淡谷さんも、ジュン葉山君も
涙ながらの失恋の歌
                   濱野成秋
 
 今に遺る淡谷のり子の歌を聞くと、彼女の自画像を見ているようだ。
 恋人との悲しい別れが胸に迫る。ジュンちゃんが淡谷のり子に惹かれるのは、淡谷の歌いっぷりに、縺れた自分の恋の果てを見るからだろうか?
 僕はジュン君の過去を知らない。まして恋愛の、敗れた果ての心の愁嘆場など、知る由もない。だが、あの、堂に入った歌いっぷりに、そんなことまで夢想してしまう。
 筆者はまだ淡谷さんの生きていた頃の、遠い記憶を辿るとしよう。
 淡谷のり子さんとジュン葉山君とは、二世代は異なるし、彼女が生きた時代も、淡谷さんとはかけ離れ、泣き暮らす淡谷さんの心の内を語って貰える立場でもないことは明白である。それなのに、ジュン君は淡谷のり子に心酔して、涙まで流してしまうから面白い。
 淡谷さんは「別れのブルース」や「雨のブルース」を歌い終えて舞台の袖に戻ってくると、いつも瞳に涙のきらめきをみせる。
 ひばりちゃんもそうだった。「みだれ髪」を歌うときには、落涙を予期して目をしばたき、そっと目頭を拭ってから強烈なライトの渦の中に跳び込んでいく。
 僕がまだ大学生のときだった。
 とある新橋のキャバレーで“歌うたい”をやっていた。
 一種のアルバイトである。ディックさんの前座をやったことも。
 まだ十八歳の、駆け出しシンガーだけれど、生意気にもピカピカ光る洒落たブラックシルクのタキシードを着せてもらい、いい気になって大人の歌を歌っていた。
 兄貴分のディックさんの美声などとても真似のできない、あどけない声で、ディックさんの歌もやった。ラストダンスの暗いホールに向かって、林伊佐緒の「ダンスパーティの夜」をやると、ホールの中央はくっつき合ったカップルが、けなるい、頽廃的の極みで、熱烈なキスなどして、身体をうごめかせていた。
 淡谷さんはというと、深夜にはやらない。彼女の場合はまた失恋したか、あの声が泣き濡れて聞こえる。今日もそいつがもろに出てらあ、と舞台の袖で笑うディックさんをうらめしく思って、幕引きの脇で憮然としていたのが僕だった。
 その淡谷さんの歌に芯から惚れたか、ジュン葉山という、元銀座のプロ・シンガーは、淡谷調の歌を歌って、やはり涙ぐむのである。
 淡谷の持ち歌には、男が作詞した女の恨み節がある。「夜が好きなの」と題する歌であるが、淡谷さんの持ち歌で、平田謙二が女心を巧妙に描き出す歌詞になっている。
 
  夜が好きなの
  ふたりの夢が もえるから…
 
 で始まり、男女の夜の営みを連想させながら、
 
  夜が好きなの
  あなたの嘘が消えるから…
などと語る。作詩は上手い。実に女のハートを読んでいる。が、男の手で女心をそのまま引き出すからか、のり子も潤ちゃんも泣かない。
女心をずばり描いては却って白けるからなのであろう。
ところが「雨のブルース」の二番の出だしがなんとも憎い。
 
  くらいさだめに
  うらぶれ果てし身は
  雨の夜みちを とぼとぼ
  ひとり さまよえど
  ああ、ああ、帰り来ぬ
  心のあおぞら
  すすり泣く 夜の雨よ

 
で、ぐぐっと、涙がこみあげて来るのは、やはり失恋のあまり、雨夜の小径を濡れながらさ迷い歩いた、そんな体験が淡谷さんにもジュン君にもあったからだ、と僕は思うのだが、果たしてどうか。読者諸賢はその歌いっぷりから、ご推察されたい…。
と、ここまで書いて、一応、ご本人の検閲(笑)を受けるべく、メール添付で送ったら、返事が来た。
失恋なんて、今はもはや「祈り」の境地です…
と、数行書いてあった。
人生の深みというか、いかにも教養も並々ならぬジュン葉山らしく、繰り返し読むうち、寂聴や有吉佐和子や寺島しのぶの顔が次々と想い浮かんだ。(了)
古賀メロディと浪漫詩② 
 
