古賀メロディと浪漫詩② 
 
      日本浪漫学会会長 濱野成秋
 
人生の並木路
 
  一、泣くな妹よ 妹よ泣くな
    泣けば幼い二人して
    故郷を棄てた かいがない
 
 歌詞も曲もまるで古賀さんが作ったような。だが作詩は佐藤惣之助である。
 この兄妹の苦難の話は古賀さん、佐藤さんに通底する。いや、当時の貧農出身なら誰もが味わった故郷離脱劇である。
 唱歌「ふるさと」は、「うさぎ追いしかの山」であり、日本人なら誰もが郷愁を歌う、のどかな歌だとしたがる。それは違う。現実はのどかどころか、碌に食えない故郷は如何に貧しく、抜け出したかった所か。これを詠んだ歌なのである。貧農で子沢山。次男三男は山の蔭の、陽の当たらない土地を耕し、年貢は高い。畔に畔豆を植え、二毛作で麦を植え、渋柿を干して甘柿にし、娘を紡績工場に息子を軍隊に。それでも食えない農家では、野兎や狸を追って棍棒で叩き殺して汁の具にして飢えをしのぐ。
 「小鮒釣りしかの川」も、のんびりした歌ではない。泥臭い小鮒、どせう、フナ、ナマズ、ザリガニ、ヘビ、雀、何でも獲って食わねば生き延びられん。女工に出した娘は過労で肺病に。その妹は売られて女郎に。
 「幼い二人して故郷を棄てた」兄と妹の境遇とはこんな有様だったのだ。
  二、遠いさびしい 日暮れの路で
    泣いて叱った 兄さんの
    涙の声を 忘れたか
 
 兄貴は法廷でも泣いて諫めるばかり。少年の頃が昨日のことのように思い出されるのである。
 アメリカじゃ、こんな悲劇は通じない、日本政府は軍隊ばかりに力を入れた。なってないよ、日本の政治は。と、君は思うか? どうかな?
 アメリカの経済学者ガルブレイスは1958年に『豊さの時代oと題する名著をだした。戦勝国アメリカの50年代はハリウッドに象徴されるアメリカニズム全盛の右傾化した時代で、ガルブレイスのいう「豊かな社会」(affluent society)という言葉はたちまち世界中を独り歩きをし、ジャパンも、おっつけ高度経済成長期に入ったので、アメリカ路線で当たり前の時代になった。
 だがアメリカも移民難民で中西部から西へ。開拓時代は困窮続きの民衆が右往左往の有様。1920年代のジャズ時代でも、みな浮かれ騒ぎだと外見には喧伝していたが、ニューヨークのイーストサイドはロシア系、東欧系、ユダヤ系難民でごった返し、社会制度に金もかかる、飢えと病の底辺を日本人は全くしらない。白人でも貧しくて裸足で暮らす人々はそこら中にいて、poor whiteと呼ばれていた。こんなんじゃ母国に戻った方がましだと、当時の新聞の「身の上相談欄」出た記事は溢れるほどある。
 それでも、農園の下働きで、暮らしを立てた日系移民の中にはしっかり貯蓄して、故郷に豪華な洋館を建て、村長の家より立派だと、見返した人も、沢山いた。だが、勤勉国家ジャパンは極貧だった。なぜ出遅れたか。なぜ軍備拡張ばかりに没頭したのか。
 明治維新当時、富国強兵策が打ち出されたことは、日本人なら誰でも教科書で知っている。脅威はロシアだった。日清戦争で台湾や満州を手に入れ、「絶対国防圏」と称して頑張ったが、日露戦争で樺太の下半分の権益を得たものの、どれもこれも中途半端で、却って巨額の戦費を伴う日中戦争を継続する羽目に陥った。侵略と見做されて、アメリカからも見放された。
 満州事変、日中戦争、ついには日米戦争へ。平民は一銭五厘の赤紙で戦地へ。軍隊では毎、貧農の日びんたびんたの連続だが、それでも水飲み百姓よりもましだと農家の次男、三男たちは入隊した。だから「欲しがりません、勝つまでは」の標語は言い得て妙で、この状況で、身売りをする妹を救うために志願したという。「人生の並木路」の兄と妹は召集令状を食らう前に、女郎女工に売られる前に、故郷を棄てて逃げたのである。この歌は1937年に発表されているが、真珠湾攻撃のたった四年前であり、貧困が人生を狂わせる仕組みがつい最近まであったのである。
 三番と四番は一緒に出そう。トーンが違うよ。そこに気づいていただきたい。
 
