三崎白秋会
白秋「城ケ島の雨」によせて
       令和二年八月二日   濱野成秋
 
1.城ケ島の雨と三崎白秋会
 
 歌は友をつくる。歌心は受け継がれて花開く。
 まさにこの思いで筆者は三崎白秋会の方々とあいまみゆることとなった。白秋の歌碑を守り心を受け継いで研究部会まで作り、そこに招かれたのである。
 白秋が道ならぬ恋の果て、この三崎に来て鬱々たる思いで作った「城ケ島の雨」の詩が僕の寄る辺なき人生を思い起こさせたのも、行く気になった理由かもしれない。この詩が僕の心に最初にずしんと響いたのは、まだ二十歳代だった。生涯かけてやるべきは何か。一生に一回の人生を何に捧げるべきか。一向に見定まらない迷妄の日々だった僕は迷い心を奥底に秘め、さる高校に非常勤で勤めていた。そこの校長が宴席でこの暗い調子の歌を華やかであるべき宴席で歌ったのだ。周りはしいんと静まる。彼は甲府の出で、古武士の風格。日頃お会いする折に語られる説諭は胸に沁みるがごときで、一々納得できたから、僕にはこの歌の一節、一節が心に沁みて居たたまれない思いさえした。
 古武士のように胸を張り御老体が歌いだすと、音程が見事。歌詞も間違える懸念もない。人生を達観しておられた風貌で迷妄中の僕を諭す。これを作った白秋はまだ二十代後半だったが、僕とて同じ世代だから、白秋の偽らざる心と、目の前の、心から敬愛している校長の心とが、僕の胸の奥でしんしんと鳴るのである。
 その後、色々な機会にこの歌を聴くが、そのたびごとに、校長の声音を思い出す。自らの未熟さと迷妄に恥じ入り自分が情けなくて切なくて。文学を見つけ直して真正面から取り組んだのはこの頃からだった。
 後年の白秋もまた、おもえば三崎で己と対して作詩の後、小田原時代へと、進むことが出来たのではないか。若気の恋人と実家柳川の家運の傾きとの両方を背負って、三浦にもとほり訪れたのが人生の曲がり角か。三浦漁港の、その突端の海辺に立って沖を臨めば、城ケ島は折から驟雨にけぶる。暗雲垂れこめた驟雨は濃緑色にけぶる。
 人生、こんな八方ふさがりの気持ちは察するに余りある。
 私でなくともこの歌を聞いた者はだれしも、自分にもあった迷妄の日々を想起するはずだろう。今は大橋も出来て三崎や城ケ島の情景は白秋の時代ほどには人の心を曇らせないかもしれないが、この街に住み住人(まちびと)と触れ合えば、己が心もまた三崎にこそ息づくことを知るだろう。
 白秋はこの地に長くは逗留せず、むしろ小田原の地で数々の童謡をしたためたが、ながらえばまたこの頃やしのばれむで、初めての歌碑が三崎に建てられたのも、彼にはよかった。ここが第二のまほろばのはずだ。
2.白秋は入寂たへなむが
 
昭和十六年。折しも日本は太平洋戦争にさまよい出でる年。眼前に暗雲の垂れ籠めるさまを、歌人はその繊細な感覚でとらえ、無謀な奈落を肌で感じ押し留めようもなく瀬川に浮かぶ小笹舟の心境か。眼も不自由、身体も重い。老境の體でこの地に歩を運んだ。この若気の至りの地に。その心境や如何に。左の一首は彼のやるせなさを察して詠んだ私の作。
  このいのちおぼろ入寂たへなむひととせ
     超へて伏す身の耐へ難かりき 成秋
 
老い人と言へば茂吉もこんな恋歌を綴ってはゐるが、
 
  老びととなりてゆたけき君ゆゑに
     われは恋しよはるかなりとも
 
 白秋もまた歌詠みなれば、茂吉の心情に近いかも知れぬ。その心底に去来するは推測の域外であろうけれども、三崎は白秋にとって終生忘れがたい地であったことは否めない。
 だからこそ、こんにちも、三崎白秋会もあり三浦短歌会も脈々と生き続けているのであろう。
 僕は郷里堺にいて白秋の「帰去来の辞」に初めて接した中学時代を思い起こし、口ずさみながら白秋記念館へと急ぐ。
  山門やまとはわが産土うぶすな
  雲騰がる
  南風はえのまほら…
 
 この詩の最後のほうで、白秋は、
 
  帰らなむ、いざかささぎ
 
 と、白秋は異郷の地に立つ陶淵明の心境で遠く柳川の地に思いを馳せる。
 流離の地か。
 浪漫詩人の藤村も流離の日々を台町協会や小諸義塾で過ごし、そこをその時々の、心の住処としていた。白秋も三崎をこよなく愛し、閃光のように過ぎ去った日々を懐かしんだに違いない。
 吾人もまたここに腰を落ち着けて思いを過去に馳せよう。意を強く持つべきだ。そう考え、今や世界規模に発展拡大しつつある吾らの「オンライン万葉集」がこの三崎の街で開花する思いで先を急いだ。
 そんなわけで三崎白秋会とはご縁ができた。
 勉強会は潮騒の聞こえる城ケ島の「白秋記念館」で行われ、加藤会長様の温かい御心のあらわれで、自作の農園で採れた立派なメロンをお土産に頂戴することになった。
 「オンライン万葉集」について、日本の和の心を西洋に伝える大切さを語り、どの言の葉も朽ちて埋もれ木となる書籍の宿命を打ち破って、永久とこしえに読まれる可能性を語り続けた。人間の想念もまた肉體という有機体の死と共にこの世から掻き消えるが、オンラインに書きつけた言の葉は遺る。それも、いつ何時でも読めるゆえに活性化して生き続ける…。
 されど書籍も人工品。
 オンラインも人工品。
 中に想念が言の葉となってたゆたい
 人間ヒューマン不可解イニ有機体グマ
 がこの人工品に生命を吹き込む。
 未来永劫は誰の手に渉る
 創る者だけが守り人か?
 イニグマは無残な破壊者か?
 創るが故に
 破壊を歓ぶか?
 かくして壊れものとしての人間が破壊者ならぬ創造者として、ここに「オンライン万葉集」を造り上げ、白秋が縁で創設されたこの短歌会のお作を掲載する運びとなった。
3.心の命は永遠に
 白秋の取り持つ縁かいな、というわけで、温かい心の交流が三崎白秋会の研究部会と三浦短歌会とのご縁ができた。
 三宅尚道氏はこの度の講演の機会を設けられた世話人だが、「三浦短歌会」の維持についても長年にわたり努力しておられる。
 沿革を聞くと大事に継承される訳もよく分かった。今まで五回も「合同歌集」を出された会なのである。
 第一輯(昭和二三年)、第二輯(昭和二四年)、第三輯(昭和二七年)、第四輯(『群礁』、昭和五十年)、第五輯(平成二六年)。
 初期の方々はみな故人となられた。
 この会には規定があって、次のような約束事がある。
 「結社の如何を問わず、特定の指導者をおかず、あくまでもその作品を中心とし、批評と鑑賞を通じ、独善に陥ることなく、作歌の勉強と懇親を続けていく会である」としている。
 さっそく先人の歌を紹介しよう。解説は長崎三郎氏。
 
  外灯をめぐりて翔べる夜の蟲
     灯を消さばいずこにのがれん  飯島誠司
 作者、最晩年の歌。外燈を巡って、虫が飛んでいる様子を見ての感慨。灯を命と受けとめると、体の命がなくなると自分は何処へ行ってしまうのだろう。目に見える具体から、眼に見えない普遍的世界へと導く歌、と長崎氏は読み解く。飯島さんは代々三崎で医院を営む家柄とも聞いた。
 医師は常に死と向き合う職業であるから、街燈に蝟集する蛾の、無心に生き、無心に死ぬる命にも無関心ではいられないのであろう。
 文学を生きる糧として生涯を送っている私など、幼児の昔から、道端で転がるミミズや虫けらを、いとおしんだ。みな乾涸びて死んでいる。
 大人は「虫けらのように死ぬ」とか「犬死」とかいうが、そんな野卑な言い方を蟲や犬に与えるでないと、子供心に抵抗を感じた。自分もこのミミズ以上に弱い身体で近々このように乾涸びて死ぬるのだと、つくづく人生の儚さを幼時からかみしめたものである。
 その目でこの歌を再読すると、全身、だるさに襲われる。
 肉體が枯れ果てた後に吾が魂の行き場がどこか、やたらと気になったが、子供の頃は、わからんでいい、まだ先やと思い、成人すると、もうちょっと先や、もうちょっと先やで自分を誤魔化す。
 誘蛾灯に蝟集する蛾は自分の次の生まれ変わりだと真剣に思う。それも最近のことである。
 自分の命なんか、もう終わりや、次は蛾になって登場するのだろう。だからそんな運命を辿った奴らと自暴自棄になって、先を争って火に飛び込み、回生のライセンスを掴み取って、次の、もちっとましな生に駆け込む気なのだ。人間をいっぺんやってみると、その生命、なかなかによい。やっぱり人間で生まれ変わりたい、蛾は嫌だぜ、神様、と僕。蛾も、全蛾も人間になることを希っているのだろう。そうはいくものか、魚になってクジラに食われたり、ミミズになって魚の餌にされたり。いや待てよ…第一、人間って、そんなにましな生物なのか? それは疑問だ。人間なんて、虫けらの一体形かもしれん。この、根源的な疑問にも答えが出ない。いまも回答がなきまま、刻一刻と死に向かっているくせに、時間を浪費して短歌づくりなどに精を出している。…
 次の作。
 
  石油危機きびしき日々に獣糞を
     焚く草原の生活たつきを憶ふ   水谷みずたに壽子かずこ
 
 作者は戦時中、中国の満州にいた。満州から引き揚げてきて、戦後の生活が始まり、石油危機にみまわれた。石油による生活は便利であるが、便利さは不便さに繋がっており、前の満州生活を思い浮かべている。
 右のコメントは長崎氏のもの。
 満州と言えば思い出す、戦時中、満州では俳句や短歌が大流行り。今でいうオンライン万葉集に当たる全国ネットの詩歌集には満州からの応募がわんさとあった。それがあの引き揚げの悲劇の直前まで続いたのに、戦乱でずたずたになった。平和は有難い。有難いから我々は平和ボケではいけない。
  ふるさとに汀つながる海の声
     やさしく今日の目ざめを誘ふ 松本文男
 