      日本浪漫学会会長 濱野成秋
 
人生の並木路
 
  一、泣くな妹よ 妹よ泣くな
    泣けば幼い二人して
    故郷を棄てた かいがない
 
 歌詞も曲もまるで古賀さんが作ったような。だが作詩は佐藤惣之助である。
 この兄妹の苦難の話は古賀さん、佐藤さんに通底する。いや、当時の貧農出身なら誰もが味わった故郷離脱劇である。
 唱歌「ふるさと」は、「うさぎ追いしかの山」であり、日本人なら誰もが郷愁を歌う、のどかな歌だとしたがる。それは違う。現実はのどかどころか、碌に食えない故郷は如何に貧しく、抜け出したかった所か。これを詠んだ歌なのである。貧農で子沢山。次男三男は山の蔭の、陽の当たらない土地を耕し、年貢は高い。畔に畔豆を植え、二毛作で麦を植え、渋柿を干して甘柿にし、娘を紡績工場に息子を軍隊に。それでも食えない農家では、野兎や狸を追って棍棒で叩き殺して汁の具にして飢えをしのぐ。
 「小鮒釣りしかの川」も、のんびりした歌ではない。泥臭い小鮒、どせう、フナ、ナマズ、ザリガニ、ヘビ、雀、何でも獲って食わねば生き延びられん。女工に出した娘は過労で肺病に。その妹は売られて女郎に。
 「幼い二人して故郷を棄てた」兄と妹の境遇とはこんな有様だったのだ。
  二、遠いさびしい 日暮れの路で
    泣いて叱った 兄さんの
    涙の声を 忘れたか
 
 兄貴は法廷でも泣いて諫めるばかり。少年の頃が昨日のことのように思い出されるのである。
 アメリカじゃ、こんな悲劇は通じない、日本政府は軍隊ばかりに力を入れた。なってないよ、日本の政治は。と、君は思うか? どうかな?
 アメリカの経済学者ガルブレイスは1958年に『豊さの時代oと題する名著をだした。戦勝国アメリカの50年代はハリウッドに象徴されるアメリカニズム全盛の右傾化した時代で、ガルブレイスのいう「豊かな社会」(affluent society)という言葉はたちまち世界中を独り歩きをし、ジャパンも、おっつけ高度経済成長期に入ったので、アメリカ路線で当たり前の時代になった。
 だがアメリカも移民難民で中西部から西へ。開拓時代は困窮続きの民衆が右往左往の有様。1920年代のジャズ時代でも、みな浮かれ騒ぎだと外見には喧伝していたが、ニューヨークのイーストサイドはロシア系、東欧系、ユダヤ系難民でごった返し、社会制度に金もかかる、飢えと病の底辺を日本人は全くしらない。白人でも貧しくて裸足で暮らす人々はそこら中にいて、poor whiteと呼ばれていた。こんなんじゃ母国に戻った方がましだと、当時の新聞の「身の上相談欄」出た記事は溢れるほどある。
 それでも、農園の下働きで、暮らしを立てた日系移民の中にはしっかり貯蓄して、故郷に豪華な洋館を建て、村長の家より立派だと、見返した人も、沢山いた。だが、勤勉国家ジャパンは極貧だった。なぜ出遅れたか。なぜ軍備拡張ばかりに没頭したのか。
 明治維新当時、富国強兵策が打ち出されたことは、日本人なら誰でも教科書で知っている。脅威はロシアだった。日清戦争で台湾や満州を手に入れ、「絶対国防圏」と称して頑張ったが、日露戦争で樺太の下半分の権益を得たものの、どれもこれも中途半端で、却って巨額の戦費を伴う日中戦争を継続する羽目に陥った。侵略と見做されて、アメリカからも見放された。
 満州事変、日中戦争、ついには日米戦争へ。平民は一銭五厘の赤紙で戦地へ。軍隊では毎、貧農の日びんたびんたの連続だが、それでも水飲み百姓よりもましだと農家の次男、三男たちは入隊した。だから「欲しがりません、勝つまでは」の標語は言い得て妙で、この状況で、身売りをする妹を救うために志願したという。「人生の並木路」の兄と妹は召集令状を食らう前に、女郎女工に売られる前に、故郷を棄てて逃げたのである。この歌は1937年に発表されているが、真珠湾攻撃のたった四年前であり、貧困が人生を狂わせる仕組みがつい最近まであったのである。
 三番と四番は一緒に出そう。トーンが違うよ。そこに気づいていただきたい。
 
