故郷の御心

February 8, 2021
by Seishu Hamano

 
故郷の友人を亡くし、その御心を讃へて詠める。
Dear Ikuo Yasumoto
You passed away from this weary world
Not leaving any massage to me.
It was only yesterday when I was writing a last Words note to my family and
Wished to hear your frank comments.
Calling you up by phone, but unexpectedly Heard your beloved wife reluctantly saying that he is no more in this world…
On the last day in January this year,
You vanished away to the unknown world
never coming back again.
Alas! I had no idea what to say, what to do,
Only because you were so reliable and healthy,
Un-comparable with me.
 
親愛なる安本郁夫君
貴君は吾人に何ほどの 言葉も遺さず唐突に
この浮き憂き世から去り給ひぬ。
昨日のことであった、我は遺言書を書いていて君のコメントが欲しくて電話した。と、
奥方出られ神妙に 打ち明けられしに驚きぬ
夫君は何処もはやこの世の人に非ずと。
今年になりてこの1月、最後の日に
夫君は未知の黄泉へと旅立ちて
二度と還らぬ人となりしと。
何と! 我は茫然自失、
君は実に頼もしく健康で
吾人とは比べ物にならぬほどでありたるに。
 
Dear Ikuo, we often joked
Our grave very close and even after death
Let’s meet often and enjoy karaoke after dark
Which might cause claim from neighbors.
Ikuo and I were in the same class in Tomioka Higashi Elementary School, growing up to be a farmer and I a teacher and writer, both were
Creatures benevolent to this life world.
You’re actually very benevolent and faithful.
 
親愛なる安本君、生前よく冗談
飛ばし合ひたるぞ、彼我の墓所も近隣ゆえ
墓友達ともなりし故 日暮れと共に会ひ交え
歌会なるも一興ぞ。宵ともなれば彼の双墓は
騒がしきやと近所から
クレームありても然るべき。
君とは登美丘東小学校でも同級ぞ、
長じて汝は農家にて 吾は教師で物書きに。
されど生きとし生けるもの
かけたる愛に代わりなし。
貴君はいつも誠実で思いやりに満ち溢れ。
 
Human is mortal. Even a shogun
Nobody in Edo period stay alive.
Nevertheless always expecting eternity
Never could we realize but in the end
Stay under the cold stone.
Drums in the village festival sound pity
‘Cause no pedestrians are my acquaintance
But so far as our home village is same,
Our friendship will last forever in our mutual heart
Even after our flesh decayed away.
 
人間誰しもいずれは死ぬるもの。
江戸期の人で今もって生存する者誰もなし。
将軍様とて現身の果てぬを願ひて神仏に
永遠の生をば希いつつ気づけば冷たき墓の下。
ふるさとの祭り太鼓は哀しけれ
路ゆく人のみな変はり居て
されど故郷よ奥津城よ互いの心に宿れるは
同じ思いぞ変りなし
たとえ血肉は尽きるとも。
 
Joroku, a cozy utopia, filled with mercy,
Every summer tapping drums singing Kawachi-ondo
Good memory not only to the living but also to the dead,
Mercy, mercy is the best alive forever.
Ikuo Yasumoto and I do believe
We are so happy
Born and brought up here
In this Kawachi country,
Staying forever together with our ancestors.
 
丈六こそは桃源郷。慈悲の心に満ち溢れ
夏ともなれば太鼓の音。河内音頭の
想い出は死しても変はることなしに
人は変はれど思いやる心は朽ちず果てもせず。
安本君よ、君も吾も幸せぞ 河内に生まれし
先達と 共に永劫暮しをる。  合掌

三浦短歌会 一月歌会詠草 令和三年一月三十日  濱野成秋
 
 短歌の結社としてはもう古い方に属するだろう。今年で七十四年になる三浦短歌会。神奈川県の三浦半島を城ケ島に向かったところにある。
 正月三十日、宗匠の三宅尚道氏の車で料理屋旅館「でぐち荘」に向かう。随行は日本浪漫学会の副会長代理河内裕二氏。詠草を寄せられた三浦短歌会の会員は嘉山光枝、加藤由良子、三宅尚道、桜井艶子、三宅良江、嶋田弘子、清水和子の各会員に日本浪漫学会から河内裕二と濱野成秋が加わる。
 今は昨年春先より猛威を揮うコロナ感染症の最中で集会が出来にくい。だが意を決して集まった歌人たちは意気軒高である。
 
