日本浪漫歌壇 冬 如月 令和三年二月二七日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 春を思わせる陽気が続いたかと思うと真冬のような寒さに逆戻り。三寒四温とはよく言ったものである。晴れ渡るも風はまだ冷たい。二月二七日、午後一時半より三浦短歌会の皆様と日本浪漫学会で歌会を行った。会場は三浦勤労市民センター。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、玉榮良江の五氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の桜井艶子、清水和子の二会員も詠草を寄せられた。
 
  初春に涙腺ゆるむ孫の書く
    はねだしそうな「新たな決意」 由良子
 
 お孫さんのお習字を見たときにその伸びやかな字を見て思わず涙が出たそうで、作者の加藤由良子さんは「最近はこんなことで涙腺が…」と仰る。お幸せな証拠である。元気に育つ孫とそれ温かく見守る祖母。参加者もみな温かい気持ちになった。「はねだしそうな」の言葉遣いが秀逸というのが皆の共通した意見であった。
 
  「歩いてる?」娘に訊かれ生返事
        愛犬逝きて運動不足 光枝
 娘さんに尋ねられ生返事でごまかす様子は微笑ましいが、その分愛犬を亡くした寂しさも伝わってくる。昨年愛犬が亡くなるまでは犬の散歩が日課だったとのこと。毎日時間になると、散歩を待ちきれない愛犬に催促される。そんな光景も目に浮かんでくる。
 若山牧水にもこんな歌がある。
 
  枯草にわが寝て居ればあそばむと
     来て顔のぞき眼をのぞく犬 牧水
 
 筆者は犬を飼っていないが、飼っている人を見ると犬の方が主導権を握っているように思えてしまう。気のせいだろうか。
 
  アネモネは信仰の花 花言葉
     「信じ従ふ」ラジオより聞く 尚道
 
 作者の三宅尚道氏の話では聖書には「野の花を見よ」という言葉が出てくるが、この花はアネモネだと言われている。毎日その日の花と花言葉を紹介するラジオ番組があり、アネモネの日があったことで生まれた歌。クリスチャンの三宅氏ならではの一首。調べてみると、赤いアネモネはキリストの受難を象徴するようだ。ギリシア神話ではアフロディテの愛したアドニスの血がアネモネに変わったとされる。
 筆者はこの歌に散文的な印象を受けたが、作者の三宅氏ご自身もどこかしっくり来ないと感じていて、皆で忌憚なく意見を述べあった。議論が行き詰まった時、絶妙なタイミングで濱野会長がユーモアを込めた本歌取りを披露。作者を愛する奥様がちょっぴり皮肉を込めて詠んだ歌との設定で、
 
  ナルシスは夜更けの花よあなたなら
     アネモネのごと信仰一途に 成秋
 
 この一首で場の雰囲気が一気に和んだ。
 
  お水取り越えねば春は来ぬといふ
        母の冬里思へば幾歳 成秋
 
 「お水取り」とあるので「冬里」は奈良だと判断できるが、作者の濱野会長のお母様は奈良のご出身。「お水取りが済むまでは春は来ない」とよく仰っていたそうで、奈良は盆地で冬はしんしんと冷えると伺って冬の奈良を知らない筆者も納得。「古里」や「故郷」では寒さは伝わらない。
 「思へば幾歳」と、お母様の出身地に対しても長い間欠礼していて申し訳ないと思えるのはお母様への深い愛ゆえ。中村憲吉にもお水取りを詠んだ歌がある。
  時雨して奈良はさむけれ御水取
     なほ二月堂に行を終らざる 憲吉
 
 同じくお水取りが終わらないと春は来ないと言っているが、母への思いを詠んだ濱野会長の作と比べると写実的である。
 実際の「母の冬里」は、神通力で空を飛んでいる時に若い女性の脛を見て墜落した久米仙人の話で有名な橿原の久米とのこと。それを伺ってにわかに親しみが湧いた。面白い仙人もいるものだ。
 
  西の空父母の顔あり悔ゆるのみ
     八十路往く身に老いのしかかる 艶子
 
 本日欠席の桜井艶子さんの作。人生を振り返り、今になって両親の存在が大きかったことを痛感し、感謝の気持ちともっと親孝行をしておけばよかったと悔やむ気持ちになられているのだろう。参加者の皆さんからこの気持ちはよく分かるとの声。
 作者の桜井さんは三崎の入船ご出身で加藤由良子さんとは幼なじみ。加藤さんのお話では桜井さんのお父様は県会議員をされていてお母様も旦那様を支えながら一生懸命働いておられたから、その姿を思い出されるのではないかとのこと。
 「西の空」とは西方浄土のことであろう。浄土が西にあるとされたのは、太陽も月も最後は西に沈むのですべてのものが最後は西に帰するとされたとする説が有力。美しい夕日が沈むのを見れば誰でもその先に浄土があると思うのではないか。そんなことを思っていたら、次の作、夕焼けの歌に。詠んだのは筆者である。
 