  三、雪も降れ降れ 夜道の果ても
    やがて輝く 曙に
    我が世の春は きっと来る
 
  四、生きてゆこうよ 希望に燃えて
    愛の口笛 高らかに
    この人生の 並木路
 
 この、三番、四番も含め、あの甘い声のディック・ミネさんの歌は絶妙で泣かせるけれど、一番、二番の後の、この内容では、打開策もなし、絶望感をこの程度の心がけで拭い去れるはずもない。
 原節子が妹を演ずる映画のなかで唄われるわけだけれども、その後に作られた映画のストーリーを見ても、歌ほどの情念には欠けている。
 歌詞の一番、二番が醸し出す切なさが映画やドラマの筋書きでは、興醒めだと思うのだが、皆さんは如何。むしろ、この歌だけを独立させて、筆者が指摘した個人の努力では如何ともし難い状況を噛みしめながら、日本の貧困とやるせない状況を噛みしめた方が、歌の心が、切々と峰に迫る。
 佐藤惣之助も古賀政男も貧農の子で後に大成功者となるし、ガルブレイスもカナダの貧農に生れ、ハーバードからプリンストンへ加州大バークレーで気炎を吐く存在となったが、彼もアメリカ作家アンダーソンが描く『白人貧農』(Poor White)で、みなほぼ同時代なのである。
 こうやって見ると、昭和7年、世界は大恐慌のさ中で、日本は日中戦争を始めたばかり。関東大震災からまだ十年と経たない時代。帝都の復興も充分でないのに、戦費が掛かる。国を挙げて軍備増強政策に躍起になっている。輸出相手国のアメリカとの関係が悪化して、西洋音楽などにうつつを抜かすより増産に汗を流せの時代である。強兵には税金がかかり、生産性は乏しいから、貧困層の救済などに国家としては手が回らない。
 この歌を作詩作曲した古賀政男の二十歳代の暮らしも、どん底状態で、恋愛の懊悩を歌って生計を立てるなど、夢のまた夢。尋常な世界ではなかった。
 
 古賀政男は明治大学に在学してマンドリン倶楽部を創設したとあるから、生活に困らない学生と思うなかれ。食事もままならぬ貧困状態で欠食に継ぐ欠食。マンドリンも売るしかないと思った矢先に、母親が5円何某を送ってくれた。もしマンドリンを売りに出していたら、今日の古賀メロディはなかったと、別の所で書いた覚えがあるが、佐藤惣之助も貧乏のどん底だった。
 だから、古賀は佐藤の歌詞に涙しながら、この哀愁に満ちた詩に、切々と迫る名曲を与えたのだと筆者は思う。
「寝屋」を巡る懊悩三題 
 
