市川郢康(オンライン掲載用)

土くれに母のにおい。土を手にすれば、懐かしい母のにおいがある。空行く雲に幼い日の思い出が生きている。青い空、緑の山並み、澄んだ空、小鳥のさえずり、すべて昔のままで時の隔たりを少しも感じぬ。「ふるさとは近くにありて思うもの」

市川勝也著 随筆『土くれに母のにおい』より

父母はかくして知り合い私の人生が生まれた

アメリカ文学を専門とする私がこの世に誕生したのも、父母の運命的な邂逅ゆえのこと。今はもはやこの世にはおらぬ二人だが、人間の運命とはかくも哀愁に満ちているか。

大正11年、母はお茶の産地で有名な福岡県八女郡星野村(現在八女市星野村)の祖父が経営する旅館の娘として生まれ、そこで育った。当時、大分県の鯛生金山の鉱脈が星野村の山まで伸びており、多くの鉱夫がこの旅館を利用したと聞いている。母の父は旅館から見える山々に杉の木を植林し、木材の取引にも関わっていた。炭鉱の資材課に勤務していた父は坑木として使う木材の買い付けで星野村を訪れ、この旅館に泊まっていて、母の父に見込まれたらしい。星野は良き星の降るところでな。と祖父が言ったかどうか、これは冗談だが、二人を出会わせたのだろう、めでたく結婚となって、生まれたのが私である。

そんなわけで、物心がつくまで、私は星野村の茶畑を駆け巡って育った。いつも母の目がゆきとどき、川遊びをしても母の心と一緒だった。星野川沿いの田んぼにホタルが舞い、蚊帳を吊るした部屋の縁側で祖父が育てた西瓜を井戸水で冷やして食べた。

炭鉱の労働者の生活を父は支える

父の最初の勤務先、明治鉱業の本社は、福岡県戸畑市(現在北九州市戸畑区)にあった。創業者である安川敬一郎は安川電機や九州工業専門学校(現在九州工業大学)の創設者でもあった。採掘労働者は炭住(炭鉱住宅)で生活し、事務系管理職の人々は山の手と呼ばれる社宅に住んでいた。私の家は山の手にあったが、落盤やガス爆発の事故を知らせるサイレンの鳴り響くのをよく耳にした。落盤やガス爆発の事故は頻々として起こった。前途ある責任感の強いヤマ男だった友人の父親がある日突然粉塵で真っ黒な死体で戻るという悲しい出来事。父も泣いた、母も泣いた。坑木で坑道を作る調査で父がヘルメットを被り、トロッコに乗る時には母は無事を祈って見送っている。子は父母の背中を見て育つというが、まさにその日々だった。

母は苦労にめげない人だった。

父の早朝からの出勤と私の通学の裏で家事の傍ら、暇を見つけては日本舞踊、茶道、華道、お琴といった日本伝統芸能を身につけた。周りの暮らしにはいつも同情して手伝いに走る母だったけれども、そんな習い事は、僕をどんな逆境に置かれてもしっかり育てねばと思う気持ちもあったのだろう。母は父にもいつも気づかっていた。疲れ果てて帰宅し、五右衛門風呂から上がって浴衣に着替えた父にお酌する母の手が少し震えている。二人とも疲れている。でも、あの、気づかいよう。私はここでも学んだ。

父の炭鉱の仕事は転勤がつきもので、本社のある戸畑市から筑豊炭田の田川郡赤池町(現在福智町)、飯塚市桂川町へと転々とした。家から一歩外に出ると、終日炭車の走る音、巻き上げ機や排水排気の機械音、選炭場の騒音が絶え間なかった。そして、私が中学2年の初めの頃、石炭産業は不況の時代を迎え、多くの採掘労働者の家族は極貧生活にあえぐ日々を余儀なくされた。

野の花は無心に咲く。廃鉱の瓦礫の脇にも彼岸花が。一句披露すると、

廃鉱の世相をよそに曼珠沙華

炭鉱の町には資源として使えない岩石が、長年にわたって捨て続けられうず高く積まれた山、即ちボタ山があった。学校帰りに化石を探しにボタ山に行くと幼子を背負った母親たちが石炭のかけらを探しに来ていた。生活困窮者がボタ山に立ち入り、石炭を見つけ出し、自分の家の家庭用燃料にするか、業者に売って生活の糧にしていた。石炭産業が最盛期の頃、お盆が来ると炭住の広場に沢山の人が集まって楽しく踊っていたのが小学校時代を炭鉱で過ごした私の脳裏に焼き付いている。炭鉱労働者によって唄われた民謡で、盆踊りの唄として欠かせなかった。ゼンマイ式蓄音機から「月が出た出た、月が出た、ヨイヨイ」と炭坑節の曲が流れた。

北海道の炭鉱の労働者を支える父の姿

父は会社の命を受け北海道へ。北海道の空知川の流域にある炭都赤平市の冬はマイナス20度にもなった。母は中学校まで歩いて通う私の両ポケットの中に茹で卵を入れてくれた。北海道での7年に渡る冬の生活は私にとっては耐えがたいものであった。中学2年生の夏の終わりの頃である。空知郡赤平市でこれまで経験の無い北海道の冬を迎えた時、酔って帰って来た父に「僕は九州に戻る」と言った。

その時、見返した父の瞳は忘れ得ない。怒っているのではない、なんとも言いようのない憂えに満ちていた。疲れてもいよう、仕事のことで頭は一杯だっただろう。それを思えば僕は何と思いやりのない言葉を投げ掛けたのだろう。申し訳なかった、ゆるしてくれ。仏壇に向かい、亡き父の写真を見ると言葉が詰まる。

父は黙っていたが、それが辛くて、僕は自分だけ良ければいい自分を恥じて、もう北海道にいようと思っていたが、父は私の心情を汲んでくれたのだ、中学3年の終わり頃一人久留米へ行くことになった。青函トンネルや新幹線が無い時代、久留米まではまる二日かかった。7年間勤めた北海道の炭鉱も遂には閉山となり、父は東京の明治鉱業本社に移ったが、やがて明治鉱業も解体したためその関連会社に暫く勤め、炭鉱の生活と別れを告げ、大阪へ。

そんなわけで、一家は住居を移動したけれども、父母は自らを見事に律していたことに今はよくわかる。

例えば炭鉱時代、父は気晴らしに囲碁や麻雀に饗しただけではない。弓道や剣道に通じ、弓道は四段、社宅の端の広場に作った練習場で的を目がけて矢を射っていた。その姿は日本人の大和魂を見るかの如く凛々しかった。父は数本の刀剣を所有し、刀の柄の部分に刻まれた銘を見ないで、作風で作者を当てる刀剣会を家で開催した後、庭で縄を竹に巻いて試し切りをする。

幼い私は興味深く見ていた。また、時には家に友人を招き、麻雀に夢中になることもあった。麻雀は夜更けまで行われ、お酒やつまみの準備で立ち回り、夜食を作ってもてなした裏方役の母も立派だった。母は私の寝床の横に座り裁縫をしていたが、麻雀牌をかき混ぜる音が煩くて眠れなかった思い出がある。

退職後は約2年間、父は大阪で私たち家族と居を共にしたが、二家族の同居に一抹の不安を覚えた父は、あっさりと家を売り払い、自分の故郷である九州、母の実家に近い久留米市の郊外に居を構えた。当時、家の廻りは田んぼで広がっており、春になると家のすぐ近くの野山でワラビを摘んで来て、母と山菜料理を楽しんだ。今は田んぼも野山も宅地に整備され、家が建ち並び昔の面影は残っていないのが寂しい。久留米では、母と共にそれぞれの趣味に親しみ、穏やかな人生をおくっていたが、父が周囲の反対を押し切って久留米大学医学部に献体の意思を表明したのもこの頃である。母はその夜、ホルマリン槽に沈んだ遺体を夢見て一晩中眠れなかったと言う。生きること、死ぬること。どちらにも達観する父に母はきっと尊敬の念を抱いていたと思われる。

社会批評家になった父の姿

炭鉱事業は文明の進歩と経済活動のせいで終息したけれども、父の苦労は息子の自分が知っている。父の努力は立派だった。俳句にすると、

懐かしや古書に交じりて亡父の文

父は福祉協議会の職業紹介で、久留米に来て1年半振りに再就職の機会を得た。中小企業の厳しさを肌で感じながらも積年の知識と経験を駆使し、老いの情熱を燃やしていた。ゆとりある勤務の傍ら、「らくがき亭」と名乗り、政治批判をはじめ幅広く文筆活動に取り組み、新聞に投稿を続けた。パイプ煙草を燻らせながら、原稿に向かう父の姿は忘れられない。
新聞の都合で時々、折角の原稿がボツになることがある。

