令和二年三月十八日
      東京府中 河内裕二
 
令和二年三月、山形の庄内に暮らす親友を訪ねた。その際に遊佐の吹
浦や鶴岡の羽黒山を巡る。吹浦西浜海岸の岩礁には二十二体の磨崖仏
があり、説明によれば、地元海善寺住職寛海が日本海で亡くなった漁
師の供養と海上安全を願って造仏し、明治四年に自らも守り仏となる
ため海に身を投じたといわれる。岩礁に立つと石仏の視線が一斉に自
分に向けられている。卑俗な自分を恥ながら静かに手を合わせた。遊
佐には出羽富士とも呼ばれる東北第二の高さを誇る鳥海山があり、そ
の雄大で秀麗な姿には神々しささえ感じられる。鶴岡の羽黒山には羽
黒山、月山、湯殿山の三山の神が合祀されており、三神合祭殿で三神
に拝礼した。信仰の地を巡り自分の未熟さを痛感する旅となった。庄
内では四首の歌を詠んだ。
 
波しぶく吹浦ふくらの磯の磨崖仏目前のわれに何思ふらむ
出羽富士の白き頂眺むれば貧しき心露わとなりぬ  
勇壮な出羽三山の神々よわれに与へよ生きる力を  
山あいの湯壺に浸かり貪欲を洗い落として友と語らふ  
庄内に住む友人とは彼が庄内に就職する前に東京で知り合った。私は
愛知県の知多半島にある田舎町の出身で、アメリカ文学を学ぶために
上京し、武蔵野の府中に住んでもう四半世紀が経つ。すでに故郷より
この町で暮らした年月の方が長くなっている。私はこの町が好きだ。
ただ時々ここが自分の居場所ではないと感じることもある。かといっ
て家族に会うために故郷に戻ってもそこが自分の居場所だとも思えな
い。東京では移り住んだ「よそ者」、故郷では「逃亡者」。何とも中
途半端で不安定だが、アメリカに移民した一世たちもこんな気持ちだっ
たのだろうか。今は故郷を想いながら、不安、孤独、迷い、いらだち、
虚しさを日々感じてこの町で生きている。この府中での生活を詠んだ
歌。以下はそれである。
 
とめどなく冷たき闇が絡みつく病むは世間かわが魂か  
荒天に風にあおられ河川敷水に流さむ弱き自分を  
わが命何を恐れる今更に線香花火玉膨らみて  
街灯の明かり滲んだ並木道暗闇空に蝙蝠の群れ  
自宅から駅に向かう途中にある交差点の片隅にいつも花が一輪置かれ
ている。ここで亡くなった方への献花なのだろう。ある時、仕事帰り
に雨も降っていたので急いで自宅に向かっていると、街灯に反射する
光が目に入った。見ると交差点の隅に献花の山ができていた。命日だっ
たのだろう。私も道路を渡って花の前に立ち静かに手を合わせた。亡
くなった方の性別も年齢も知らないが、これだけたくさんの花が供え
られているのだから、多くの人に愛された方だったのだろう。なぜそ
んな人が。私もこの道を通るのだから私がこうなっていても不思議で
はない。神様が私を選ばなかったのは何故か。降り出した雨は亡くなっ
た方の涙のように思えた。きっと花を持ってこられた人たちに会いた
いのだろう。せめてこの花は散らないでほしい。この方の分まで生き
なければいけないと思った。
 
雨もよに帰路を急ぎし十字路の静かに光る花な散りそね  
独り身は気楽でよいが、家には話し相手もいないし時々寂しくなるこ
ともある。そんなときには友人と食事をしたり、賑やかなところへ出
かけたりする。寂しさと違って孤独は厄介だ。家族といても友人とい
ても孤独感は消えるものではない。人間は本質的に孤独だと思うが、
一体どうすればよいのだろう。
 
多摩川の岸にたたずむ水鳥がわれに語りし君も独りか  
痛むひざかばひて登る石段にやおらころころ一粒の豆  
紅の梅の林に目もくれず帰宅する君スマホ片手に  
友撮りし写真のわれは楽しげとひとりアパートおでんつつきて  
 
