は、自分が生まれる前からそこにあり、たとえ村が変わっても、自分が死んでも、変わらずにいつまでもそこにある。泣けたのが駅のホームでは土着な感じは出ない。

船村によると、高野が付けた歌のタイトルは「泣けたっけ」だった。レコード収録が決定した際に、プロデューサーが「別れの一本杉」に変えた。歌詞も含めて「泣けた」が多すぎるからとの理由だったが、その変更は見事である。「泣けたっけ」では情景が浮かばない。「別れの一本杉」であれば、情景が浮かび郷愁を感じられるし、さらに一本杉の佇まいから孤独や寂しさも伝わってくる。

「泣けたっけ」という言葉には作詞した高野の思いが込められている。発表当時この歌の新しさは口語体の歌詞だった。さらに言えば、地方訛りのある話し言葉が使われている。高野は茨城の出身だが、「っけ」という語尾は他の方言でも使われる。地方出身者にはどこか懐かしく聞こえただろう。高野は東京で「地方」にこだわっていた。相棒の船村には「おれは茨城弁で作詞する。おまえは栃木弁でそれを曲にしろ」と言ったそうだ。彼らの作る歌が、故郷を離れて都会で暮らす人びとの心をとらえないはずがない。私も20代で愛知から上京した。

3.遠い故郷と赤い頬っぺた

 
遠い 遠い
想い出しても 遠い空
必ず東京へついたなら
便りおくれと云った娘
りんごの様な赤い頬っぺたのよ
あの泪

東京に出てきた理由は語られない。捨てる思いで後にして戻れないから故郷は遠い。故郷は北海道や九州でなくても茨城や栃木でもよい。遠いのは心の距離だからだ。歌の故郷はどこなのかわからない。具体化が避けられているので誰もが自分の故郷になる。三橋美智也の『リンゴ村から』(1956)のように故郷とりんごが結びつけば、生産地の東北地方か長野の話になる。「りんごの様な赤い頬っぺた」であれば、東北や長野出身者は「りんご」に、他県の出身者は「赤い頬っぺた」に気持ちが向くだろう。「空」と「りんご」の二語が出てくることで、あるいは故郷で聴いた当時は誰もが知っていたであろう「リンゴの唄」(1945)を思い出すかもしれない。

「別れの一本杉」が歌われた昭和30年代には集団就職で多くの若者が東京にやって来た。農村部の中卒者が多かった。文科省の統計では、昭和30年の高校進学率は51.5%である。中卒者は日本の高度経済成長を支える「金の卵」と呼ばれ、彼らを就職先に送り届けるために運行されたのが集団就職列車だった。昭和29年4月5日の青森発上野行きの列車が第一号と言われるが、山口覚の『集団就職とは何か』などを読むとそれ以前にもあったようだ。「別れの一本杉」の九年ほど後にヒットする井沢八郎の「あゝ上野駅」は歌詞の設定がより具体的である。就職列車で上野駅に降り立った農家出身の若者が、辛い配達の仕事をしながら啄木のように上野駅で国訛りを聞いて故郷にいる両親を思い出すのである。この時代をイメージして作られた映画に2005年公開の『ALWAYS三丁目の夕日』がある。昭和33年の東京を舞台とするこの映画では、星野六子という女性が集団就職列車で青森から下町の自動車修理工場にやって来て住み込みで働く。まだあどけなさの残る彼女は特徴的なリンゴのような赤い頬をしている。

「あゝ上野駅」や『ALWAYS三丁目の夕日』も彼らの気持ちを慮って心を動かされるが、「余白」のある「別れの一本杉」の方が心にしみる。より詩的だと言えばよいか。最後の「あの泪」という語にしても、戻れない故郷にいる恋人のなみだだから、戻るが入る「涙」ではなく「泪」なのだろう。作者の思いが込められている。

4.都会の片隅にて何を思ふや

 
呼んで 呼んで
そっと月夜にゃ呼んでみた
嫁にもゆかずにこの俺の
帰りひたすら待っている
あの娘はいくつ とうに二十はよ
過ぎたろに

誰でも夜は寂しい気持ちになる。夜空に浮かぶ月は人の心も照らすのか。月を見るとなぜだか故郷を思い出す。古くは唐に渡った阿部仲麻呂が帰れぬ故郷を思い「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」と詠んだ。故郷を思う時、最初に思い浮かぶのは、風景か人か思い出か。女性が浮かべば望郷演歌になる。

故郷には自分の帰りを待つ女性がいる。彼女は手紙すら来ない相手を嫁にもゆかずにひたすら待っている。東京の空に浮かぶ月を見上げなから、男はどんな気持ちになったのか。彼女の名前を叫ぶのではなく、そっと呼ぶのだ。慚愧の思いだろう。だが帰るわけにはいかない。東京でまだ何も成し遂げていない。

「とうに二十は過ぎたろ」とは何歳ぐらいを指すのだろうか。22、3歳か、あるいは20代後半までいくのだろうか。童謡「赤とんぼ」の姐やは15歳で嫁にゆくが、三木露風が作詞したのは34年も前の大正10年で姐やは奉公に来ていた女中のことだから、昭和30年代の歌の結婚年齢には参考にならない。厚生労働省の「人口動態統計」で調べてみると、昭和30年の女性の平均初婚年齢は23.8歳である。全国平均より農村部はもう少し若くなるとすると、待っている女性は結婚適齢期を越えてこのままだと結婚が難しくなる年齢だろう。結婚するのなら今直ぐにでもした方がよい。時間の余裕はない。