たいていは紙面が確保できないとか、社会が突発的に新たな話題に移るせいだが、書いた方はがっくり。気分が滅入って酒の量が増える時もしばしばだったと母は語っていた。新聞に掲載された記事を切り抜き、スクラップブックが4冊になったら自費出版したいという父の願いは叶わず、私は病床の父の耳元で出版の念願を果たす約束をした。

昭和61年3月、私は研究員として1年間渡米することになった。父と母が大阪国際空港まで見送りに来てくれた。しかし、その日は成田空港が大雪のため閉鎖になり、渡米は二日遅れになった。「成るようにしか成らないよ」と言い残して母と共にそのまま久留米まで帰った父だったが、私にとってこれが最後の父の言葉となった。渡米後2カ月後、父が前立腺肥大部分切除のため国立久留米病院(現在久留米大学付属医療センター)入院。その後の検査で前立腺癌と判明、抗癌剤治療を終えて7月末に退院するも薬の副作用で心臓発作を起こし、再び古賀病院に入院。

生きることは辛苦を負うこと宿命なり。入院1週間後、病院のトイレで倒れ、発見が遅れたため危篤状態に陥った旨の連絡を受け、私は妻と3人の子供を残して、帰国の途につく。母と私は医師の説明を受け、CT検査の結果、左脳の後部半分が遣られていることが判明した。2週間ほど病院に通い、落ち着いた状態を見計らって、私は再びアメリカへ。その後、言語障害と右半身不随の後遺症が残るが、丸山病院(医師で詩人でもある丸山豊が設立)で半年間のリハビリ生活を送り、昭和62年3月、退院。しかし、2カ月後排尿困難なため国立久留米病院へ再入院。検査の結果、前立腺癌の末期で手術は不可能と告げられる。連日、母と私が見守る中、父は酸素吸入器を付けたまま、薄く白眼を開いて悶絶せんばかりに苦しむ。母は私に近くの寿司屋からお寿司を買って来るように頼み、病室で買ってきたお寿司を無理やり食べるよう強要した。母は父の死を目前にして強い心を持つことを私に伝えたかったようだ。この時初めて女としての母の強さを感じた。1カ月後の6月早朝容態が急変し、69歳で永眠。

献体の登録がなされていた久留米大学附属病院の許可を得て、遺体を家に運び入れ、通夜を済ませ、葬儀も父が6年間余生を楽しんだ家で行った。1年後、大学病院から戻った一部の遺骨は市川家の墓がある北九州市門司まで運ばれた。墓地は森に囲まれた小高い丘の上にあって、門司の街や港が一望できた。父方の祖父は門鉄(門司鉄道局)の機関士として働き、父は下に5人の弟と妹、上に1人の姉のいる貧しい家庭の中で育った。父は市立門司商業学校(現在福岡県立門司大翔館高等学校)を卒業後、明治鉱業株式会社に入社し、働きながら八幡大学(現在九州国際大学)の2部に通った。父の生まれ育った家は私が幼い頃売却され、一度も訪れたことは無い。

独りで生活するようになった65歳の母は、華道や茶道のお弟子さんを家に招き、指導に心を燃やした。常に凛々しい姿勢を保っていた母だったが、長期にわたる父の介護で腰の曲がりも酷くなっていった。3歳上の母の姉が時々星野村から訪ねて来て泊まり、母と一緒に過ごすのが何よりの楽しみだったようだ。しかし、母が70歳を迎えた頃から、独り暮らしの母のことが気がかりで常に頭に過り母の傍に寄り添いたいと思いが増すばかりであった。私は長い京都での生活から離れて母と共に過ごすことを心に決め、妻と3人の子供を残して友人の紹介で久留米大学に移る機会に恵まれた。

生まれて初めての二人での母との生活が始まる。華道と茶道に専念する70歳代の母はお弟子さんを相手にして生き生きとしていた。人にはそれぞれ人生がある。軽重の差異などない。どの人生も重い。書き終えた今、そう思えてならない。(了)

三崎白秋会
白秋「城ケ島の雨」によせて
       令和二年八月二日   濱野成秋
 
1.城ケ島の雨と三崎白秋会
 
 歌は友をつくる。歌心は受け継がれて花開く。
 まさにこの思いで筆者は三崎白秋会の方々とあいまみゆることとなった。白秋の歌碑を守り心を受け継いで研究部会まで作り、そこに招かれたのである。
 白秋が道ならぬ恋の果て、この三崎に来て鬱々たる思いで作った「城ケ島の雨」の詩が僕の寄る辺なき人生を思い起こさせたのも、行く気になった理由かもしれない。この詩が僕の心に最初にずしんと響いたのは、まだ二十歳代だった。生涯かけてやるべきは何か。一生に一回の人生を何に捧げるべきか。一向に見定まらない迷妄の日々だった僕は迷い心を奥底に秘め、さる高校に非常勤で勤めていた。そこの校長が宴席でこの暗い調子の歌を華やかであるべき宴席で歌ったのだ。周りはしいんと静まる。彼は甲府の出で、古武士の風格。日頃お会いする折に語られる説諭は胸に沁みるがごときで、一々納得できたから、僕にはこの歌の一節、一節が心に沁みて居たたまれない思いさえした。
 古武士のように胸を張り御老体が歌いだすと、音程が見事。歌詞も間違える懸念もない。人生を達観しておられた風貌で迷妄中の僕を諭す。これを作った白秋はまだ二十代後半だったが、僕とて同じ世代だから、白秋の偽らざる心と、目の前の、心から敬愛している校長の心とが、僕の胸の奥でしんしんと鳴るのである。
 その後、色々な機会にこの歌を聴くが、そのたびごとに、校長の声音を思い出す。自らの未熟さと迷妄に恥じ入り自分が情けなくて切なくて。文学を見つけ直して真正面から取り組んだのはこの頃からだった。
 後年の白秋もまた、おもえば三崎で己と対して作詩の後、小田原時代へと、進むことが出来たのではないか。若気の恋人と実家柳川の家運の傾きとの両方を背負って、三浦にもとほり訪れたのが人生の曲がり角か。三浦漁港の、その突端の海辺に立って沖を臨めば、城ケ島は折から驟雨にけぶる。暗雲垂れこめた驟雨は濃緑色にけぶる。
 人生、こんな八方ふさがりの気持ちは察するに余りある。
 私でなくともこの歌を聞いた者はだれしも、自分にもあった迷妄の日々を想起するはずだろう。今は大橋も出来て三崎や城ケ島の情景は白秋の時代ほどには人の心を曇らせないかもしれないが、この街に住み住人(まちびと)と触れ合えば、己が心もまた三崎にこそ息づくことを知るだろう。
 白秋はこの地に長くは逗留せず、むしろ小田原の地で数々の童謡をしたためたが、ながらえばまたこの頃やしのばれむで、初めての歌碑が三崎に建てられたのも、彼にはよかった。ここが第二のまほろばのはずだ。
2.白秋は入寂たへなむが
 
昭和十六年。折しも日本は太平洋戦争にさまよい出でる年。眼前に暗雲の垂れ籠めるさまを、歌人はその繊細な感覚でとらえ、無謀な奈落を肌で感じ押し留めようもなく瀬川に浮かぶ小笹舟の心境か。眼も不自由、身体も重い。老境の體でこの地に歩を運んだ。この若気の至りの地に。その心境や如何に。左の一首は彼のやるせなさを察して詠んだ私の作。
  このいのちおぼろ入寂たへなむひととせ
     超へて伏す身の耐へ難かりき 成秋
 
老い人と言へば茂吉もこんな恋歌を綴ってはゐるが、
 
  老びととなりてゆたけき君ゆゑに
     われは恋しよはるかなりとも
 
 白秋もまた歌詠みなれば、茂吉の心情に近いかも知れぬ。その心底に去来するは推測の域外であろうけれども、三崎は白秋にとって終生忘れがたい地であったことは否めない。
 だからこそ、こんにちも、三崎白秋会もあり三浦短歌会も脈々と生き続けているのであろう。
 僕は郷里堺にいて白秋の「帰去来の辞」に初めて接した中学時代を思い起こし、口ずさみながら白秋記念館へと急ぐ。
  山門やまとはわが産土うぶすな
  雲騰がる
  南風はえのまほら…
 