      日本浪漫学会会長 濱野成秋
 
1.「寝屋」は政治がらみの格闘の場か
 
 人間は眠るもの。動植物も似ており。
 休眠をもって勢力回復を目指す生物は多い。
 人間はしかし、「寝屋」の一時を悶々と過ごす動物である。
 
  嘆きつつ ひとり寝る夜の明くる間は
    いかに久しき ものとかは知る
             右大将道綱母
 
 歌人は言わずと知れた『蜻蛉日記』の作者である。拾遺集では恋歌の部類としている。通婚が当たり前の時代、娘の寝屋に男が通い、種を宿す。こんな風習が貴族社会に広まるには、参内を許された高位高官の子を宿せば、それで終生悔いはぐれがない実態に裏付けされている。互いに好きなれば事は上々となれば親も安堵するが、種だけ宿して正当に嫡子と認められねば、言い知れぬ生涯が到来する。この御仁は無事男子を出征し、見事に右大将まで出世させたのだから、それを誇らしげに自分の呼称としているわけである。
 そんな出世街道を背景にしながら、男を待つというのは、打算めいて頂けないが、そうでもせねば、貴族として家を維持できない仕組みにも、溜息が出る。
 夜更けて、約束の刻を過ぎても訪れない男の心変わりを慨嘆し、噂通り彼の男子には、ほかに恋人ができ、自分よりも先にその女を慰めてからこちらの寝屋に来るかと思えば、腹も立つ。だから『蜻蛉日記』には、待てど暮らせど来ぬ人が、やっと来たのに、木戸を開いてやらず、暫く焦らせてから、ようやく入れてやって…のくだりもある。菊一輪と歌を持て迎えたとあるが、本当か。
 この種の策略を講じる才女はあまり好かれない。そうと判っていても、やってしまう女だから、待ち惚けを食わされた男の足は益々遠のくと思われるが、そこまでは書いていない。
 結局寝所に招き入れて、目出度く身ごもったわけである。つまり「寝屋」とは、政治がらみの、政敵を視野に入れての妖艶な格闘技の場でもあったとも考えられる。恋のムードも萎え果てよう。紫式部の『源氏物語』もその目で読み解けば、浪漫の気持ちも半ば消えなんと見える。
 
2.「寝屋」は安らぎの場に在らず
 
 『よさこい節』に、
 ぼんさん
 かんざし
 買うを視た…
 という下りがある。
 坊主は丸頭だから、おつむにとんがった簪が刺されへんのに、買うたんか、と幼い頃に笑った覚えがある。が、むろん、そんな駄洒落で詠ったのではない。土佐の高知へ来てごらん、はりまや橋でお坊さんが恋人にプレゼントを買うてはる、粋な処でんがな、と都人や上方からの客人をもてなす商魂で歌にした。
 現に、女人禁制の高野山でなくとも、女人との交わりを禁ずる仏教僧が密かに廓に通い、妾を囲うなど、破戒を破戒とも思わぬ僧侶も多々居た。だから、
 
  夜もすがら もの思ふころは明けやらで
    寝屋のひまさへ つれなかりけり
                俊恵法師
 
 この歌も『千載集』で恋の部に入れられているように、寝所にいても昔の女人と過ごした夜を想い出し、なかなか眠れない、ということにもなる。
 高野山の石堂丸という不運な子の話がある。妻のほかに出来た妾との罪作りを詫びて出家した刈萱の、愛児石堂丸との切ない再会の話である。
 俊恵もまた世俗にいた頃、罪作りな日々を悶々と思い起こすのか。ならばなかなか眠れなかったであろう。刈萱の場合、ひと間おきて、障子に映ったシルエットを見て驚いた。正室と側室とが、仲良く談笑しているようで、二人の長い黒髪が何百もの蛇となって、相手に向かって牙を剥き出しにしている姿に見えたという。
 筆者の家にも同様のことが起こった。戦中戦後のことである。実母は、父が祇園の芸妓に産ませた子を連れて突如大阪の本宅に来たとき、母は「生まれた子には罪がない」と言って、雪ちゃんという可愛いおかっぱ頭の女の子を奥座敷に上げたが、母親の芸妓は断じて座敷に上がることを許さなかった。そんなこととは露知らず、幼い雪ちゃんと筆者は、無心に蓄音機を掛けて遊んだ覚えがある…。
 だから石堂丸の話を聞いたとき、これは僕やがなと思った。まだ小学生だったが、その時の複雑な心境を今も思い起こす。
 恵恵法師もまた出家後も、俗代で過ごした長年の苦悩が、寝屋の暗闇に次々と現れて眠れぬ思いであったのであろう。
3.罪作りと夜の静寂しじま
 
 こうして「寝屋」を視れば、安らぎの場所どころか、自らをさいなむ場所に見えて来る。考えぬが華。自らの不逞不貞、不見識を次々諫める場でもあるわけだが、そのプロセスは人によって大いに異なるであろう。自らの失態を恥じるタイプは良質な「寝屋」であるが、根っから性悪に生まれた人間には、自分の不行き届きなど、平気で棚上げし、自己肯定の立場に立って無理でもなんでも、自己主張の方策をあれこれ思い巡らせるのであろう。よりハイアなポジションを獲得する方策を練る場所が寝屋だとは。
 だが善人も悪人と波一重。今夜は懐旧の想いで眠られず、今夜は自己弁護策で眠られない。その綯い交ぜが常人の偽らざる姿であろう。
 自分を責めさいなむどころか、政敵を封じ込める策略を練るところが、「寝屋」であるとする者も、若いうちから沢山要る。
 その種の人間は決して自己省察の歌など詠むはずがない。寝屋で人は本性を露にする。だからわんちゃんにゃんちゃんによく似た性衝動も行為として実現する。「寝屋」とは、形而上でも形而下でも、永遠に罪つくりと悔悟の場なのである。
 