  初日の出畑道に立ちて手を合わせ
     コロナ感染終息願ふ   光江
 
  久々に息子は帰省せりなにげなく
     吹く口笛に時は戻りぬ  由良子
 
  短歌会七十四年経過して
     三浦の短歌二集歩ませ  尚道
 
  時経れば百年なりとも親しきに
     父母兄みな逝くそを如何にせむ 成秋
  息詰めて来光の時唯待ちぬ
     去りしあの時われのみぞ知る 艶子
 
  駅ホームの点字ブロックに人立ちて
     障害者への場所と知らさる 良江
 
 秋である。写生歌である。朗々と読み上げる。樹木と色と動物と。その動きの中で枯葉が舞う。英語に driftというのがあり、これは漂い落ちる感であって、dropでも fallでも scatterでもない。それを「舞い散る」と詠んだところが近似してゆかしい。
 
  あいみょんを聞きつつ深夜外に出る
     秋季ただよいブルームーン高し 由良子
 
  感染者五千人超え続いても
     八時になれば朝ドラ始まる 弘子
 
  今日も又何とはなしに日は暮れて
     ふくらむお餅を眺めて待ちぬ 和子
 
  厳冬の心に咲きし寒椿
     花弁ちりばむ春待つ君に 裕二
 右の歌で特に皆が心を寄せたのは「エデンの園」というホームに住んで今年九十一歳の清水和子会員の歌。本日は足止め欠席。ホームでは与えられぬ餅を密かに焼いて頃合いになるのを待っているご本人は、ほんとうに待っているのは何? 訪れる身内? それともやり甲斐のある何か? いや業平のいう、昨日けふとは思はざりしをの…? とは誰も口には出さねど、他人ごとではないとはこのことで。
 
  その名さへ忘られし頃飄然ひょうぜん
     ふるさとに来て咳せし男 啄木
 
 啄木はコロナウイルスで死んだわけではない。だが、肺を患い心細い足取りで飄然と故郷に姿を見せては咳をする男。ここなら死に場所にしてよいとする心情は今も昔も変わりはない。
 終わって持参せし河内裕二副会長代理の五首を披露して勉強会。
歌会の後は別室にて新年会。地魚に鮑に本場のマグロに。天下の三崎港の御膝元である。終わって海辺。対岸に富士の霊峰。いましも暮れゆく夕凪の彼方を酔眼にて望みをり。未だ脈打つことのせつなさを噛み締めて。

東京女子大名誉教授 佐藤 宏子

1.「至高のひと時」とは?

頂いたテーマは「忘れ難い思い出」、あるいは「人生における至高のひと時」。いくつかの出来事が頭に浮かびました。白夜のアラスカの無人の荒野でアルプスより険しい山々に取り囲まれて感じた無に等しい人間の存在の認識。言葉で恋に落ち、自分の中にその言葉に応じる言葉が生まれたときの驚きと喜び。このようなことは人に語るべきことではないでしょう。あるいは「至福の時」は、ドイツの作曲家アレクサンダー・ツェムリンスキーの 美しい小品 “Selige Stunde”が歌うように、憂いに満ちた外の世界を忘れ、愛する人の腕の中で感じるものなのかも知れません。

このようなロマンティックな一時ではありませんが、九十年近く生きてきますと、思いがけない時に、静かな喜びを感じる瞬間に出合うことがあります。記憶の中に、これまでの自分の生き方や物の見方を納得させられる出会い、経験、社会事象が蘇る瞬間です。

