濱野成秋

これは会心の作だ

とにかく、英語の勉強になる本である。口語というのは、常日頃から意思疎通するのに頻繁に用いる伝達手段だから、知れば知るほど役立つ。そうは思えど、日本は不利この上ない。国土は欧米諸国から遠く離れたアジアの一角だし、外国人としてアメリカ国内に住んでいるだけで自然と身に付くはずの口語には、いつまで経っても親しめない。悲しい。切ない。コンプレックスだらけ。

僕の場合、子供の頃に父親が進駐軍をたくさん呼んでダンスパーティをしょっちゅう自宅でやった関係で口語表現が飛び交い、そいつが役立って今日の仕事に繋がる。しかし外人教師の来る教会で学んだ高校時代やステークハウスで基地の外周に住んでいるGIとのやり取り以外、アメリカ行きまで、苦労の連続だった。だからこの本は会心の作である。買って毎日バッグの中に入れ、1時間といわず、暇さえあらば声出して覚えるとよい。

使い分けが大事です

日本語抜きの英語論文などは、工夫をすればそれなりに上達するけれども、口語語法はだめ。結局ACLSという、フルブライトより難関と言われた大学教師だけのテストに筆者は食いついてトップ当選。おかげでNY州立大の客員教授に。だがそこで自分が喋っていたのは、おそろしく丁寧で上品な正調英語だった。Would やcouldなど、仮定法がざらの表現である。気取らぬ会話がランチ会話というのが普通のはずだが、やはりProfessor Hamanoと普段から呼ばれていると、窮屈だが正調ばかりの英語を使う。Wannaなんで表現など使わないように、get in touch withというような表現も避けてmake contact with などと言ってみたりで、大人社会とはそういうものなのだった。

だから日本語でいえば「お金魚がお元気で水泳してらっしゃる」というような英語を真面目くさって話していたんだろう。これが外国人というものなのだ。

英語学習法の本を幾つ書いた

僕は英語学習本で研究社から「合格ラインシリーズ」と称して、単語、熟語、英文法の3点セットを出し、単語集はミリオンセラーだった。それはNY州立大でディベートをやったり、車を売るの売らないので揉めた時の弁護士の卵との電話での猛烈な論戦の果てに、大雪のなか、ダウンタウンへ行き、和解をして大いに語り合った、そんな想い出も綯い交ぜになって出した。忘れもしない僕が州立大バッファローの大学院でポストモダンのアメリカ文学を院生に教えていた年とほぼ同時期だが、Malamud, Barthelme, Fiedler, Brautigan, Vonnegut…数え上げれはきりがないほど沢山の作家たちとインタビューしており、研究社の『英語青年』に原語で連載。中公の月刊文芸誌『海』に発表していた。自分でも恐れ入るが、これが僕の英語人生だったが、口語表現を大分使ったかというと、さほどでもない。

学習書としてのこの本

「日米口語辞典」は、辞書として使うのではなく、学習書として使いたまえ。

そのやり方を伝授しよう、すべてQ&A方式で、「声だし」でやること。それもゆっくり考えているようではダメ。0.1秒以内で答えられるまで間髪を入れず英語を言う。大声を出せ。小声でもぞもぞ言っているようではモノにならない。見出し語だけやったのではだめ。例文がたくさんあるだろ、それをまず日本語を先に読んで、英語を自分で作る、声出し式でね。このQ&A即声方式は、僕が非常勤で教えていた一橋大でも、早稲田でも、生徒たちにしっかりトレーニングしたよ。受験勉強だけして来た学生を、たった1年で通訳が出来るように仕立て上げたわけだ。そういうことなら出来るだろう。

TPOをわきまえて使おう

著者の皆さん、編集部のみなさん、ご苦労さま。自分の長くて短かった人生とこの本の完結とを一緒にしては気の毒だが、僕は敗戦後の負けじ魂をもってアメリカでは朝鮮戦争の元軍人だった男を猛烈に議論して打ち負かした。つまりそういうのに使っていた表現がいっぱいあるから、君らTPOに気を付けて使いたまえ。今夜は呑みたい気分である。(京都外大客員教授)