 この詩の最後のほうで、白秋は、
 
  帰らなむ、いざかささぎ
 
 と、白秋は異郷の地に立つ陶淵明の心境で遠く柳川の地に思いを馳せる。
 流離の地か。
 浪漫詩人の藤村も流離の日々を台町協会や小諸義塾で過ごし、そこをその時々の、心の住処としていた。白秋も三崎をこよなく愛し、閃光のように過ぎ去った日々を懐かしんだに違いない。
 吾人もまたここに腰を落ち着けて思いを過去に馳せよう。意を強く持つべきだ。そう考え、今や世界規模に発展拡大しつつある吾らの「オンライン万葉集」がこの三崎の街で開花する思いで先を急いだ。
 そんなわけで三崎白秋会とはご縁ができた。
 勉強会は潮騒の聞こえる城ケ島の「白秋記念館」で行われ、加藤会長様の温かい御心のあらわれで、自作の農園で採れた立派なメロンをお土産に頂戴することになった。
 「オンライン万葉集」について、日本の和の心を西洋に伝える大切さを語り、どの言の葉も朽ちて埋もれ木となる書籍の宿命を打ち破って、永久とこしえに読まれる可能性を語り続けた。人間の想念もまた肉體という有機体の死と共にこの世から掻き消えるが、オンラインに書きつけた言の葉は遺る。それも、いつ何時でも読めるゆえに活性化して生き続ける…。
 されど書籍も人工品。
 オンラインも人工品。
 中に想念が言の葉となってたゆたい
 人間ヒューマン不可解イニ有機体グマ
 がこの人工品に生命を吹き込む。
 未来永劫は誰の手に渉る
 創る者だけが守り人か?
 イニグマは無残な破壊者か?
 創るが故に
 破壊を歓ぶか?
 かくして壊れものとしての人間が破壊者ならぬ創造者として、ここに「オンライン万葉集」を造り上げ、白秋が縁で創設されたこの短歌会のお作を掲載する運びとなった。
3.心の命は永遠に
 白秋の取り持つ縁かいな、というわけで、温かい心の交流が三崎白秋会の研究部会と三浦短歌会とのご縁ができた。
 三宅尚道氏はこの度の講演の機会を設けられた世話人だが、「三浦短歌会」の維持についても長年にわたり努力しておられる。
 沿革を聞くと大事に継承される訳もよく分かった。今まで五回も「合同歌集」を出された会なのである。
 第一輯(昭和二三年)、第二輯(昭和二四年)、第三輯(昭和二七年)、第四輯(『群礁』、昭和五十年)、第五輯(平成二六年)。
 初期の方々はみな故人となられた。
 この会には規定があって、次のような約束事がある。
 「結社の如何を問わず、特定の指導者をおかず、あくまでもその作品を中心とし、批評と鑑賞を通じ、独善に陥ることなく、作歌の勉強と懇親を続けていく会である」としている。
 さっそく先人の歌を紹介しよう。解説は長崎三郎氏。
 
  外灯をめぐりて翔べる夜の蟲
     灯を消さばいずこにのがれん  飯島誠司
 作者、最晩年の歌。外燈を巡って、虫が飛んでいる様子を見ての感慨。灯を命と受けとめると、体の命がなくなると自分は何処へ行ってしまうのだろう。目に見える具体から、眼に見えない普遍的世界へと導く歌、と長崎氏は読み解く。飯島さんは代々三崎で医院を営む家柄とも聞いた。
 医師は常に死と向き合う職業であるから、街燈に蝟集する蛾の、無心に生き、無心に死ぬる命にも無関心ではいられないのであろう。
 文学を生きる糧として生涯を送っている私など、幼児の昔から、道端で転がるミミズや虫けらを、いとおしんだ。みな乾涸びて死んでいる。
 大人は「虫けらのように死ぬ」とか「犬死」とかいうが、そんな野卑な言い方を蟲や犬に与えるでないと、子供心に抵抗を感じた。自分もこのミミズ以上に弱い身体で近々このように乾涸びて死ぬるのだと、つくづく人生の儚さを幼時からかみしめたものである。
 その目でこの歌を再読すると、全身、だるさに襲われる。
 肉體が枯れ果てた後に吾が魂の行き場がどこか、やたらと気になったが、子供の頃は、わからんでいい、まだ先やと思い、成人すると、もうちょっと先や、もうちょっと先やで自分を誤魔化す。
 誘蛾灯に蝟集する蛾は自分の次の生まれ変わりだと真剣に思う。それも最近のことである。
 自分の命なんか、もう終わりや、次は蛾になって登場するのだろう。だからそんな運命を辿った奴らと自暴自棄になって、先を争って火に飛び込み、回生のライセンスを掴み取って、次の、もちっとましな生に駆け込む気なのだ。人間をいっぺんやってみると、その生命、なかなかによい。やっぱり人間で生まれ変わりたい、蛾は嫌だぜ、神様、と僕。蛾も、全蛾も人間になることを希っているのだろう。そうはいくものか、魚になってクジラに食われたり、ミミズになって魚の餌にされたり。いや待てよ…第一、人間って、そんなにましな生物なのか? それは疑問だ。人間なんて、虫けらの一体形かもしれん。この、根源的な疑問にも答えが出ない。いまも回答がなきまま、刻一刻と死に向かっているくせに、時間を浪費して短歌づくりなどに精を出している。…
 次の作。
 
  石油危機きびしき日々に獣糞を
     焚く草原の生活たつきを憶ふ   水谷みずたに壽子かずこ
 
 作者は戦時中、中国の満州にいた。満州から引き揚げてきて、戦後の生活が始まり、石油危機にみまわれた。石油による生活は便利であるが、便利さは不便さに繋がっており、前の満州生活を思い浮かべている。
 右のコメントは長崎氏のもの。
 満州と言えば思い出す、戦時中、満州では俳句や短歌が大流行り。今でいうオンライン万葉集に当たる全国ネットの詩歌集には満州からの応募がわんさとあった。それがあの引き揚げの悲劇の直前まで続いたのに、戦乱でずたずたになった。平和は有難い。有難いから我々は平和ボケではいけない。
  ふるさとに汀つながる海の声
     やさしく今日の目ざめを誘ふ 松本文男
 
 松本文男さんは東日本大震災で三浦に避難されてきました。若い時より短歌に取り組み歌歴の長い人でした。震災の歌が多くありますが、この歌は短歌会に出された最後の詠草です。大津波に遭われても最後に海を歌われ、慰められます。 長崎三郎
 
 ふるさとに汀つながると詠むと思い出す光景がある。今から二十年ほど以前にハワイ諸島の一つカウアイ島でのことだが、僕は日系移民史の調査でお寺に泊まり、戦後に日本に来たという二世を紹介された。彼は例の二世部隊の勇士だが、もう八十歳近くになられ、それでも青年のように精力的だ。僕の研究内容を聞いて、それでは一世のお墓に案内しましょうとジープを飛ばす。猛烈なスピードでサトウキビ畑の赤土の中、真っ赤な砂塵を上げて疾駆する様はさながら戦時中だが、そのカーラジオでガンガン鳴るのはなんと坂本冬美の「火の国の女」だった。やくざ調の、ドスの利いた歌がこの臨場感にぴったりだった。やがて前方の視界が広がる。と、ドドドドドド…逆巻く大海原だ。東映映画のタイトルバックだった!
 「何でこんな断崖絶壁に、大海原に向かって墓標が立っていると思いますか?」と、元二世兵士。「そ、それは…そうか、この怒涛逆巻く向こうに…」
 「そう、ジャパンがある。故郷があるから、死んだらみな、海伝いに田舎に帰りたいからですよ!」
あの時の海鳴りは忘れられない。
 大詩人でもなんでもない、明治初年にハワイに渡り、明治時代に早くもこの異郷で果てる、大正初めに死んだ人も、昭和の人も…次々墓標を読んで、二度、三度、四度、荒海を眺める。
 もはや墓参に訪れる人もなくなり、どの墓標も粛然としてそそり立つ。
 これが死なのだ。俺も近々こうなるのだ。
 東日本大震災で異郷の汀にいても、思うことは故郷のことばかり。
 白秋の言うように、汀づたいに帰りなむ、いざ鵲、である。
 三崎白秋会よ、三浦短歌会よ、永遠に。
 遺された歌は重い。実に重く、深い。       (第1回は以上)
 

西野先生ありがとう
Many Thanks, Mr. Nishino

=先生が遺された激烈な戦時体験記=
With Old Notes of his Young Days’ Struggle

日本浪漫学会会長 濱野成秋
By Seishu Hamano, Japan Romanticism Academia

はじめに

これは先年亡くなられた恩師が自ら体験された、師範学校の学生時代の、想像を絶する体験記録を紹介しておりますが、同時に日本という国はどれほど苦難の道のりを超えて今日の住み心地良い国に発展したか、それも解って頂きたくて書いたエッセイです。西野先生のお心は平和を愛する日本の教え子たちみんなの心でもあります。
This essay is written not only to introduce how much Mr. Nishino, teacher of Tomioka Middle School, had an astounding stressful everyday when he was at teachers’ college but also to show the process how much our country Japan struggled to achieve today’s affluent society. Mr. Nishino’s humane heart is a representative one we support now in this peace-loving nation.