          令和六年四月十日        成秋

Our Love Forever

March 6, 2024
by Seishu Hamano

 
1 Female
The cherry’s pink, the violet purple
Breathlessly
The garden’s Art coming rich
May ray Breeze
But our love, once glisten in the night
Now fading away,
With you
 
 
2 Male
Your whisperin’ voice caressin’ my cheek
Endlessly
The garden’s Art tremblin’ again
With your sigh
And our love would never end
Now I’m here
With you
 
3 Female & Male
Female

Can I believe
Can I love
Endlessly
 
Male
Yes Our love
Always bright
Shining sun
 
Female
Our Future will warm
 
Male
Yes always warm
 
Male & Female
You took my heart
You gave your heart
So tenderly
 
McGuire の名曲「Tenderly」をモチーフとして作詩しました。ダンスミュージックに踏み込んだ浪漫調のラブ・ソングとして。どうぞTenderlyの名曲を想い出して歌ってみてください。
 
 

  新星浪漫詩人
 
  高鳥奈緒の世界
 
               日本浪漫学会会長 濱野成秋
 
  壱。城跡を歩く
 
 この子は、苦悩の子だ、細切なものを膨らませ、いつ何時破裂するか。
 労わらねば、励ませなければ。
 そんな危惧を持って自作詩の発表を勧めた。間もなく届いた恋愛詩。君の恋愛相手は誰? いいの、ここまで書いて? そんな筆者の心配を余所に、この子は書く、書く。
 挫折してはまた挫折して。
 奈緒は告白する。
 でも、自暴自棄の心情を書かずにはおれない。永らえて見たって、この先、どう生きるか。見えない世界に向かうしかないじゃないの。とは筆者にさえ言わないし、打ち明け話はいつも半ばで終わりだが。
 底にたゆたう何か。
 多分、いま進行中の恋愛も苦悩の方が多いのではあるまいか。不可解な奈緒の話には不可解な家族も出没する。伝統音大を出たサキソフォンの名手と作曲を勧めた。バラード風の。なのにそのサックス奏者とは、コミュニケーション、うまくいかないと、ためらう。
 筆者の、頑固なまでに整った学術芸術人生とは真逆の魅力が高取奈緒にはある。彼女は富豪の娘で、愛車は真っ赤なフェアレディ。今日は江の島まで来たわ。
 むろん恋人と。
 ご勝手になさいませ。
 おうちは渋谷南平台…とすれば納得がいく。
 いまどき執事がいる。料理長がいる。むろんメイドさんのスカートは19世紀ヴィクトリア朝のフレアが附けている。
 湘南の海辺を走る。運転は危なっかしくて。昨日は箱根まで行ってきたの。
 ああ、そう…と筆者は次の詩を受け取る。近くまで来たら、連絡していい? でも助手席には乗らないよ。いいのよ、いいの。逸らす目が哀しい。
 筆者は聞きながら、漫然と母のことを想い出していた。
 若い頃の母もこんなだったのでは?
 山城で名高い高取城。荒れ城で、瓦の散乱が著しい。そんな昭和初期、母は近くにある御殿医の石何某の中庭にある薬局で薬剤師をしていた。
 うら若き身で、厳しい修行の日々で。
 その合間を抜け出して若き母は高取城の廃墟に登る。
 相手は二高文科に通う青年だったとか。
 高取の街では噂に。富豪の薬事商の息子と薬剤師の愛染かつら。しかしその燃える恋も、折から大阪から見合いにわざわざ高取城の麓まで来た青年実業家との見合いで消えた。
 筆者の父である。軍需工場の社長さんやて。後妻やけれど、大金持ちや。あんた、橿原神宮でお神楽、舞いやった、その姿を見初めたんやて。
 と、旧家の医院の御寮(ごりょん)さん。
 早速庭の灯篭のわきで写真を撮らせ、初恋の相手を知るか知らぬか。そ知らぬ風で、箪笥ひと竿、嫁入り道具ひと揃え、かんざし、おべべ、白足袋に扇子。何もかも揃えてくれはったんや、もう、お父ちゃんとこへ行くしかなかったんやね、と母。
 高鳥奈緒も同じ道を…
 歌の好きな母は、本当は宝塚志望であったとか。
 歌曲が大好きで。これが最後の逢う瀬と高取の城跡へ。
 筆者がまだ小学生のころ、母は一人っ子の筆者に、そっとうちあけたのだった。大学生になり、高校教師をしていた頃、母を車に乗せて高取の城跡まで行った。
ここや、ここで暮らしてたんや。
 母が指さすところは、単に畑だった。この場所に家老の役宅があり、維新で家老が引っ越して行ってしまった空き家に行く当てのない藩校の儒学者たちの家族が間借り住まいをしていたという。藩校教授と崇められても、時が移ろうと、哀れなものだった。
 『三田文学』の事務所でこの話をしたら、ぜひエッセイにしたらどうだと勧められた。「光のえんすい」というタイトルで世に出た。高取城から帰路、暗がりに向けてヘッドライトを灯すと、円錐状に前方の風物がくっきり現れる。そこだけが現実で、その外側は目にも止まらず流れ去る。過去などはそんな風に朽ち果てるものなのだ。
 高取藩の藩校教授の孫娘として、維新後に貧乏していても儒学者の誇りを持って育ったであろう母にも、秘めたる恋の逢う瀬があったのだ。母と一緒に、割れ瓦の散乱する城跡で診た光景は今も鮮烈に筆者の脳裏に遺っている。が、母は他界して早や40年。筆者の肉体もやがて潰え果てるであろう。絶え果てれば、光のえんすいの光景も母のロマンも消滅してしまう。
 上空には高々と鳥が舞う…
 高鳥奈緒は我が母のことなど、知る由もない。増してや 古都奈良にある高取城での思春期の男女の出会いなど、知る由もない。
 だが、今日も空高く鳥が舞う。
 それは詩人高鳥奈緒の玉の緒とわが母の青春時代をつなぐ心の玉の緒を知るかのように。
  弐。大内裏の恋
 