2.小石川と私

現在、私は文京区千石というところに住んでいますがこの土地に地縁も血縁もありません。ただ、今から八十年前、1940年12月から1945年3月まで四年余り「小石川区西丸町35番地」というところに住んでいました。現在の文京区千石です。現在ここには、かつての駕籠町、西丸町、丸山町を偲ばせるものは殆ど残っていません。空襲を生き延びた大銀杏の古木が一本、大企業の社長の邸宅だったチューダー朝風の邸宅が天理教の教会になっているくらいです。

白山通りを挟んで超高級住宅が並ぶ大和郷があり、財閥や爵位をもった人たちに邸宅が並んでいる一方で、まるで江戸時代のような提灯屋、組紐の職人の工房があり、寿々本の寄席があり、肉屋も魚屋もお屋敷向けと庶民向けの二軒が並び、高級食材店と西丸町市場が向かい合っていました。窪地には「貧民窟」と言われた長屋さえありました。日本社会の階層の縮図を目の当たりにしての日々の暮らしでした。

2010年の春、知人がこの地に高齢者向けの集合住宅を建てたという知らせがありましたので、見せていただくことにしました。65年間世田谷の代沢という地域で一戸建ての住宅に住んでいましたが、縁者をすべて見送って一人になると、それほど広くはない庭の手入れすら八十歳近い身には負担に感じられ、老後の生活形態を考えるようにはなっていました。

その新築の集合住宅は、魅力のない建物でした。高齢者向きの設備は整っていましたが、建築デザインなどには殆ど配慮がない建造物でした。まだ、入居が始まっていない時でしたので、種類、サイズの異なる部屋を見せていただき、「さて、そろそろ口実を見つけて退散しよう」と思っていた時、最上階に案内されました。

北西向きの部屋には、室内と同じくらいの広さのヴェランダがついていました。巣鴨から池袋までの低層の住宅群が眼下に広がり、さらにそのかなたに埼玉あたりまでの広い空。その時、思わず「ここだったら住んでもいいわ」と言っていました。それから八か月後、そこが私の居住地になり、現在もそこで暮らしています。

何故、その時にここに住もうと思ったのかは、自分でも説明がつきませんが、眼下に広がる黒っぽい低層住宅の屋根が連なった景色に、1945年4月13日の山の手空襲で焼け野原になったこの辺りの光景が重なったのかも知れないと感じています。

3.明化小学校

1941年1月、私は明化小学校の一年生に編入しました。銀行員だった父の転勤にともなっての愛媛県松山市からの転校です。その年の12月には日米開戦ですから、教室で落ち着いて授業を受けたという記憶はあまりありません。先生方は生徒たちの給食の食材の手配、安全の確保、防火体制の整備など、授業どころではなかったのではないかと思います。本を読むのが好きだった私はしばしば先生に頼まれて、授業の埋め合わせに読んだ本のお話をしていました。「オサトちゃんのお話」として結構人気がありました。最後の「お話」は五年生の一学期の終わりころ、少彦名命が稗だか粟だかの茎をばねにしてぴょんと飛ぶことを話している最中に、慌ただしく先生が教室に戻ってこられ、授業は今日で終わり、宮城県鳴子温泉への集団疎開が決まったことを告げられた時でした。

小学校時代、大泉学園にあった学校の農園でのお薯作りなど楽しかったこととともに嫌だったこともいくつかありました。その一つが御真影礼拝でした。講堂の壁に天皇、皇后の写真が掲げられていて、普段は襞のある繻子のカーテンのようなものに覆われているのですが、天長節、明治節、紀元節などの式典のおりには、そのカーテンの紐をひいて開く役目を命じられ、お辞儀の練習などをさせられるのが嫌でした。何故兵隊さんたちはこの人のために死ななくてはならないの、というのが子供の素朴な疑問でした。それは、今も変わっていません。

戦争との関った記憶として忘れられないことが二つあります。一つは強制疎開と称する家屋の取り壊しです。現在の千川通りに面した家屋を空襲での延焼を防ぐという理由で取り払う作業で、小学校の四年以上が動員されました。大人が綱を掛けて引き倒した家の木材を小学生が仕分けし、女性たちが馬車で積むという作業です。釘を踏み抜いて怪我をする同級生が沢山いました。労力の浪費を実感する空しい作業でした。