男は東京でどんな生活をしているのか。月を見て望郷の念がこみ上げてくるのだから、不本意でつらく厳しい生活だろう。こんな生活がいつまで続くのかと焦りや苛立ちを抱えて生きているのではないか。挫折して失意の底に沈んでいるようには思えないので、夢や希望を捨ててしまったわけではないだろう。ひたすら堪え忍ぶ日々か。

男の態度から恋人に待っていてほしいという心情は伝わってこない。どこかで自分のことは忘れて別の人を見つけてほしいと思っているのではないか。未練はあるがこれ以上待たせておくわけにもいかない。手紙を出さないのも、出せば将来を期待させるから。手紙で別れを告げることも考えただろう。しかし待ち望んだ手紙が別れの手紙だった時の彼女の悲しみは如何ばかりかと考えると書くことができない。手紙も来ない状況に実らぬ恋と諦めて自ら新たな道に歩み出してくれたなら、そう考えるのは男のずるさか優しさか。離愁に満ちた歌である。

「別れの一本杉」が発表された昭和30年は日本の高度経済成長が始まった元年である。翌31年には経済白書に「もはや戦後ではない」という有名な言葉が登場して戦後復興の終了が宣言され、高度成長は昭和48年のオイルショックまで続く。人々が豊かさや機会を求めて都会に出る。生まれ育った場所を離れた時に初めて故郷が誕生する。この時代に多くの故郷が生まれた。

望郷歌「別れの一本杉」について考える場合、都会と田舎であるとか、変わってしまった自分と変わらない故郷といった単純な二項図式で捉えるべきではない。船村が言ったように歌は心なのである。室生犀星が「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で始まる詩で表現したように、故郷は思うものであり、思うことで故郷は生まれる。「別れの一本杉」は故郷をうたうのではない。この歌をうたう時に心の中に故郷が生まれるのである。心の中にそれぞれの一本杉が。


日本浪漫歌壇 春 弥生 令和三年三月二七日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 毎年気象庁から東京の桜の開花宣言が出される。今年は三月十四日で、昨年と同日の二年連続の観測史上最も早い開花日となった。桜は開花より一週間から十日ほどで満開となる。歌会が開催された三月二七日はまさに花は咲き誇り、木によっては少し散り始めて花びらが慎ましやかに舞っていた。桜を愛でるには最高の日となった。地球温暖化の思わぬ恩恵か。歌会は三浦三崎の「民宿でぐち荘」で午前十一時より始まり、第二部には花見の宴が催された。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、嘉山光枝、嶋田弘子、玉榮良江の四氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の加藤由良子、清水和子の二会員も詠草を寄せられた。
 
  コロナ禍で自粛の日々も桜咲き
    鶯鳴きて暫しの癒し 光枝
 
作者の嘉山光枝さんは自然豊かな場所にお住まいで、この時期にはご自宅の側に咲く桜の花を眺めていると鶯の鳴き声が聞こえてくると仰る。コロナ禍で自粛が求められる生活に変わってしまっても、自然の営みはいつもと変わらない。春になれば木々は芽吹き、鳥はさえずる。身近にある自然の美しさに癒やされ、安らぎを得ましょう。本作はコロナ禍でどこか窮屈で落ち着きを失った社会に対しての嘉山さんのメッセージだろう。
 鳥の中でも鳴き声が美しく印象的なのはやはり鶯である。容姿はメジロの方が「うぐいす色」で、鶯は緑よりもむしろ茶色っぽく、鑑賞するならメジロ、声を聴くなら鶯と皆の意見が一致。メジロの話が出たところで、濱野会長から「メジロ取り」という東京青梅市で聞いた慣習についてのお話があった。「メジロを取らせてください」と言って他人の庭に入って行くと、その家の奥様がどうぞどうぞと縁側に招き入れ、お茶が振る舞われる。しばし待っていると妙齢なお嬢さんが出てきて挨拶をする。実はこれは結婚の聞き合わせで、メジロ取りに扮して言うと相手もそれを心得ていて応対する。梅で有名な青梅市ならではの慣習である。
 梅の花にはどこか可愛らしさがある。「梅」といえば確かに「メジロ」が似合う。「桜」にはどんな鳥が似合うのか。「桜」と「鶯」というのであれば、こんな歌はどうだろう。
 
  世の中に絶えて桜のなかりせば
     春の心はのどけからまし 在原業平
 
 業平の有名な桜の歌を良寛が本歌取。
 
  鶯のたえてこの世になかりせば
     春の心はいかにかあらまし 良寛
 
 続いても桜の一首。
  潮風とお湯の温度が絶妙と
     露天に入る桜と共に 由良子
 
 作者は本日ご欠席の加藤由良子さん。海を望む露天風呂には桜の花びらが浮かび、潮風で温度は絶妙。そこまで言われてしまうと誰もが今すぐ行きたくなる。ご本人から寄せられたコメントによると、「新聞のチケット案内が当たり油壺の温泉ホテルに行って露天風呂を楽しんで詠んだ歌。春とは名ばかりで外は寒くお湯は熱い。目の前の桜の大木は散り始め、前方に海を見ながら入る露天は最高だった」とのこと。出席者の皆が羨ましく思うとともに加藤さんのますますのご健勝をお祈りした。
 