 奈良の都も今は昔。その桜が京の内裏に匂いぬる日も鎌倉の世に至りて、奈緒ならぬ恋多き式子内親王の時代となる。恋の想いは変わらない。忍ぶことの辛さをこらえきれず、
 
  玉の緒よ 絶へねばたへね 永らへば
    忍ぶることの 弱りもぞする
 
 と詠む。新古今の時代でこの才女が愛したのは定家といわれるが、定家は和歌の大家。玉の緒とはむろん「命」のこと。この恋は辛い、いっそ死んでしまえば、かくも苦しい耐え忍ぶこともあるまいに。という思いは、当時の宮廷を取り巻く仕来りに圧し潰されそうだからだ。人目の惨さ、讒訴の罰の恐怖。偏見の数々に純愛を通すこともままならぬ。
 親王の想いは後世、九条武子や白蓮にも通じるが、現代浪漫歌人の高鳥奈緒の世界でもある。
 「忍れど色に出でにけり我が恋は」も同じくに、中世にいたると近松の冥土の飛脚となり、それを経て紅葉の金色夜叉に受け継がれ、今日まで営々と。さながら白蛇伝の如く日本の女性に纏いつくのである。
 その先端に、高鳥奈緒の歌があると思えば、どなたも納得されるであろう。振り切れないしがらみに、思いやりの深い奈緒はその思いを断ち切れない。
 筆者は戦前のスローバラードの巨星淡谷のり子の別れや雨の歌と重なり出てならないから、ぜひ淡谷さんのような歌にしてしまえと示唆した。おもえば自分がってな、悪い奴である。ひばりちゃんのステージ復帰第一弾として出た「みだれ髪」の作詞者星野哲郎は死に臨むほんの数年間、筆者の人生語りのお相手であったが、かれもまた高鳥奈緒のごとく、断崖の虚空に舞う鳥のような存在であった。
  憎や恋しや 塩屋の岬
  投げて届かぬ 想いの糸が
  胸にからんで 涙をしぼる
 