  冬夕焼赤く染めたる故郷の
     夕べの雲はどこへ向かふや 裕二
 
 場所が議論になった。作者はどこにいるのか。故郷に戻って詠んでいるのか。故郷を思って詠んでいるのか。また夕焼けも同様で、故郷の夕焼けか、今住んでいる場所の夕焼けか。両方の解釈が出て、どちらかと尋ねられた。
 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で始まる室生犀星の詩の「詠んだのは故郷か否か」問題が一瞬頭をよぎったが、著者としては、読者がどちらにでも解釈できるように意図して書いたので、どちらでもよいとお答えした。とくに夕日や夕焼けは、人それぞれが自分のイメージを持っている。現在住んでいる東京で見る夕焼けはオレンジ色とお話したら、三浦は真っ赤ですよと皆さん仰る。「夕焼け小焼け」の歌は八王子の恩方の情景だったが、もはやそこでは見られない。最近三浦で沈む夕日を見てここではまだ見られると思ったと仰ったのは濱野会長。嘉山さんによると諸磯湾に沈む夕日が最高に美しいとのこと。夕焼け話で盛り上がった。
 冬の夕焼けを表す言葉には「冬夕焼」「寒夕焼」「冬茜」「寒茜」がある。初句は「冬夕焼」と「冬茜」で迷い、音の並びですっきり聞こえる「冬茜」を考えていたが、濱野会長より「あかね」と言えば万葉集の額田王の有名な一首がある。
 
  あかねさす紫野行き標野行き
     野守は見ずや君が袖振る 額田王
 
 この歌は月光の中という解釈があり「あかね」が夕焼けを表さない場合もあるとのご指摘をいただいた。「冬茜」という語があまり使用されないために意味が分かりにくいことも考慮して「冬夕焼」にした。
 
  愛すれど猫は巧みに家を出で
     畑や山をグルグル回る 良江
 
 家猫がすきを見て時々逃げ出すので、作者はそのたびに探し回り、猫に振り回されている。先日も五時間探されたそうだ。
 「畑や山をグルグル回る」というどこかコミカルな後半部分が、飼い主になど全くお構いなしに自由奔放に行動する猫の特性と何となく人を馬鹿にしているような印象を上手く表現している。憎たらしいけど猫好きにはそれがたまらないのだろう。
  いにしえの塚の遺れる丘に立ち
     時の動きを中宙に視ゆ 弘子
 
 作者の嶋田さんは、三浦市火葬場を更に上った見晴らしの良い丘の上に畑をお借りになっていて、近くに十三塚がある。人から聞いた話では、十三塚は三浦道寸の十三人の家臣の塚で、彼らは新井城が燃えているのを見ながらそこで亡くなった。落城は一五一六年。北条に敗れ三浦氏は滅ぶ。
 作者が塚のある丘から見た空はとても美しかった。自刃した家臣たちが見た空もきっと美しかったのだろう。空は変わらないが時は変わると感じお詠みになったのがこの一首。
 嶋田さんのお話を伺い、次回の歌会後にぜひ皆で十三塚を訪れようという話になった。三浦半島には史跡が多い。最近濱野会長が見つけた戦跡は、海軍水上特攻隊の特攻艇「震洋」の格納庫。場所はカインズホーム三浦店近くの海岸の崖を降りた所。付近の丘陵地帯も戦争当時は零戦基地だったとの説明。
 
  ”推し“などと粋な言葉を使われて
     吾人はたじろぎ若者を見る 和子
 前回に続きホームの外出許可が下りずにご欠席となった清水和子さんの作。三宅氏のご説明では、第一六四回芥川賞の受賞作である宇佐美りん『推し、燃ゆ』(二〇二〇)を踏まえて詠まれた歌とのこと。
 現在、宇佐美氏は大学生で二一歳。清水さんは九一歳と伺ったので、年齢差だけを見れば大きい。「推し」という言葉は、若者が使う場合「応援しているアイドル」といった意味で使われることが多く、かなり意味が拡大されているが、逆に「一推しアイドル」が略されて「推し」になったと考えたほうが適切かもしれない。「推し」は辞書的には「一推し」の意味なので、使われても「たじろぐ」ほどではないだろう。
 『推し、燃ゆ』のタイトルの二語で言えば、「推し」よりも「燃ゆ」の方がわかりにくい気がする。「燃ゆ」とはネットで炎上すること。「”推し“など」と「など」が付いているので、あるいは「推し、燃ゆ」という言葉にだじろがれたのだろうか。清水さんに伺えないのが残念である。
 『推し、燃ゆ』の主人公は、好きなアイドルの応援に心血を注ぐ女子高生だそうだ。では、同じ「燃ゆ」でもこの歌はいかがだろう。
 