  あの人もこの人も「いい人ね」って
     思える今日の元気な証拠しるし 弘子
 
 作者の嶋田弘子さんは、最近短歌は必ずしも古典的でなくてもよいのではないかと思われたそうで、俵万智や若い歌人の自由な歌からご自身も「五・七・五・七・七」の定型に縛られない歌をお詠みになったとのこと。他人を良く思えない時は、自分の調子があまり良くないと経験から感じておられて、そのご自身のバロメーターを歌にされた。誰でも自分のことを知るのは難しい。他人に対する気持ちから自分の状態を知る。たしかに自分の心に余裕がないと、人に対して優しくなれないものだ。
 濱野会長より上田三四二の短歌論『短歌一生』に「心の色」と題する文章があることを教わった。上田三四二は謡曲「熊野ゆや」で覚えた「思ひうちにあれば、色ほかにあらわる」という文句はまさに短歌に当てはまると述べている。短歌の技法とはこの内なる思いをどう形にあらわすかの工夫に他ならず、作品の高低は、作者のその時期における生き方の気息に照応しているとする。「思ひうちにあれば、色ほかにあらわる」すなわち歌には心の色があらわれる。これほど明解な短歌論があるだろうか。紀貫之が『古今和歌集』「仮名序」に書いた「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」にも通づる。
 嶋田さんの歌は心の色がストレートに出ていて素晴らしい。
 
  春は惜しみまかる師の影時移り
     桜吹雪の日和も疎まし 成秋
 
この春に敬愛する二人の恩師と小学校のクラスメートを亡くされた濱野会長がお詠みになった歌。春といって思い出されるのは西行法師の歌だそうで、同じ死ぬなら花が咲いているその下で自分は死にたいと西行法師は言うが、いくら春でも大切な方がこんなに多く一度に亡くなられてはたまらない。春が散らすのは桜の花だけではないのだとしんみり仰る。
 
  願はくは花の下にて春死なむ
     そのきさらぎの望月のころ 西行
 先生との良き思い出の時が移り師の薨る姿に手を合わせなくてはならない日が来た。それも春に。薨る人がこんなに多いと桜の花を見てもよい日和だなんて思えない。本日この会に来てその暗い気持ちからようやく抜け出せて桜を愛でて春になってよかったと思える心境になれたと濱野会長。
 筆者は「薨」という漢字を初めて見た。「身罷る」の漢字表記が普通だが、「夢」の下の部分に「死」と書いて「みまかる」となるのは知らなかった。調べてみると、「薨去」という言葉があり、皇族などが亡くなった際に使われるとのこと。「身罷る」ではなく「薨る」。濱野会長がいかに恩師を敬愛されていたのかが漢字一字で表現される。日本語は奥深い。
 
  雨は降る舟よ動けと念じても
     舟は繋がれ 白秋を恋う 和子
 
 今回も外出許可が下りずにご欠席の清水和子さんの作品。コロナ禍で外出できないご自身を舟に喩えられたのでしょうか。嘉山さんによると清水さんがお住まいのホームはすぐ前が諸磯湾とのことなので、湾の船を見てお詠みになったのかもしれない。「白秋を恋う」という結句から白秋と何か関係があるのかと思っていたら、三宅さんが白秋の作詞した『城ヶ島の雨』という歌があり、詩には「雨はふるふる」や「舟はゆくゆく」という言葉もあるので、その歌で白秋を思って詠んだのだろうと推断。
調べてみると『城ヶ島の雨』は大正二年に三崎に住んでいた白秋が作った詩に「どんぐりころころ」などを手掛けた梁田貞が曲をつけた舟歌である。詩は当時の白秋の苦しい心境を表していると思うが、舟歌にしたのは自らの新たな船出を願ってのことではないか。現在城ヶ島大橋のたもとには白秋直筆の詩碑がある。
 
  病む友の恢復願ひ宮参り
     梅の匂ひのけふは柔らか 裕二
 
 知人が病気で治療中と聞いて、一日も早く完治してもとの生活に戻って欲しいと願いお宮に参拝した。その時に筆者が詠んだ一首。病気がよくなるという意味では「快復」という漢字が使われるが、知人は行動的な人でいつも忙しくしていた。病気はもちろんその活動的な生活も元に戻って欲しいとの思いから「恢復」にした。
 下句の柔らかい印象から作者の友人を思う気持ちが伝わってくるとのご感想を皆さんからいただいた。菊は香るが梅は香らない。梅の「香り」ではなく「匂ひ」としているところが良い。この歌には気品さえあるとは濱野会長のお言葉。
 
  枇杷の花、梅の花へとくる野鳥
     しばらく群れて直ぐに飛び立つ 良江
 三浦は野鳥が多い。先日もとんびの行動が印象的だったと作者の玉榮良江さんは仰る。玉榮さんのお話では、ご自宅の近所の山にとんびが巣を作っていた大木があり、その木が伐り倒される際に作業員に向かってとんびが飛んできた。まるで伐採に抗議するかのようだった。山には小さいとんびも飛んでいたので、その木で生まれて巣立ったのかもしれない。なぜ木が切られたのかは伺わなかったが、巣を失ったとんびはどこへ行ったのだろうか。
 「しばらく群れて直ぐに飛び立つ」の部分はまったくその通りで、鳥というのは、いるのは一時で直ぐにいなくなる。よく俳句は写生と言われるが、短歌も自然やものをよく見ることが基本だろうと三宅さん。写生歌といえば正岡子規の有名な一首が思い浮かぶ。
 