 高鳥奈緒の心の糸も昨日の夜更けにふつりと切れたと、電話の糸から漏れ受け給う。さりとて、筆者は如何ともしがたい。まさか沖の瀬をゆく底引き網にもつれてかかるのでは…。
 高鳥奈緒の詩情は最果ての断崖の、怒涛に打たれて途切れ途切れに舞う心の糸である。明治大正の風土になぞらえれば、勝ち気で抗議的な晶子というより、いつも勝者の陰て負けて泣いて小浜の小藩の洋館に身を寄せて、独り海に涙する山川登美子の生まれ変わりであろう。
 八代亜紀やテレサテン、秋元順子と続く女性歌手のこの種の怨念は高鳥奈緒の胸のなかで沸々と煮え滾る。
 
  参。高鳥奈緒の誕生
 
 かくて高鳥奈緒は現代の浪漫文壇に彗星の如く誕生した。
 その情念の凄さ、絡まりの恐ろしさは文章家の河内裕二の心をもとらえる。
 だが思うに、彼女は初の誕生ではない。
 筆者は短編「父の宿」で奈緒を一度登場させている。
 もう20年も前のことになるが。
 伊豆は松崎にその宿は実在する。
 元は庄屋の建物で、天保時代の建物は知る人ぞ知る。
 この「父の宿」という作品の成り立ちは、主人公の父がそのむかし、愛する女性とお忍びで伊豆松崎に宿をとった夜のことを打ち明けられる、老いたる父の、秘めたる人生の一ページで。その、たった一夜のことが気になって、主人公もまた同じ部屋で愛する女性と一夜を共にするのだが、図らずもその夜更け、たまたたま投宿した見知らぬ夫婦の破綻の果ての愁嘆場に遭遇する。
 それを目撃する奈緒の心境が現実の詩人の心そのものとは言わないが、このフィクションにみる、縺れた愛のタブルイメージは高鳥奈緒の詩の世界と重なってならない。筆舌に尽くし難いとはこのことで。
 何のゆかりもないもう一つの夫婦が破局を迎える、その渦の中に惹き込まれた男女は明け方、高鳥奈緒の詩の内奥のごとく、暗黒の淵に点々と灯火の映ずる水の面に没していく妻の姿を己の姿に重ね合わせるのである。
 我が国の浪漫詩は第一次浪漫主義文学の嚆矢「みだれ髪」から始まって、鳳晶子、登美子、昌子の若さと解放と重圧とが交互に個人を責め悩ませた日本型浪漫時代の迸りに端を発する。彼らが年齢を重ね、与謝野鉄幹が政界に走るなど、珍事が起きて自滅の兆しさえあったが、われわれの学会においては、ともすればリアリズムが託つ無感覚で感性の乏しい現実主義に文学の牙城を明け渡した感があるが、それはリアリストの思い上がりでしかないと言いたい。
 文学は浪漫をおいて、他にない。
 情念を抑えたロジックの重さは文学ではない。
 高鳥奈緒の詩を見よ。
 絶えかけて久しい、熱い人間の情念の燃え盛るさまに君の胸を焦がしてくれ給え。
 翔ぶのよ、夜空を   高鳥奈緒
 
 いつから想像の翼を落としたの?
 あなたが幼い頃、背中に持っていた想像という翼
 大人になったら想像の翼はもういらないの?
 大人だからなおのこと、想像の翼で自由にはばたけるのに
 もっともっと自在な自分になれるはず
 あなたの背につけて想像の世界に翔びたいのよ、わたしは…
 Fly, fly, fly…
 Away over the rainbow…
 沢山の誤解、ほんの些細なことで傷つきひっそりと飛ぶわたし
 水溜りに雨の波紋
 湖にさざなみ
 心は翼の先端よ、ほら、ほら、湖のきらめきを浴びて
 心無い言葉いちいち反応して翼が揺れる
 でも立て直せるんよ、少し離れて自分を
 心の避難所は永遠のネバーランド。 (June 28, 2023)