本田 康典

はじめに

我が国でヘンリー・ミラー(1891-1980)の作品が翻訳・紹介され始めたのは1953年(昭和28年)であった。当時は朝鮮戦争が終息し3年前に誕生した警察予備隊が保安隊となって国防問題が再燃していた時期で、日本の保守本流がやや右傾化している時期であったと言える。そのさ中の登場ゆえ、ミラーの包み隠さない性的描写は反逆的志向を持つとされ、異端視されていた。

筆者は1961(昭和35)年、鎌倉の啓明社から刊行されていた英文によるミラー作品に高田馬場の古書店で巡り合ったのがきっかけで、彼の志向に惹かれたわけだが、世は上げてAmericanismに酔うがごとき保守的時代精神が横溢していたから、彼の登壇は異彩を放っていた。ミラーはエログロ・ナンセンスの風潮の中で後に言う「ポルノ作家」扱いされていたが、20世紀という時代とアメリカという空間を超越しようとして言葉を爆発させている、と私は感じていた。それはまた明治維新後の脱亜入欧あるいは和魂洋才を標榜されながら世相は因習的概念から脱しきれず、閉塞状況にあったことに業を煮やした東京新詩社をはじめとする日本型浪漫主義の台頭と共通したわけで、筆者のミラー論はそのパラダイムと捉えた編者の意向にも通底すると考えてよい。

1.1960年代の日米における反応

1963年(昭和38年)、早稲田大学非常勤講師であったケイト・ミレット(1934-2017)は、『英文学』(第23号、早大英文学会)にHenry Millerと題する論考を寄稿し、ミラーを痛烈に批判した。早大の関係者によると、ミレットは教員室では寡黙でひたすら本を読み耽っていたというが、彼女は後の女権運動の闘士であった。ミレットは当時、アメリカで吹きあれていた『北回帰線』旋風を日本から眺望する立場であったけれども、帰国後に Sexual Politics (1970)を上梓してフェミニストの視点で論考する。

『北回帰線』はパリでの出版から27年後の1961年6月に出版され、同年秋にペーパーバックが200万部印刷された。『北回帰線』が合衆国憲法によって保護されないとみた出版社が海賊版を出す構えをみせたために、グローブ・プレスが急ぎペーパーバックを刊行する対応策をとったのである。出版の可否について60件もの法廷闘争に展開したが、グローブ・プレスの社主バーニー・ロセット(1922-2012) は弁護士グループを擁して果敢にアメリカ社会に挑戦し、1964年に最高裁で結着を見た。

1965年、アメリカの『北回帰線』旋風にあおられたせいであろうか、大久保康雄と飛田茂雄を中核とする翻訳者たちによるヘンリー・ミラー全集(全13巻)が新潮社によって企画された。1966年『本の手帳』(ヘンリー・ミラー特集、8月号)において、立教大学教授の細入藤太郎は、1939年9月にデンマークの首都で『北回帰線』(初版)を読んだと述べた。彼は日本の最初の読者であった。

1967年、ホキ徳田と結婚したミラーは、週刊誌にも登場し、話題の対象として盛り上がりをみせたが、ミラー像に劇的な変化がみられるようになったとは言えなかった。

1980年、欧米の批評家や研究者の代表的な諸論文を訳出した大久保と飛田は『ヘンリー・ミラー』(早川書房)を上梓した。序文において大久保は、「(日本では)ミラー文学の本質を論じた研究者があまりにも少ない」と断じた。彼はヘンリー・ミラーについて、翻訳・紹介の時代から研究の時代への推移を見極めようとしていたのである。

2.ミラー像は変貌しているのか?

ミラー像は固定化してしまったのではなく、たえず変化する。しかし、緩慢に。新たな読者がミラー作品を読めば、ミラーは新しくなる。思想家、哲学者、文学者がミラー作品に接し、発信すれば、ミラーはさまざまな相貌をみせる。

またミラーは歯が立ちにくい作家ではあるが、研究者がミラーの伝記的事実を新たに掘り起こし、テクストの緻密な読みに向かうならば、ミラー像は必然的に変貌するだろう。以下にその片鱗を挙げておく。