  真昼日のひかり青きに燃えさかる
     炎か哀しわが若さ燃ゆ 牧水
 歌会を終え、コーヒーショップ・キーという名のカフェに移動してお茶をいただく。しばし歓談し、カフェを後にする頃には西の空は冬夕焼。充実した一日であった。今日は皆さんが仰っていたほど赤くはない。残念。
 帰り道、夕焼けを見て無意識のうちに浮かんできたのは「夕焼け小焼け」の歌だった。なぜ自分の「冬夕焼」の歌でない?歌人としてまだまだ修行が足りないようだ。
 
◎次回の合同歌会は三月二七日午前十一時より。この日は新人も加わっての花見の宴も用意されています。場所は三浦三崎の「民宿でぐち荘」(電話042‐881‐4778)。地元では定評のある魚介類が楽しめます。当日会費は三千三百円。入会希望者は、info@romanticism.jp または 090‐2735‐7495濱野成秋会長までご一報ください。年会費五千円。

本学会相談役 鈴木孝夫慶應義塾大学名誉教授追悼

畏敬の師とその時代

3.「知」は活性化してこそ価値をもつ

⑴知識人に取り囲まれて

鈴木教授は他の教授と大分かけはなれた存在だった。

“歩く知識の宝庫”というべきか。

授業で先生はこんなことまで知っているかと舌を巻いた私だったが、彼の知識の源泉に注目すると、慶應義塾にはその種の知識の宝庫が沢山おられた。授業中、なぜすぐにポンポンと知識が迸り出るのか。その頭脳構造に舌を巻く前に、僕は知識取り出しのプロセスに興味をもった。級友の中には自分らとは頭の出来が違うんだと追いつけない悔しさを生まれながらの優劣問題として片付けてしまう傾向もあった。だが、それは違うなと僕は思っていた。

T.S.エリオットのperfect criticとimperfect criticの差異を講義してくれた由良君美教授の授業も明快だった。僕の好きな展開法であったし、その解析法は自分と同じなので、エリオットの魅力は自分でも由良さん並に解釈出来た気がする。一口で言うとcause & effectとkey wordの掛け合わせから繰り出される知識系列には必然性があって理解に無理がなかったのだ。

その目で鈴木先生流の思考回路を解析すると、語学的な語句解釈から多岐に分化し、政治、社会、文化、歴史や国際関係へと波及していく。語学から別領域へ。際限もなく飛翔するのである。学術用語でいうと、当時はまだあまり知られていなかったinter-disciplinary(学際的展開)というジャーゴンで言えることだけれども、この技法で語学を説き分ければ、それは語学と関連性の深い文学だけでなく、社会学や哲学の弁証法にも結びつくし、さらに考察領域を拡大すれば、政治経済や自然界の、神羅万象の世界へと遡及できる。当然、諸データと共存させて多様性のある形象へと関係性を拡大することもできるのである。

つまり、鈴木氏の論考法は、一つの命題に関係性のあるポイントを引き出し、それがとても魅力的だと解ると、それからそれへと、一種の韻律をもって連鎖反応を起こす。思考回路の立体化である。その形成が無尽にできるということが聞く側には快かったのだった。

他方、対極にあるかと思える仏文の白井浩二、中文の奥野慎太郎、英文の西脇順三郎、厨川文夫の諸先生は知識量の差異というより専門性の蓄積量の差異と考えるとよいだろう。その神髄を引き出すには原典講読が欠かせないし、地味で時間もかかる。ゼミではその応用を続ければ与えた情報は熟成する。

学問とは方法論と定めたり、か。

ふと気づくと「昼食を食べに行こうか…」と誘われる。そんな先生が多くなり、そのうち食事をご一緒するのが当たり前の日々になった。池田弥三郎先生はよく幻の門を出てすぐ右に曲がった路地奥のあんみつ屋に連れて行ってくださった。談論風発、あんみつ屋で万葉集の講義である。江戸文学も出た。1体1で粋な小話もうんと聞いた。

サルトルの白井浩司教授は翻訳でいつも多忙を極めておられたが、当時は塾に予算もなく、彼の研究室を『三田文学』の事務所に充てる有様。僕は英文学科生としてではなく、塾生として仏文の院生たちとサルトルを論じ合った。足りない知識は読書量で補うほかない。下宿に帰るなり話題になった作品を読み直し、翌日にはそのキーワードやファクトを頭中に入れ込んでトークに参加するわけだ。

大橋吉之輔教授はアメリカ文学で、当時はヘミングウエイやスタインベックが流行る世間とは異なり、大橋氏はきらびやかなロスト・ジェネレーションには志向せず、むしろ鄙びたアメリカ中西部の田舎町の暮らしぶりを描くアンダスンに興味がおありだった。長編『貧乏白人』や『ワインズバーグ・オハイオ』という短編集に描かれた人間模様に親しみを感じるお人柄であった。

僕は当時西海岸で興隆したビート・ジェネレーションと20年代ジャズ時代のロスト・ジェネレーションを比較して両方の作歌群像を網羅的に調査して彼らの生きる哲学の比較論を英語で書き上げら博論級の厚さになったが、それを提出したのだが、大橋氏には気に入らなかったようである。学部学生としてはあるまじき論文だとか不平を言われたのを、今も覚えている。