 松本文男さんは東日本大震災で三浦に避難されてきました。若い時より短歌に取り組み歌歴の長い人でした。震災の歌が多くありますが、この歌は短歌会に出された最後の詠草です。大津波に遭われても最後に海を歌われ、慰められます。 長崎三郎
 
 ふるさとに汀つながると詠むと思い出す光景がある。今から二十年ほど以前にハワイ諸島の一つカウアイ島でのことだが、僕は日系移民史の調査でお寺に泊まり、戦後に日本に来たという二世を紹介された。彼は例の二世部隊の勇士だが、もう八十歳近くになられ、それでも青年のように精力的だ。僕の研究内容を聞いて、それでは一世のお墓に案内しましょうとジープを飛ばす。猛烈なスピードでサトウキビ畑の赤土の中、真っ赤な砂塵を上げて疾駆する様はさながら戦時中だが、そのカーラジオでガンガン鳴るのはなんと坂本冬美の「火の国の女」だった。やくざ調の、ドスの利いた歌がこの臨場感にぴったりだった。やがて前方の視界が広がる。と、ドドドドドド…逆巻く大海原だ。東映映画のタイトルバックだった!
 「何でこんな断崖絶壁に、大海原に向かって墓標が立っていると思いますか?」と、元二世兵士。「そ、それは…そうか、この怒涛逆巻く向こうに…」
 「そう、ジャパンがある。故郷があるから、死んだらみな、海伝いに田舎に帰りたいからですよ!」
あの時の海鳴りは忘れられない。
 大詩人でもなんでもない、明治初年にハワイに渡り、明治時代に早くもこの異郷で果てる、大正初めに死んだ人も、昭和の人も…次々墓標を読んで、二度、三度、四度、荒海を眺める。
 もはや墓参に訪れる人もなくなり、どの墓標も粛然としてそそり立つ。
 これが死なのだ。俺も近々こうなるのだ。
 東日本大震災で異郷の汀にいても、思うことは故郷のことばかり。
 白秋の言うように、汀づたいに帰りなむ、いざ鵲、である。
 三崎白秋会よ、三浦短歌会よ、永遠に。
 遺された歌は重い。実に重く、深い。       (第1回は以上)
 

西野先生ありがとう
Many Thanks, Mr. Nishino

=先生が遺された激烈な戦時体験記=
With Old Notes of his Young Days’ Struggle

日本浪漫学会会長 濱野成秋
By Seishu Hamano, Japan Romanticism Academia

はじめに

これは先年亡くなられた恩師が自ら体験された、師範学校の学生時代の、想像を絶する体験記録を紹介しておりますが、同時に日本という国はどれほど苦難の道のりを超えて今日の住み心地良い国に発展したか、それも解って頂きたくて書いたエッセイです。西野先生のお心は平和を愛する日本の教え子たちみんなの心でもあります。
This essay is written not only to introduce how much Mr. Nishino, teacher of Tomioka Middle School, had an astounding stressful everyday when he was at teachers’ college but also to show the process how much our country Japan struggled to achieve today’s affluent society. Mr. Nishino’s humane heart is a representative one we support now in this peace-loving nation.

1. 終戦直後のタケノコ生活と戦後の小学校

1945年8月15日、日本が敗戦をみとめて連合国軍側の軍門に下ったとき、我々はまだ5歳の子供でした。それまで都会は皆焼け野原で日本の大都市の焼土の有様はヨーロッパ人には想像もできないくらいで、住宅、学校、役所、病院、水道、下水などあらゆるものが壊滅状態で、食料、水、雨露をふせぐ板切れさえ見当たらないほどでした。配給制度も機能せず、人々は闇市に群がりその日その日の糧を得るので精いっぱいでした。

われわれ子供は食糧難でやせ細り、全員が栄養失調でユニセフの脱脂粉乳と米軍のピーナツ缶詰、あとは農家の芋や麦でどうにか飢えを凌ぐ姿でした。

私の家族も芋粥の日々でした。生来虚弱に生まれた私は幼児期からすぐ脚がだるくなる症状が伴って、小学低学年の頃がとくにひどく、だるい現象が始まると堪えきれず泣いてばかりでした。

堺市やその周辺は田んぼや畑もあってどうにか食料を調達できても、氷不足で魚は腐り無理して買って食べて腸チフスになって苦しんだ。インフレで紙幣は使えず、月給2000円のとき、卵1個30円もした。掛け軸や骨董品はもちろん、着物や調度品は次々と闇市の食糧買い出しに消えていくので普通でした。着物を一枚一枚手放すところから、自虐的に「タケノコ生活」と呼んでいました。学校では弁当を盗み食いする生徒が沢山いて、彼らは便所に持ち込んで腹を満たした後、弁当箱を暗い汚物の溜めに投げ捨てる。お百姓さんが糞尿を汲み取りにくると、あまりに多い弁当箱を掻き分けて汲み取る。これが現在、豊かさと公衆道徳では世界に誇れる日本の80年前の姿だったのです。それまで、食料に困らない女学生たちの家庭ではトーストの端が固いと嫌がる子はそれをちぎり取って捨てながら食べていたのに、戦争がもたらず貧困と食糧難で純真な子供たちの心まで堕落させられたわけですが、それは今でも語りたくない想い出です。

1. Peeling-off Life and Postwar Elementary School

August 15, 1945. When Japan accepted instrument of surrender of the Pacific War, we were only five years old. Until that day, because of US air raids, almost every night Japan’s big cities burned to aches, which was beyond any of Europeans’ imagination. Even after the war, all the buildings and houses, hospitals, city offices, schools fell down and no water and sewage system could give us any service and people strayed looking for food and water. Official food service system was also collapsed except for black markets. Infants and children were all very hungry and we were suffered from nutritious imbalance.
Both of my legs, often suffered from sluggish feeling since birth, could not endure everyday listless pain, and therefore what I did was only sobbing alone seated all day on the hard wooden chair of the classroom.
Even coal stoves were not available. Only UNICEF milk and US Army canned peanut and peasants’ potato rescued us from nutrition disorder death.
Inflation was terrible. An egg was 30 yen when monthly income was 2000 yen. Fresh fish were rotten without ice, but we bought it and it gave us stomachache causing typhoid fever. Kimono and antique were sold or traded with food, Takenoko seikatsu (タケノコ生活), a popular masochistic name means a lifestyle seen in those days selling any item away like peeling every flake off one by one just like bamboo shoot.
In the elementary schools everywhere lunch boxes were stolen so often. Hungry boys and girls stole friend’s lunch box and ate them in the toilet and hundreds empty boxes were thrown into the dirty manure, and the peasant coming to dispose found lots of aluminum lunch boxes. Though before the Pacific War, school girls peeled off the toast edge away, but even here in Japan where public morals are very, very neat and strict, in the wartime, poverty and scarcity made innocent boys and girls terribly subverted, which is not a good memory but we have to talk about to let you know the old days’ real story.

2. 開港前の日本は神秘の国だった

皮肉をこめた諺に、「愚者は経験から学び賢者は歴史から学ぶ」というのがありますが、戦後、日本人が学んだのは経験と歴史の両方からでした。

それより80年前、西洋人にとって、鎖国中の日本はまさに神秘の国でした。悪者の中には日本に侵略してその国土を植民地にしようとする企てもありましたが、実現した試しがありません。サムライのパワーが農民の協力を得てその侵略を押し留めたからです。宣教師や商人は日本人の生活ぶりを見て、貧しいけれどもきちんとしている。サムライは戦争もないのに重たい刀を二本差して歩き、平民は勤勉に働いて、休みも盆と正月だけ。

小学教育は全国行き届いていて識字率は90%で、これは驚異的です。彼らの作る刀は非常に鋭利でひとたび戦闘になると、このブレードにかかってズタズタにされる、と本国に書き送っています。
これは鎖国中であっても、それぞれの身分を弁えて勉学に励み刀一つを例にとっても驚異的な鋭さを秘めて侮りがたい存在であることを認めていることになる。

残念なことに、2世紀半にわたる鎖国のおかげで、事実上日本はヨーロッパ諸国やアメリカなど、産業革命を成し遂げた国々から徹底的に後れをとった後進国となっていた。

1868年、日本が鎖国政策を止めて開港したときに眼にしたのは世界中の国の3分の2がヨーロッパやアメリカの植民地になっていることでした。そこで明治政府はヨーロッパの国々より強い軍事力こそが国家の安泰につながると確信したわけです。

この決意はある意味では正しかった。なぜなら隣国すべてがヨーロッパ諸国の植民地政策に侵食されていたからですが、別の意味ではこの種の展望は大変危険で、なぜなら戦争を必然的に誘発するからです。

なぜこのような歴史を語るか。もしこの説明がなければ、大多数の読者は、国の内外を問わず、我らの愛すべき西野先生がなぜ戦時中にご苦労されたか、十分理解して頂けないと思います。

2. Japan was a Mysterious Nation

An ironical proverb says,“The fool learn from experience, the wise from history.” The Japanese, after the war, learned from both.
Eighty years ago while in the totally off-limit-time, Japan seemed to be a very mysterious country for the westerners. Some rascals schemed to invade this country for grabbing land as a colony, but such a wicked trial has never realized before, for samurai’s power together with many peasants’ support defended their land and property. Other visitors such as priests and traders found their life very poor but modest and neatly regulated. Samurai has two swards very heavy and unnecessary even in the peaceful days. Ordinary townspeople work everyday very diligent never taking off-duty days except mid-summer bon holidays and New Years.
Elementary school system or “terakoya” prevailed all over the nation, and the literacy percentage was more than 90. It was a miracle. Swords they produce are so sharp that once fighting bodies will be chopped down with this sharp blade. This shows the Japanese have advanced education, moral, manners and customs, and excellent technological sense, effective enough to fear invaders, but what would make our country strong? How should we make effort to catch up with Europeans?
It was, however, a matter for regret that during two and a half century national isolationism, Japan was actually left underdeveloped far behind the industrialized European countries and America.
It was in 1868 when Japan opened its ports to find two-thirds of all countries in the world had already colonized by the European powers and USA, and the Meiji Government was convinced that without military power stronger than those from Europe, we could not keep our nation safe and sound.
This decision was, in a sense, right, because all the near-by countries were already invaded by European colonialism, but, in other sense, such prospects were very dangerous, because military power necessarily induce wars.
You may wonder why I talk about such national history before talking on our beloved Nishino-sensei’s life. Without this explanation you will not understand well why he and his friends endured severe days during the war.