⑴上野霄里 ―― 東北の哲人

1969(昭和44)年、岩手県一関市在住の思想家・上野霄里(実名は賢一)の『単細胞的思考』(行動社)が出版された。序文の書き手はヘンリー・ミラー。『ネクサス』を読み、こんなふうに書いてよいのであれば自分も書けると思った上野は、原稿用紙大に切り揃えたチラシの裏や包装紙に自分の思いを書き連ねていった。『単細胞的思考』は、一部の全共闘の学生や三島由紀夫の楯の会の闘士を一関に引き寄せる威力があった。が、上野の破天荒な主張や川端康成を罵倒する言辞に辟易したせいであろうか、批評家たちは上野を回避した。
 1970年、三島由紀夫の割腹事件があり、ミラーと上野のあいだの書簡の往来は激しくなった。1971年10月、ミラーによる「三島由紀夫の死」(飛田茂雄訳)が『週刊ポスト』に連載されたが、そこでは「性の作家」というヘンリー・ミラー像は破砕されている。上野は健筆のひとであり、10冊以上の著書が出版された。ミラーのひととなりと作品は、天才的人物を解き放つ衝撃力を秘めているように思われる。近年、「ヘンリー・ミラーと日本」というテーマをもつアメリカ人の研究者ウェイン・アーノルド(北九州市立大学教員)が両者の間を往来した膨大な書簡を手がかりとして知られざるミラー像を描きはじめた。

⑵ファム・コン・ティエン ―― ベトナムの哲人

1965年夏、24才のファム・コン・ティエン(1941-2011)が、ミラー宅を訪問し、「ヘンリー・ミラー、ぼくはあなたを殺す」と声を発すると、ミラーは訪問者を抱きしめ、壁に「逢仏殺仏」と書けと言ったという。野平宗弘(東京外語大教員)はこのエピソードを彼の著・訳書において幾度も紹介している。ティエンがミラーの作品を読み、禅を学んだのが1959年であったから、彼は19歳の時にミラーを知ったことになる。ミラーはティエンを「ベトナムのランボー」と評したという。

ティエンは詩人であり、小説家、翻訳者、思想家、その他であり、要するに、天才的な哲人である。野平の著書『新しい意識』(岩波書店、2009)を読むと、ティエンがミラーをおのれ自身の強固な橋頭堡にしていることがよく判る。25歳のティエンがパリで書き始めた『深淵の沈黙』の訳書が2018年に東京外語大学出版会から上梓された。ニーチェ、ランボー、ハイデッガー、ヘンリー・ミラーが頻出しているが、この作品はベトナム戦争の惨禍、ベトナムのうめき声の発露になっている。

⑶ノーマン・メイラー『天才と肉欲』

1940年、まだ17歳であったノーマン・メイラーは、地下出版の『北回帰線』を読み、さらにアメリカ作家たちの作品を渉猟し、ふたたびヘンリー・ミラーにもどり、ミラー論『天才と肉欲』を1976年に発表した。この作品においてメイラーは、「ヘンリー・ミラーにはいまだ明らかにされていない謎があって、その謎は偉大な作家というものが、いかに怪物じみたものであるかを告げている」と書き込んだ。ミラーは『南回帰線』において、「強烈な作品、永遠に理解されることのない作品」を執筆しようと意気込んでいるのであるから、ミラー作品に明らかにされない部分があるのは当然であるように思われる。しかし、ミラーの圧倒的な影響力が外堀を埋めるかのようにミラー像を新たに浮上させていくことになるだろう。

結語

ミラーの生きた時代は大戦、ミリタリズム、極度なコロニアリズム、国家主義が当然とされていた。言い換えれば国家や巨大なる護持思想の中に個人の尊厳や人生の幸せなど無力で微小化されて当然の時代であった。メイラーは大戦に送り込まれ、一兵士としての体験もあり、戦後に生じた米ソ冷戦時代にもゼロ記号として埋没したままの一般庶民をsquareあるいはorganization manと捉え、白人でありながら常に組織の下で踏みにじられる若者たちbeat generationに同情を示して、総じて当時のアメリカ人をwhite negroと呼ぶ評論を書いている。この価値基準でミラーを捉えたメイラーの感覚は今日常習化した核武装とミサイル攻撃という状況にも当て嵌まる。すなわち、閉塞状況のなかで活路を見失った人々は自由恋愛や片時のエクスタシーを求める飲酒や逸脱した男女関係は刹那主義の行動であり、一種の短絡した実存であるが、こうした今日的生命主義あるいは実存哲学をミラーはすでに予見していたともみなし得る。

(宮城学院女子大学名誉教授)