学部の4年間はこうして瞬く間に過ぎ、卒業後、僕は東京国立にある桐朋高校という進学校の英語教諭になった。

⑵鈴木流知識体系の演繹法

鈴木先生流の知識体系はしかし興味深く忘れ難い。面白い。面白いだけでは演繹法にならない。勉強法としても使うにはその演繹法を辿らねばならない。僕は自分なりに英文法論をもっていたので、それを研究社という辞書の会社から出版したけれども、西欧の文法学者の領域から解脱できるほどの大作にはなれず、文法路線で進行せず、やはり文学に返り咲いてモームの長編を片っ端から読んだり、『月と六ペンス』や『人間の絆』と言った長編や南海物の短編を読み飛ばして、人間というやつはかくも卑劣なものかと、作者モームの心境で読んでは受験に熱心な生徒ばかりの教室に行くものだから、授業はろうなものじゃなかったと思う。

低迷期であった。鈴木先生や由良先生の教室が懐かしく、酒に浸っていたこともある。だが、そんな自堕落もやがて治まり、鈴木先生の文化論を読み返す気になって、立ち直り、アメリカ留学のために本格始動を始めた。

僕のディベート論法にそれを心得として加えて組み直すと、鈴木流なら鈴木流の知識体系の各端末に、A→A‘→A″につながる端子を出して控えるようになる。この方式をわきまえて展開すれば痛快に使えるはずで、それをエリオット流の批評に専念して、アメリカ文学の新作を次々読んでは文芸誌に発表する日々になった。

池田弥三郎助教授の国文学研究法は実証的で、万葉集の読み解きも芭蕉のように現地を歩いて実感している感動が伝わってくるから、当然、聞く人に実感を与える講義ができる。これは私にも影響を与えて、アメリカ史の初期独立革命を知るために、ボストンのfreedom trailを歩き回り、東印度会社のオフィスやポール・リヴィアが馬を繋いだ杭まで行ったし、汽車に乗ってレキシントンやコンコードまで行って、イギリス正規軍とアメリカ民兵とのドンパチでめり込んだ銃弾の穴にまで指を突っ込むまでやってのけたから、講義に迫力が出たしその時点で出したデータは活き活きと使えた。

その頃、僕は中野にある『新日本文学』の会員で、野間宏、佐多稲子、中野重治さんたちとかなり革新的な文学運動を一緒にやり、他方では中央公論の『海』、文春の『文學界』、研究社の『英語青年』に連載で掲載され鶴見大学の専任講師となり、数年後、東北大の教官に推挙された。

僕は大学院に上がって英語論文で博士号をもらう機会を逸したわけだが、東北大では私が精神分析学者の書くWalker Percy, The Last Gentleman という難解な作品(450ページ)を翻訳し、そこに誤訳がほとんどないと判明して評価されていたことも招聘の大きな理由だった。

これは大学に奉職する技法などというくだらないものではない。パーシィ流の精神分析に耽溺して読んでいたら、自分自身も精神分析学者となり、当時はやりのフロイトをはじめ、聖心分析や心理学に傾倒していかからこそ取り組めた仕事だった。延々800枚。乗せられた枚数は重荷でも何でもなかった。面白く読んで鈴木流に解釈して、誰が読んでも納得のいく言語で翻訳していく。高校で受験英語を教えた後、けっこう楽しんで仕上げた一冊だった。

鈴木孝夫氏はアメリカを日本人の観点からとらえ直しておられるが、僕は卒後、高校教師をやりながら「アメリカ研究」という新分野を東大の駒場の先生方と縦軸と横軸を構成することに腐心した。つまり、当時はまだ斎藤光、斎藤眞、久保田きぬ子、本間長世教授がみなさんご健在で、研究熱心はこの上なく活発。そこから得た知識群で自分自身、少しは語れる存在になった。

東北大助教授になったのはそれから数年後のことになるが、その間、僕は当時月例会が盛んな「アメリカ文学会」から声が掛かり、シンポジウムのパネリストになることが屡々で、それは月刊文芸誌の『海』、『新日文』、『三田文学』などに書きまくり、まだ若手の亀井俊介氏や僕も加わって、「アメリカ研究」を、「歴史」と「民族」と「移民」という三つの要素をもって構築。それが文学世界にも導入していた。ということは、一見、鈴木理論とは大分かけ離れた知識体系を作ることになったと見えるだろう。が、鈴木先生は、それはそれでいいと思われたと思う。

僕は後年、アメリカ文化センターで頂いたたくさんの情報や東大駒場で誕生した「アメリカ学会」で構築した「アメリカ研究」で、次々と著書を出していたから、鈴木先生とは観点視点も異なるけれども、歴史問答では面白くかみ合って、却ってよかったか、先生とはまた一段と親しくなった感がある。