  瓶にさす藤の花ぶさみじかれば
     たゝみの上にとゞかざりけり 子規
 
 何気ない客観描写のようだが、子規が晩年病床に伏していたことを知る者ならば、花をどこから見ているのかと視線の位置を考え、歌に描かれていない作者の姿さえ見えてくる。さらに描写自体がどこか彼の心の声のようにも思えてくる。優れた写生歌は多くのことを物語る。
  五十円大根二本求めると
     傷ある大根一本おまけ 尚道
 
なんとも個性的な歌である。「五十円」「二本」「一本」と数詞が多く使われ、出てくるのは「大根」だけ。普通ならばただの説明になるところだが、これが歌になっているから不思議である。
 本作は以前にも「五十円大根」を詠んだことがあると仰る三宅尚道さんの歌。今年は野菜が豊作なのにコロナの影響で需要が減り売れなくて農家は困っている。捨ててしまうくらいなら五十円でも売った方がよい。形が悪かったり傷ついたりしたものは出荷ができないからおまけで付けられているそうだ。三浦なので三浦大根だろうか。筆者の暮らす東京のスーパーでは青首大根ばかりで三浦大根は見かけないが、煮物にすると美味しいですよと皆さんが教えてくださった。
 大きくて美味しい大根が五十円とはなんとお得かと思ってしまった筆者はこの地では「よそ者」の証拠だろう。誰にとっても安いのはありがたいが、地元の誇りの大根が投げ売りされていれば、どこか悲しく切ない気持ちになる。そうさせる社会に対しての疑問や怒りの感情も静かに湧いてくる。スーパーの広告文句のように淡々と述べられるとなおさらである。作者はそこまで計算している。
 充実した歌会を終えて別室に移り春の宴が始まる。地元で評判の「でぐち荘」さんのお料理をいただく。筆者は三度目だが、皆さんはよく来られているようで、三浦は海と山の両方の幸に恵まれた土地ゆえに地の食材を活かしたお料理はどれも絶品だった。三崎の鮪も入ったお造りに金目鯛の煮付けやサザエの壺焼きなどの海のものに加え、和え物や煮豆に天ぷらや茶碗蒸しなどの山のもの。美味しいだけでなく品数も多い。天ぷらの盛り合わせには蕗もあった。蕗の天ぷらをいただくのは初めてだったが、歯ごたえがあってとても美味だった。大根のはりはり漬けはもしかすると三浦大根だろうか。目の前の諸磯湾の天草で作った自家製のところてんをデザートにいただき大満足でお食事を終了。
 前回の歌会で嶋田さんから伺った十三塚に皆で向かう。車でしばらく坂を上がって行くと四方を見渡せる見晴らしの良い丘の上にある嶋田さんの菜園に到着。とにかく景色が素晴らしい。なるほどここに立って空を見れば歌を詠んだ嶋田さんの気持ちもよく分かる。
 十三塚に関しては三宅さんが調べて資料をくださった。みうらガイド協会が発行する『三浦の散歩道』に田中健介氏による十三塚への言及がある。田中氏によると『新編相模国風土記稿』(一八四一)に十三塚は「村の東方に相並て在り、高さ六尺許」と記されているとのことで、田中氏は地元の歴史研究家の案内で一箇所だけ塚を見つけることができたと書かれている。
 嶋田さんはすでに塚の土地の所有者の方から話を伺い塚についてお詳しい。嶋田さんの案内で私たちは三箇所を訪れることができた。そのうちの一つは残念ながらそこにあったと伝え聞くのみで塚の痕跡はなかった。他の二つは高さ一メートルにも満たない小さな塚が確認でき、一つには卒塔婆も立っていた。『新編相模国風土記稿』の高さ六尺となると百八十センチぐらいになるので、この塚ではないだろう。
 十三塚は三浦道寸の十三人の家臣の塚だと言われているが、彼らが亡くなってから約五百年が経過し、現在わずかにいくつかの塚が残るのみである。実際に塚に家臣は埋葬されたのか。他の塚はどこにあるのか。歴史家であれば事実も重要だろう。しかし事実よりも先人を思う気持ちが重要ではないかと筆者はこの場所に来て実感した。先人も同じ空を見たのだろうかと思って嶋田さんは「時の動きを中宙に視ゆ」と詠んだ。上田三四二は「歌には心の色があらわれる」と言うが、人を思う気持ちが歌になる。濱野会長は恩師を、筆者は病気の友を、清水さんは白秋を、より広く植物まで含めた衆生となれば、本日の詠草はすべて彼らへの思いを詠んだものだ。晴天の空の下、眼下に広がる風景と畑に咲く花を眺めながら催されたノンアルコールの「酒宴」の席でそんなこともふと考えた心洗われる佳き日であった。
嶋田さんの菜園にて。左より嶋田弘子氏、嘉山光枝氏、濱野成秋会長、玉榮良江氏、三宅尚道氏。
別の塚。草に覆われて見えにくいが卒塔婆も立つ。
十三塚の一つ。畑の中ほどにある突起が塚。
日本浪漫歌壇 冬 如月 令和三年二月二七日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 春を思わせる陽気が続いたかと思うと真冬のような寒さに逆戻り。三寒四温とはよく言ったものである。晴れ渡るも風はまだ冷たい。二月二七日、午後一時半より三浦短歌会の皆様と日本浪漫学会で歌会を行った。会場は三浦勤労市民センター。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、玉榮良江の五氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の桜井艶子、清水和子の二会員も詠草を寄せられた。
 