高千穂大学学長 寺内一

                     
元旦早々、ゼミの4年生の卒業論文の指導をしているとふたりの恩師を思い出す。ひとりは人見康子慶應義塾大学名誉教授、もうひとりはイギリスのウォーリック大学のMeriel Bloor先生である。人見先生には私が法学部法律学科の3年生の20歳の時、Bloor先生には31歳の時にお会いした。還暦を迎えた私の人生に重要な指針を示していただいたふたりの恩師の教えを回顧し、改めて感謝の念を申し上げるとともに、今後の抱負を述べてみたい。

人見先生には学部時代はもちろん、その後のイギリス留学に関して何から何までお世話になった。「法律そのものよりも、法律を学ぶ学生のための英語教育の専門家になることをあなたは目指しなさい。イギリスのウォーリック大学で、『English for Specific Purposes(特定の目的のための英語教育・研究)』という勉強ができるから、そこで学位を取って帰ってきなさい。日本ではひとりもやっていないわよ。」というミッションが下されたのである。このひとことが今の私を作り出したといっても過言ではない。

人見先生は、慶應義塾大学に在職中の1976年にロンドン大学で在外研究を行って以来、20年以上夏休みの5週間をロンドンで過ごすことを常とされていた。ご専門の民法(家族法)の研究以外に、昼には図書館、美術館や博物館を巡り、夜には演劇、音楽会、バレエ、オペラなどの観劇をされていた。「学位を取ることはもちろんだけど、留学中にイギリスの奥の深さを学んで来なさい。」という指示も出されていた。先生ご自身が経験されたイギリスという国のさまざまな面を経験するという別の課題も出されたのである。

湾岸戦争が終結したばかりの1991年4月、ウォーリック大学での私の留学生活が始まった。ここでもうひとりの恩師であるBloor先生と出会った。それから博士論文を提出するまでの5年3か月、Bloor先生の厳しい指導を受けることになった。Bloor先生からの指導は週に1度、2時間から3時間に及んだ。それもすべて英語である。そのBloor先生が常に口にしていたのは、「独自性をきちんと出さないと博士論文ではない」、「イギリスでの論文の特徴は、先行研究を質量ともに充実させること」と「データ収集ばかりに時間をかけないで早く論文を仕上げること」であった。「早く仕上げること」に関しては、「今後、あなたが研究者として生きていくためには、区切りを決めて論文として完成させること。そうすれば、新たな課題が必ず見つかる。そこで出た課題を次に論文にしていくことが重要なのよ。」ということであった。どれも今でも肝に銘じている貴重な教えである。

学位論文を執筆しながら、人見先生からのもうひとつのミッションであるイギリス生活を満喫することを心掛けた。先生はロンドンに住まわれたが、私はシェイクスピア生誕の地として名高いストラットフォード・アポン・エイボンという街に住むことにした。大学から車で30分の距離であり、治安が良く、コンパクトにまとまっていて、イギリス生活を体験するのにうってつけだったからである。街中にあるパブに毎夜通い、ビターという苦いビールを飲みながら、フィッシュ・アンド・チップスを食べることを常とした。そして、シェイクスピア劇場で睡魔と闘いながら演劇を楽しむことにしたのである。

恩師のおふたりに共通していたのは、遊びと研究のメリハリをつけていたこと、物事のとらえ方が柔軟で、日々の生活を楽しもうという気持ちがあったこと、何事に対してもポジティブに臨まれていたことである。おふたりともすでに鬼籍に入られたが、その教えは、私が大学の教壇に立つ時にはもちろん、現在の高千穂大学の学長職、大学英語教育学会の会長職を務める上で、とても重要な人生の指針として生きている。おふたりに心より感謝しつつ、笑顔を思い出しながら、教えを再確認して、学生の卒業論文ひとつひとつに厳しいコメントをつけていくことにする。
 

編者コメント:寺内先生はご自分が受けられた師弟愛について経験談と共に感謝の気持ちを籠めて書いておられます。師弟愛とはまさに菩薩の愛に近い存在で、それが尊くまた厳しいが故にそれを解さない弟子には、唯々きつい仕置きのように見える。だがこれは自分への愛の故だと感じとるがゆえに、一層励むようになる。私にも中学時代、高校時代や大学時代に多くの先生方から手厳しい助言と、身に余る誉め言葉を他者を通して聞き及び、本当はもの凄く期待してくれているのだと気づく。「君のことを思っているから言うのだ」とは言われない。だが第三者には「あいつの書いた本は避けては通れない立派な本だ」と言われていると聞き及び、はらはら涙を流したことがある。寺内先生も今は学長であり同時に日本最大の学会の会長職にある。まだ若い。彼の厳しいアドヴァイスに挫けず若い諸君は頑張り給え。