四年生の秋だったように記憶しますが、生徒全員が講堂に集められました。交換船でアメリカから帰国された方のお話を聞くためです。三人の中年の男性が講師でした。最初の二人の方は、日本の勝利を確信しているような威勢の良いお話でしたが、三番目の方がこう言われました。「坊ちゃん、お嬢ちゃん、よくきいてください。アメリカも本気で戦っているのです。」その方は、いかにアメリカの人たちが、戦時下で物資を節約し、戦費を捻出しているかを話されました。赤鬼、青鬼としてポスターに描かれているのとは違う人間としてのアメリカ人を子供心に認識した瞬間でした。

4.東京大空襲

不謹慎なことですが、東京大空襲は、見たこともない美しい空として記憶にとどまっています。空襲警報が発令され防空壕に入るよう両親に促されましたが、眠くてまた布団にもぐったことを記憶しています。再度起こされたのですが、両親は私を防空壕に連れていくのを諦め、私が窓にしがみついて空を眺めるのを咎めませんでした。真夜中というのに空は美しい青、空一面には無数の赤いキラキラ光るものが舞っていました。焼夷弾に使われていた金属箔が炎を受けて輝いていたのだと後で知りましたが、決して忘れることのできない光景です。後にニューヨークの近代美術館で倉俣史朗さんのデザインした透明なアクリルの中に沢山の赤い薔薇の造花を浮かべた椅子を見た時、彼にインスピレーションを与えたものの一つが九歳の時に見た東京大空襲の日の空だったと知って妙に納得したことを覚えています。以来、戦争の記憶が他人に語り継げるものかどうかという疑問を抱くようになりました。

5.Oちゃんのこと

Oちゃんは二年下でした。彼女と仲良しになったきっかけは覚えていませんが、週一度のお琴のお稽古に通っていた先生のお宅が丸山町の彼女の家の近くだったので、行きかえりにいつの間にか仲良くなったのだと思います。末っ子だった私は、妹ができたような気持ちでした。最後に会ったのは、1944年の夏、明化小学校の集団疎開に加わって出発するのを学校の前で見送った時です。海軍の佐官だった彼女の父君は敗戦の時、大本営の報道部長だったと思います。

私は香川県の父方の祖母のもとに疎開していましたので、東京に戻ったのは1945年の暮れ、小石川の家は4月13日の空襲で焼失し、両親と兄が移っていた世田谷の家が新しい住まいになりました。それでも六年生だった私が明化小学校を卒業したいと言い張った理由の一つはまたOちゃんに会えると思っていたことでした。

学校が始まる前日、兄からOちゃん一家の死を伝えられました。敗戦から数日後、彼女は父君の部下に連れられて皆より早く帰京したそうですが、帰宅した夜、彼女と弟さんは毒で、ご両親は日本刀での最後だったとのことでした。彼女の家は間もなく取り壊されて、地主だった隣の家の庭に取り込まれ、現在何の痕跡はありません。戦争の本当の責任者は誰?という問いは、今も私の心離れることはありません。

6.終わりに

戦時下の子供時代の数年の記憶が、なぜ重い意味をもっているのかと不思議に思われるかも知れませんが、それから現在まで、日本の国の歩み、政治、社会の在り方に疑問を投げかけてきた「へそ曲がり」の自分の生きてきた道を振り返ると、小石川で過ごした子供時代の記憶の持つ力の大きさを改めて認識させられるのです。

濱野成秋

これは会心の作だ

とにかく、英語の勉強になる本である。口語というのは、常日頃から意思疎通するのに頻繁に用いる伝達手段だから、知れば知るほど役立つ。そうは思えど、日本は不利この上ない。国土は欧米諸国から遠く離れたアジアの一角だし、外国人としてアメリカ国内に住んでいるだけで自然と身に付くはずの口語には、いつまで経っても親しめない。悲しい。切ない。コンプレックスだらけ。