⑶アメリカ時代での鈴木流研究法

僕が35歳頃だったが、東北大の助教授でいた時分、ニューヨーク州立大のバッファロー校で大学院生を相手にポストモダン米文学を教えていた時、近くの高校から講演に来てくれといわれた。レクチャーをあらかた終わって、日本でもシェイクスピアを読んでる、大学院でねと言ったら、高校生たちが怪訝そうな顔をする。

その空気が気になって後でレクチャー後、招いてくれた先生に訊いたら、「アメリカでは『ハムレット』や『マクベス』は高校の教科書で読みます、ほら、これです」と分厚いテキストをどさりと手に乗せられた。何と部分掲載ではなく、終わりまでスキップせず、一作を2週間で読むのだと言う。日本型の、少量を精緻に読み解く、というような読み方は果たして実力に結びつくのか。鈴木先生の膨大な知識量はどれもこれも活性化されているが、大学受験で培ったような精緻な、少量の知識は果たしてどんな実力になっているというのだ。

知識とは膨大な体系であって、一字一句きちんと覚えて100点を取る式では、とうてい知識人の端くれにもなれない。

結局、僕が明日の火種というか、話題に備えて必死に読んでは頭に叩き込んで、どの話題になっても直ぐ取り出せるように、いわば“文学のディベート”を続けたのがよかった。学生時代から始めた自己特訓が効を奏したのである。鈴木孝夫氏の『鈴木孝夫の世界』第3集(冨山房、2012)を例にとれば、それがよく解る。

鈴木先生から頂戴したご著書を前に、僕は慶應義塾の文学部英文学科で学んだことを今更ながら貴重な体験だったと述懐している。有難う鈴木先生。この想い出の記に登場された諸先生は今や総てこの世の人ではない。皆さん、有難う。僕ももう直ぐ黄泉の国へと出立しますが、まだまだ頑張りたい。どうぞ叱咤激励の目でお見守りを。(了)

本学会相談役 鈴木孝夫慶應義塾大学名誉教授追悼

畏敬の師とその時代

2.鈴木孝夫は明治以来つづく世捨て人の系譜

⑴慶應義塾は世捨て人も養成する

慶應義塾に入学して直観した言説は、福沢先生以下、文学部の先生は、みなさん、世捨て人ではないか、という感慨だった。俗に、「起きて半畳、寝て一畳。天下盗っても二合半」と言われる、芭蕉や山頭火に通じる言葉が慶應義塾にも通じた感があった。慶應義塾は政財界に幾多の大物を送ったけれども、文学部にあっては世捨て人づくりの本店ではないか。そんな雰囲気が横溢しているとさえ思えた。

理財科には通じない逆説が文学部では罷り通っているのは嗤える。だが当たっている。筆者のように、国立私立の両方で教鞭を執ってきた人間にいわせると、こう言っても過言ではなかった。

鈴木孝夫は『人にはどれだけの物が必要か』というタイトルの自著まで出しているが、いかにも医学部を捨てて文学部に来た仙人らしい。彼は言う、古代ローマやビザンチンの皇帝たちが愚民政策の常套とした「パンとサーカス」。こいつによく似たグルメにゴルフにテニスが今の日本。ホモ・エコノミクス(経済人)とホモ・ファベル(技術者)ばかりが目立って、環境破壊に取り組むホモ・フィロゾフックス(思想家)の姿を視えないと指摘。

この書の出版は平成6年。四半世紀前だが、その後この発想で汚染問題は表面化したけれども、今日に至っても、解決したと考えるには程遠い。鈴木はまたこの時点で、世界人口は56億、21世紀には100億を越すと嘆くが、ますます極貧化した国情がひろがり、その犠牲者として死んでいく新生児の数は増えるばかりである。彼の読みは残念ながら当たっているのに、どの富裕国もほとんどその手当てが出来ていない。

鈴木流に見ると、ジオポリティックス(地政学)が国家主義のエゴの下、戦前のコロニアリズムそのままに進む第二・第三の新興国の及ぼす勢いに先進国がひるんで退行現象を起こしてしまったせいとでも、診断できる。東大にはいるが、慶應義塾の文学部には、現行の官僚主義を愛でる者はいない。

顧みれば創設者の福沢諭吉はいつも国家指導の、つまり民衆を置いてきぼりにした政策主導のビューロクラシー(官僚主義)を慨嘆していた。だからこそ、その傘下に甘んじて惰眠を貪ることを潔しとはしなかった。その精神的脈流を受けて福沢の代弁者のように気炎を吐いていたのが鈴木ではなかったか。