  初春に涙腺ゆるむ孫の書く
    はねだしそうな「新たな決意」 由良子
 
 お孫さんのお習字を見たときにその伸びやかな字を見て思わず涙が出たそうで、作者の加藤由良子さんは「最近はこんなことで涙腺が…」と仰る。お幸せな証拠である。元気に育つ孫とそれ温かく見守る祖母。参加者もみな温かい気持ちになった。「はねだしそうな」の言葉遣いが秀逸というのが皆の共通した意見であった。
 
  「歩いてる?」娘に訊かれ生返事
        愛犬逝きて運動不足 光枝
 娘さんに尋ねられ生返事でごまかす様子は微笑ましいが、その分愛犬を亡くした寂しさも伝わってくる。昨年愛犬が亡くなるまでは犬の散歩が日課だったとのこと。毎日時間になると、散歩を待ちきれない愛犬に催促される。そんな光景も目に浮かんでくる。
 若山牧水にもこんな歌がある。
 
  枯草にわが寝て居ればあそばむと
     来て顔のぞき眼をのぞく犬 牧水
 
 筆者は犬を飼っていないが、飼っている人を見ると犬の方が主導権を握っているように思えてしまう。気のせいだろうか。
 
  アネモネは信仰の花 花言葉
     「信じ従ふ」ラジオより聞く 尚道
 
 作者の三宅尚道氏の話では聖書には「野の花を見よ」という言葉が出てくるが、この花はアネモネだと言われている。毎日その日の花と花言葉を紹介するラジオ番組があり、アネモネの日があったことで生まれた歌。クリスチャンの三宅氏ならではの一首。調べてみると、赤いアネモネはキリストの受難を象徴するようだ。ギリシア神話ではアフロディテの愛したアドニスの血がアネモネに変わったとされる。
 筆者はこの歌に散文的な印象を受けたが、作者の三宅氏ご自身もどこかしっくり来ないと感じていて、皆で忌憚なく意見を述べあった。議論が行き詰まった時、絶妙なタイミングで濱野会長がユーモアを込めた本歌取りを披露。作者を愛する奥様がちょっぴり皮肉を込めて詠んだ歌との設定で、
 
  ナルシスは夜更けの花よあなたなら
     アネモネのごと信仰一途に 成秋
 
 この一首で場の雰囲気が一気に和んだ。
 
  お水取り越えねば春は来ぬといふ
        母の冬里思へば幾歳 成秋
 
 「お水取り」とあるので「冬里」は奈良だと判断できるが、作者の濱野会長のお母様は奈良のご出身。「お水取りが済むまでは春は来ない」とよく仰っていたそうで、奈良は盆地で冬はしんしんと冷えると伺って冬の奈良を知らない筆者も納得。「古里」や「故郷」では寒さは伝わらない。
 「思へば幾歳」と、お母様の出身地に対しても長い間欠礼していて申し訳ないと思えるのはお母様への深い愛ゆえ。中村憲吉にもお水取りを詠んだ歌がある。
  時雨して奈良はさむけれ御水取
     なほ二月堂に行を終らざる 憲吉
 
 同じくお水取りが終わらないと春は来ないと言っているが、母への思いを詠んだ濱野会長の作と比べると写実的である。
 実際の「母の冬里」は、神通力で空を飛んでいる時に若い女性の脛を見て墜落した久米仙人の話で有名な橿原の久米とのこと。それを伺ってにわかに親しみが湧いた。面白い仙人もいるものだ。
 
  西の空父母の顔あり悔ゆるのみ
     八十路往く身に老いのしかかる 艶子
 
 本日欠席の桜井艶子さんの作。人生を振り返り、今になって両親の存在が大きかったことを痛感し、感謝の気持ちともっと親孝行をしておけばよかったと悔やむ気持ちになられているのだろう。参加者の皆さんからこの気持ちはよく分かるとの声。
 作者の桜井さんは三崎の入船ご出身で加藤由良子さんとは幼なじみ。加藤さんのお話では桜井さんのお父様は県会議員をされていてお母様も旦那様を支えながら一生懸命働いておられたから、その姿を思い出されるのではないかとのこと。
 「西の空」とは西方浄土のことであろう。浄土が西にあるとされたのは、太陽も月も最後は西に沈むのですべてのものが最後は西に帰するとされたとする説が有力。美しい夕日が沈むのを見れば誰でもその先に浄土があると思うのではないか。そんなことを思っていたら、次の作、夕焼けの歌に。詠んだのは筆者である。
 