僕の場合、子供の頃に父親が進駐軍をたくさん呼んでダンスパーティをしょっちゅう自宅でやった関係で口語表現が飛び交い、そいつが役立って今日の仕事に繋がる。しかし外人教師の来る教会で学んだ高校時代やステークハウスで基地の外周に住んでいるGIとのやり取り以外、アメリカ行きまで、苦労の連続だった。だからこの本は会心の作である。買って毎日バッグの中に入れ、1時間といわず、暇さえあらば声出して覚えるとよい。

使い分けが大事です

日本語抜きの英語論文などは、工夫をすればそれなりに上達するけれども、口語語法はだめ。結局ACLSという、フルブライトより難関と言われた大学教師だけのテストに筆者は食いついてトップ当選。おかげでNY州立大の客員教授に。だがそこで自分が喋っていたのは、おそろしく丁寧で上品な正調英語だった。Would やcouldなど、仮定法がざらの表現である。気取らぬ会話がランチ会話というのが普通のはずだが、やはりProfessor Hamanoと普段から呼ばれていると、窮屈だが正調ばかりの英語を使う。Wannaなんで表現など使わないように、get in touch withというような表現も避けてmake contact with などと言ってみたりで、大人社会とはそういうものなのだった。

だから日本語でいえば「お金魚がお元気で水泳してらっしゃる」というような英語を真面目くさって話していたんだろう。これが外国人というものなのだ。

英語学習法の本を幾つ書いた

僕は英語学習本で研究社から「合格ラインシリーズ」と称して、単語、熟語、英文法の3点セットを出し、単語集はミリオンセラーだった。それはNY州立大でディベートをやったり、車を売るの売らないので揉めた時の弁護士の卵との電話での猛烈な論戦の果てに、大雪のなか、ダウンタウンへ行き、和解をして大いに語り合った、そんな想い出も綯い交ぜになって出した。忘れもしない僕が州立大バッファローの大学院でポストモダンのアメリカ文学を院生に教えていた年とほぼ同時期だが、Malamud, Barthelme, Fiedler, Brautigan, Vonnegut…数え上げれはきりがないほど沢山の作家たちとインタビューしており、研究社の『英語青年』に原語で連載。中公の月刊文芸誌『海』に発表していた。自分でも恐れ入るが、これが僕の英語人生だったが、口語表現を大分使ったかというと、さほどでもない。

学習書としてのこの本

「日米口語辞典」は、辞書として使うのではなく、学習書として使いたまえ。

そのやり方を伝授しよう、すべてQ&A方式で、「声だし」でやること。それもゆっくり考えているようではダメ。0.1秒以内で答えられるまで間髪を入れず英語を言う。大声を出せ。小声でもぞもぞ言っているようではモノにならない。見出し語だけやったのではだめ。例文がたくさんあるだろ、それをまず日本語を先に読んで、英語を自分で作る、声出し式でね。このQ&A即声方式は、僕が非常勤で教えていた一橋大でも、早稲田でも、生徒たちにしっかりトレーニングしたよ。受験勉強だけして来た学生を、たった1年で通訳が出来るように仕立て上げたわけだ。そういうことなら出来るだろう。

TPOをわきまえて使おう

著者の皆さん、編集部のみなさん、ご苦労さま。自分の長くて短かった人生とこの本の完結とを一緒にしては気の毒だが、僕は敗戦後の負けじ魂をもってアメリカでは朝鮮戦争の元軍人だった男を猛烈に議論して打ち負かした。つまりそういうのに使っていた表現がいっぱいあるから、君らTPOに気を付けて使いたまえ。今夜は呑みたい気分である。(京都外大客員教授)

本田 康典

はじめに

我が国でヘンリー・ミラー(1891-1980)の作品が翻訳・紹介され始めたのは1953年(昭和28年)であった。当時は朝鮮戦争が終息し3年前に誕生した警察予備隊が保安隊となって国防問題が再燃していた時期で、日本の保守本流がやや右傾化している時期であったと言える。そのさ中の登場ゆえ、ミラーの包み隠さない性的描写は反逆的志向を持つとされ、異端視されていた。