  三、雪も降れ降れ 夜道の果ても
    やがて輝く 曙に
    我が世の春は きっと来る
 
  四、生きてゆこうよ 希望に燃えて
    愛の口笛 高らかに
    この人生の 並木路
 
 この、三番、四番も含め、あの甘い声のディック・ミネさんの歌は絶妙で泣かせるけれど、一番、二番の後の、この内容では、打開策もなし、絶望感をこの程度の心がけで拭い去れるはずもない。
 原節子が妹を演ずる映画のなかで唄われるわけだけれども、その後に作られた映画のストーリーを見ても、歌ほどの情念には欠けている。
 歌詞の一番、二番が醸し出す切なさが映画やドラマの筋書きでは、興醒めだと思うのだが、皆さんは如何。むしろ、この歌だけを独立させて、筆者が指摘した個人の努力では如何ともし難い状況を噛みしめながら、日本の貧困とやるせない状況を噛みしめた方が、歌の心が、切々と峰に迫る。
 佐藤惣之助も古賀政男も貧農の子で後に大成功者となるし、ガルブレイスもカナダの貧農に生れ、ハーバードからプリンストンへ加州大バークレーで気炎を吐く存在となったが、彼もアメリカ作家アンダーソンが描く『白人貧農』(Poor White)で、みなほぼ同時代なのである。
 こうやって見ると、昭和7年、世界は大恐慌のさ中で、日本は日中戦争を始めたばかり。関東大震災からまだ十年と経たない時代。帝都の復興も充分でないのに、戦費が掛かる。国を挙げて軍備増強政策に躍起になっている。輸出相手国のアメリカとの関係が悪化して、西洋音楽などにうつつを抜かすより増産に汗を流せの時代である。強兵には税金がかかり、生産性は乏しいから、貧困層の救済などに国家としては手が回らない。
 この歌を作詩作曲した古賀政男の二十歳代の暮らしも、どん底状態で、恋愛の懊悩を歌って生計を立てるなど、夢のまた夢。尋常な世界ではなかった。
 
 古賀政男は明治大学に在学してマンドリン倶楽部を創設したとあるから、生活に困らない学生と思うなかれ。食事もままならぬ貧困状態で欠食に継ぐ欠食。マンドリンも売るしかないと思った矢先に、母親が5円何某を送ってくれた。もしマンドリンを売りに出していたら、今日の古賀メロディはなかったと、別の所で書いた覚えがあるが、佐藤惣之助も貧乏のどん底だった。
 だから、古賀は佐藤の歌詞に涙しながら、この哀愁に満ちた詩に、切々と迫る名曲を与えたのだと筆者は思う。
「寝屋」を巡る懊悩三題 
 