3.日本には鉱物資源ひとつない国土ですから

日本は4つの島と大小さまざまな小島から成る島国です。総てが火山島であって、イギリスのように平野や丘陵で農耕や牧畜に適した平地もほとんどなく、大部分が山岳地帯です。河川の流域にひろがる平野があっても少し多量の雨が降ると洪水が起こり山と谷を縫うようにして細い道があり、鉄道の敷設も容易ではありません。

石炭や石油の産出はほとんど期待できず、鉄鉱石ほか鉱物資源も国内から得られる量は微々たるもの。ですから天然資源も全部海外から調達する。つまり鉄鉱石から銑鉄を得て精錬し優秀な金属を製造するための原料の獲得は国内では不可能です。もし工業製品をみな外国から輸入するのでは、トレードできる国産品は絹織物しかなく、開港した1870年代から半世紀にわたり、主要輸出産品は絹織物が主で、それを売って獲得した利益で船や兵器や自動車を買い入れる時代が続きました。

20世紀になってアジアや南方方面に進出するヨーロッパ諸国の勢力は凄まじく、日本に迫る勢いでしたから、日本は已むかたなく軍事強国に変容するほか独立を維持して生き残る道はなかった。そこで技術を磨き、八幡製鉄所が九州に誕生、質の悪い石炭でも使えるものは掘って使って、日本の工業力の礎を成したのです。そんな悪条件でも経済基盤を強固にしようと、ほぼ半世紀、日本は努力努力の日々でした。その結果、日本は英米露独仏など植民地主義をくい止めることは出来たわけですけれども、1930年代ころから、彼らが日本の力を危険視するようになった。この現象は歴史研究の立場からもう一つの課題です。

3.No natural resource in Japan

Japan consists of four major islands with lots of small islands. Unlike England where there are so many plains and hills suitable to farming and cattle breeding, Japan’s land, islands by volcano, is mostly filled with high mountains. Flat farms near the river are often damaged with flood when heavy rainfall, and small roads thread up and down through mountains, and the railroad construction is very difficult. It is therefore almost impossible to get material of pig iron for smelting to produce excellent iron. If we import all the products from abroad, we have nothing but silk to trade, and during half a century since opening ports, we sold silk products to earn money to buy ships, weapons, and automobiles.
In the 20th century, European countries strengthen industrial power so much that Asian countries were obliged to obey their policy. No other nation except Japan could not afford to keep its independency. Our country learned skill of how to produce iron from ore, and with low quality coal in Kyushu area, Yawata Iron Company succeeded in making great amount of metal, which was the starting point of Japan’s industrialization. Japanese people made great effort for half a century until we could prohibit foreign invasion, but, regretful to say, in the 1930’s western super powers such as America, Britain, Dutch, Russia, French countries gradually came to think our national power dangerous. It was another point of reflection that we should look back as a historical subject.

西野先生ありがとう(中編)
Many Thanks, Mr. Nishino (Middle)

=先生が遺された激烈な戦時体験記=
With Old Notes of his Young Days’ Struggle

日本浪漫学会会長 濱野成秋
By Seishu Hamano, Japan Romanticism Academia

前回の説明

これは私たちの登美丘町立登美丘中学校(現堺市立)の恩師で今は亡き西野龍男先生が師範学校時代に体験された記録を元に、先生の浪漫あふれるお人柄と時代背景にどれほど影響されて育ったかを書いています。前回は、世界中の読者にご理解頂くために日本という東洋のサムライ国が260年の鎖国を解いて世界の国々へ門戸を開き近代的工業国として自立したが、70年後、図らずも太平洋戦争に突入するに至った経緯を述べました。日本がヨーロッパ強国の植民地にならぬようにと、先人が努力したけれども、戦争に結びついたことは残念の極みです。、今回はそんな歴史の激流の中で西野先生がいかに苦労されたか、それを前回に増して披歴します。英語の記述も添えますので、どうぞ世界中のみなさん、未来永劫、平和を続けるためにも、日本の前例を知って頂き、これから何がベストか、一緒に考えてまいりましょう。
This is the second part of the essay on our teacher Mr. Nishino’s personal history. Kindly read the former part and take the following description into your consideration. Mr. Nishino, Japanese language teacher of Tomioka Middle School, had an astounding stressful everyday life while in the WW2 when he was still a college boy. I believe it also necessary to depict the background history of our country since Meiji Restoration, opening all the ports to the world, but, after seventy years afterwards, though keeping independency as an industrially strong nation, very sorrowful and regretful to say, our old generation’s great effort to avoid westerners’ colonization, forcibly and reluctantly, lead the big war in the Pacific Ocean.
In this section, under such global condition, I will write about late Mr. Nishino’s young days suffering much more than before, and all the readers, please try to think what is the best step we should take for the world-wide eternal peace.

4. 師範学校と戦前の日本国

西野先生が入学されたカレッジは中等教育を専門とする学芸大学で、戦前の日本では学校の先生になるには、それなりの訓育のできる、立派な人学者であることが求められました。現在のように、単に子供が好きだとか、部活動の指導のために行く学校ではなく、人生いかに生きるべきか、その方向付けが青年時代からしっかりしているからこそ、後進の指導に自信が持てる、そんな人生哲学の達人たちの集まりが師範学校だった。そんなにしっかりした師範学校でも、日本国中を襲った愛国主義こそが祖国を救うという意識にはかないません。

日本人の気風は日清・日露の大戦に勝利して意気揚々たる国家主義に左右され、どの国にも頼らない独立独歩の姿勢が支配的でした。それが1930年代から満州事変、上海事変、日中戦争と、日本は戦争に次ぐ戦争へと向かったのです。参加した多くの将兵は農村出身で彼らは欧米列強の脅威から祖国を救うには命を捧げて当然と考えていました。

成り行きとして師範学校より士官学校をめざす若者も多くいました。しかもアメリカが太平洋艦隊の母港をサン・ディエゴからハワイに移したことにより、いよいよ日本を攻撃する日は間近しの感がありました。外相の松岡洋右や近衛文麿総理は中国戦線が膠着状態なのを身近に感じていたので、アメリカが参戦すれば日本は中国軍とアメリカ軍の挟み撃ちに遭うと考えたわけです。外交面では日本人の生真面目さが時に判断を誤らせました。現代のように、カードゲーム感覚で外交交渉を行い、それをもって切り抜ける便法を採らなかったのは、いかにも日本人らしいと言えます。

攻められる前に攻める。この兵法は日本ではサムライ時代からの常套手段。日本海軍はそれを採用して真珠湾停泊中のアメリカ艦隊に奇襲攻撃をかけた。これも戦国時代の常套手段ですが、米軍から見れば卑怯なだまし討ちになります。日本はアメリカが海軍の主力艦隊の大半を失って戦意を喪失し、民主国家であるから全面戦争に向かわず講和に向かうと予測していた。日本側は備蓄量では勝てないことを熟知していたので、短期決戦しかなかった。ところが、アメリカ側は国内がドイツ系とイギリス系で分裂直前だったのが、真珠湾急襲のおかげで国内世論の統一が果たせ、総力戦で備蓄量では10分の1以下の日本を叩きのめす作戦に出た。これは日本側にとって大きな誤算であった。結果的に日本は国防圏確保のため、オーストラリア近くまで陣形を拡大する戦法しかなく、たちまち補給作戦に窮して翌年には敗色が濃くなり3年後の1944年、国は兵役義務免除の若年層や学生にも兵役志願を強要し、中高生や大学生たちにも、学内で勉学するより兵役や兵器製造に向かえと通達を出すこととなった。師範学校も例外ではなく、その中に西野先生もいらしたのです。

4. Teachers’ College and Prewar Militarism

All the applicants to teachers’ college had some strong emotion to educate youth with absolute belief that they should keep fixed notion to bring up the young generation to be a respectable person. It was a philosophy of those young applicants, unlike today’s, who become a teacher only because of his or her preference, but even with so strong will power they could not keep their philosophy because of nation-wide military patriotism.

Both Shino-Japan war and Russo-Japan war brought us sense of victory and with such mood, Japan’s militarism insisting on its independency broke out successive wars in Manchuria, Shanghai, and China lasting for 15 years in the 1930s and 40’s. Those soldiers and officers sent various spots were mostly from rural area and they were convinced that they could spontaneously devote their lives only for the purpose of upholding Japan’s national polity.

Quite a few young men wanted to be a student of military high level school rather than teachers’ college. American government moved main port of Pacific Warship Troops from San Diego to Hawaii. Japanese politician like Premier Konoe and Yosuke Matsuoka, Minister of Foreign Affairs, knowing very well Chino-Japan war stalemate, must have been afraid of being caught between two fires. Japanese people in those days were too strict in character to treat it with smart political negotiations like card game rather than outbreak of the big war.

Attack fast before being attacked. This Japan’s traditional Samurai theory moved Japanese fleet to attack Pearl Harbor and damaged American fleet so much. And so many sailors were killed in the ships. After attacking Pearl Harbor Japanese government secretly expected the US government, under the democratic liberalism, expected to make negotiation to halt the war, but it was a great mistake. Because of this attack, American government successfully formed domestic opinion, and as the result, the war area was enlarged as far as Australia. Three years afterwards, in 1944, exhaustion of Japan’s stock-pile and human resources demanded college students and younger generation to join army. Domestically such a phenomenon accelerated students in teachers’ college to obey governmental demand viz. going to the weapon factory rather than studying at campus.