1. 終戦直後のタケノコ生活と戦後の小学校

1945年8月15日、日本が敗戦をみとめて連合国軍側の軍門に下ったとき、我々はまだ5歳の子供でした。それまで都会は皆焼け野原で日本の大都市の焼土の有様はヨーロッパ人には想像もできないくらいで、住宅、学校、役所、病院、水道、下水などあらゆるものが壊滅状態で、食料、水、雨露をふせぐ板切れさえ見当たらないほどでした。配給制度も機能せず、人々は闇市に群がりその日その日の糧を得るので精いっぱいでした。

われわれ子供は食糧難でやせ細り、全員が栄養失調でユニセフの脱脂粉乳と米軍のピーナツ缶詰、あとは農家の芋や麦でどうにか飢えを凌ぐ姿でした。

私の家族も芋粥の日々でした。生来虚弱に生まれた私は幼児期からすぐ脚がだるくなる症状が伴って、小学低学年の頃がとくにひどく、だるい現象が始まると堪えきれず泣いてばかりでした。

堺市やその周辺は田んぼや畑もあってどうにか食料を調達できても、氷不足で魚は腐り無理して買って食べて腸チフスになって苦しんだ。インフレで紙幣は使えず、月給2000円のとき、卵1個30円もした。掛け軸や骨董品はもちろん、着物や調度品は次々と闇市の食糧買い出しに消えていくので普通でした。着物を一枚一枚手放すところから、自虐的に「タケノコ生活」と呼んでいました。学校では弁当を盗み食いする生徒が沢山いて、彼らは便所に持ち込んで腹を満たした後、弁当箱を暗い汚物の溜めに投げ捨てる。お百姓さんが糞尿を汲み取りにくると、あまりに多い弁当箱を掻き分けて汲み取る。これが現在、豊かさと公衆道徳では世界に誇れる日本の80年前の姿だったのです。それまで、食料に困らない女学生たちの家庭ではトーストの端が固いと嫌がる子はそれをちぎり取って捨てながら食べていたのに、戦争がもたらず貧困と食糧難で純真な子供たちの心まで堕落させられたわけですが、それは今でも語りたくない想い出です。

1. Peeling-off Life and Postwar Elementary School

August 15, 1945. When Japan accepted instrument of surrender of the Pacific War, we were only five years old. Until that day, because of US air raids, almost every night Japan’s big cities burned to aches, which was beyond any of Europeans’ imagination. Even after the war, all the buildings and houses, hospitals, city offices, schools fell down and no water and sewage system could give us any service and people strayed looking for food and water. Official food service system was also collapsed except for black markets. Infants and children were all very hungry and we were suffered from nutritious imbalance.
Both of my legs, often suffered from sluggish feeling since birth, could not endure everyday listless pain, and therefore what I did was only sobbing alone seated all day on the hard wooden chair of the classroom.
Even coal stoves were not available. Only UNICEF milk and US Army canned peanut and peasants’ potato rescued us from nutrition disorder death.
Inflation was terrible. An egg was 30 yen when monthly income was 2000 yen. Fresh fish were rotten without ice, but we bought it and it gave us stomachache causing typhoid fever. Kimono and antique were sold or traded with food, Takenoko seikatsu (タケノコ生活), a popular masochistic name means a lifestyle seen in those days selling any item away like peeling every flake off one by one just like bamboo shoot.
In the elementary schools everywhere lunch boxes were stolen so often. Hungry boys and girls stole friend’s lunch box and ate them in the toilet and hundreds empty boxes were thrown into the dirty manure, and the peasant coming to dispose found lots of aluminum lunch boxes. Though before the Pacific War, school girls peeled off the toast edge away, but even here in Japan where public morals are very, very neat and strict, in the wartime, poverty and scarcity made innocent boys and girls terribly subverted, which is not a good memory but we have to talk about to let you know the old days’ real story.

2. 開港前の日本は神秘の国だった

皮肉をこめた諺に、「愚者は経験から学び賢者は歴史から学ぶ」というのがありますが、戦後、日本人が学んだのは経験と歴史の両方からでした。

それより80年前、西洋人にとって、鎖国中の日本はまさに神秘の国でした。悪者の中には日本に侵略してその国土を植民地にしようとする企てもありましたが、実現した試しがありません。サムライのパワーが農民の協力を得てその侵略を押し留めたからです。宣教師や商人は日本人の生活ぶりを見て、貧しいけれどもきちんとしている。サムライは戦争もないのに重たい刀を二本差して歩き、平民は勤勉に働いて、休みも盆と正月だけ。

小学教育は全国行き届いていて識字率は90%で、これは驚異的です。彼らの作る刀は非常に鋭利でひとたび戦闘になると、このブレードにかかってズタズタにされる、と本国に書き送っています。
これは鎖国中であっても、それぞれの身分を弁えて勉学に励み刀一つを例にとっても驚異的な鋭さを秘めて侮りがたい存在であることを認めていることになる。

残念なことに、2世紀半にわたる鎖国のおかげで、事実上日本はヨーロッパ諸国やアメリカなど、産業革命を成し遂げた国々から徹底的に後れをとった後進国となっていた。

1868年、日本が鎖国政策を止めて開港したときに眼にしたのは世界中の国の3分の2がヨーロッパやアメリカの植民地になっていることでした。そこで明治政府はヨーロッパの国々より強い軍事力こそが国家の安泰につながると確信したわけです。

この決意はある意味では正しかった。なぜなら隣国すべてがヨーロッパ諸国の植民地政策に侵食されていたからですが、別の意味ではこの種の展望は大変危険で、なぜなら戦争を必然的に誘発するからです。

なぜこのような歴史を語るか。もしこの説明がなければ、大多数の読者は、国の内外を問わず、我らの愛すべき西野先生がなぜ戦時中にご苦労されたか、十分理解して頂けないと思います。

2. Japan was a Mysterious Nation

An ironical proverb says,“The fool learn from experience, the wise from history.” The Japanese, after the war, learned from both.
Eighty years ago while in the totally off-limit-time, Japan seemed to be a very mysterious country for the westerners. Some rascals schemed to invade this country for grabbing land as a colony, but such a wicked trial has never realized before, for samurai’s power together with many peasants’ support defended their land and property. Other visitors such as priests and traders found their life very poor but modest and neatly regulated. Samurai has two swards very heavy and unnecessary even in the peaceful days. Ordinary townspeople work everyday very diligent never taking off-duty days except mid-summer bon holidays and New Years.
Elementary school system or “terakoya” prevailed all over the nation, and the literacy percentage was more than 90. It was a miracle. Swords they produce are so sharp that once fighting bodies will be chopped down with this sharp blade. This shows the Japanese have advanced education, moral, manners and customs, and excellent technological sense, effective enough to fear invaders, but what would make our country strong? How should we make effort to catch up with Europeans?
It was, however, a matter for regret that during two and a half century national isolationism, Japan was actually left underdeveloped far behind the industrialized European countries and America.
It was in 1868 when Japan opened its ports to find two-thirds of all countries in the world had already colonized by the European powers and USA, and the Meiji Government was convinced that without military power stronger than those from Europe, we could not keep our nation safe and sound.
This decision was, in a sense, right, because all the near-by countries were already invaded by European colonialism, but, in other sense, such prospects were very dangerous, because military power necessarily induce wars.
You may wonder why I talk about such national history before talking on our beloved Nishino-sensei’s life. Without this explanation you will not understand well why he and his friends endured severe days during the war.

3.日本には鉱物資源ひとつない国土ですから

日本は4つの島と大小さまざまな小島から成る島国です。総てが火山島であって、イギリスのように平野や丘陵で農耕や牧畜に適した平地もほとんどなく、大部分が山岳地帯です。河川の流域にひろがる平野があっても少し多量の雨が降ると洪水が起こり山と谷を縫うようにして細い道があり、鉄道の敷設も容易ではありません。

石炭や石油の産出はほとんど期待できず、鉄鉱石ほか鉱物資源も国内から得られる量は微々たるもの。ですから天然資源も全部海外から調達する。つまり鉄鉱石から銑鉄を得て精錬し優秀な金属を製造するための原料の獲得は国内では不可能です。もし工業製品をみな外国から輸入するのでは、トレードできる国産品は絹織物しかなく、開港した1870年代から半世紀にわたり、主要輸出産品は絹織物が主で、それを売って獲得した利益で船や兵器や自動車を買い入れる時代が続きました。

20世紀になってアジアや南方方面に進出するヨーロッパ諸国の勢力は凄まじく、日本に迫る勢いでしたから、日本は已むかたなく軍事強国に変容するほか独立を維持して生き残る道はなかった。そこで技術を磨き、八幡製鉄所が九州に誕生、質の悪い石炭でも使えるものは掘って使って、日本の工業力の礎を成したのです。そんな悪条件でも経済基盤を強固にしようと、ほぼ半世紀、日本は努力努力の日々でした。その結果、日本は英米露独仏など植民地主義をくい止めることは出来たわけですけれども、1930年代ころから、彼らが日本の力を危険視するようになった。この現象は歴史研究の立場からもう一つの課題です。

3.No natural resource in Japan

Japan consists of four major islands with lots of small islands. Unlike England where there are so many plains and hills suitable to farming and cattle breeding, Japan’s land, islands by volcano, is mostly filled with high mountains. Flat farms near the river are often damaged with flood when heavy rainfall, and small roads thread up and down through mountains, and the railroad construction is very difficult. It is therefore almost impossible to get material of pig iron for smelting to produce excellent iron. If we import all the products from abroad, we have nothing but silk to trade, and during half a century since opening ports, we sold silk products to earn money to buy ships, weapons, and automobiles.
In the 20th century, European countries strengthen industrial power so much that Asian countries were obliged to obey their policy. No other nation except Japan could not afford to keep its independency. Our country learned skill of how to produce iron from ore, and with low quality coal in Kyushu area, Yawata Iron Company succeeded in making great amount of metal, which was the starting point of Japan’s industrialization. Japanese people made great effort for half a century until we could prohibit foreign invasion, but, regretful to say, in the 1930’s western super powers such as America, Britain, Dutch, Russia, French countries gradually came to think our national power dangerous. It was another point of reflection that we should look back as a historical subject.