⑵日本の、明治初年、戒告当時の実情に思いを馳せよう。

近現代の覇権主義の台頭に呼応して富国強兵策を国是とした明治政府はヨーロッパの国家体制の安定策に必要不可欠なロジックとして外周に「利益線」後に「生命線」と呼ばれた線引きをして自国を守る戦略を立てた。日本は朝鮮半島を利益線の対象にしていたから、日清日露の戦争が不可欠かのように是認した時代でもあった。それは欧米列強とロシアの脅威もあり、やむを得ぬ状況下でもあったともいえるが、強引な派兵工作は現地の民衆はもちろん、国内の下級兵士の立場から見れば、かなり無理無体は政策だった。当時はまだ国家安泰のためなら、民衆は喜んで命を捧げて当然とする風潮があった。公害問題も然りである。民衆が我慢さえすればよい、モクモクと黒煙を吐く工場や機関車や軍艦は国力発展のシンボルぐらいにしか考えられていなかった。労働問題や政体の改革など問題にならない時代でもあった。

しかし福沢をはじめ、指導者を失って欧米列強の植民地主義に国土を席捲されるさまを気の毒に思って革命家を保護するなどしていたから、やはりカウンター・カルチュラルな思考回路をすでに持っていた知識人はいたのである。

福沢型あるいは鈴木型の発想は当時の庶民からも受け入れ難い。体制派からみれば、かかる思想は排斥されるべきであり、帝国大学と名の付く7つの大学からは、学長自らが軍国主義に逆らう例はきわめて少なかった。

むろん帝大系でも教授陣において問題視する傾向もあり、それが高じると、○○事件と呼ばれて、官憲の弾圧対象になっていた。今から考えると、なぜあの程度の国家論に官僚主義者がこだわったか苦笑するほどの窮屈な時代だったとしかいいようがないが、鈴木孝夫氏はその時代でではなく、現代において、言論の自由で、いや、言論のフレキシビリティのお陰で、いや言論の「自由裁量権」のお陰で、異端視されず、問題視されなくなったのであろう。(つづく)

本学会相談役 鈴木孝夫慶應義塾大学名誉教授追悼

畏敬の師とその時代

⑴鈴木孝夫先生との出会いは60年安保の年

鈴木孝夫先生と私の出会いは昭和35年春、日吉から三田へ、英米文学専攻生として本格授業を受けに来た初日のことであった。授業はSimeon Potterの Our Language で、英語の組成を歴史的に説く歯ごたえのあるテキストで行われ、受験英語とは段違いに難解な内容をものともせず、驚くべき博学で内容の面白さに耽溺なさって饒舌に名講義を展開される鈴木先生には圧倒された。福沢諭吉の再来か。この授業はまさに慶應義塾に相応しい、悲痛な思いさえ籠められている。教室にいる学友は皆、一様にそう思ったはずだった。

というのは、当時は1960年。60年安保の真っただ中だった。国会周辺は全学連のデモ隊が何万と犇めく。現代アメリカ文学が専門の大橋吉之輔教授が戦時中にダンテの『神曲』を持っていただけで、特高に捕まり暗所に連れ込まれて拷問された話をなさると、我々もまた学徒動員が待ち構えている強迫観念に捉われ、清水谷公園から国会への行列に加わった。そんな時代だったからである。

厨川文夫教授は古代中世英語学の権威で、慶應義塾は明治維新の直前、江戸城の開門を巡って戦乱の最中でも講義を休まず続けられた話をされた。学問とは、一時的な感情の高ぶりに左右されてはならずと諭される。鈴木孝夫の授業がまさにそれだった。彼は政治抜きの学者肌で、講義内容から明確にされたのは、欧米の思想体系が必ずしも政治思想に毒されて歪んでいる存在ではないということであった。
 
偏在や偏見に陥る勿れ。まだ19歳の僕も自分自身にそう言い聞かせた。渋谷の東横デパートの屋上から眼下を睥睨すれば、ここに蝟集する人々の歩くさまがよく見える。自分もまた都会のゼロ記号になってはならぬ。そうは思えどエゴ・セントリックに考えても所詮はゼロ記号意識から解脱できない自分が情けなかった。

渋谷の下宿に帰ると机の上には、渋谷の大盛堂で買い込んだ大岡昇平の『野火』や『俘虜記』、田宮虎彦の『足摺岬』、火野葦平の『土と兵隊』、それに忘れもしない大江健三郎の『死者の奢り』や『ワレラノ時代』が積み上がり、学研連の「文学研究会」の話題に不可欠の作家群やサルトルやカミユの不条理実存主義の思想群や、「怒れる若者たち」グループのコリン・ウイルソンのDeclarationの英語論文。へたばるものか。父や兄の奮闘を思えば学問など苦労のうちに入らず。と、また自分に言い聞かせて読書とノート取りの日々だった。

この時代、鈴木先生は岩波の、今でも売れている名著『言葉と文化』を書き、大橋先生はNorman Mailerの評論White Negroを『三田文学』に翻訳され、さっそくそれを読んだ僕はsquareあるいは organization manというキーワードに対峙するhipsterという語に憑りつかれた。メイラーは1950年代というAmericanism全盛時代に順応主義者として生きるアメリカ大衆に失望していたから、beatという「打ちのめされた世代」とは別にhipsterという、敢然と冷戦という米ソの対立状況に立ち向かう存在を明記したわけだが、自分もまたかかる立場を採らねば、わざわざ関西から上京して学問の門を敲いたことにはならないと思った。