5. 西野先生の学徒動員の記録によると

手記によると、西野先生は以下の場所で働かせられた。
[動員場所]
名古屋市緑区鳴海町伝治小町 住友金属(株)鳴海工場
海軍省管理。零戦のエンジン部品製造
大阪第一師範学校 予科3年生70余名
[出発]
1944年9月11日(月) 午前8時10分天王寺発東京行き特別列車で出発。14時30分大高駅着。
[宿舎]
鳴海の住友南寮。10月5日から南区笠寺寮に転居。
[工場での仕事]
反射炉に1300度に溶けたジュラルミンを運ぶ。
鋳込み:戦闘のエンジン1個に12個のヘッド必要
1日50個、4機分の製品を造る。1300度のジュラルミンを20㎏を不安定な上部に持ち上げ、笏で掬って鋳型に流し込む作業。
体力が必要でこぼすと火傷。食事が足りないから空腹。手許がくるって火傷すること度々ある。

[解説]

戦争末期、連合軍の空爆は頻繁で主として軍需工場を狙い撃ちに焼夷弾を落とし機銃掃射した。生徒たちは軍人たちに見張られていたから、空腹で疲労の極致でも、身の危険も顧みず働くことを強制され、空襲中でも退避することを許されず重労働を続行せねばならなかった。戦地では同胞が決死の覚悟で戦闘中であり、友軍の戦闘機の到着を今や遅しと待っているのだぞ、と憲兵たちが叫ぶから、義務感から避難は出来なかった。

[西野先生の手記つづき]

当時は食糧難がひどかった。16歳から17歳の成長期に食糧の少なさと粗末さは今では考えられないほどで、全員が栄養失調でやせ細って顔だけが膨れていた。ご飯はお米がちょびっとだけで、海藻や豆が混ざっていた。おかずはイナゴだった。夜勤のとき、昼間、同僚と工場周辺の農家をまわって芋の買い出しをして歩いたところ、「護国」というサツマイモを分けて貰えたら大成功だった。ある日、親切なお婆さんが同情して「菱餅」を食べさせてくれた。涙が出て仕方がなかった。僕と同室の親友喜多勘助君とよく一緒に歩いたが、あのときの栄養状態が祟ったらしく、喜多君は戦争が終わって間もなく、ようやく就職もできたのに、亡くなられた。その知らせをうけてつたう涙をこらえられず、今でも思い出すと涙があふれる。

5.Mr. Nishino’s Record of Student Mobilization

According to the notes of Nishino’s, the records are as follows:
☆Place of mobilization:

Denji-komachi, Narumi-cho, Midori-kui, Nagoya-city
Sumitomo-kinzoku Narumi- factory.
Operated by the Ministry of Navy, making Zero-fighter’s engine parts. Approx. 70 students from Osaka-teachers’ college.
☆Departure:
September 9, 1944. At 8:10 Tennoji Station, special train bound for Tokyo, arriving at 14:30 at Otaka sta.
☆Lodging: Sumitomo South Wing Dorm. 
☆Works in the factory:
Carrying melted duralmin metal to the air furnace to cast 14 cylinder heads. 50 pieces a day. Mr. Nishino, well built and powerful, climbed up to the high position and poured heated metal into the mold with a dipper. Though strong, hungry having no food, he was frequently injured and went to hospital.

☆Comments

American air raids repeatedly attacked Japan’s big cities, especially weapon factories. Fire bombs and machine gun bullets from the air attacked civilians on the ground almost everyday. Labor oversee-ers were MPs and they would not allow young workers to rush out into the shelter.They shouted incessantly, ”Even now in the Southern Pacific battles, many of our comrades are waiting for zero fighter coming to support them!” Many of the working students, therefore, could not stop working at all. Their strong sense of guilty and obligation kept them stay in the factory, and young boys and girls were burned there.

From Mr. Nishino’s Note:

Food shortage in those days was terrible. We were in the late teens, and nobody in the affluent society can imagine how miserable we were. Food scarcity attacked us in the 16 or 17 years of age, and our body were all thin with malnutrition, only faces were swolen up. In the rice bowl rice was only a little, and much sea weed and beans. Locust is in the side dish, we had to look for something to eat in the daytime when night duty. We were very lucky if we got Gokoku, a sweet potato, named Nation Protectionl. One day, a kind old woman gave us hishimochi or a water caltrop ball we ate it with tears thanking her for her favor. Mr. kansuke Kita, my best friend, and I often walked for food.
One day after the war, I heard a news from his family that Kansuke passed away after he got good job. I cannot help shedding tears everytime I remember his death, even now.

6.終戦半年前、サイパンが陥落したころ

西野先生の手記によりますと、昭和19年12月13日、米軍の空襲が本格的にはじまった。B29が80機も来た。名古屋は陸海軍航空機生産の6割を占めていたから、これ以後56回も空襲に晒された。たまに日本軍機が上がってきてB29に体当たりする。両方ともバラバラになって堕ちていく。それを見て、さすが日本人だ、サムライ魂だと涙を流して拍手している者もいたが、たいていの人たちは手を合わせて泣いていた。

アメリカに帰れば、落ちていく子も家族と会えたはずよ。戦死だと知らされたら家族も泣くやろ、かわいそうに、敵も味方もあれへんがな、もう嫌や、戦争はいやや。西野先生はそんな思いがこみ上げて胸が詰まったという。ラジオのニュースでは日本軍の勝利ばかり報じられていたが、目の前の現実は真逆で、本土がこんなに空襲されているのに、外地で勝っているなんて、おかしいやないか。本間は負けてんのとちゃうか? とみんな思うたが、口にしたらひどい目にあわされる。事務所に呼び出されて体中アザだらけされて帰ってきた子がいた。

しかし考えてみると、サイパンが陥ちた日が7月6日。9月27日にはグアム島とテニアン島が陥落した。その激戦の様子や悲惨さはまったく知らされないが、これらの島々には日本軍の守備隊が大勢いたしサトウキビ畑で働く人たちも沢山住んでいた。みんな死にはったんやろか?

ひそひそ話してたら、憲兵に叱られたが、南方の島々が取られた後は毎日空襲だらけ。もともと日本の飛行場やったところから、飛んで来はんねんよ。あの島々を奪われたら本土は火の海にされると海軍さんが始まる前から『主婦の友』で言うてはったけど、その通りになったがな、と話が出る。日米戦こそが大きな過ちだったので。我々はその中での重労働だった。

[解説]

筆者(濱野)は戦後40年後の1985年に、サイパン、グアム、テニアンの島々の戦跡を踏査したことがあるが、海岸線にはいまだ赤さびたバケツ、蓄電池、戦車の残骸、座礁した輸送船ら散乱。だが観光地化した海岸線は激戦地域だったにもかかわらず綺麗に整備され、そのコントラストが際立っていた。

戦中から住んでいた古老がいう。上陸作戦の直前までサイパンには日本人町は繁盛していた。ガラパンやチャランカノアという日本人街が結構大きく、風呂屋もあれば雑貨屋、食堂、飲み屋、散髪屋、女郎屋もあった。アメリカ軍の突入は艦砲射撃の直後で、たちまち市街戦となり、守備隊勤務の17歳、18歳の少年兵が身を挺して逃げ遅れた老若男女を庇って機関銃を放つ。だが多勢に無勢。次々と敵弾に斃れる。と、ある年増女郎がその機関銃を拾い上げ、「ようも坊やたちをやってくれたわね!」と米兵に向けて撃ちまくり、相手から弾を浴びて血だらけで死んだという話も聞かされた。

学校の教科書には、サイパン陥落7月6日としか書かいてない。受験生は丸暗記で苦労するだけだが、どうかおぼえてやってください。サイパンにはチャランカやガラパンの街があり、平和で落ち着いた住み心地良い日本人町だったのに、消えてしまった、沢山の個人史と共に。松尾芭蕉が「夏草や兵どもの夢のあと」と詠んでいるが、芭蕉や歴史家がいなければ、戦争で人間の営みなど消え失せる。

親が子を両手に走る、老人もはぐれた幼児も、赤ちゃんおぶって、灼熱の炎天下を走る…飛び交う流れ弾、炸裂する艦砲射撃、上空からP51の機銃掃射…ここの窪みで折り重なって…

その、ココナツの木陰の窪みは、現在、サーファーたちの憩いのコーヒーパブになっていた…。

6.Half an Year Before War-end when Saipan…

On December 13, 1944, air raid by US air force began in earnest over the city of Nagoya area. 80 B-29 flew over here. Nagoya was the center of producing army airplane the percentage of which was more than 60, therefore US air force sent B29 here 56 times in all. Some Japanese air-fighters climbed up to attack them, and from high up in the sky, they turned as Kamikaze attack and bumping B-29 crushed it falling down together. Great applaud with big hands was heard yelling his brave deed, “This is real SAMURAI!.” But majority of those looking up in the sky, shedding tears, joined their hands in prayer, watching them falling down, thinking the families of those American boys, too, when receiving tragic news, their parents will also cry shedding tears just like the Japanese. No enemy, no war, we both have to hate wars.

Radio station gave us every day only victory news, but it was very strange to Mr. Nishino wondering, if so, why so many air raids again and again came to Nagoya every day and night. Someone said we’ve got fake news, and was called by the office, and returned with his face hardly beaten.

Mr. Nishino took note vis. Saipan fell on July 7th, Guam and Tinian September 27th, with no reports in detail. He could not imagine what happened there, but he knew there lived so many soldiers and dwellers, sugarcane plantation workers. But no Japanese people knew what happened there until after the war was over.

American bombers could use old Japanese take-off runway, and easily attack Nagoya people. Before war began, Japanese navy servicemen prospected so on the symposium in the women’s magazine Shufu-no-tomo or Friend of Housewife, their story became a real story. US-Japan war itself was a big mistake, under which Mr. Nishino’s painstaking dangerous labor continued everyday.

comment

40 years after the war, in 1985, I went to Saipan, Guam, and Tinian to inspect the battlefield. On some seashore there scattered still lots of rotten buckets, buttery, ruined tank wrecked transport ships, but in other seashore, despite of the big battle, surface was neatly arranged. The contrast was in striking difference.

An old man who lived there before the war said in the town, such as Garapan and Charankanoa, there used to live many Japanese. Public bathhouses, restaurants, bars, barber and even parlor. Just after the naval gunfire, US marine corps attacked them and very young Japanese soldiers fought defending Japanese ordinary people shooting machine guns and in the end they were all shot down. And then, the old man said, a middle-aged Japanese prostitute picked up the gun, shouting, “You killed lots of my baby boys!” and kept shooting. But showered with lots of bullets, she at last fell down in blood and died with boys.

Textbooks in the High School say that Saipan fell on July the 6th. Applicants only hoping to enter college have to remember the date, which is only a nuisance, but please keep in remembrance that there used to be two nice Japanese towns, Charanca and Garapan, very comfortable, and that there used to exist many individual life history, and please bear in your mind how stupid it is to make war and break such town killing all the dwellers there.

Basho, Japanese famous HAIKU poet composed, “Summer weeds, Now a dream site of SAMURAI battle” Without Basho, without historian, all the human life is gone.

Fathers and mothers pulling hands of their children ran and ran under the glaring sunshine on the heated road, bullets flew, gunfire bombs exploded, and from the sky P51 air fighter shot bullets and family were all in this hollow…The hollow, the place where twenty dads, mamas, grandpa, grandma, children and babies were lying, is now a coffee shop bar under the shade of coconut tree.

西野先生ありがとう(完結編)
Many Thanks, Mr. Nishino (Concl.)