西野先生ありがとう(中編)
Many Thanks, Mr. Nishino (Middle)

=先生が遺された激烈な戦時体験記=
With Old Notes of his Young Days’ Struggle

日本浪漫学会会長 濱野成秋
By Seishu Hamano, Japan Romanticism Academia

前回の説明

これは私たちの登美丘町立登美丘中学校(現堺市立)の恩師で今は亡き西野龍男先生が師範学校時代に体験された記録を元に、先生の浪漫あふれるお人柄と時代背景にどれほど影響されて育ったかを書いています。前回は、世界中の読者にご理解頂くために日本という東洋のサムライ国が260年の鎖国を解いて世界の国々へ門戸を開き近代的工業国として自立したが、70年後、図らずも太平洋戦争に突入するに至った経緯を述べました。日本がヨーロッパ強国の植民地にならぬようにと、先人が努力したけれども、戦争に結びついたことは残念の極みです。、今回はそんな歴史の激流の中で西野先生がいかに苦労されたか、それを前回に増して披歴します。英語の記述も添えますので、どうぞ世界中のみなさん、未来永劫、平和を続けるためにも、日本の前例を知って頂き、これから何がベストか、一緒に考えてまいりましょう。
This is the second part of the essay on our teacher Mr. Nishino’s personal history. Kindly read the former part and take the following description into your consideration. Mr. Nishino, Japanese language teacher of Tomioka Middle School, had an astounding stressful everyday life while in the WW2 when he was still a college boy. I believe it also necessary to depict the background history of our country since Meiji Restoration, opening all the ports to the world, but, after seventy years afterwards, though keeping independency as an industrially strong nation, very sorrowful and regretful to say, our old generation’s great effort to avoid westerners’ colonization, forcibly and reluctantly, lead the big war in the Pacific Ocean.
In this section, under such global condition, I will write about late Mr. Nishino’s young days suffering much more than before, and all the readers, please try to think what is the best step we should take for the world-wide eternal peace.

4. 師範学校と戦前の日本国

西野先生が入学されたカレッジは中等教育を専門とする学芸大学で、戦前の日本では学校の先生になるには、それなりの訓育のできる、立派な人学者であることが求められました。現在のように、単に子供が好きだとか、部活動の指導のために行く学校ではなく、人生いかに生きるべきか、その方向付けが青年時代からしっかりしているからこそ、後進の指導に自信が持てる、そんな人生哲学の達人たちの集まりが師範学校だった。そんなにしっかりした師範学校でも、日本国中を襲った愛国主義こそが祖国を救うという意識にはかないません。

日本人の気風は日清・日露の大戦に勝利して意気揚々たる国家主義に左右され、どの国にも頼らない独立独歩の姿勢が支配的でした。それが1930年代から満州事変、上海事変、日中戦争と、日本は戦争に次ぐ戦争へと向かったのです。参加した多くの将兵は農村出身で彼らは欧米列強の脅威から祖国を救うには命を捧げて当然と考えていました。

成り行きとして師範学校より士官学校をめざす若者も多くいました。しかもアメリカが太平洋艦隊の母港をサン・ディエゴからハワイに移したことにより、いよいよ日本を攻撃する日は間近しの感がありました。外相の松岡洋右や近衛文麿総理は中国戦線が膠着状態なのを身近に感じていたので、アメリカが参戦すれば日本は中国軍とアメリカ軍の挟み撃ちに遭うと考えたわけです。外交面では日本人の生真面目さが時に判断を誤らせました。現代のように、カードゲーム感覚で外交交渉を行い、それをもって切り抜ける便法を採らなかったのは、いかにも日本人らしいと言えます。

攻められる前に攻める。この兵法は日本ではサムライ時代からの常套手段。日本海軍はそれを採用して真珠湾停泊中のアメリカ艦隊に奇襲攻撃をかけた。これも戦国時代の常套手段ですが、米軍から見れば卑怯なだまし討ちになります。日本はアメリカが海軍の主力艦隊の大半を失って戦意を喪失し、民主国家であるから全面戦争に向かわず講和に向かうと予測していた。日本側は備蓄量では勝てないことを熟知していたので、短期決戦しかなかった。ところが、アメリカ側は国内がドイツ系とイギリス系で分裂直前だったのが、真珠湾急襲のおかげで国内世論の統一が果たせ、総力戦で備蓄量では10分の1以下の日本を叩きのめす作戦に出た。これは日本側にとって大きな誤算であった。結果的に日本は国防圏確保のため、オーストラリア近くまで陣形を拡大する戦法しかなく、たちまち補給作戦に窮して翌年には敗色が濃くなり3年後の1944年、国は兵役義務免除の若年層や学生にも兵役志願を強要し、中高生や大学生たちにも、学内で勉学するより兵役や兵器製造に向かえと通達を出すこととなった。師範学校も例外ではなく、その中に西野先生もいらしたのです。

4. Teachers’ College and Prewar Militarism

All the applicants to teachers’ college had some strong emotion to educate youth with absolute belief that they should keep fixed notion to bring up the young generation to be a respectable person. It was a philosophy of those young applicants, unlike today’s, who become a teacher only because of his or her preference, but even with so strong will power they could not keep their philosophy because of nation-wide military patriotism.

Both Shino-Japan war and Russo-Japan war brought us sense of victory and with such mood, Japan’s militarism insisting on its independency broke out successive wars in Manchuria, Shanghai, and China lasting for 15 years in the 1930s and 40’s. Those soldiers and officers sent various spots were mostly from rural area and they were convinced that they could spontaneously devote their lives only for the purpose of upholding Japan’s national polity.

Quite a few young men wanted to be a student of military high level school rather than teachers’ college. American government moved main port of Pacific Warship Troops from San Diego to Hawaii. Japanese politician like Premier Konoe and Yosuke Matsuoka, Minister of Foreign Affairs, knowing very well Chino-Japan war stalemate, must have been afraid of being caught between two fires. Japanese people in those days were too strict in character to treat it with smart political negotiations like card game rather than outbreak of the big war.

Attack fast before being attacked. This Japan’s traditional Samurai theory moved Japanese fleet to attack Pearl Harbor and damaged American fleet so much. And so many sailors were killed in the ships. After attacking Pearl Harbor Japanese government secretly expected the US government, under the democratic liberalism, expected to make negotiation to halt the war, but it was a great mistake. Because of this attack, American government successfully formed domestic opinion, and as the result, the war area was enlarged as far as Australia. Three years afterwards, in 1944, exhaustion of Japan’s stock-pile and human resources demanded college students and younger generation to join army. Domestically such a phenomenon accelerated students in teachers’ college to obey governmental demand viz. going to the weapon factory rather than studying at campus.