令和二年十二月十四日 (No.1939)

濱野成秋

ハイデガーやキルケゴールの実存哲学の齟齬と対峙していると、登美子も自己の存在に人一倍認識していたことを強く意識するようになった。登美子は肺結核に罹って余命いくばくも無きを自覚した時、その意識は頂点に達していたが、夫と見合う以前既に、つまり鉄幹の愛を得たくて晶子と競い合う日々にも、登美子は自己の孤独を自覚し、その思いに沈んでいた。沈みの底から歌が浮き上がるが如し。と気づかれた方は多かろう。

登美子は父に勧められて明星の館を去る時、また楽しきはずが暗い、短い結婚生活と夫の死に別れがあり、明星に返り咲いても自分の居場所のなきを常に自覚して日本女子大学校に、さながら駆け込み寺かのように帰属するなど、どれを観ても、みな己が存在を持て余していた感がある。

文学者であってみれば、こうした孤独を噛み締めながらの流離の日々ほど切ないものはない。流浪の波に浮沈する己が日々の生。その自覚があってこそ、詩や歌になって迸る。

海原に漕ぎ出でてみても、自分はしょせん舵を絶えた船頭の如しで、

和田津みの真中に櫂をなげやりて
  泣きて見ましな船しづむまで 登美子

登美子はここでも自分という個体の行方をなげやりにと考えては、未だ見切りをつけられぬ自分の姿を見つめる。筆者はその御姿を哀れみて

わだつみに舵を絶へゐてこの一夜ひとよ
  明日の一夜も占ふべきや   成秋

と詠みて短冊にしたためれば登美子の思ひはいかばかりぞ。夕刻には雪となり、同舟の登美子は陸に上がって、

行き来する人も途絶へし夕暮は
  窓打つ雪の音のみぞする   登美子

と詠めば、吾人は応へてこう詠めり。

大雪の積もれる夜ぞくもり窓
  指の腹にてかりそめの雅樂うた  成秋

その雅楽に登美子はちはやぶる神代の清流に思ひを馳せて

竜田川清き河瀬に綾錦
  織るさざ波の美しきかな  登美子

竜田川と聞けば吾人にも慈父と遊んだ少年期を思い出し、

奈良かへり竜田川にてふと父は
  車を降りて歩くもまぼろし 成秋

登美子、何故か自己の冷めたる境遇を吐露せるか暗き声になりて

今の吾は虹の色して一めんに
  くもるが中にふたりはもえぬ

さもありなむ。鉄幹との仲はつねに半ば燃えたる、白けたる。吾人はこれもいたいけにとらえて、こう励ましたる、

われのみと思ひをりゐて沈めるや
  翳り曇れる痛みぞ祓はめ  成秋

(No.1939は以上)

三浦短歌会  令和二年十一月二十一日  濱野成秋
 
 歌会と講演『浪漫歌人山川登美子によせて』
 
 三浦半島の突端、城ヶ島を間近に三崎港がある。そこは北原白秋が駆け落ちして隠れ住んだところでもある。当時、白秋は傷心の果て。駈け落ちは絶望の日々でもあって、暗澹たる心境であった。ところがここに、彼の歌碑が最初に建てられ、白秋自身が懐かしさを胸に訪れた。昭和十六年、真珠湾攻撃の年である。
 人生、はかなき出来事が次々起こると、人は旅をしたくなる。
 住み慣れた地で同じ顔ばかりに向かうのが辛い。天国のような住みやすい処でなくてよい、地獄の果ての、わが身の細る境遇に置かれても良い、どこか遠くに行きたい。そんな夕陽や月夜を視たければここにお出でな。筆者は山川登美子の講演も兼ねて車を飛ばした。
 歌会は午後1時半、勤労市民センターで。
 「今日はフルメンバーです」と声を弾ませる三宅尚道師匠が迎えてくれる。
 会場は料理教室のようなテーブルがあり、隣室から詩吟が聞こえる。
 