  冬夕焼赤く染めたる故郷の
     夕べの雲はどこへ向かふや 裕二
 
 場所が議論になった。作者はどこにいるのか。故郷に戻って詠んでいるのか。故郷を思って詠んでいるのか。また夕焼けも同様で、故郷の夕焼けか、今住んでいる場所の夕焼けか。両方の解釈が出て、どちらかと尋ねられた。
 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で始まる室生犀星の詩の「詠んだのは故郷か否か」問題が一瞬頭をよぎったが、著者としては、読者がどちらにでも解釈できるように意図して書いたので、どちらでもよいとお答えした。とくに夕日や夕焼けは、人それぞれが自分のイメージを持っている。現在住んでいる東京で見る夕焼けはオレンジ色とお話したら、三浦は真っ赤ですよと皆さん仰る。「夕焼け小焼け」の歌は八王子の恩方の情景だったが、もはやそこでは見られない。最近三浦で沈む夕日を見てここではまだ見られると思ったと仰ったのは濱野会長。嘉山さんによると諸磯湾に沈む夕日が最高に美しいとのこと。夕焼け話で盛り上がった。
 冬の夕焼けを表す言葉には「冬夕焼」「寒夕焼」「冬茜」「寒茜」がある。初句は「冬夕焼」と「冬茜」で迷い、音の並びですっきり聞こえる「冬茜」を考えていたが、濱野会長より「あかね」と言えば万葉集の額田王の有名な一首がある。
 
  あかねさす紫野行き標野行き
     野守は見ずや君が袖振る 額田王
 
 この歌は月光の中という解釈があり「あかね」が夕焼けを表さない場合もあるとのご指摘をいただいた。「冬茜」という語があまり使用されないために意味が分かりにくいことも考慮して「冬夕焼」にした。
 
  愛すれど猫は巧みに家を出で
     畑や山をグルグル回る 良江
 
 家猫がすきを見て時々逃げ出すので、作者はそのたびに探し回り、猫に振り回されている。先日も五時間探されたそうだ。
 「畑や山をグルグル回る」というどこかコミカルな後半部分が、飼い主になど全くお構いなしに自由奔放に行動する猫の特性と何となく人を馬鹿にしているような印象を上手く表現している。憎たらしいけど猫好きにはそれがたまらないのだろう。
  いにしえの塚の遺れる丘に立ち
     時の動きを中宙に視ゆ 弘子
 
 作者の嶋田さんは、三浦市火葬場を更に上った見晴らしの良い丘の上に畑をお借りになっていて、近くに十三塚がある。人から聞いた話では、十三塚は三浦道寸の十三人の家臣の塚で、彼らは新井城が燃えているのを見ながらそこで亡くなった。落城は一五一六年。北条に敗れ三浦氏は滅ぶ。
 作者が塚のある丘から見た空はとても美しかった。自刃した家臣たちが見た空もきっと美しかったのだろう。空は変わらないが時は変わると感じお詠みになったのがこの一首。
 嶋田さんのお話を伺い、次回の歌会後にぜひ皆で十三塚を訪れようという話になった。三浦半島には史跡が多い。最近濱野会長が見つけた戦跡は、海軍水上特攻隊の特攻艇「震洋」の格納庫。場所はカインズホーム三浦店近くの海岸の崖を降りた所。付近の丘陵地帯も戦争当時は零戦基地だったとの説明。
 
  ”推し“などと粋な言葉を使われて
     吾人はたじろぎ若者を見る 和子
 前回に続きホームの外出許可が下りずにご欠席となった清水和子さんの作。三宅氏のご説明では、第一六四回芥川賞の受賞作である宇佐美りん『推し、燃ゆ』(二〇二〇)を踏まえて詠まれた歌とのこと。
 現在、宇佐美氏は大学生で二一歳。清水さんは九一歳と伺ったので、年齢差だけを見れば大きい。「推し」という言葉は、若者が使う場合「応援しているアイドル」といった意味で使われることが多く、かなり意味が拡大されているが、逆に「一推しアイドル」が略されて「推し」になったと考えたほうが適切かもしれない。「推し」は辞書的には「一推し」の意味なので、使われても「たじろぐ」ほどではないだろう。
 『推し、燃ゆ』のタイトルの二語で言えば、「推し」よりも「燃ゆ」の方がわかりにくい気がする。「燃ゆ」とはネットで炎上すること。「”推し“など」と「など」が付いているので、あるいは「推し、燃ゆ」という言葉にだじろがれたのだろうか。清水さんに伺えないのが残念である。
 『推し、燃ゆ』の主人公は、好きなアイドルの応援に心血を注ぐ女子高生だそうだ。では、同じ「燃ゆ」でもこの歌はいかがだろう。
 
  真昼日のひかり青きに燃えさかる
     炎か哀しわが若さ燃ゆ 牧水
 歌会を終え、コーヒーショップ・キーという名のカフェに移動してお茶をいただく。しばし歓談し、カフェを後にする頃には西の空は冬夕焼。充実した一日であった。今日は皆さんが仰っていたほど赤くはない。残念。
 帰り道、夕焼けを見て無意識のうちに浮かんできたのは「夕焼け小焼け」の歌だった。なぜ自分の「冬夕焼」の歌でない?歌人としてまだまだ修行が足りないようだ。
 
◎次回の合同歌会は三月二七日午前十一時より。この日は新人も加わっての花見の宴も用意されています。場所は三浦三崎の「民宿でぐち荘」(電話042‐881‐4778)。地元では定評のある魚介類が楽しめます。当日会費は三千三百円。入会希望者は、info@romanticism.jp または 090‐2735‐7495濱野成秋会長までご一報ください。年会費五千円。