      日本浪漫学会会長 濱野成秋
 
1.「寝屋」は政治がらみの格闘の場か
 
 人間は眠るもの。動植物も似ており。
 休眠をもって勢力回復を目指す生物は多い。
 人間はしかし、「寝屋」の一時を悶々と過ごす動物である。
 
  嘆きつつ ひとり寝る夜の明くる間は
    いかに久しき ものとかは知る
             右大将道綱母
 
 歌人は言わずと知れた『蜻蛉日記』の作者である。拾遺集では恋歌の部類としている。通婚が当たり前の時代、娘の寝屋に男が通い、種を宿す。こんな風習が貴族社会に広まるには、参内を許された高位高官の子を宿せば、それで終生悔いはぐれがない実態に裏付けされている。互いに好きなれば事は上々となれば親も安堵するが、種だけ宿して正当に嫡子と認められねば、言い知れぬ生涯が到来する。この御仁は無事男子を出征し、見事に右大将まで出世させたのだから、それを誇らしげに自分の呼称としているわけである。
 そんな出世街道を背景にしながら、男を待つというのは、打算めいて頂けないが、そうでもせねば、貴族として家を維持できない仕組みにも、溜息が出る。
 夜更けて、約束の刻を過ぎても訪れない男の心変わりを慨嘆し、噂通り彼の男子には、ほかに恋人ができ、自分よりも先にその女を慰めてからこちらの寝屋に来るかと思えば、腹も立つ。だから『蜻蛉日記』には、待てど暮らせど来ぬ人が、やっと来たのに、木戸を開いてやらず、暫く焦らせてから、ようやく入れてやって…のくだりもある。菊一輪と歌を持て迎えたとあるが、本当か。
 この種の策略を講じる才女はあまり好かれない。そうと判っていても、やってしまう女だから、待ち惚けを食わされた男の足は益々遠のくと思われるが、そこまでは書いていない。
 結局寝所に招き入れて、目出度く身ごもったわけである。つまり「寝屋」とは、政治がらみの、政敵を視野に入れての妖艶な格闘技の場でもあったとも考えられる。恋のムードも萎え果てよう。紫式部の『源氏物語』もその目で読み解けば、浪漫の気持ちも半ば消えなんと見える。
 
2.「寝屋」は安らぎの場に在らず
 
 『よさこい節』に、
 ぼんさん
 かんざし
 買うを視た…
 という下りがある。
 坊主は丸頭だから、おつむにとんがった簪が刺されへんのに、買うたんか、と幼い頃に笑った覚えがある。が、むろん、そんな駄洒落で詠ったのではない。土佐の高知へ来てごらん、はりまや橋でお坊さんが恋人にプレゼントを買うてはる、粋な処でんがな、と都人や上方からの客人をもてなす商魂で歌にした。
 現に、女人禁制の高野山でなくとも、女人との交わりを禁ずる仏教僧が密かに廓に通い、妾を囲うなど、破戒を破戒とも思わぬ僧侶も多々居た。だから、
 
  夜もすがら もの思ふころは明けやらで
    寝屋のひまさへ つれなかりけり
                俊恵法師
 
 この歌も『千載集』で恋の部に入れられているように、寝所にいても昔の女人と過ごした夜を想い出し、なかなか眠れない、ということにもなる。
 高野山の石堂丸という不運な子の話がある。妻のほかに出来た妾との罪作りを詫びて出家した刈萱の、愛児石堂丸との切ない再会の話である。
 俊恵もまた世俗にいた頃、罪作りな日々を悶々と思い起こすのか。ならばなかなか眠れなかったであろう。刈萱の場合、ひと間おきて、障子に映ったシルエットを見て驚いた。正室と側室とが、仲良く談笑しているようで、二人の長い黒髪が何百もの蛇となって、相手に向かって牙を剥き出しにしている姿に見えたという。
 筆者の家にも同様のことが起こった。戦中戦後のことである。実母は、父が祇園の芸妓に産ませた子を連れて突如大阪の本宅に来たとき、母は「生まれた子には罪がない」と言って、雪ちゃんという可愛いおかっぱ頭の女の子を奥座敷に上げたが、母親の芸妓は断じて座敷に上がることを許さなかった。そんなこととは露知らず、幼い雪ちゃんと筆者は、無心に蓄音機を掛けて遊んだ覚えがある…。
 だから石堂丸の話を聞いたとき、これは僕やがなと思った。まだ小学生だったが、その時の複雑な心境を今も思い起こす。
 恵恵法師もまた出家後も、俗代で過ごした長年の苦悩が、寝屋の暗闇に次々と現れて眠れぬ思いであったのであろう。
3.罪作りと夜の静寂しじま
 