筆者は1961(昭和35)年、鎌倉の啓明社から刊行されていた英文によるミラー作品に高田馬場の古書店で巡り合ったのがきっかけで、彼の志向に惹かれたわけだが、世は上げてAmericanismに酔うがごとき保守的時代精神が横溢していたから、彼の登壇は異彩を放っていた。ミラーはエログロ・ナンセンスの風潮の中で後に言う「ポルノ作家」扱いされていたが、20世紀という時代とアメリカという空間を超越しようとして言葉を爆発させている、と私は感じていた。それはまた明治維新後の脱亜入欧あるいは和魂洋才を標榜されながら世相は因習的概念から脱しきれず、閉塞状況にあったことに業を煮やした東京新詩社をはじめとする日本型浪漫主義の台頭と共通したわけで、筆者のミラー論はそのパラダイムと捉えた編者の意向にも通底すると考えてよい。

1.1960年代の日米における反応

1963年(昭和38年)、早稲田大学非常勤講師であったケイト・ミレット(1934-2017)は、『英文学』(第23号、早大英文学会)にHenry Millerと題する論考を寄稿し、ミラーを痛烈に批判した。早大の関係者によると、ミレットは教員室では寡黙でひたすら本を読み耽っていたというが、彼女は後の女権運動の闘士であった。ミレットは当時、アメリカで吹きあれていた『北回帰線』旋風を日本から眺望する立場であったけれども、帰国後に Sexual Politics (1970)を上梓してフェミニストの視点で論考する。

『北回帰線』はパリでの出版から27年後の1961年6月に出版され、同年秋にペーパーバックが200万部印刷された。『北回帰線』が合衆国憲法によって保護されないとみた出版社が海賊版を出す構えをみせたために、グローブ・プレスが急ぎペーパーバックを刊行する対応策をとったのである。出版の可否について60件もの法廷闘争に展開したが、グローブ・プレスの社主バーニー・ロセット(1922-2012) は弁護士グループを擁して果敢にアメリカ社会に挑戦し、1964年に最高裁で結着を見た。

1965年、アメリカの『北回帰線』旋風にあおられたせいであろうか、大久保康雄と飛田茂雄を中核とする翻訳者たちによるヘンリー・ミラー全集(全13巻)が新潮社によって企画された。1966年『本の手帳』(ヘンリー・ミラー特集、8月号)において、立教大学教授の細入藤太郎は、1939年9月にデンマークの首都で『北回帰線』(初版)を読んだと述べた。彼は日本の最初の読者であった。

1967年、ホキ徳田と結婚したミラーは、週刊誌にも登場し、話題の対象として盛り上がりをみせたが、ミラー像に劇的な変化がみられるようになったとは言えなかった。

1980年、欧米の批評家や研究者の代表的な諸論文を訳出した大久保と飛田は『ヘンリー・ミラー』(早川書房)を上梓した。序文において大久保は、「(日本では)ミラー文学の本質を論じた研究者があまりにも少ない」と断じた。彼はヘンリー・ミラーについて、翻訳・紹介の時代から研究の時代への推移を見極めようとしていたのである。

2.ミラー像は変貌しているのか?

ミラー像は固定化してしまったのではなく、たえず変化する。しかし、緩慢に。新たな読者がミラー作品を読めば、ミラーは新しくなる。思想家、哲学者、文学者がミラー作品に接し、発信すれば、ミラーはさまざまな相貌をみせる。

またミラーは歯が立ちにくい作家ではあるが、研究者がミラーの伝記的事実を新たに掘り起こし、テクストの緻密な読みに向かうならば、ミラー像は必然的に変貌するだろう。以下にその片鱗を挙げておく。