私は海の近くで育った。海といえば夏の印象が強い。この頃は近所の
多摩川を散歩するぐらいで海に行くことも少なくなったが、冬の海を
眺めれば、思い出すのは恋人と過ごしたあの日のこと。
うたかたの君の笑顔と笑ひ声ひとりたたずむ厳冬の海  
冬の海山で育った君の手を引きて裸足で波に駆け出す  
交通や通信の発達で、最近は距離による物理的な隔絶はなくなり、そ
の気になればいつでも故郷に戻ることも連絡もできる。結局、故郷は
思う気持ちが重要であって、室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思
ふものそして悲しくうたふもの」で始まる有名な「小景異情」の詩の
ように、上京した者は自分の居場所を求めて故郷と東京と思いが揺れ
動き続けるのだろう。私の場合は日常でふと意識が西へ向くと、いつ
も故郷を思い出す。西を向いた時に詠んだ歌を。
いざ行かむバス待つわれも西の地に夕焼け空に飛び立つ鳥と  
旅立ちに母にもらいしアンブレラ使うことなし眺めるばかりで  
夕闇の窓に映りしわれを見てむかしの父に見えた衝撃  
雨降るか天気予報で確認しなぜか目が行く故郷の天気  
 
幸いに私は東京でよき師やよき友に出会うことができた。両親も未だ
健在で、私もあと数年で五十路を迎える。孔子は四十にして惑わずと
言うが、未だに迷いばかりで、果たして五十にして天命を知ることが
できるのだろうか。日本には長い歴史とその中で育まれてきた豊かな
文化があり、先人から多くを学ぶことができる。私は最近になって短
歌の素晴らしさや楽しさを知った。わが師は文学とは生きることだと
仰る。私は生きるために歌を詠んでゆきたい。
 令和二年三月十四日掲載(No.1926)
  醍醐寺三宝院住職 斎藤明道
        弟子 濱野成秋詞書
 
明道翁は我が人生の師とも言えるお方様。ご自分の悩みを隠さず
述べるをためらわず、生きる切なさを歌に託される。それは次の
御製にも診える。初期の歌にて、
悲しきは破れ障子の穴のぞくごとくいやしきわが心かも
 
後年、師は醍醐寺の教学部長に就任された。そのお立場で後進を
導くに、己が迷妄の歌をばためらいなく巻頭に入れられる。飾り
気なき御歌集『あれこれ』を若い僧に与え、君よ迷いを恥じるな。
我もまた等しき頃あり。隠さぬ御心の尊さが温かい。
世をひがむ心かなしも花吹雪わが煩悩の塵を拂えや
 
秀吉最後の花見で有名な醍醐寺の桜をかく捉える師の御心よ。
しかるに師は孤高に生きる強きも無きて告白して詠める。
わが涙こころの砂に沁みてけりその重たさを告げる人なく
 
またこうも詠みけり、明道翁もまた孤独に喘ぎて、
笑いえぬ時もあるなりそのままにすておいてくれ妻よ息子よ
煩悩の樹林に吠ゆる魍魎の姿は見えず生命さいなむ
父のみの父に供えし今朝の酒その霊前にのみてたのしも
 
かすでに他界した父と酒酌み交すか。かく申す弟子の成秋とて
他界した父の心知りたく、
父君ちちぎみの遺せしノオト読みたしと書棚さぐれど指空しけり
 
八十路幼きに返るというは在家も出家も同じか。しこうして師は
死を恐れ我成秋もまた揺らぐ心を抑え難く。先ずは師の三作、
月明のもと彷徨す我が影のおそろしきかな獣のごとし
わが影の黒き恐怖が死をよぶ夜月は静かに心をさしぬ
あの星の一つ一つを打ち鳴らし天空にわれ消えなんと思ふ
 
次に成秋。朽ちるは肉體だけに留めよと思うだに虚しく、
来る生命いのち明日にも来る筈この命希こいねがひても子糠雨こぬかあめふる
嫩葉の陽黒文字折りたる吾指に落つる病葉行く末語る
現身うつしみのわが歯朽ちをり山野辺のかたぶく雪棚黙々と
 