 こうして「寝屋」を視れば、安らぎの場所どころか、自らをさいなむ場所に見えて来る。考えぬが華。自らの不逞不貞、不見識を次々諫める場でもあるわけだが、そのプロセスは人によって大いに異なるであろう。自らの失態を恥じるタイプは良質な「寝屋」であるが、根っから性悪に生まれた人間には、自分の不行き届きなど、平気で棚上げし、自己肯定の立場に立って無理でもなんでも、自己主張の方策をあれこれ思い巡らせるのであろう。よりハイアなポジションを獲得する方策を練る場所が寝屋だとは。
 だが善人も悪人と波一重。今夜は懐旧の想いで眠られず、今夜は自己弁護策で眠られない。その綯い交ぜが常人の偽らざる姿であろう。
 自分を責めさいなむどころか、政敵を封じ込める策略を練るところが、「寝屋」であるとする者も、若いうちから沢山要る。
 その種の人間は決して自己省察の歌など詠むはずがない。寝屋で人は本性を露にする。だからわんちゃんにゃんちゃんによく似た性衝動も行為として実現する。「寝屋」とは、形而上でも形而下でも、永遠に罪つくりと悔悟の場なのである。
 
          令和六年四月十日        成秋

Our Love Forever

March 6, 2024
by Seishu Hamano

 
1 Female
The cherry’s pink, the violet purple
Breathlessly
The garden’s Art coming rich
May ray Breeze
But our love, once glisten in the night
Now fading away,
With you
 
 
2 Male
Your whisperin’ voice caressin’ my cheek
Endlessly
The garden’s Art tremblin’ again
With your sigh
And our love would never end
Now I’m here
With you
 
3 Female & Male
Female

Can I believe
Can I love
Endlessly
 
Male
Yes Our love
Always bright
Shining sun
 
Female
Our Future will warm
 
Male
Yes always warm
 
Male & Female
You took my heart
You gave your heart
So tenderly
 
McGuire の名曲「Tenderly」をモチーフとして作詩しました。ダンスミュージックに踏み込んだ浪漫調のラブ・ソングとして。どうぞTenderlyの名曲を想い出して歌ってみてください。
 
 