兄は私が東京に出立するという日に、母に向かって言ったそうだ、それは後年、兄自身から聞いたことなのだが、「成生はもう大阪へは帰って来よらんよ」

それは異母兄弟として育った、自分から見れば、母のたった一人の息子であり、兄とは姑を介在して戦中から続いた確執が絶えない、その時代に郷里を後にした私の存在を、兄は見事に見抜いて言った言葉であった。 

「親不孝者か、自分は…」

この思いは、学生時代はおろか現代に至るまで続いている悔悟の念である。確かに慶應義塾の門に入ったことは正解であった。ここに来なければ、私は関西人として政治も社会の矛盾撞着ともあまり拘泥せず、平凡な暮しで生涯を終えたはずだった。

賢明な兄はそんな弟の行く末まで見抜いていたわけだが、自分としては塾生として日々4年間送った毎日が自問に自問を重ねる日々であり、どの師を前にしても未だ浅学の我が胸中を思えば自信喪失でその空白を埋めるが如き悪戦苦闘の日々ともなったのだった。

60年安保の響きは現在の静けさからみれば、想像を絶するほど、喧噪著しいものがあった。

連日連夜、国会周辺を十重二十重に取り巻いて「岸を倒せ!」「日米安保反対!」のシュプレヒコール。全国の主要都市でもこのシュプレヒコールは鳴り響く。それは曇天の梅雨空に響きわたり、東大生の樺美智子さんが警官隊に圧し潰されて亡くなった。22歳だった。僕らはアメリカ政府の手先にされて、また軍隊に無理やり放り込まれ、朝鮮半島に送り込まれるのだろうと、参加者全員がそう危惧したのだ。まだ朝鮮戦争が終結して7年だった。

現在、「日米同盟」と呼ばれる、US-Japan Security Treaty には、当時の若者たちの悲痛な叫びが届いたせいか、「即入隊、即原子戦争」というメイラーが『白い黒人』で示唆したinstant deathのイメージは明白ではない。それはソヴィエト(今のロシア)が共産国としての国家権力を放棄宣言したのが最大の原因であると言われるが、果たしてそうか。喉元過ぎれば何とやらで、日本人の心の中で、警戒心がその後急速に薄れ果て雲散霧消してしまったのが主たる原因ではないか。日本人は「仕方がない」とすぐあきらめる。それだと筆者には思えるのだが、これも鈴木先生の思考回路の影響かもしれぬ。

それはともかく、自分は生涯をかけて、この日本の国を良くせねばならないと心に決める大きな起因はこの期に培われたと思う。当時、自分自身の知識体系が果たしてどこまで可能か、自分自身の開発力に挑戦する日々であったが、今にして思えば、僕の達成目標の一つは、鈴木先生の知識体系であったことは疑う余地もない。(つづく)

「古典芸能」和泉流狂言と日本人の心

日本浪漫学会副会長代理 河内裕二
2021年2月10日

日本浪漫学会は、先人が大切にしてきた日本人の心を世界と後世に伝えてゆく活動を行っている。濱野成秋会長は和泉流宗家とは三十年に及ぶ親交を続けられており、この度神田明神で開催された和泉流宗家狂言会に私も同行した。古典芸能である狂言は約六百年の歴史を持つ。伝統を守り継承してゆくとはどういうことなのか。「オンライン万葉集」の活動の一環として公演を鑑賞した。以下はそのコメントである。

公演前に二十世宗家と。左から濱野成秋会長、二十世宗家和泉元彌氏、河内裕二副会長代理。

令和3年1月31日午後2時より、東京都千代田区外神田にある神田明神内の文化交流館EDOCCO 4階「令和の間」にて、和泉流宗家EDOCCO狂言会が行われた。昨年7月から始まったこの狂言会は今回が13回目となる。
 天平2年(730)創建の神田明神は東京で最も歴史ある神社の一つで、江戸時代より江戸総鎮守として江戸の人々を守護してきた。公演当日も御社殿前には参拝者の長い列ができていた。

公演の副題には「睦月~コロナと闘う皆様に感謝を込めて」とあり、演目に新作狂言小舞「アマビエ」も加えられている。もともとは神事であった狂言をこの場所で行うことには、和泉流宗家の皆様や関係者の方々の、新型コロナウィルス感染症の一日も早い終息を願う強い思いが込められている。年明け早々に緊急事態宣言が再び発令された。社会に重苦しい空気が広がる中、狂言の「笑い」で人々の心を明るくしたいという厚情にも感動したが、何より和泉流宗家全員で力を合わせ万難を排して伝統を守り続ける姿に感銘を受けた。とくにご子息、ご息女がみな狂言の道を歩まれ、逞しくご成長されていることに心を打たれた。一切の妥協や迷いを感じさせない堂々とした謡や舞を披露された。芸は体で覚えるしかない。無形の芸術である狂言を受け継いでゆく覚悟と日々の努力は大変なものであろう。