=先生が遺された激烈な戦時体験記=
With Old Notes of his Young Days’ Struggle

日本浪漫学会会長 濱野成秋
By Seishu Hamano, Japan Romanticism Academia

完結編を書くに当たり

登美丘中学在籍中、私たちに国語や歴史をご教授くださった西野龍男先生が他界されてから久しい。郷里を仰げば未だ先生の元気なお顔が目に浮かぶ。早いもので、教え子たちも先生の御年に追いつく年齢にならんとしている。ご焼香に上がった時、奥様から頂戴した先生のご遺稿のコピーを元に、前編、中編と書いて、今完結編を書く段階となった。まるで登美丘劇場で観た笛吹き童子のような連載になったが、それほどに戦中戦後、中学の教室での一日一日も含めて劇的に展開した戦後史の哀歓は多彩である。昭和20年代から30年代の中学時代は戦後でも依然として戦中の空気が濃厚に漂っていた感がある。

達意の肉筆で淡々と綴られた西野先生の遺稿は戦中の苛烈な日々を蘇らせる。今更ながら何度涙したことか。戦後の、生半可は自分自身の生きざまに照射して、僕らの少年期がもし、西野先生のお立場と同じであったなら、果たして先生のように確たる視点をもって書き続けることが出来たか。そんな思いに駆られてならない。

登美丘中学は大阪平野の南部に位置する。南海高野線「北野田駅」で下車、真ん中を通るバス道路を大美野方向へ。堺市の東区に現存する公立中学である。今でこそ設備の整った中規模の中学であり、立派なブラスバンドも活躍する豪華な中学だけれども、当時は戦後まもなく誕生した木造長屋型モルタル仕上げの平屋校舎であり、それでも我々は「白亜の殿堂」と読んで、床に塗り込んだコールタールの強烈な臭気も厭わず、戦時中なら禁忌された男女同席で平等いや女性尊重の気風を当然として、与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」を先生と暗唱した、そのもっとも初期の新制中学であった。生卵が最高の栄養で貴重品だった点では戦前と変わりない。

授業はしかし先生方の大半が軍隊経験者か軍事教練を受けた方々ばかりであったから厳格そのもので、直立不動の姿勢で軍隊式に整列し番号を大声で掛け合うなど当然と思って励行したものだった。 
西野先生は格別厳しかった。反抗期の僕らは当然、街に出れば見かける行き過ぎた民主主義の乱れた物質主義に毒されていたから、いや筆者だけかもしれないが、戦犯のパージやそれに続いたレッドパージの雰囲気に毒されてか、よけい憎まれ口に向かい、西野先生には藤村や晶子に関する当惑させるような質問を投げ掛けた覚えがある。

それが青春の蹉跌だったか。彼の記憶に私の存在がつよく刻まれていたことは後年の余談で判ったけれども、申し訳ない態度だったと悔やんでいる。

だが成人し、自分も40代、50代、60歳代になった頃には西野先生はみごとに清明な気持ちで筆者を眼中に入れてくださった。筆者は新作を発刊するたびに一部を送り、ご講評を賜り、帰郷すれば登美中時代の仲間と集い会って先生方とまみゆれば昔の言動を詫びる有様であったが、西野先生は車で迎えに来て下さったこともある。叔母上の立派な茶道具が今は郷土美術館に収納されたと聞き、拝見に向かったのである。その日一日、武者小路実篤流にいうと、好日を得たわけだが、西野先生の胸に絶えず去来していたのは、私が中学時代に教室にいた顔色のすぐれない痩せた少年のことだった。両親を亡くして欠食状態のその子を先生はつきっきりで心配されており、私ごとき生意気盛りの文学少年との問答なんぞは、さしたる厄介ごとでもなかったのである。

晩年の先生は同窓会にも毎回欠かさず出席され幹事の苦労を誉め談笑し、再会を誓ってお別れしたが、頑健そうに見えた先生も遂に帰らぬ人となられた。

我々はご冥福を祈るために富田林のご自宅まで上がったが、そこで奥様から、若き頃の先生の壮絶な日々をお聞きし、これは世界中に知らせねばならぬと考えた結果、この日英両方の言語で書いた記録集になったわけである。

現在に戻れば、世界中がコロナウイルスの恐怖に見舞われているが、戦後間もない頃を知る者にとっては、この種の疫病はあって当然の現象であった。南方帰りの軍人さんはマラリヤに罹患したままで帰国し、屡々発作を引き起こしているし、不衛生な、冷凍処理なしの魚や防疫処理なしのバナナを食って、腸チフスやパラチフスになり、結核で青年がバタバタ死ぬといった現象が巷に溢れていた。銭湯に行けば湯舟で放尿する淋病患者もいてその細菌で失明した子もいた。

このような状況下で日本について語るとなれば、日本という東洋の孤立した島国は260年の鎖国を解いて世界の国々へ門戸を開いて無我夢中で近代的工業国として自立できるまで頑張ったけれども、必ずしも順調な道のりを辿ったわけではない。西欧型コロニアリズムの転換期が第二次世界大戦であったと考えても、惨禍は相変わらず否応なく受け続けている。

While writing this essay, as a writer, I have gradually got to know
that Mr. Nishino’s wartime extraordinal hardships are all factors of the past, meaningful struggles of our nation. As was described in the old days’ Manyoshu, Japan was and is to be regarded as a nation of good fortune, but the reality is not so easily overwhelmed.

Tomioka Junior High School was established after WW2, when people were all suffered from poverty. In the wooden-built, one-story white school houses we were instructed by ex-soldiers or young, military-experienced stern male teachers, and epidemics were prevailed everywhere in our area, too.

Mr. Nishino was a teacher of Japanese language and literature, and very stern, therefore, I remember, I often took very rebellious attitude and asked some, captious questions on a poet and poetess like Toson Shimazaki and Akiko Yosano.

In our age, say, in our 40s, 50s, 60s our nerves turned friendly and mild, and each time I published new novel and essay book, I sent it to him. Mr. Nishino gave me nice comments and when I went back to my hometown, he came to pick me up in his car and took me to the museum of tea-ceremony utensils. But while driving, he was looking back to the past old days, whose subject was on my classmate. He was an orphan, helpless lonesome boy. Miserable but we did not know how to give benevolent words, when we had so many patients of ropical fever and epidemic disease. We could not afford to either give good care nor treat him or her. It was what we called post-war Japan. Mr. Nishino, having much experience of such disaster, while he was at college, could make it natural to decide helping them.

To him our relationship was one of the nice talks, neither complicated nor troublesome but comparatively easy topic to worry about.

Mr. Nishino attended our class reunion and gave nice, nostalgic talks but though strongly-built he at last passed away recently. Tother with my old bunch mentioned in the last page, I paid a visit to his home for praying, when his wife talked his young days experience during the last war. It was so impressive.

Nowadays however we are in the midst of Coronavirus pandemic. This overwhelming natural disaster has brought us lots of lessons but, as you are already aware, postwar Japan’s government has always been in the lack of leadership policy and, this time, too, I was afraid of the government would be at a loss having no idea of how to solve such bio-terror type epidemic. Medical malpractice should be avoided but the government itself is ignorant on this sense and as the result they have come to be convinced that the only way to get rid of or along with this virus is not to cure patients but to let the nation keep social distance wearing masks and/or shields. Their accountability seems to be meaningless. Historically, such a phenomenon should be considered a waystation generally seen in the lost government.

Let us look back again to the Meiji restoration period, when old Samurai Japan has inaugurated to be a nation of industrialism. 70 years after her opening ports to west European nations and America, Japan always tried to pay the best attention to protect our land and its independency, but the result was miserable. Ruins, ruins, ruins, everywhere. But, ironical to say, it brought us ethnic independency avoiding European colonization. Taking this history into consideration, I could point out that Mr. Nishino’s painstaking personal days symbolically followed the same track as our country did.

7. 西野先生の手記から

「東海大地震」
 昭和19年12月7日、東海大地震勃発。M7.9。震度6.死者998人。家屋倒壊26,000戸。工場の煙突折れる。
「米軍の空襲」
 昭和19年12月13日、米軍の本格的な本土空襲がはじまる。B29爆撃機80機が名古屋へ。陸海軍の航空機の生産量が全国の6割を占める名古屋は、これ以降しばしば空襲を受ける。とくに昭和20年3月から5月には昼夜を問わず空襲が激化した。この間、愛知時計や名古屋城も爆撃を受けた。目の前で日本機がB29に体当たりした光景や寮のまわりの民家が直撃を受けるのを目撃したり、逃げ回って田の溝に飛び込んで難を逃れたことや、B29が高射砲にやられて落ちた現場を見に行った友からの話を聞いたりした。

昭和20年5月17日未明、B29468機来週。笠寺寮全焼。全員の荷物焼失。その前夜は工場勤務であったため、高台の工場から燃え盛る眼下の様子を見ていたが、朝、寮に帰ると、総てが灰になっていた。その日、一人一升の米を貰い、ドンゴロスのような服を着て、着の身着のまま乗り継いで大阪に帰った。途中、空襲に遭い、舞鶴公園での空襲を目撃して、その悲惨な光景は筆舌に尽くしがたい。着のみ着のままで家に辿り着いたときには、父親からお前は誰だと言われるほど痩せて垢だらけで、変わり果てていた。ところが家に着くや学校に呼び出されて、8月15日の終戦の日まで、大阪第一師範の教室で寝泊まりし、運動場の開墾や芋づくりに従事した。

Big Earthquake
December 7, 1944. Tokai Big Earthquake. M7.9. Died 998. Fell-down houses 26,000. Factory chimney broken down. Tokai and Nagoya area, with 60% weapon industry was so frequently attacked by such air bombardments.

Air raids in Nagoya area
December 13, 1944. American air force began big air raid, sending 80 bomber B29 troops. They attacked Nagoya city area so frequently, day and night, so violent, Aichi Clock Industry and Nagoya Castle were crushed and burnt to ashes. In Nagoya prefecture there used to be more than 60% military crafts industry of Japan, and some B29 was crushed by Kamikaze attack and fell down together. This was very piteous tragedy, not a matter to be boasted about.

On May 17th of 1945, dawn, 468 B29 bombers came and our Kasadera dormitory was burnt to ashes and our belongings were all burnt, which we watched from the factory. This was the last day. We were given some rice and cloths and came back to Osaka. On the way back, air raid attacked us repeatedly and I saw at Maizuru Park lots of the dead and the wounded. The spectacle was so miserable that I didn’t know how to depict them at all. When I at last arrived at my home, my parents, watching me in shabby rug, asked who I was. So thin, so dirty, nobody could identify me. After coming back home, my classmates were ordered again to work at factory, and I was ordered to come back to the Osaka Daiichi Teachers’ College, and lodging in the classroom we were engaged to cultivate playground to grow sweet potato until August 15, 1945, the very day when US-Japan War was over.