⑴上野霄里 ―― 東北の哲人

1969(昭和44)年、岩手県一関市在住の思想家・上野霄里(実名は賢一)の『単細胞的思考』(行動社)が出版された。序文の書き手はヘンリー・ミラー。『ネクサス』を読み、こんなふうに書いてよいのであれば自分も書けると思った上野は、原稿用紙大に切り揃えたチラシの裏や包装紙に自分の思いを書き連ねていった。『単細胞的思考』は、一部の全共闘の学生や三島由紀夫の楯の会の闘士を一関に引き寄せる威力があった。が、上野の破天荒な主張や川端康成を罵倒する言辞に辟易したせいであろうか、批評家たちは上野を回避した。
 1970年、三島由紀夫の割腹事件があり、ミラーと上野のあいだの書簡の往来は激しくなった。1971年10月、ミラーによる「三島由紀夫の死」(飛田茂雄訳)が『週刊ポスト』に連載されたが、そこでは「性の作家」というヘンリー・ミラー像は破砕されている。上野は健筆のひとであり、10冊以上の著書が出版された。ミラーのひととなりと作品は、天才的人物を解き放つ衝撃力を秘めているように思われる。近年、「ヘンリー・ミラーと日本」というテーマをもつアメリカ人の研究者ウェイン・アーノルド(北九州市立大学教員)が両者の間を往来した膨大な書簡を手がかりとして知られざるミラー像を描きはじめた。

⑵ファム・コン・ティエン ―― ベトナムの哲人

1965年夏、24才のファム・コン・ティエン(1941-2011)が、ミラー宅を訪問し、「ヘンリー・ミラー、ぼくはあなたを殺す」と声を発すると、ミラーは訪問者を抱きしめ、壁に「逢仏殺仏」と書けと言ったという。野平宗弘(東京外語大教員)はこのエピソードを彼の著・訳書において幾度も紹介している。ティエンがミラーの作品を読み、禅を学んだのが1959年であったから、彼は19歳の時にミラーを知ったことになる。ミラーはティエンを「ベトナムのランボー」と評したという。

ティエンは詩人であり、小説家、翻訳者、思想家、その他であり、要するに、天才的な哲人である。野平の著書『新しい意識』(岩波書店、2009)を読むと、ティエンがミラーをおのれ自身の強固な橋頭堡にしていることがよく判る。25歳のティエンがパリで書き始めた『深淵の沈黙』の訳書が2018年に東京外語大学出版会から上梓された。ニーチェ、ランボー、ハイデッガー、ヘンリー・ミラーが頻出しているが、この作品はベトナム戦争の惨禍、ベトナムのうめき声の発露になっている。

⑶ノーマン・メイラー『天才と肉欲』

1940年、まだ17歳であったノーマン・メイラーは、地下出版の『北回帰線』を読み、さらにアメリカ作家たちの作品を渉猟し、ふたたびヘンリー・ミラーにもどり、ミラー論『天才と肉欲』を1976年に発表した。この作品においてメイラーは、「ヘンリー・ミラーにはいまだ明らかにされていない謎があって、その謎は偉大な作家というものが、いかに怪物じみたものであるかを告げている」と書き込んだ。ミラーは『南回帰線』において、「強烈な作品、永遠に理解されることのない作品」を執筆しようと意気込んでいるのであるから、ミラー作品に明らかにされない部分があるのは当然であるように思われる。しかし、ミラーの圧倒的な影響力が外堀を埋めるかのようにミラー像を新たに浮上させていくことになるだろう。

結語

ミラーの生きた時代は大戦、ミリタリズム、極度なコロニアリズム、国家主義が当然とされていた。言い換えれば国家や巨大なる護持思想の中に個人の尊厳や人生の幸せなど無力で微小化されて当然の時代であった。メイラーは大戦に送り込まれ、一兵士としての体験もあり、戦後に生じた米ソ冷戦時代にもゼロ記号として埋没したままの一般庶民をsquareあるいはorganization manと捉え、白人でありながら常に組織の下で踏みにじられる若者たちbeat generationに同情を示して、総じて当時のアメリカ人をwhite negroと呼ぶ評論を書いている。この価値基準でミラーを捉えたメイラーの感覚は今日常習化した核武装とミサイル攻撃という状況にも当て嵌まる。すなわち、閉塞状況のなかで活路を見失った人々は自由恋愛や片時のエクスタシーを求める飲酒や逸脱した男女関係は刹那主義の行動であり、一種の短絡した実存であるが、こうした今日的生命主義あるいは実存哲学をミラーはすでに予見していたともみなし得る。

(宮城学院女子大学名誉教授)