5. 西野先生の学徒動員の記録によると

手記によると、西野先生は以下の場所で働かせられた。
[動員場所]
名古屋市緑区鳴海町伝治小町 住友金属(株)鳴海工場
海軍省管理。零戦のエンジン部品製造
大阪第一師範学校 予科3年生70余名
[出発]
1944年9月11日(月) 午前8時10分天王寺発東京行き特別列車で出発。14時30分大高駅着。
[宿舎]
鳴海の住友南寮。10月5日から南区笠寺寮に転居。
[工場での仕事]
反射炉に1300度に溶けたジュラルミンを運ぶ。
鋳込み:戦闘のエンジン1個に12個のヘッド必要
1日50個、4機分の製品を造る。1300度のジュラルミンを20㎏を不安定な上部に持ち上げ、笏で掬って鋳型に流し込む作業。
体力が必要でこぼすと火傷。食事が足りないから空腹。手許がくるって火傷すること度々ある。

[解説]

戦争末期、連合軍の空爆は頻繁で主として軍需工場を狙い撃ちに焼夷弾を落とし機銃掃射した。生徒たちは軍人たちに見張られていたから、空腹で疲労の極致でも、身の危険も顧みず働くことを強制され、空襲中でも退避することを許されず重労働を続行せねばならなかった。戦地では同胞が決死の覚悟で戦闘中であり、友軍の戦闘機の到着を今や遅しと待っているのだぞ、と憲兵たちが叫ぶから、義務感から避難は出来なかった。

[西野先生の手記つづき]

当時は食糧難がひどかった。16歳から17歳の成長期に食糧の少なさと粗末さは今では考えられないほどで、全員が栄養失調でやせ細って顔だけが膨れていた。ご飯はお米がちょびっとだけで、海藻や豆が混ざっていた。おかずはイナゴだった。夜勤のとき、昼間、同僚と工場周辺の農家をまわって芋の買い出しをして歩いたところ、「護国」というサツマイモを分けて貰えたら大成功だった。ある日、親切なお婆さんが同情して「菱餅」を食べさせてくれた。涙が出て仕方がなかった。僕と同室の親友喜多勘助君とよく一緒に歩いたが、あのときの栄養状態が祟ったらしく、喜多君は戦争が終わって間もなく、ようやく就職もできたのに、亡くなられた。その知らせをうけてつたう涙をこらえられず、今でも思い出すと涙があふれる。

5.Mr. Nishino’s Record of Student Mobilization

According to the notes of Nishino’s, the records are as follows:
☆Place of mobilization:

Denji-komachi, Narumi-cho, Midori-kui, Nagoya-city
Sumitomo-kinzoku Narumi- factory.
Operated by the Ministry of Navy, making Zero-fighter’s engine parts. Approx. 70 students from Osaka-teachers’ college.
☆Departure:
September 9, 1944. At 8:10 Tennoji Station, special train bound for Tokyo, arriving at 14:30 at Otaka sta.
☆Lodging: Sumitomo South Wing Dorm. 
☆Works in the factory:
Carrying melted duralmin metal to the air furnace to cast 14 cylinder heads. 50 pieces a day. Mr. Nishino, well built and powerful, climbed up to the high position and poured heated metal into the mold with a dipper. Though strong, hungry having no food, he was frequently injured and went to hospital.

☆Comments

American air raids repeatedly attacked Japan’s big cities, especially weapon factories. Fire bombs and machine gun bullets from the air attacked civilians on the ground almost everyday. Labor oversee-ers were MPs and they would not allow young workers to rush out into the shelter.They shouted incessantly, ”Even now in the Southern Pacific battles, many of our comrades are waiting for zero fighter coming to support them!” Many of the working students, therefore, could not stop working at all. Their strong sense of guilty and obligation kept them stay in the factory, and young boys and girls were burned there.

From Mr. Nishino’s Note:

Food shortage in those days was terrible. We were in the late teens, and nobody in the affluent society can imagine how miserable we were. Food scarcity attacked us in the 16 or 17 years of age, and our body were all thin with malnutrition, only faces were swolen up. In the rice bowl rice was only a little, and much sea weed and beans. Locust is in the side dish, we had to look for something to eat in the daytime when night duty. We were very lucky if we got Gokoku, a sweet potato, named Nation Protectionl. One day, a kind old woman gave us hishimochi or a water caltrop ball we ate it with tears thanking her for her favor. Mr. kansuke Kita, my best friend, and I often walked for food.
One day after the war, I heard a news from his family that Kansuke passed away after he got good job. I cannot help shedding tears everytime I remember his death, even now.

6.終戦半年前、サイパンが陥落したころ

西野先生の手記によりますと、昭和19年12月13日、米軍の空襲が本格的にはじまった。B29が80機も来た。名古屋は陸海軍航空機生産の6割を占めていたから、これ以後56回も空襲に晒された。たまに日本軍機が上がってきてB29に体当たりする。両方ともバラバラになって堕ちていく。それを見て、さすが日本人だ、サムライ魂だと涙を流して拍手している者もいたが、たいていの人たちは手を合わせて泣いていた。

アメリカに帰れば、落ちていく子も家族と会えたはずよ。戦死だと知らされたら家族も泣くやろ、かわいそうに、敵も味方もあれへんがな、もう嫌や、戦争はいやや。西野先生はそんな思いがこみ上げて胸が詰まったという。ラジオのニュースでは日本軍の勝利ばかり報じられていたが、目の前の現実は真逆で、本土がこんなに空襲されているのに、外地で勝っているなんて、おかしいやないか。本間は負けてんのとちゃうか? とみんな思うたが、口にしたらひどい目にあわされる。事務所に呼び出されて体中アザだらけされて帰ってきた子がいた。

しかし考えてみると、サイパンが陥ちた日が7月6日。9月27日にはグアム島とテニアン島が陥落した。その激戦の様子や悲惨さはまったく知らされないが、これらの島々には日本軍の守備隊が大勢いたしサトウキビ畑で働く人たちも沢山住んでいた。みんな死にはったんやろか?

ひそひそ話してたら、憲兵に叱られたが、南方の島々が取られた後は毎日空襲だらけ。もともと日本の飛行場やったところから、飛んで来はんねんよ。あの島々を奪われたら本土は火の海にされると海軍さんが始まる前から『主婦の友』で言うてはったけど、その通りになったがな、と話が出る。日米戦こそが大きな過ちだったので。我々はその中での重労働だった。

[解説]

筆者(濱野)は戦後40年後の1985年に、サイパン、グアム、テニアンの島々の戦跡を踏査したことがあるが、海岸線にはいまだ赤さびたバケツ、蓄電池、戦車の残骸、座礁した輸送船ら散乱。だが観光地化した海岸線は激戦地域だったにもかかわらず綺麗に整備され、そのコントラストが際立っていた。

戦中から住んでいた古老がいう。上陸作戦の直前までサイパンには日本人町は繁盛していた。ガラパンやチャランカノアという日本人街が結構大きく、風呂屋もあれば雑貨屋、食堂、飲み屋、散髪屋、女郎屋もあった。アメリカ軍の突入は艦砲射撃の直後で、たちまち市街戦となり、守備隊勤務の17歳、18歳の少年兵が身を挺して逃げ遅れた老若男女を庇って機関銃を放つ。だが多勢に無勢。次々と敵弾に斃れる。と、ある年増女郎がその機関銃を拾い上げ、「ようも坊やたちをやってくれたわね!」と米兵に向けて撃ちまくり、相手から弾を浴びて血だらけで死んだという話も聞かされた。

学校の教科書には、サイパン陥落7月6日としか書かいてない。受験生は丸暗記で苦労するだけだが、どうかおぼえてやってください。サイパンにはチャランカやガラパンの街があり、平和で落ち着いた住み心地良い日本人町だったのに、消えてしまった、沢山の個人史と共に。松尾芭蕉が「夏草や兵どもの夢のあと」と詠んでいるが、芭蕉や歴史家がいなければ、戦争で人間の営みなど消え失せる。

親が子を両手に走る、老人もはぐれた幼児も、赤ちゃんおぶって、灼熱の炎天下を走る…飛び交う流れ弾、炸裂する艦砲射撃、上空からP51の機銃掃射…ここの窪みで折り重なって…

その、ココナツの木陰の窪みは、現在、サーファーたちの憩いのコーヒーパブになっていた…。

6.Half an Year Before War-end when Saipan…

On December 13, 1944, air raid by US air force began in earnest over the city of Nagoya area. 80 B-29 flew over here. Nagoya was the center of producing army airplane the percentage of which was more than 60, therefore US air force sent B29 here 56 times in all. Some Japanese air-fighters climbed up to attack them, and from high up in the sky, they turned as Kamikaze attack and bumping B-29 crushed it falling down together. Great applaud with big hands was heard yelling his brave deed, “This is real SAMURAI!.” But majority of those looking up in the sky, shedding tears, joined their hands in prayer, watching them falling down, thinking the families of those American boys, too, when receiving tragic news, their parents will also cry shedding tears just like the Japanese. No enemy, no war, we both have to hate wars.

Radio station gave us every day only victory news, but it was very strange to Mr. Nishino wondering, if so, why so many air raids again and again came to Nagoya every day and night. Someone said we’ve got fake news, and was called by the office, and returned with his face hardly beaten.

Mr. Nishino took note vis. Saipan fell on July 7th, Guam and Tinian September 27th, with no reports in detail. He could not imagine what happened there, but he knew there lived so many soldiers and dwellers, sugarcane plantation workers. But no Japanese people knew what happened there until after the war was over.