8.戦後の虚脱感

終戦後の虚脱状態は国民の誰しもが味わったことだが、西野先生はこう書いておられる。

「終戦と共にやっと勉強できる文字通り学生に帰ったわけであるが、世の中が混乱を極めており、生活が安定していないこの頃は食べていくのがやっとという状況。教師も生徒も同じ境遇であった。その上、終戦後兄二人が中国(北支・南支)から復員してきて家族が増えたため、食糧難はさらに厳しく山を切り拓いて畑にしたり、米づくりに必死に勢出したものである。この状態は昭和23年3月の卒業時までずっと続いたのであり、私の青春時代、特に勉学すべき大切な時期に勉強できず、多感な十代後半から20代にかけて、戦争のために青春を奪われ夢も希望も失いがちな暗い時代であった」と。

さらに、「兄たち二人には、自分だけが学校に行かせてもらっているという引け目というか負い目があり、家での労働、とくに農作業や山の仕事に容赦なく駆り出されて、辛い思いもあった」と記される。家にいても、学徒動員で駆り出されても、青春の歓びなど得られようもなかったわけです。

私たちはこのような境遇にありながらも、いや、このような、八方ふさがりの状況に置かれた西野先生だからこそ、決して希望を諦めはしなかった。この向上心は自助の精神から生まれたものであり、我々生徒は教室にいて、爆撃の不安もなく、学べたのです。ともすれば安逸に逃れる吾らを戒めて鍛えて頂けたお陰で、私たちの今日があると思えば、西野先生にはいくら感謝しても感謝しきれない思いでおります。

9.Dispondency after the War

Everybody after the war was filled with despondency. Mr. Nishino wrote as follows.

It was not until the war was over when we regained the proper position of studying freely as a student, but the society of our country was too chaotic to do so and those under terrible condition could do nothing but only eat and drink to keep our body alive. Further more after the war two older brother returned back to Japan from China. One is from the Northern China, another from the Southern. This caused food shortage, and we developed deep in the hillside area to get paddy field. Such bad condition lasted till the graduation year, viz. March, 1948. My young days, the most important period for studying were totally lost. War was apt to deprive us of our dream and hope.

Mr.Nishino in addition, mentioned that thanks to both elder brothers hard work, I could go to college, and this sense of obligation was so severe that I had to feel very severe hardships. He had no chance to find any hope of his own aspiration.

Even under such severe hardships, Mr. Nishino never gave up aspiration. Aspiration, in his case, was a self-help independency, never giving up hope to the future, and his emotion actually opened big flower not only in his heart but in our heart. We are apt to be inclined into indolence, but I would like to keep in touch with him deeply enough to encourage myself in our heart.

西野先生、有難うございます。

上記の一文を捧げることのできたこと、何より嬉しく存じます。

奥様には資料提供ほか色々とご高配を賜り、この場を借りて心より御礼申し上げます。先日のご焼香にお伺いしたおりに奥様からお聞きした思い出話が機縁になってこの原稿が生まれました。どうか西野先生に捧げてください。奥様にはこれからもご健勝で過ごされますよう、一同祈っております。

昭和31年3月 堺市立登美丘中学校卒業
   内山孝治
   大浦実夫
   芝埼幹男
   西田毅
   濱野成生(筆名:濱野成秋)

郷里の畑はいまや何処に。父母の墓地より見ゆる丈六の家並を眺めて
  戦負け父母哭き稚児の稲田里
    いま不知火の我勝ちに住み

           オンライン万葉集   濱野成秋

北原白秋のゆかしき城ケ島より秀歌一首を頂きて。
  三崎城の跡地と言はるる学校の
    閉校を聞く真夏日の中

           白秋三崎短歌会   三宅尚道

何処の学び舎も会う瀬は格別楽しければ
  朝の空見上げて嬉しや五月晴れ
    三年B組同窓会なり

           万葉を読む会 三浦短歌会   八潮多可

はかなき人をしみじみ思ひて
  病みながら三崎に行くと話されし
    言葉が最後となりたる悲し

           三浦短歌会 歌集「沖空」、「パンの生地」   大賀正美

この三崎に嫁に来て船宿の女将となりて早や八十路
  嫁ぎしは米二升とぐ大家族
    かまど火絶えて一人御飯めし

           三浦短歌会   加藤由良子

人はみなさすらいのうちに果てる。ここぞ永遠に住まへる場所と思へども、いつかはこの世と別れて旅立たねばならぬ。

日本人の「わび」や「さび」の心はきっと世界中の人々に解って頂けるはず。

三浦半島をこよなく愛した三浦按針は旅を住処としたがゆえに、この地に長く心の根を下ろしたのであろう。

松江に根を下ろした小泉八雲の心情も同じ。
白秋も三浦や小田原に住んで想うは郷里柳川のこと。

私は大阪は河内の郡。野田村丈六。いずれは自分も。心もまた同じにして虚空を舞うか。三崎の方々、佳き短歌をありがとう。

福田京一

2020年7月18日現在、世界の新型コロナ・ウイルスの感染患者数が約1400万人に、死者は60万人に達したとニュースが伝えている。感染が収まっているように見える地域では、第2波、第3波が必ず来るだろうと感染症の専門家は警告している。中国で最初に感染が報告されてからわずか半年間で感染がこれだけの規模で世界中に蔓延したことはまさにペスト以来の「歴史的事件」と言って良い。この事件によって生まれた様々な分野における新しい現象について、各界の識者はすでに様々な意見をメディアに発表している。気の早い人のなかには「ポスト・コロナ」の世界とか生き方とか言っている。なかには傾聴に値する説もないではないが、まだ終息してもいないのに「ポスト」とはこれ如何に、と考えてしまう。そこで、少し立ち止まってコロナ現象を本質的な枠組み、つまり病気を生と死の問題のなかに据えて考えてみたい。そのために、ペストが大流行した16世紀から17世紀のイギリスの文学に表象された死と生のあり方を出発点として、パンデミックの時代に生きる私たちの生のあり方について考えてみたい。

1.ペスト流行の惨状とエリザベス朝の詩人

病気の原因が科学的に究明され始める近代まで、古代から中世まで疫病(plague)は共同体を襲う災害であり悪であり天罰であるとみなされてきた。では、有効な対処法がなかった時代に疫病がもたらす死の影に人が捕らえられたとき、人はどのように行動したのか。どのように考えたのか。何百年も人類を苦しめてきたペストの流行を巡って詩人たちが残している作品は、私たちに大事なことを教えてくれる。

古代ローマの詩人ホラチウスの有名な一行「今は飲む時だ、今は気ままに踊る時だ」が表している「今を生きろ!」(carpe diem)のモットーは「我(死神)アルカディアにもあり」(図1)、つまり「死を想え」(memento mori)と意味の上で表裏をなしている。ペストの代わりに結核だろうと心臓病だろうと、エイズだろうと、コロナ・ウイルス感染症だろうと、有効な治療法が見つからない限り同じ。時代によって不治の病は異なるが、病気が生の意義を考えさせる死の暗喩であると理解すれば、それは生の問題と切り離すことはできない。ここに死と生の基本的な関係がある。

中世のヨーロッパは、死の恐怖を前にした生の儚さをキリスト教教義のなかに取り込んで、絶対的な存在への信仰を組織化して盤石な社会を作った。その礎石を崩した原因のひとつが後期中世の14世紀から断続的に流行した黒死病(ペスト)と名付けられた疫病である。推計7000万人が14世紀の第1次ペスト大流行によって死亡したと言われている(村上、132)。もともと中央アジアで発生したペスト菌が、ヨーロッパとの交易や交通の発達と侵略などによってヨロッパ全土に広がったという。

ホイジンガは『中世の秋』のなかで、人びとの心に死の思想が重くのしかかり、「死を想え」の叫びが、生のあらゆる局面に絶えず響きわっていたと述べている。それは、三つのメロディーとなって後期中世に流れていた。その一つは、昔の栄華は今いずこ、という嘆き、二つ目は、この世の美しいものが腐れ崩れるのを見て震える恐怖、三つ目は、知らぬ間に死に連れ去られていく運命にある自分への恐怖である。このうち一番目の嘆きは、後の二つに比べて軽い悲哀の感情でしかない。それに比べると、死後に美人の肉体が腐乱し、悪臭を放つ様は単に美の儚さを思い起こさせるだけではなく、美そのもの存在を疑わせた。また、木版画や絵画や劇で繰り返し表現された「死の舞踏」(danse macabre 図2)のイメージは、死の具象化を通して見るものに彼もその犠牲になることから逃れられないという戦慄を与えた。このような死のイメージから後期中世における人々の思想は、ホイジンガによれば、二つの極端な方向に別れた。一方は、権力、名声、享楽、美は儚いものであるという嘆きであり、他方は、彼岸における魂の救済を信じて、至福の喜びにあづかることであった。そして、その間にある考えや感情は無視され、「生きた心の動きが石と化している。」

図1 N. プッサン「アルカディアの牧人たち」1637
図2 M.ヴォルゲムート「死の舞踏」1493

 では、その後、つまりルネッサンス期に、石と化した心はどのように生き返ったのか。死のテーマを中心にして考えてみよう。黒死病(図3)は、イギリスに限って言えば、1360-63年、1471年、1479-80年、1603-11年、1665-66年に大流行した。厳密な記録がないために、これも推計にしか過ぎないが死者数は約15万人から18万人ほどだと言われている(ウキペディア「ペスト」のリストに依る)。また当時の記録によれば、1570年から1670年までに66万人が死亡したと推計しているものもある。ただし、大流行した時期以外にもペストは頻繁に発生したのである。たとえば1592年から1594年の間もイギリスの各地ではペストが蔓延し、ロンドンでは15,000人が亡くなったという。まさに日常生活は黒死病と隣り合わせであった。当然のことながら、当時の詩人は愛を死と結びつけて作詩した。

エリザベス朝を代表する詩人エドモンド・スペンサーは『神仙女王』( 1590-96)で、足早に過ぎゆく時の残酷な仕打ちに対して恋人たちに、たとえ無常な人生であっても愛に生きるようにと次のように歌っている。 

So passeth, in the passing of a day,
Of motall life the leafe, the bud, the flower;
Ne more doth florish after first decay,
That earst was sought to deck both bed and bowre
Of many a lady, and many a paramowre!
Gather therefore the rose, whilst yet is prime,
For soon comes age, that will her pride deflower;
Gather the rose of Love, whilst yet is time,
Whilst loving thou mayst loved be with equal crime.

Book 2, canto 12, sanza 75.