本学会相談役 鈴木孝夫慶應義塾大学名誉教授追悼

畏敬の師とその時代

3.「知」は活性化してこそ価値をもつ

⑴知識人に取り囲まれて

鈴木教授は他の教授と大分かけはなれた存在だった。

“歩く知識の宝庫”というべきか。

授業で先生はこんなことまで知っているかと舌を巻いた私だったが、彼の知識の源泉に注目すると、慶應義塾にはその種の知識の宝庫が沢山おられた。授業中、なぜすぐにポンポンと知識が迸り出るのか。その頭脳構造に舌を巻く前に、僕は知識取り出しのプロセスに興味をもった。級友の中には自分らとは頭の出来が違うんだと追いつけない悔しさを生まれながらの優劣問題として片付けてしまう傾向もあった。だが、それは違うなと僕は思っていた。

T.S.エリオットのperfect criticとimperfect criticの差異を講義してくれた由良君美教授の授業も明快だった。僕の好きな展開法であったし、その解析法は自分と同じなので、エリオットの魅力は自分でも由良さん並に解釈出来た気がする。一口で言うとcause & effectとkey wordの掛け合わせから繰り出される知識系列には必然性があって理解に無理がなかったのだ。

その目で鈴木先生流の思考回路を解析すると、語学的な語句解釈から多岐に分化し、政治、社会、文化、歴史や国際関係へと波及していく。語学から別領域へ。際限もなく飛翔するのである。学術用語でいうと、当時はまだあまり知られていなかったinter-disciplinary(学際的展開)というジャーゴンで言えることだけれども、この技法で語学を説き分ければ、それは語学と関連性の深い文学だけでなく、社会学や哲学の弁証法にも結びつくし、さらに考察領域を拡大すれば、政治経済や自然界の、神羅万象の世界へと遡及できる。当然、諸データと共存させて多様性のある形象へと関係性を拡大することもできるのである。

つまり、鈴木氏の論考法は、一つの命題に関係性のあるポイントを引き出し、それがとても魅力的だと解ると、それからそれへと、一種の韻律をもって連鎖反応を起こす。思考回路の立体化である。その形成が無尽にできるということが聞く側には快かったのだった。

他方、対極にあるかと思える仏文の白井浩二、中文の奥野慎太郎、英文の西脇順三郎、厨川文夫の諸先生は知識量の差異というより専門性の蓄積量の差異と考えるとよいだろう。その神髄を引き出すには原典講読が欠かせないし、地味で時間もかかる。ゼミではその応用を続ければ与えた情報は熟成する。

学問とは方法論と定めたり、か。

ふと気づくと「昼食を食べに行こうか…」と誘われる。そんな先生が多くなり、そのうち食事をご一緒するのが当たり前の日々になった。池田弥三郎先生はよく幻の門を出てすぐ右に曲がった路地奥のあんみつ屋に連れて行ってくださった。談論風発、あんみつ屋で万葉集の講義である。江戸文学も出た。1体1で粋な小話もうんと聞いた。

サルトルの白井浩司教授は翻訳でいつも多忙を極めておられたが、当時は塾に予算もなく、彼の研究室を『三田文学』の事務所に充てる有様。僕は英文学科生としてではなく、塾生として仏文の院生たちとサルトルを論じ合った。足りない知識は読書量で補うほかない。下宿に帰るなり話題になった作品を読み直し、翌日にはそのキーワードやファクトを頭中に入れ込んでトークに参加するわけだ。

大橋吉之輔教授はアメリカ文学で、当時はヘミングウエイやスタインベックが流行る世間とは異なり、大橋氏はきらびやかなロスト・ジェネレーションには志向せず、むしろ鄙びたアメリカ中西部の田舎町の暮らしぶりを描くアンダスンに興味がおありだった。長編『貧乏白人』や『ワインズバーグ・オハイオ』という短編集に描かれた人間模様に親しみを感じるお人柄であった。

僕は当時西海岸で興隆したビート・ジェネレーションと20年代ジャズ時代のロスト・ジェネレーションを比較して両方の作歌群像を網羅的に調査して彼らの生きる哲学の比較論を英語で書き上げら博論級の厚さになったが、それを提出したのだが、大橋氏には気に入らなかったようである。学部学生としてはあるまじき論文だとか不平を言われたのを、今も覚えている。

学部の4年間はこうして瞬く間に過ぎ、卒業後、僕は東京国立にある桐朋高校という進学校の英語教諭になった。

⑵鈴木流知識体系の演繹法

鈴木先生流の知識体系はしかし興味深く忘れ難い。面白い。面白いだけでは演繹法にならない。勉強法としても使うにはその演繹法を辿らねばならない。僕は自分なりに英文法論をもっていたので、それを研究社という辞書の会社から出版したけれども、西欧の文法学者の領域から解脱できるほどの大作にはなれず、文法路線で進行せず、やはり文学に返り咲いてモームの長編を片っ端から読んだり、『月と六ペンス』や『人間の絆』と言った長編や南海物の短編を読み飛ばして、人間というやつはかくも卑劣なものかと、作者モームの心境で読んでは受験に熱心な生徒ばかりの教室に行くものだから、授業はろうなものじゃなかったと思う。

低迷期であった。鈴木先生や由良先生の教室が懐かしく、酒に浸っていたこともある。だが、そんな自堕落もやがて治まり、鈴木先生の文化論を読み返す気になって、立ち直り、アメリカ留学のために本格始動を始めた。