わが師斎藤明道は歌人としては最高にして人生托鉢僧にして常に死を
見つめておられた。朽ちるは肉體だけにと希う吾もまた死の御心を受
けて未だ凡夫で過ごしおり自嘲して已まず。歌人斎藤明道翁は人の心
を愛するが故に人の過ちを責めず貶めず尽きぬ情愛を掛けて厭わず。
われもまたかくありなむ。
 令和二年二月二十六日掲載(No.1926)
        濱野成秋
 
終戦の想い出(これはホームページ冒頭の一首のプロトタイプ)
いくさ敗れ父母哭き稚児の稲田里いま他人よそびとの我勝ちに住み
 
秋となり
稲束を潜り潜りて田螺たにしとり野井戸近きに母駆けつけて
 
冬となり
戦ひの過ぎにし朝の貧しけれ市にて交わす息凍りたる
 
栄養失調にて吾は幼時きわめて虚弱にて
われ七つ九つ十五も黄泉想ひいま八十路にてなほ先暗し
 
同年齢に他界した父の心知りたく思はれ
父君ちちぎみの遺せしノオト読みたしと書棚さぐれど指空しけり
 
戦跡後年父他界の年齢に達し三浦半島に住まいして近隣を訪ね
キャベツ畑巡り下りて洞穴の基地入り口にくさむらむら
箱根口の茶屋にてお茶事あり。青葉若葉の陽春なれど
わかの陽黒文字折りたる吾指に落つる病葉行く末語るや
箱根口嫩葉に集ふ同人の作る歓び尽きぬ語らひ
 
☆本日の締めとして本歌取りを追加いたします。
 
本歌(茂吉『白き山』より)
最上川みづ寒けれや岸べなる浅淀にしてはやの子も見ず
 
本歌取り(成秋)
最上川岸辺に凍る稚魚のかげ追へる吾身の行方しれずも
 
推薦歌
☆本学会はむやみにカタカナをつかうなどして奇をてらうを歓ばず、常に作者の真心の発露を歓ぶがゆえに、左記の歌を参考とされて作歌されたい。
 
ぬば玉のふくる夜床に目ざむればをなごきちがひの歌ふがきこゆ  茂吉
 
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる  茂吉
秀句二題
 
山路来てなにやらゆかしすみれ草  芭蕉
山路来て独りごというてゐた  山頭火
 
☆この二句を味読されて後に私の雛型エッセイ「山路来て二題」を読まれて参考にしてください。
 
助言・作歌について
本万葉集は時代色を大事にします。次に親子の心の結びつき、次に生死に対して真剣に取り組む姿勢を良しとします。そこに季節や自然の移り変わりの情景が描かれていればなおのこと結構に思います。成秋
令和二年二月、JR横浜駅西口キリンシティにて集い会う
宵闇のグラス弾ける春今宵ロウマンの風友と語らふ  港区白金 紅竹みずほ
 
国鉄からJRへ。この異郷の街ヨコハマにて集ひて
夕暮れのビルの二階でのむ麦酒ばくしゅ行方定めむ春ゐたりなば  東京府中 河内裕二
 
萌黄立つ京の街四条の酒舖楽庵にて朋友成秋と杯傾けし日を想ひ
ひさかたの都の春を楽しまん友と庵で肴喰ひつ  古都から 福田京一
 
この集いを聞き及んで伊豆から詠める
殿を伊豆の山なる神の虹しろ薔薇手折りて捧ぐ集いに  伊豆山系 三井茂子
 
ポート横浜はあくまで異郷の地なれば
啓蟄を歓びとせむこの命他国の駅舎であおる独酒  葉山 濱野成秋
 
 令和二年二月十五日、この歌の群れを編集しをる折に鈴木孝夫先生より架電あり。亜米利加合衆国の成り立ちにつき語り合ふ。読者の方々もこぞって応募をされたし。

奈良県久米 石井秋野

「十五夜お月様ひとりぼち桜吹雪の花影に花嫁姿のお姉さま車にゆられてゆきました」

この歌を聞くたんびに明日香に嫁入りした姉さんのこと、想い出してならへんです。貧乏な布教使の家に八人兄弟で育った私には、朝の早いうちに起きて土間で炊事や洗い物をするお姉さまは不思議な人やった。うちのことは忘れたみたいに方々飛び回るお父ちゃん。身体の弱い母。長女の姉は小言の一つも言わず朝から晩まで働きどおし。弟たちの面倒を見たり縄を編んだり。遂に私は父に向って云ひました、「お父ちゃん、人様のことばかりやってんで自分のうちのこと考えてや」でも父は相変わらずや。二上山で山賊に襲われても、その人を入信させたり。あるとき父がにこにこしたはる。お姉さまを嫁入りさせる、あの子は働き者やな嫁にほしいと言ふてきよった…一人り片付いたがな。