一日が過ぎていくうちに 過ぎていくのです
人の命の葉も 蕾も 花も
一度枯れれば咲くこともない
かつては求められてベッドと寝室を飾ったのに
多くの婦人の、そして多くの愛人の
だから 薔薇を摘みとりなさい 盛りのうちに
すぐに花の誇りを奪いとる老年がやってくるのだから
愛の薔薇を摘みとりなさい まだ時があるうちに
お前が愛するとき 同じ罪で愛されるのだ

神の愛(アガペ)でない人間の愛(エロス)は、愛することも愛されることも所詮は人の世の罪にしか過ぎないとスペンサーは認めている。しかし、それでも愛の喜びに生きることを咎めているわけではない。ルネッサンスの理想は、美と愛と徳の三美神(図4)が手に手をとっている調和的な世界にあった。この世界観、理想化されたアルカディアにも死の影が潜んでいたのである。そして死が災害、戦争、疫病など様々な姿をして人々の目の前に現れると、調和の世界は揺らいだのである。愛は消え去る美に対して、また喜びを抑える徳(貞節)に対してより強く自己を主張し始めたのだ。

図3 P. ブリューゲル「死の勝利」(一部) 1562(?)
図4 S.ボッティチェリ「春」(部分)1482年(?)

 当代を代表するもう一人の詩人フィリップ・シドニーは17歳になった1572年、ペストの発生により閉鎖されたオックスフォード大学を後にした。そして一時ケンブリッジに移ったとき、そこでスペンサーと知り合ったらしい。1580年代に自伝的な『アストロフィルとステラ』を書いた。そこで、アストロフィルは人妻ステラへのプラトニックな愛を語る宮廷愛の伝統を踏まえながら、精神的な愛と徳と美を讃えたが、その一方で自分のなかに抑えがたいエロチックな欲望を認めた。

So while thy beauty draws thy heart to love,
As fast thy virtue bends that love to good:
But “Ah,” Desire still cries, “Give me some food!” (Sonnet 71)

だから 貴女の美しさが心を愛へと引き寄せるとき
すぐさま貴女の徳がその愛を善行に向かわせる
だが、嗚呼 それでも欲望は叫ぶ 「もっと食べものをくれ」と

かつてジョバンニ・ボッカチオは、猛威をふるうペスト禍を避けてフィレンチェの郊外の別荘で男女10人が語った艶笑譚中心の物語集『デカメロン』(1353)を書いた。そこで語り手たちは笑いと悲哀の混じった性的な欲望を直截に語ることによって、かた時も忘れられない死の恐怖に対して生の喜びを語り合った。いわば死神が見守るなかで、人はそうあって欲しい人生のありようを本音で表現したと言ってもよい。同様に、エリザベス朝時代の詩人や劇作家もまた、宗教が教える愛と徳と美についての建前を繰り返すのではなく、死と隣り合わせの生命を直視して表現に工夫を加えて新しい作品を作り出した。良家に生まれ、教養と才能に恵まれ、穏健な宗教観をもち、宮廷でも地位を得たシドニーが欲望に「もっと食べものをくれ」と叫ばせた。それは彼自身の個人の声というより、時代の声と言わずして理解できないだろう。

1592年には、トーマス・ナッシュは風刺パンフレット『ピアス・ペニレス』を出版し、クリトファー・マーローは悲劇『フォースタス博士』を、シェイクスピアは喜劇『間違いつづき』を上演した。同年の後半、ロンドンの劇場は閉鎖されたが、その時までに上演されたナッシュの寓話的喜劇『夏の遺言と遺言書』のなかで、のちに「ペストの時の連禱」(1600)として出版された次の詩が唄われている。

Beauty is but a flower
Which wrinkles will devour ;
Brightness falls from the air,
Queens have died young and faire,
Dust hath closed Helen’s eye,
I am sick, I must die.
Lord, have mercy on us!
美は一輪の花
やがて皺が食い尽くすだろう
明るさは大気から消えて
女王たちも若く美しいまま死に
塵がヘレナの瞳も閉ざした
わたしは患い 死なねばならぬ
主よ われらを憐み給え

 ルネッサンス期のヨーロッパで流行した田園詩をもとに、自然と人生の儚さを神の救済への願いと結びつけた詩であるが、ロンドンのペスト禍を思うとき、その願いは切実であった。カトリック教、ピューリタニズム、無神論の間の緊張が政治と絡んで、波乱含みの状況にあったエリザベス朝時代において、ナッシュは女王の権威と社会的秩序と英国教会を擁護する側に立っていた。しかし、女王の美しさも命も長くは続かず、塵は塵にかえるという聖書の教えに変わりはなかった。1568年以降ロンドンではペスト患者の家は戸口に「主よ われらを憐み給え」と書かれた張り紙が貼られて閉された。こういう点で、七つの大罪が神の怒りを招きペストが持たされたのだという当時広く受け入れられた考えを彼も持っていた。

2.3人の劇作家とペスト

1592年に『フォースタス博士の悲劇』を上演したマーローは、無神論者ではないかと嫌疑をかけられて、一時当局に逮捕されたこともある進歩的思想の持ち主であった。劇のはじめフォースタスは自問する。「お前の医療のおかげで多くの町はペストを免れ、何千もの命を落とす病を治めたではないか・・・それでも俺はただのフォースタス、ただの人間にしかすぎない。お前は人間に永遠の命を与えたか。また、死んだものを生き返らせたか。もしそうならこの仕事も尊敬されるだろうが。医学よさらば。」彼は学問に行き詰まり、奇蹟で病人を治すという教会も信じられず、悪魔から魔術を学ぶ。24年間メフィストフィリスを従えて、思いのままに人生を送る権利と交換に魂を差し出す契約を結んだ。

彼は魔術によって七つの罪の世界へ案内され、そこで快楽や権力や偽りの信仰を体験する。そして、やがて己の選択が間違っていたことを悟る。しかし、救いを求めるには遅すぎて、約束の24年が過ぎる。もともと魂のない動物なら、死ねば土に帰るだけだが、「だが、俺の魂は地獄でペストにかかって生きながえねばならぬ。俺を産んだ親に呪いあれ。いや、フォースタスよ、己を呪え、天国の喜びを奪った悪魔を呪え」と言いながら、地獄に落ちる。最後にコーラスが「天の力が許す以上のことを行った」から、と歌う。

1603年のペスト大流行に先立つ15年間、すでに経済不況、凶作、スぺインとの戦争、増税に苦しでいたロンドンのスラム街の貧しい人びとに、信仰心が欠けているので罹患したのだと責める聖職者たちに義憤を覚えたマーローが、この劇を作った。この劇は、ルネッサンスの人文主義思想にある人間中心の世界観の理想と限界をよく表している。形骸化したキリスト教会を批判しながら、惨憺たる生の現状を前に無力な医学にも絶望する。近代は、フォースタスが捨てた学問、つまり科学あるいは合理的思考によって、徐々に神の領域に立ち入って、現世における人間の幸福を追求していく歴史である。ルネッサンスの異端児マーローは信仰と学問の間でさ迷う近代の端緒に位置していたと言える。

シェイクスピアの生涯もいつもペストの脅威に晒されていた。1564年彼が生まれたストラットフォードで200人以上がなくなっている。彼が洗礼を受けた日の教会の記録に「ペストここで始まる」(hic incepit pestis)とある。ロンドンの彼の劇場グローブ座も何度かペストの感染拡大を恐れて閉鎖された。上演できない期間彼は作詩に没頭したらしい。1592年から1594年までイギリスの各地でペストが流行った。シェイクスピのみならず当時の詩人や劇作家たちシドニー、ナッシュ、マーローはロンドンでペスト感染の拡大を防ぐために患者の家は閉ざされ、その中に彼らが閉じ込められた光景を目の当たりにしたのである。

『ロミオとジュリエット』(1595)は二人の恋人の悲劇で終わるが、その直接の原因はペストであった。僧ローレンスは若い恋人を一緒にするために計画をめぐらし、その仔細を説明した手紙をマンチュアにいるロミオに届けるために使者僧ジョンを送った。しかし僧ジョンが道連れに選んだ僧がちょうど病人を見舞に行ったところだった。運悪くそこで検疫官に見咎められ「われわれ二人を、恐ろしい伝染病患者の出た家に居合わせたという疑いで、戸口は封印するし、一切外出を禁止してしまったのです。そんなわけで、肝心のマンチュア行きが、すっかり遅れてしまったのです。」(中野好夫訳、5幕2場)その結果、一時的に眠っているジュリエットが本当に死んでしまったと思い込んだロミオは、悲嘆にくれ自害する場面へと劇は一直線に進む。

ペスト禍への言及が彼の作品に多くないのは、観客にわざわざ凄惨な生活状況を思い起こさせるのではなく、儚い人生の一瞬を楽しませるのが観劇の目的であったからだろう。言及するにしても軽く触れる程度で済ますのは、死を無視したからではない。むしろ感染による死の恐怖が、生の喜びを強調する方に反転したと考えるべきだろう。それはボッカチオが『デカメロン』を黒死病の蔓延するフィレンツェで書いた事情と同じだろう。

例えば『恋の骨折り損』(c1596)の冒頭で、ナヴァール王は儚い人生と長続きしない美を嘆くのではなく、また人の情念と世俗の欲望に誘惑されることなく、すべてを刈り取る「時」の鎌に対抗するために宮廷を不滅の学芸を極めるアカデミーにする理想を語る。そのために、王は三人の貴族とともに学問に打ち込むために、3年間は女性と接触しないと誓いを立てた。しかし、美しいフランス王女と三人の貴婦人に会うなり恋をし、あの誓いは破られる。その際、貴族のひとりビローンは彼が恋焦がれるロザラインに恋の病をペストに喩えて、誓約を破ったことを弁明する。彼は自分と同様に「あの三人の身の上に“主よ憐み給え”と書いてくれ。彼らは感染し、彼らの心は病に取り憑かれている。ペストに罹っているのだ。あなたたちの目からうつされたのだ。彼らは罰を受けているが、あなたたちも感染してないわけではないぞ。主の徴[ペスト感染]がお前たちの身の上にも見えるじゃないか」(5幕2場)。確かに、美しい女性に見つめられて、恋の病に青ざめ喘いでいる男たちを熱病の患者に喩え、また男に恋煩いさせた女性を感染元と喩える言い回しは特に珍しいわけではない。しかし、おぞましいペストがロンドンの人々を震え上がらせている真只中にあっても、シェイクスピアにとって、恋の苦悩はペストの苦しみと本質的に同じ性質のものであった。