僕のディベート論法にそれを心得として加えて組み直すと、鈴木流なら鈴木流の知識体系の各端末に、A→A‘→A″につながる端子を出して控えるようになる。この方式をわきまえて展開すれば痛快に使えるはずで、それをエリオット流の批評に専念して、アメリカ文学の新作を次々読んでは文芸誌に発表する日々になった。

池田弥三郎助教授の国文学研究法は実証的で、万葉集の読み解きも芭蕉のように現地を歩いて実感している感動が伝わってくるから、当然、聞く人に実感を与える講義ができる。これは私にも影響を与えて、アメリカ史の初期独立革命を知るために、ボストンのfreedom trailを歩き回り、東印度会社のオフィスやポール・リヴィアが馬を繋いだ杭まで行ったし、汽車に乗ってレキシントンやコンコードまで行って、イギリス正規軍とアメリカ民兵とのドンパチでめり込んだ銃弾の穴にまで指を突っ込むまでやってのけたから、講義に迫力が出たしその時点で出したデータは活き活きと使えた。

その頃、僕は中野にある『新日本文学』の会員で、野間宏、佐多稲子、中野重治さんたちとかなり革新的な文学運動を一緒にやり、他方では中央公論の『海』、文春の『文學界』、研究社の『英語青年』に連載で掲載され鶴見大学の専任講師となり、数年後、東北大の教官に推挙された。

僕は大学院に上がって英語論文で博士号をもらう機会を逸したわけだが、東北大では私が精神分析学者の書くWalker Percy, The Last Gentleman という難解な作品(450ページ)を翻訳し、そこに誤訳がほとんどないと判明して評価されていたことも招聘の大きな理由だった。

これは大学に奉職する技法などというくだらないものではない。パーシィ流の精神分析に耽溺して読んでいたら、自分自身も精神分析学者となり、当時はやりのフロイトをはじめ、聖心分析や心理学に傾倒していかからこそ取り組めた仕事だった。延々800枚。乗せられた枚数は重荷でも何でもなかった。面白く読んで鈴木流に解釈して、誰が読んでも納得のいく言語で翻訳していく。高校で受験英語を教えた後、けっこう楽しんで仕上げた一冊だった。

鈴木孝夫氏はアメリカを日本人の観点からとらえ直しておられるが、僕は卒後、高校教師をやりながら「アメリカ研究」という新分野を東大の駒場の先生方と縦軸と横軸を構成することに腐心した。つまり、当時はまだ斎藤光、斎藤眞、久保田きぬ子、本間長世教授がみなさんご健在で、研究熱心はこの上なく活発。そこから得た知識群で自分自身、少しは語れる存在になった。

東北大助教授になったのはそれから数年後のことになるが、その間、僕は当時月例会が盛んな「アメリカ文学会」から声が掛かり、シンポジウムのパネリストになることが屡々で、それは月刊文芸誌の『海』、『新日文』、『三田文学』などに書きまくり、まだ若手の亀井俊介氏や僕も加わって、「アメリカ研究」を、「歴史」と「民族」と「移民」という三つの要素をもって構築。それが文学世界にも導入していた。ということは、一見、鈴木理論とは大分かけ離れた知識体系を作ることになったと見えるだろう。が、鈴木先生は、それはそれでいいと思われたと思う。

僕は後年、アメリカ文化センターで頂いたたくさんの情報や東大駒場で誕生した「アメリカ学会」で構築した「アメリカ研究」で、次々と著書を出していたから、鈴木先生とは観点視点も異なるけれども、歴史問答では面白くかみ合って、却ってよかったか、先生とはまた一段と親しくなった感がある。

⑶アメリカ時代での鈴木流研究法

僕が35歳頃だったが、東北大の助教授でいた時分、ニューヨーク州立大のバッファロー校で大学院生を相手にポストモダン米文学を教えていた時、近くの高校から講演に来てくれといわれた。レクチャーをあらかた終わって、日本でもシェイクスピアを読んでる、大学院でねと言ったら、高校生たちが怪訝そうな顔をする。

その空気が気になって後でレクチャー後、招いてくれた先生に訊いたら、「アメリカでは『ハムレット』や『マクベス』は高校の教科書で読みます、ほら、これです」と分厚いテキストをどさりと手に乗せられた。何と部分掲載ではなく、終わりまでスキップせず、一作を2週間で読むのだと言う。日本型の、少量を精緻に読み解く、というような読み方は果たして実力に結びつくのか。鈴木先生の膨大な知識量はどれもこれも活性化されているが、大学受験で培ったような精緻な、少量の知識は果たしてどんな実力になっているというのだ。

知識とは膨大な体系であって、一字一句きちんと覚えて100点を取る式では、とうてい知識人の端くれにもなれない。

結局、僕が明日の火種というか、話題に備えて必死に読んでは頭に叩き込んで、どの話題になっても直ぐ取り出せるように、いわば“文学のディベート”を続けたのがよかった。学生時代から始めた自己特訓が効を奏したのである。鈴木孝夫氏の『鈴木孝夫の世界』第3集(冨山房、2012)を例にとれば、それがよく解る。

鈴木先生から頂戴したご著書を前に、僕は慶應義塾の文学部英文学科で学んだことを今更ながら貴重な体験だったと述懐している。有難う鈴木先生。この想い出の記に登場された諸先生は今や総てこの世の人ではない。皆さん、有難う。僕ももう直ぐ黄泉の国へと出立しますが、まだまだ頑張りたい。どうぞ叱咤激励の目でお見守りを。(了)