American bombers could use old Japanese take-off runway, and easily attack Nagoya people. Before war began, Japanese navy servicemen prospected so on the symposium in the women’s magazine Shufu-no-tomo or Friend of Housewife, their story became a real story. US-Japan war itself was a big mistake, under which Mr. Nishino’s painstaking dangerous labor continued everyday.

comment

40 years after the war, in 1985, I went to Saipan, Guam, and Tinian to inspect the battlefield. On some seashore there scattered still lots of rotten buckets, buttery, ruined tank wrecked transport ships, but in other seashore, despite of the big battle, surface was neatly arranged. The contrast was in striking difference.

An old man who lived there before the war said in the town, such as Garapan and Charankanoa, there used to live many Japanese. Public bathhouses, restaurants, bars, barber and even parlor. Just after the naval gunfire, US marine corps attacked them and very young Japanese soldiers fought defending Japanese ordinary people shooting machine guns and in the end they were all shot down. And then, the old man said, a middle-aged Japanese prostitute picked up the gun, shouting, “You killed lots of my baby boys!” and kept shooting. But showered with lots of bullets, she at last fell down in blood and died with boys.

Textbooks in the High School say that Saipan fell on July the 6th. Applicants only hoping to enter college have to remember the date, which is only a nuisance, but please keep in remembrance that there used to be two nice Japanese towns, Charanca and Garapan, very comfortable, and that there used to exist many individual life history, and please bear in your mind how stupid it is to make war and break such town killing all the dwellers there.

Basho, Japanese famous HAIKU poet composed, “Summer weeds, Now a dream site of SAMURAI battle” Without Basho, without historian, all the human life is gone.

Fathers and mothers pulling hands of their children ran and ran under the glaring sunshine on the heated road, bullets flew, gunfire bombs exploded, and from the sky P51 air fighter shot bullets and family were all in this hollow…The hollow, the place where twenty dads, mamas, grandpa, grandma, children and babies were lying, is now a coffee shop bar under the shade of coconut tree.

西野先生ありがとう(完結編)
Many Thanks, Mr. Nishino (Concl.)

=先生が遺された激烈な戦時体験記=
With Old Notes of his Young Days’ Struggle

日本浪漫学会会長 濱野成秋
By Seishu Hamano, Japan Romanticism Academia

完結編を書くに当たり

登美丘中学在籍中、私たちに国語や歴史をご教授くださった西野龍男先生が他界されてから久しい。郷里を仰げば未だ先生の元気なお顔が目に浮かぶ。早いもので、教え子たちも先生の御年に追いつく年齢にならんとしている。ご焼香に上がった時、奥様から頂戴した先生のご遺稿のコピーを元に、前編、中編と書いて、今完結編を書く段階となった。まるで登美丘劇場で観た笛吹き童子のような連載になったが、それほどに戦中戦後、中学の教室での一日一日も含めて劇的に展開した戦後史の哀歓は多彩である。昭和20年代から30年代の中学時代は戦後でも依然として戦中の空気が濃厚に漂っていた感がある。

達意の肉筆で淡々と綴られた西野先生の遺稿は戦中の苛烈な日々を蘇らせる。今更ながら何度涙したことか。戦後の、生半可は自分自身の生きざまに照射して、僕らの少年期がもし、西野先生のお立場と同じであったなら、果たして先生のように確たる視点をもって書き続けることが出来たか。そんな思いに駆られてならない。

登美丘中学は大阪平野の南部に位置する。南海高野線「北野田駅」で下車、真ん中を通るバス道路を大美野方向へ。堺市の東区に現存する公立中学である。今でこそ設備の整った中規模の中学であり、立派なブラスバンドも活躍する豪華な中学だけれども、当時は戦後まもなく誕生した木造長屋型モルタル仕上げの平屋校舎であり、それでも我々は「白亜の殿堂」と読んで、床に塗り込んだコールタールの強烈な臭気も厭わず、戦時中なら禁忌された男女同席で平等いや女性尊重の気風を当然として、与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」を先生と暗唱した、そのもっとも初期の新制中学であった。生卵が最高の栄養で貴重品だった点では戦前と変わりない。

授業はしかし先生方の大半が軍隊経験者か軍事教練を受けた方々ばかりであったから厳格そのもので、直立不動の姿勢で軍隊式に整列し番号を大声で掛け合うなど当然と思って励行したものだった。 
西野先生は格別厳しかった。反抗期の僕らは当然、街に出れば見かける行き過ぎた民主主義の乱れた物質主義に毒されていたから、いや筆者だけかもしれないが、戦犯のパージやそれに続いたレッドパージの雰囲気に毒されてか、よけい憎まれ口に向かい、西野先生には藤村や晶子に関する当惑させるような質問を投げ掛けた覚えがある。

それが青春の蹉跌だったか。彼の記憶に私の存在がつよく刻まれていたことは後年の余談で判ったけれども、申し訳ない態度だったと悔やんでいる。

だが成人し、自分も40代、50代、60歳代になった頃には西野先生はみごとに清明な気持ちで筆者を眼中に入れてくださった。筆者は新作を発刊するたびに一部を送り、ご講評を賜り、帰郷すれば登美中時代の仲間と集い会って先生方とまみゆれば昔の言動を詫びる有様であったが、西野先生は車で迎えに来て下さったこともある。叔母上の立派な茶道具が今は郷土美術館に収納されたと聞き、拝見に向かったのである。その日一日、武者小路実篤流にいうと、好日を得たわけだが、西野先生の胸に絶えず去来していたのは、私が中学時代に教室にいた顔色のすぐれない痩せた少年のことだった。両親を亡くして欠食状態のその子を先生はつきっきりで心配されており、私ごとき生意気盛りの文学少年との問答なんぞは、さしたる厄介ごとでもなかったのである。

晩年の先生は同窓会にも毎回欠かさず出席され幹事の苦労を誉め談笑し、再会を誓ってお別れしたが、頑健そうに見えた先生も遂に帰らぬ人となられた。

我々はご冥福を祈るために富田林のご自宅まで上がったが、そこで奥様から、若き頃の先生の壮絶な日々をお聞きし、これは世界中に知らせねばならぬと考えた結果、この日英両方の言語で書いた記録集になったわけである。

現在に戻れば、世界中がコロナウイルスの恐怖に見舞われているが、戦後間もない頃を知る者にとっては、この種の疫病はあって当然の現象であった。南方帰りの軍人さんはマラリヤに罹患したままで帰国し、屡々発作を引き起こしているし、不衛生な、冷凍処理なしの魚や防疫処理なしのバナナを食って、腸チフスやパラチフスになり、結核で青年がバタバタ死ぬといった現象が巷に溢れていた。銭湯に行けば湯舟で放尿する淋病患者もいてその細菌で失明した子もいた。

このような状況下で日本について語るとなれば、日本という東洋の孤立した島国は260年の鎖国を解いて世界の国々へ門戸を開いて無我夢中で近代的工業国として自立できるまで頑張ったけれども、必ずしも順調な道のりを辿ったわけではない。西欧型コロニアリズムの転換期が第二次世界大戦であったと考えても、惨禍は相変わらず否応なく受け続けている。

While writing this essay, as a writer, I have gradually got to know
that Mr. Nishino’s wartime extraordinal hardships are all factors of the past, meaningful struggles of our nation. As was described in the old days’ Manyoshu, Japan was and is to be regarded as a nation of good fortune, but the reality is not so easily overwhelmed.

Tomioka Junior High School was established after WW2, when people were all suffered from poverty. In the wooden-built, one-story white school houses we were instructed by ex-soldiers or young, military-experienced stern male teachers, and epidemics were prevailed everywhere in our area, too.

Mr. Nishino was a teacher of Japanese language and literature, and very stern, therefore, I remember, I often took very rebellious attitude and asked some, captious questions on a poet and poetess like Toson Shimazaki and Akiko Yosano.

In our age, say, in our 40s, 50s, 60s our nerves turned friendly and mild, and each time I published new novel and essay book, I sent it to him. Mr. Nishino gave me nice comments and when I went back to my hometown, he came to pick me up in his car and took me to the museum of tea-ceremony utensils. But while driving, he was looking back to the past old days, whose subject was on my classmate. He was an orphan, helpless lonesome boy. Miserable but we did not know how to give benevolent words, when we had so many patients of ropical fever and epidemic disease. We could not afford to either give good care nor treat him or her. It was what we called post-war Japan. Mr. Nishino, having much experience of such disaster, while he was at college, could make it natural to decide helping them.

To him our relationship was one of the nice talks, neither complicated nor troublesome but comparatively easy topic to worry about.

Mr. Nishino attended our class reunion and gave nice, nostalgic talks but though strongly-built he at last passed away recently. Tother with my old bunch mentioned in the last page, I paid a visit to his home for praying, when his wife talked his young days experience during the last war. It was so impressive.