お母ちゃんは寝たり起きたり…もう、やってかれへんのに何考えてはるんや…。

姉さまは私たちと別れを惜しんで五里も先の岡村の教会の家にお嫁入しはった。桜吹雪の花影を牛車にゆられて…この歌のとおりやったですよ。

「十五夜お月様見てたでしょ桜吹雪の花影に花嫁姿の姉様とお別れ惜しんで泣きました」

お嫁入入りの日、ほろ酔いで笑っているのは酒に弱いお父ちゃんだけやった。お客さん帰ったら、うち中涙を流してた。花嫁御寮って、みんな泣く。あたりまえや、と母。もう生き別れと同じやさかい…。「秋野さん、私の役目はあんたがするねんよ」あんたしかおれへんよ。という涙目のお姉さまの手が温かかった。

「十五夜お月様一人ぼち桜吹雪の花影に遠いお里のお姉さまわたしは一人になりました」

わたしにはその後、大阪の軍需会社を派手にやってはる家の後妻になる話が湧きました、大金持ちやそうやと乗り気の父。私は薬剤師の免状とって、高取の「石川はん」の薬局に努めて仕送りしていたけれど、弟や妹を食べさせられへん。後妻でもかめへん、内にもっとお金送れるようになる。けど橿原神宮のお神楽舞の楽しみも、もう終わりやな。

そう思って。大阪へ嫁入りしたら、なんと二階に赤子がいた。姑が嫁を放り出して、赤ちゃんだけ置いて行けと。その日から子育てやった。この子に罪はない。そう思うておしめの世話から社員さんの食事や洗濯…騙され結婚やったわけや。せやけど、子がなついた、それを姑が怒って私の目の前で「あの女の人、あんたのお母ちゃんとちゃうんやで」て、そんなん…言わはったら…どないしたらええねん。お姉さま、うち、どないしたらええねん。雪の日やった。岡村へ行こう思うたらトウキョで何や兵隊さんら首相官邸やら襲うて…二・二六事件で外出禁止やった。

夫は新町の芸者の家に入り浸りになった。姑が私をいじめて、いじめて。そんなん厭やったんやろ。こっちも勝手や。もうこんな家いやや。里へ帰った。

久米の家で風呂上りに鏡の前に立ったら乳首が紫色になってた。でけたんや、あんた、おなかに赤ちゃんが…帰りや、大阪に。無理しても帰りや。てて無し子産むんか。お母ちゃんに追い出されてまた大阪へ。「せやけど岡村へ行きたい」「なんでや?」「知らんの? お姉ちゃん、お乳が痛いて、あれ、乳癌かもしれん…うち、見たげるし」あかん、見舞いに行ってたりしたら離縁されてまうがな…とお母ちゃん。

歳が明けて、桜の咲くころ、男の子が生まれた。花影の下で赤ちゃん抱いて幸せやった。でもその年の12月、ハワイで大きな戦争が。大勝利や。夫は軍のなかで鋼鉄線を独占製造してたんか、軍需工場は大繁盛で儲けた儲けた。大将と呼ばれて祇園にまで遊びに行っこる。芸者はんとの間に子ができたとか。私にはこの子がいる。離れ座敷で我が子を抱きしめた。可愛い坊やと二人の暮らしや。せやけどいつ里へ帰れと言われるか…お姉さま、助けてや、助けてや。見舞いに行きなち、あかん、あんた上の子放り出すんか、この非常時に…翌年の春、花の咲くころ、電報が来た。「岡村のお姉さま危篤」それからすぐに、「死す」の電報が届いて…。

自分にはこの子がいるけど、私は独りになりました、という歌の締めくくりは、ほんま実感やったです。(日記から聞き語りを書き起こす)