学問も宗教もペストだけでなく恋の病も治せないとなれば、学問を神聖化することも、自然の情に背いて禁欲的に生きることも、欲望のままに生きることと同じ程度に「罪」である。芸術の意義を認めないプラトンのアカデミーを模範とする国を作ろうとしたナヴァール国王の夢が、彼自身の心に生まれた恋愛感情によって脆くも崩れ去るという皮肉は当然シェイクスピアの、そして時代のものであった。その恋愛感情が神の怒りの暗喩としてのペストであったとしても、それは人が人である限り避けようのない生の現実である。この現実を再現するために「いわば自然向かって鏡を差し出す」(『ハムレット』3幕2場)ことによって、時代のあるがままの姿を映し出すのがシェイクスピア劇の目的であった。

『十二夜』(1602)のなかで、トービィとアンドルーに歌を所望された道化は「愛の歌、それとも良き生活の歌、どちらを?」と尋ねる。前者は「愛の歌だ、愛の歌だ」と、後者は「そうそう、良き生活の歌なんて気に入らないね」と言うので道化は次のように歌う。

O mistress mine, where are you roaming?
Oh, stay and hear, your truelove’s coming,
That can sing both high and low.
Trip no further, pretty sweeting,
Journeys end in love meeting,
Every wise man’s son doth know.
私の恋人よ どこへ行くの
ここに居て聞いておくれ 愛する人がくるよ
高い声でも低い声でも歌えるのだよ
どうか遠くに行かないで 可愛い人よ
旅は愛の出会いで終わるもの
賢い人の子ならみんな知っているよ
What is love? ‘Tis not hereafter,
Present mirth hath present laughter,
What’s to come is still unsure.
In delay there lies no plenty,
Then come kiss me, sweet and twenty,
Youth’s stuff will not endure.
          (Act. II, sc. iii)
愛とは何でしょうか 来世にはないよ
今の喜びに今の笑いがあるのだよ
未来などあてにならないよ
遅れたら何も残らないよ
さあここへ来てキスしておくれ 可愛い人
若さは長くは続かないから

 当時、「良き生活」といえばカトリック教であれ、プロテスタントであれ、贖罪と救済の教義に基づいて、神の恩恵を得るために備える現世の生活を意味した。とりわけ、ピューリタンたちの禁欲的な現世否定のカルヴァン主義は社会を根底から揺り動かす大きな影響力を発揮した。このような状況を背景にして、欲望を押し殺し、表面だけ品行方正な生き方を取り繕っている執事マルヴォーリオを「ピューリタンの一種だ」とトービーたちはからかうのである。ある意味で、シェイクスピアにとってピューリタンはペストでもあった。それはイデーを遠ざけるという理由で芸術を忌避したプラトンと同様に、ペストや災害や戦争や陰謀に毒されたイギリスの現実を見つめないで、観念や理想主義によって目を曇らせる人たちこそがペストであると言っているに等しい。実際、国教会に弾圧されて、浄化することを諦めて国外に新天地を求めた分離派も、また教会内にとどまって制度と礼拝様式を改革しようとする非分離派の人たちも、広い意味で、ピューリタンと呼ばれた。彼らの一部は、よく知られているように新大陸に「良き生活」の場としてニュー・イスラエルを建設するために移住した。

一方イギリスでは、1640年カトリック教徒のチャールズI世が処刑され、ピューリタン革命が成功した。そして、ピューリタンは劇場を閉鎖した。その理由は、演劇は人生の真実から目をそらす無秩序な、有毒な病とみなされた。また、偶像崇拝を助長した中世のカトリック教の堕落とペストが関係づけられて、さらに現世の偽りの生活を再現して観客を毒する演劇がペストと結びつけられたのであった。しかし、革命の熱病も1760年の王政復古とともに消える。それでも、ペストは不死身であった。

14世紀の大航海時代の幕開け以降、交易のため人の移動空間が拡大し、かつ頻繁になることによって、さらに長引く戦争(30年戦争、100年戦争、7年戦争など)によって人同士の接触が増加した。感染症の蔓延は人の動きと接触が増えるにつれ断続的に起こることとなった。このような中世世界の延長線上に近代があるとすれば、感染症が含意している文化的意味はより広範な広がりを持つのは必然であった。

人はそれぞれに与えられた役割をほんの短時間演じた後、舞台から消えていく。それなら、楽しめる限り楽しくやろうじゃないか、という訳である。人生は喜びと希望に満ちた喜劇の舞台。しかし、一方で、舞台で楽しく踊り終わった後に何が待ち受けているのか、と考えた場合、マクベスが告白するように人生は阿呆が語る「響と怒りの話」にしかすぎず、何の意味もないことになる。人生は、喜びと希望に満ちた生の饗宴であってほしいと願う喜劇であると同時に、そこに「死の舞踏」を見る人に受難と憐みを喚起する悲劇でもある。この二つの間を行きつ戻りつ、人の意識はどこに向かおうとしたのか。17世紀の死生観が内在している二つの方向のその後の展開を見ると、ペストが中世後期からルネッサンス人に受け継がれた実存への不安は近代後期にある現在のそれといかに酷似していることか、驚かざるを得ない。

ベン・ジョンソンはシェイクスピアの同時代人として同じ文化的境遇のなかにいた。彼は1603年7歳の長男をペストで亡くした。その直後、彼は最愛の息子の死を悼むエレジー「初めての息子へ」(1603)を書いた。

Farewell, thou child of my right hand, and joy;
My sinne was too much hope of thee, lov’d boy,
Seven yeeres thou’wert lent to me, and I thee pay,
Exacted by thy fate, on the just day.
O, could I lose all father, now. For why
Will man lament the state he should envy?
To have so soone scap’d worlds, and fleshes rage,
And, if no other miserie, yet age?
Rest in soft peace, and, ask’d, say here doth lye
Ben. Jonson his best piece of poetrie,
For whose sake, hence-forth, all his vows be such,
As what he loves may never like too much.

さらば わが大事の子、喜びの子
お前に望みをかけ過ぎたのは俺の罪 愛する子よ
七年俺に貸し与えられたお前、いまお前を返すのだ
運命によって取り立てられたのだ 期限が来たので
おお いま父のすべてを失うことができればよいが なぜ
羨むべき状態を嘆き悲しむのか
こんなに早くこの世の煩いと肉体の狂気から逃れたのに
ほかに不幸がないとしても 少なくとも老年からは
安らかに休め もし尋ねられたら答えよ ここに
ベン・ジョンソンの最良の詩が眠っていると
お前のために俺がこれから立てる誓いは
愛することはあっても決して愛しすぎないこと

あまりにも大きな喪失感をもたらした最愛の息子の死が彼の信仰を深める契機になったようには読めない。また、普通のエレジーに見られる穏やかな諦念と慰めによって彼の悲しみが和らげられたようにも見えない。その後の彼の作品に対する世間の良い評判とは別に、彼の自己評価は息子という「最良の詩」に匹敵できる作品は残せなかったということだ。ここには風刺、皮肉、諧謔、哄笑、冷笑に充満した彼の劇のなかに込められた説教じみた教訓は見られない、死への深い悲しみがあるのみである。

「今を生きろ」のモットーに関連して言えば、喜劇『ヴォルポーネ』(c1606)なかで詐欺師ヴォルポーネが人妻を誘惑する時に歌った詩はのちに「歌:シーリアへ」(1606)として出版された。それは次のように始まる。

Come my Celia, let us prove,
While we may, the sports of love;
Time will not be ours forever:
He, at length, our good sever.
Spend not then his gifts in vain:
Sun that set may rise again;
But if once we lose this light,
‘Tis with us perpetual night.
Why should we defer our joys?
おいでシーリア 楽しもうよ
いまのうちに 恋の遊びを
時はいつまでも居てくれないよ
われらの恩恵もやがて終わらせる
彼の贈り物を無駄にしないように
沈む陽はまた昇るが
ひとたびわれらがその光を失えば
残るのは永遠の闇だけ
楽しみを先に延ばしてどうするのか

 劇中では、己の欲望を満たすことしか考えていない誘惑者の甘言として、あるいは、中世のロマンスの主題である人妻へのプラトニックな愛をパロディにした歌として聞くことができる。シーリアの夫は高貴な騎士でも貴族でもなく、金銭欲に囚われた俗物ブルジョワであるが、彼女は貞節を守り抜く。そして、最後にその貞節は報われる。一方、劇から切り離してこの詩だけを読む場合は、違う解釈が成り立つ。道徳に縛られ、短い人生を愛なく無駄に過ごす若い女性を口説く恋の歌として、あるいは「命短し恋せよ乙女」と切々と訴える求愛の詩として読める。シーリアは「永遠の闇」が訪れる前に束の間の愛あるいは快楽を楽しもうとする男の欲望の対象である。そして彼女は男が仕掛ける「恋の遊び」に生きがいを見つけるかもしれない。

徳と愛の葛藤は、中世の騎士道物語のなかで理想化された男性の苦悩の源であった。そして、現在から見れば自由がなかった時代に女性は愛を選ぶことは許されず、徳のみを押し付けられたのである。このような意味で、この詩をいずれの文脈で解釈する場合でも、美が無常にも足早に消え去っていくなら、中世の世界はもとより、徳と愛の葛藤を美が仲裁することで成り立っていたルネッサンスの理想的世界も崩れているという意識がある。近代への過渡期にあるルネッサンス後期には、徳に囚われない男は愛つまり欲望に生きることができるが、以前と変わらず徳を押しつけられた女性は徳と愛の葛藤に苦しむ。偏在する死神の足音がその葛藤を一層強く意識させたのだ。こうして男の「死を想え」は徳を忘れて「今を生きろ!」という女性へのメッセージに変換されたのだ。

1600年頃ロンドンの人口は約25万人で1650年には40万人になり、ヨーロッパ最大の都市になりつつあった。1603年に派生したペストが広がると、国王の諮問機関である枢密院は121の教区に対してペストによって死亡した人数を報告させた。週に121人に達した時、集会と劇場の開催を禁じた。こうして1608年7月頃から1610年1月まで劇場は封鎖された。その間ジョンソンは再開される劇場で上演する風刺喜劇『錬金術師』(1610)を書いていた。そこで観客に当時のロンドンの社会的状況、政治、宗教、演劇界を詳しく反映させた。富裕層はペストを恐れて郊外に逃げだした後、町に残った人たちを相手に罪を悔い改めよと説く説教者、インチキな薬を売るいかさま医者たち、浅薄な劇で観客から高い切符を売りつけて大儲けする劇場主や作家を風刺した。彼のこの風刺の精神の根っこに、死の側から見た現世の悲しくも愚かしい人間の営みへの激しい倫理的怒りがあった。

2020年7月19日

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