Nowadays however we are in the midst of Coronavirus pandemic. This overwhelming natural disaster has brought us lots of lessons but, as you are already aware, postwar Japan’s government has always been in the lack of leadership policy and, this time, too, I was afraid of the government would be at a loss having no idea of how to solve such bio-terror type epidemic. Medical malpractice should be avoided but the government itself is ignorant on this sense and as the result they have come to be convinced that the only way to get rid of or along with this virus is not to cure patients but to let the nation keep social distance wearing masks and/or shields. Their accountability seems to be meaningless. Historically, such a phenomenon should be considered a waystation generally seen in the lost government.

Let us look back again to the Meiji restoration period, when old Samurai Japan has inaugurated to be a nation of industrialism. 70 years after her opening ports to west European nations and America, Japan always tried to pay the best attention to protect our land and its independency, but the result was miserable. Ruins, ruins, ruins, everywhere. But, ironical to say, it brought us ethnic independency avoiding European colonization. Taking this history into consideration, I could point out that Mr. Nishino’s painstaking personal days symbolically followed the same track as our country did.

7. 西野先生の手記から

「東海大地震」
 昭和19年12月7日、東海大地震勃発。M7.9。震度6.死者998人。家屋倒壊26,000戸。工場の煙突折れる。
「米軍の空襲」
 昭和19年12月13日、米軍の本格的な本土空襲がはじまる。B29爆撃機80機が名古屋へ。陸海軍の航空機の生産量が全国の6割を占める名古屋は、これ以降しばしば空襲を受ける。とくに昭和20年3月から5月には昼夜を問わず空襲が激化した。この間、愛知時計や名古屋城も爆撃を受けた。目の前で日本機がB29に体当たりした光景や寮のまわりの民家が直撃を受けるのを目撃したり、逃げ回って田の溝に飛び込んで難を逃れたことや、B29が高射砲にやられて落ちた現場を見に行った友からの話を聞いたりした。

昭和20年5月17日未明、B29468機来週。笠寺寮全焼。全員の荷物焼失。その前夜は工場勤務であったため、高台の工場から燃え盛る眼下の様子を見ていたが、朝、寮に帰ると、総てが灰になっていた。その日、一人一升の米を貰い、ドンゴロスのような服を着て、着の身着のまま乗り継いで大阪に帰った。途中、空襲に遭い、舞鶴公園での空襲を目撃して、その悲惨な光景は筆舌に尽くしがたい。着のみ着のままで家に辿り着いたときには、父親からお前は誰だと言われるほど痩せて垢だらけで、変わり果てていた。ところが家に着くや学校に呼び出されて、8月15日の終戦の日まで、大阪第一師範の教室で寝泊まりし、運動場の開墾や芋づくりに従事した。

Big Earthquake
December 7, 1944. Tokai Big Earthquake. M7.9. Died 998. Fell-down houses 26,000. Factory chimney broken down. Tokai and Nagoya area, with 60% weapon industry was so frequently attacked by such air bombardments.

Air raids in Nagoya area
December 13, 1944. American air force began big air raid, sending 80 bomber B29 troops. They attacked Nagoya city area so frequently, day and night, so violent, Aichi Clock Industry and Nagoya Castle were crushed and burnt to ashes. In Nagoya prefecture there used to be more than 60% military crafts industry of Japan, and some B29 was crushed by Kamikaze attack and fell down together. This was very piteous tragedy, not a matter to be boasted about.

On May 17th of 1945, dawn, 468 B29 bombers came and our Kasadera dormitory was burnt to ashes and our belongings were all burnt, which we watched from the factory. This was the last day. We were given some rice and cloths and came back to Osaka. On the way back, air raid attacked us repeatedly and I saw at Maizuru Park lots of the dead and the wounded. The spectacle was so miserable that I didn’t know how to depict them at all. When I at last arrived at my home, my parents, watching me in shabby rug, asked who I was. So thin, so dirty, nobody could identify me. After coming back home, my classmates were ordered again to work at factory, and I was ordered to come back to the Osaka Daiichi Teachers’ College, and lodging in the classroom we were engaged to cultivate playground to grow sweet potato until August 15, 1945, the very day when US-Japan War was over.

8.戦後の虚脱感

終戦後の虚脱状態は国民の誰しもが味わったことだが、西野先生はこう書いておられる。

「終戦と共にやっと勉強できる文字通り学生に帰ったわけであるが、世の中が混乱を極めており、生活が安定していないこの頃は食べていくのがやっとという状況。教師も生徒も同じ境遇であった。その上、終戦後兄二人が中国(北支・南支)から復員してきて家族が増えたため、食糧難はさらに厳しく山を切り拓いて畑にしたり、米づくりに必死に勢出したものである。この状態は昭和23年3月の卒業時までずっと続いたのであり、私の青春時代、特に勉学すべき大切な時期に勉強できず、多感な十代後半から20代にかけて、戦争のために青春を奪われ夢も希望も失いがちな暗い時代であった」と。

さらに、「兄たち二人には、自分だけが学校に行かせてもらっているという引け目というか負い目があり、家での労働、とくに農作業や山の仕事に容赦なく駆り出されて、辛い思いもあった」と記される。家にいても、学徒動員で駆り出されても、青春の歓びなど得られようもなかったわけです。

私たちはこのような境遇にありながらも、いや、このような、八方ふさがりの状況に置かれた西野先生だからこそ、決して希望を諦めはしなかった。この向上心は自助の精神から生まれたものであり、我々生徒は教室にいて、爆撃の不安もなく、学べたのです。ともすれば安逸に逃れる吾らを戒めて鍛えて頂けたお陰で、私たちの今日があると思えば、西野先生にはいくら感謝しても感謝しきれない思いでおります。

9.Dispondency after the War

Everybody after the war was filled with despondency. Mr. Nishino wrote as follows.

It was not until the war was over when we regained the proper position of studying freely as a student, but the society of our country was too chaotic to do so and those under terrible condition could do nothing but only eat and drink to keep our body alive. Further more after the war two older brother returned back to Japan from China. One is from the Northern China, another from the Southern. This caused food shortage, and we developed deep in the hillside area to get paddy field. Such bad condition lasted till the graduation year, viz. March, 1948. My young days, the most important period for studying were totally lost. War was apt to deprive us of our dream and hope.

Mr.Nishino in addition, mentioned that thanks to both elder brothers hard work, I could go to college, and this sense of obligation was so severe that I had to feel very severe hardships. He had no chance to find any hope of his own aspiration.

Even under such severe hardships, Mr. Nishino never gave up aspiration. Aspiration, in his case, was a self-help independency, never giving up hope to the future, and his emotion actually opened big flower not only in his heart but in our heart. We are apt to be inclined into indolence, but I would like to keep in touch with him deeply enough to encourage myself in our heart.

西野先生、有難うございます。

上記の一文を捧げることのできたこと、何より嬉しく存じます。

奥様には資料提供ほか色々とご高配を賜り、この場を借りて心より御礼申し上げます。先日のご焼香にお伺いしたおりに奥様からお聞きした思い出話が機縁になってこの原稿が生まれました。どうか西野先生に捧げてください。奥様にはこれからもご健勝で過ごされますよう、一同祈っております。

昭和31年3月 堺市立登美丘中学校卒業
   内山孝治
   大浦実夫
   芝埼幹男
   西田毅
   濱野成生(筆名:濱野成秋)

郷里の畑はいまや何処に。父母の墓地より見ゆる丈六の家並を眺めて
  戦負け父母哭き稚児の稲田里
    いま不知火の我勝ちに住み

           オンライン万葉集   濱野成秋

北原白秋のゆかしき城ケ島より秀歌一首を頂きて。
  三崎城の跡地と言はるる学校の
    閉校を聞く真夏日の中

           白秋三崎短歌会   三宅尚道

何処の学び舎も会う瀬は格別楽しければ
  朝の空見上げて嬉しや五月晴れ
    三年B組同窓会なり

           万葉を読む会 三浦短歌会   八潮多可

はかなき人をしみじみ思ひて
  病みながら三崎に行くと話されし
    言葉が最後となりたる悲し

           三浦短歌会 歌集「沖空」、「パンの生地」   大賀正美

この三崎に嫁に来て船宿の女将となりて早や八十路
  嫁ぎしは米二升とぐ大家族
    かまど火絶えて一人御飯めし

           三浦短歌会   加藤由良子

人はみなさすらいのうちに果てる。ここぞ永遠に住まへる場所と思へども、いつかはこの世と別れて旅立たねばならぬ。

日本人の「わび」や「さび」の心はきっと世界中の人々に解って頂けるはず。

三浦半島をこよなく愛した三浦按針は旅を住処としたがゆえに、この地に長く心の根を下ろしたのであろう。

松江に根を下ろした小泉八雲の心情も同じ。
白秋も三浦や小田原に住んで想うは郷里柳川のこと。

私は大阪は河内の郡。野田村丈六。いずれは自分も。心もまた同じにして虚空を舞うか。三崎の方々、佳き短歌をありがとう。