  新星浪漫詩人
 
  高鳥奈緒の世界
 
               日本浪漫学会会長 濱野成秋
 
  壱。城跡を歩く
 
 この子は、苦悩の子だ、細切なものを膨らませ、いつ何時破裂するか。
 労わらねば、励ませなければ。
 そんな危惧を持って自作詩の発表を勧めた。間もなく届いた恋愛詩。君の恋愛相手は誰? いいの、ここまで書いて? そんな筆者の心配を余所に、この子は書く、書く。
 挫折してはまた挫折して。
 奈緒は告白する。
 でも、自暴自棄の心情を書かずにはおれない。永らえて見たって、この先、どう生きるか。見えない世界に向かうしかないじゃないの。とは筆者にさえ言わないし、打ち明け話はいつも半ばで終わりだが。
 底にたゆたう何か。
 多分、いま進行中の恋愛も苦悩の方が多いのではあるまいか。不可解な奈緒の話には不可解な家族も出没する。伝統音大を出たサキソフォンの名手と作曲を勧めた。バラード風の。なのにそのサックス奏者とは、コミュニケーション、うまくいかないと、ためらう。
 筆者の、頑固なまでに整った学術芸術人生とは真逆の魅力が高取奈緒にはある。彼女は富豪の娘で、愛車は真っ赤なフェアレディ。今日は江の島まで来たわ。
 むろん恋人と。
 ご勝手になさいませ。
 おうちは渋谷南平台…とすれば納得がいく。
 いまどき執事がいる。料理長がいる。むろんメイドさんのスカートは19世紀ヴィクトリア朝のフレアが附けている。
 湘南の海辺を走る。運転は危なっかしくて。昨日は箱根まで行ってきたの。
 ああ、そう…と筆者は次の詩を受け取る。近くまで来たら、連絡していい? でも助手席には乗らないよ。いいのよ、いいの。逸らす目が哀しい。
 筆者は聞きながら、漫然と母のことを想い出していた。
 若い頃の母もこんなだったのでは?
 山城で名高い高取城。荒れ城で、瓦の散乱が著しい。そんな昭和初期、母は近くにある御殿医の石何某の中庭にある薬局で薬剤師をしていた。
 うら若き身で、厳しい修行の日々で。
 その合間を抜け出して若き母は高取城の廃墟に登る。
 相手は二高文科に通う青年だったとか。
 高取の街では噂に。富豪の薬事商の息子と薬剤師の愛染かつら。しかしその燃える恋も、折から大阪から見合いにわざわざ高取城の麓まで来た青年実業家との見合いで消えた。
 筆者の父である。軍需工場の社長さんやて。後妻やけれど、大金持ちや。あんた、橿原神宮でお神楽、舞いやった、その姿を見初めたんやて。
 と、旧家の医院の御寮(ごりょん)さん。
 早速庭の灯篭のわきで写真を撮らせ、初恋の相手を知るか知らぬか。そ知らぬ風で、箪笥ひと竿、嫁入り道具ひと揃え、かんざし、おべべ、白足袋に扇子。何もかも揃えてくれはったんや、もう、お父ちゃんとこへ行くしかなかったんやね、と母。
 高鳥奈緒も同じ道を…
 歌の好きな母は、本当は宝塚志望であったとか。
 歌曲が大好きで。これが最後の逢う瀬と高取の城跡へ。
 筆者がまだ小学生のころ、母は一人っ子の筆者に、そっとうちあけたのだった。大学生になり、高校教師をしていた頃、母を車に乗せて高取の城跡まで行った。
ここや、ここで暮らしてたんや。
 母が指さすところは、単に畑だった。この場所に家老の役宅があり、維新で家老が引っ越して行ってしまった空き家に行く当てのない藩校の儒学者たちの家族が間借り住まいをしていたという。藩校教授と崇められても、時が移ろうと、哀れなものだった。
 『三田文学』の事務所でこの話をしたら、ぜひエッセイにしたらどうだと勧められた。「光のえんすい」というタイトルで世に出た。高取城から帰路、暗がりに向けてヘッドライトを灯すと、円錐状に前方の風物がくっきり現れる。そこだけが現実で、その外側は目にも止まらず流れ去る。過去などはそんな風に朽ち果てるものなのだ。
 高取藩の藩校教授の孫娘として、維新後に貧乏していても儒学者の誇りを持って育ったであろう母にも、秘めたる恋の逢う瀬があったのだ。母と一緒に、割れ瓦の散乱する城跡で診た光景は今も鮮烈に筆者の脳裏に遺っている。が、母は他界して早や40年。筆者の肉体もやがて潰え果てるであろう。絶え果てれば、光のえんすいの光景も母のロマンも消滅してしまう。
 上空には高々と鳥が舞う…
 高鳥奈緒は我が母のことなど、知る由もない。増してや 古都奈良にある高取城での思春期の男女の出会いなど、知る由もない。
 だが、今日も空高く鳥が舞う。
 それは詩人高鳥奈緒の玉の緒とわが母の青春時代をつなぐ心の玉の緒を知るかのように。
  弐。大内裏の恋
 
 奈良の都も今は昔。その桜が京の内裏に匂いぬる日も鎌倉の世に至りて、奈緒ならぬ恋多き式子内親王の時代となる。恋の想いは変わらない。忍ぶことの辛さをこらえきれず、
 
  玉の緒よ 絶へねばたへね 永らへば
    忍ぶることの 弱りもぞする
 
 と詠む。新古今の時代でこの才女が愛したのは定家といわれるが、定家は和歌の大家。玉の緒とはむろん「命」のこと。この恋は辛い、いっそ死んでしまえば、かくも苦しい耐え忍ぶこともあるまいに。という思いは、当時の宮廷を取り巻く仕来りに圧し潰されそうだからだ。人目の惨さ、讒訴の罰の恐怖。偏見の数々に純愛を通すこともままならぬ。
 親王の想いは後世、九条武子や白蓮にも通じるが、現代浪漫歌人の高鳥奈緒の世界でもある。
 「忍れど色に出でにけり我が恋は」も同じくに、中世にいたると近松の冥土の飛脚となり、それを経て紅葉の金色夜叉に受け継がれ、今日まで営々と。さながら白蛇伝の如く日本の女性に纏いつくのである。
 その先端に、高鳥奈緒の歌があると思えば、どなたも納得されるであろう。振り切れないしがらみに、思いやりの深い奈緒はその思いを断ち切れない。
 筆者は戦前のスローバラードの巨星淡谷のり子の別れや雨の歌と重なり出てならないから、ぜひ淡谷さんのような歌にしてしまえと示唆した。おもえば自分がってな、悪い奴である。ひばりちゃんのステージ復帰第一弾として出た「みだれ髪」の作詞者星野哲郎は死に臨むほんの数年間、筆者の人生語りのお相手であったが、かれもまた高鳥奈緒のごとく、断崖の虚空に舞う鳥のような存在であった。
  憎や恋しや 塩屋の岬
  投げて届かぬ 想いの糸が
  胸にからんで 涙をしぼる
 