公演ポスター

舞台芸術は劇場という生きた空間がなくては成立しない。とくに狂言は最小限の演出により観る側が想像力を働かせて舞台を作り上げる。演者によって披露される「型」には六百年の歴史があり、観衆はその重みを厳粛に受け止める。張り詰めた空気が場を包む。その空気が笑いによって一瞬にして和らぐ。空気は「肌」で感じるもので、生の舞台でなければ味わうことはできない。現在は外出自粛やテレワークで直接人と会う機会が減り、人や場の発するエネルギーや空気を身体で感じることも少ない。たいへん貴重で心豊かな時間となった。

公演終了後は場所を移して和泉流宗家の皆様と濱野会長、河内で歓談。宗家会理事長の和泉節子氏から和泉流宗家の歴史を始めご自身の死生観や宗教観など様々なお話を伺った。いつも明るくお元気な節子氏だが、今年で嫁いで54年が経ったとのこと。多くの苦難を乗り越え、強い家族の絆を築いて和泉流宗家をここまでにされた。伝統の継承は如何に大変なことか。節子氏のお人柄に触れて温かい気持ちになった。

第13回公演内容

狂言のおはなし

公演プログラム

十世三宅藤九郎氏による「狂言のおはなし」では、約六百年の伝統を持つ狂言の特徴や今回の演目の解説があった。その中で筆者はとくに松の木についての話が印象に残った。舞台の松は神様が現れる影向の松がモデルで、狂言はその松に向かって捧げられていた芸能であったので、現在でも狂言師は舞台上には神様がいらっしゃると思って演じているとのこと。これまで和泉流狂言を何度も拝見したがその演技には一度も小過どころかわずかな綻びすら感じたことがない。喜劇として滑稽な登場人物を演じながらも、常に緊張感が伴うのは、神事だった頃の精神が受け継がれているからであろう。狂言は神様とともに生きてきた日本人の心を観衆に伝えている。

狂言 福の神

福の神を二十世宗家和泉元彌氏、参詣人を史上初女性狂言師和泉淳子、三宅藤九郎の両氏。舞台は出雲大社。
 毎年暮れに出雲大社に参詣し、豆まきをして年を越す二人の男の前に福の神が現れる。富貴繁盛を祈願する参詣人に福の神は富貴になるには元手がいると言う。元手がないから来たのだと言い返す参詣人に福の神は元手とは金銀米銭のことではなく、五常の徳を守り、神を敬い、慈悲を持ち正直でいることだと諭す。話したらのどが渇いたと福の神。参詣人に神酒を催促し、日本大小の神祇と酒神である松の尾の大明神に神酒を捧げ、自らも飲む。富貴になりたければ、早起きし、慈悲を持ち、夫婦仲や人付き合いを良くせよ、さらに私のような福の神にたくさん神酒を捧げれば楽しくなることは間違いないと言って笑いながら福の神は帰ってゆく。
「笑う門には福来たる」と言うが、福の神は笑いながら現れ、笑いながら去ってゆく。役を演じた元彌氏の明るい笑い声が今も耳に残る。

狂言「福の神」を演じた三氏。
左より十世三宅藤九郎、二十世宗家和泉元彌、史上初女性狂言師和泉淳子の各氏。

狂言小舞 鮒

和泉采明、和泉慶子の両氏による連舞で地謡を和泉元彌氏が務める。
 狂言の所作の基本となるのが狂言小舞で、「鮒」では勧進聖の一行を乗せた舟の前に現れた琵琶湖の水神である鮒が舞う。
 「狂言のおはなし」で三宅藤九郎氏が説明されたが、小舞は役柄を演じないので装束は着ず、今回は正月で特別な会ということで正装である紋付、裃を着用して舞を演じる。
 美しい所作と躍動感。若い二人の息の合った連舞に鮒が飛び跳ねる光景が目に浮かんだ。

狂言小謡 景清

謡は和泉元聖、和泉元彌の両氏。
 狂言の台詞の発声の基礎となるのが狂言小謡。「景清」は平家物語の一節で、坂東武者に崇敬された神田明神とのご縁に因んで選ばれた演目。
 親子とはいえここまで一糸乱れぬものか。二人の息の合った謡は見事であった。

新作狂言小舞 アマビエ

和泉和秀氏が舞を和泉淳子氏が地謡を務める。
 新型コロナウィルス感染症の終息と疫病退散を願って作られた小舞。
 この小舞でアマビエが肥後国の海に出現したとされるのを知った。和秀氏の立派な体格を活かしたダイナミックな舞と力強い台詞にコロナも退散するはず。頼もしさを感じた。後で伺ったが、和秀氏はまだ12歳とのこと。驚いた。

和泉流宗家の皆様。中央でご挨拶するのは和泉元聖氏。左より十世三宅藤九郎、和泉采明、二十世宗家和泉元彌、和泉和秀、和泉慶子、史上初女性狂言師和泉淳子、和泉流宗家宗家会理事長和泉節子の各氏。