  ナラ枯れて赤茶に染まる樫の木に
     リスが登れば枯葉舞い散る  光枝
 秋である。写生歌である。朗々と読み上げる。樹木と色と動物と。その動きの中で枯葉が舞う。英語に driftというのがあり、これは漂い落ちる感であって、dropでも fallでも scatterでもない。それを「舞い散る」と詠んだところが近似してゆかしい。
 
  あいみょんを聞きつつ深夜外に出る
     秋季ただよいブルームーン高し 由良子
 
 これまた秋の風情にて、先ほど誘うた三崎の浜近く、割烹旅館の女将らしい気風がある。明暗と天地が見える。ブルームーンはハワイの装い。六十年前、この地に嫁に来た加藤由良子さんには、もはや三崎は第二の故郷以上の親しみ。恋しかるべき夜半の月かな、が脳裏に。
 ところが筆者の葉山は第二の故郷。こここそ安住の地と定めたる吾を嗤うのは、座敷に侵入して来た大蜘蛛で、加藤さんの心には程遠く、
 
  が庵は密事みそかごとよと告げに寄る
     大蜘蛛つまみし紙音かみねぞ怖し  成秋
 
と詠みたるを思い起こせど、口にせず女将の言に聞き入る。
  雨上がり菊葉の珠の輝きは
     朝の空気の為せる業なり   弘子
 
 久々に静謐なお作にお目にかかった。静寂そのものである。前二作には動きがあり人の息遣いがあるのと対照的にこのお作は静止状態。Staticそのもの。正詩型というべきか。
 
  新型の肺炎ゆゑに天国へ
     旅立つときもマスクしてゆく  尚道
 
 これは狂歌ですかと言えば、このひと月の間に入院したので、とのこと。これを深刻に捉えずにギャグとして詠むしたたかさ。却って真剣になる思いである。マスクといえばコロナ感染症ゆえの流行ものと捉えるか。否。高峰秀子主演の映画『浮雲』のワンシーン、彼女が仏印から引き揚げて来る、そのボロ船からボロリュックを背負って上陸して来る姿を視よ。誰も可も、全員、マスク姿なり。
 
  てらてらと輝く背中踊らせて
     仕事に励むイルカたくまし 和子
 イルカショーは何とも気の毒。どう見ても知能は人間もイルカも同格。どこが違うかと言えば、人間はずるいから安全な役についていて、イルカは正直者だから身体を張っている。ひとたび着水が着地になれば、それでお陀仏。だから、「たくまし」より「いたまし」と変えたいと作者。至極もっともなり。
 
  庭の木に伸びたるツルを引きゆけば
     冬瓜三つ実をつけてをり  良江
 
 結構な収穫でした。三崎は平和なり。これぞ桃源郷。桃源郷とは義理の家族や夫と細君との仲たがいがあっては成り立たぬ。
 いや、もしもですよ、もしも次の歌のような家族関係もあるなら、歌にするもよし。短歌の世界に身を投じて、一首、
 兄と一緒に駅に父を迎へに来たものの
 
  腹ちがひ折れ曲がりたる兄こわ
     父を迎へるゐてまほしかれ 成秋
 続いて山川登美子の話となる。
 日本の浪漫主義文学は現代文学史では明治25年に夏目金之助のちの漱石がアメリカの詩人ホイットマンを日本に紹介したことに始まる、とよくまことしやかに書いているが、これは間違いである。いや、むろん、有島武郎でもない。そんな現代人ではなく、千年も前、額田王の頃に遡らねばならない。ここから説いて、古今、新古今と辿らねばならないが、それは次の機会にということで、登美子がなぜ日本女子大に来たか、なぜ晶子や雅子が名誉回復したのに、登美子だけが薄命にしてその生涯を閉じたかを語った。小浜の方々も短歌の会か盛ん。
 いつの日か、あい集う日が来ることを。
 三浦半島の三崎も小浜も、港町。
 その三崎で、筆者は良い子でいましたが、白秋もそうであったように、筆者も心は漂泊の思いにて、その果ての旅のごとく、会のあと、宵闇にキーコーヒーのカフェに行こうということになり、皆でお茶を。
 誰にも言わなかったが、その情景は、原田康子の『挽歌』に出て来る釧路の喫茶店「ダフネ」のようでありました。