 高鳥奈緒の心の糸も昨日の夜更けにふつりと切れたと、電話の糸から漏れ受け給う。さりとて、筆者は如何ともしがたい。まさか沖の瀬をゆく底引き網にもつれてかかるのでは…。
 高鳥奈緒の詩情は最果ての断崖の、怒涛に打たれて途切れ途切れに舞う心の糸である。明治大正の風土になぞらえれば、勝ち気で抗議的な晶子というより、いつも勝者の陰て負けて泣いて小浜の小藩の洋館に身を寄せて、独り海に涙する山川登美子の生まれ変わりであろう。
 八代亜紀やテレサテン、秋元順子と続く女性歌手のこの種の怨念は高鳥奈緒の胸のなかで沸々と煮え滾る。
 
  参。高鳥奈緒の誕生
 
 かくて高鳥奈緒は現代の浪漫文壇に彗星の如く誕生した。
 その情念の凄さ、絡まりの恐ろしさは文章家の河内裕二の心をもとらえる。
 だが思うに、彼女は初の誕生ではない。
 筆者は短編「父の宿」で奈緒を一度登場させている。
 もう20年も前のことになるが。
 伊豆は松崎にその宿は実在する。
 元は庄屋の建物で、天保時代の建物は知る人ぞ知る。
 この「父の宿」という作品の成り立ちは、主人公の父がそのむかし、愛する女性とお忍びで伊豆松崎に宿をとった夜のことを打ち明けられる、老いたる父の、秘めたる人生の一ページで。その、たった一夜のことが気になって、主人公もまた同じ部屋で愛する女性と一夜を共にするのだが、図らずもその夜更け、たまたたま投宿した見知らぬ夫婦の破綻の果ての愁嘆場に遭遇する。
 それを目撃する奈緒の心境が現実の詩人の心そのものとは言わないが、このフィクションにみる、縺れた愛のタブルイメージは高鳥奈緒の詩の世界と重なってならない。筆舌に尽くし難いとはこのことで。
 何のゆかりもないもう一つの夫婦が破局を迎える、その渦の中に惹き込まれた男女は明け方、高鳥奈緒の詩の内奥のごとく、暗黒の淵に点々と灯火の映ずる水の面に没していく妻の姿を己の姿に重ね合わせるのである。
 我が国の浪漫詩は第一次浪漫主義文学の嚆矢「みだれ髪」から始まって、鳳晶子、登美子、昌子の若さと解放と重圧とが交互に個人を責め悩ませた日本型浪漫時代の迸りに端を発する。彼らが年齢を重ね、与謝野鉄幹が政界に走るなど、珍事が起きて自滅の兆しさえあったが、われわれの学会においては、ともすればリアリズムが託つ無感覚で感性の乏しい現実主義に文学の牙城を明け渡した感があるが、それはリアリストの思い上がりでしかないと言いたい。
 文学は浪漫をおいて、他にない。
 情念を抑えたロジックの重さは文学ではない。
 高鳥奈緒の詩を見よ。
 絶えかけて久しい、熱い人間の情念の燃え盛るさまに君の胸を焦がしてくれ給え。
 翔ぶのよ、夜空を   高鳥奈緒
 
 いつから想像の翼を落としたの?
 あなたが幼い頃、背中に持っていた想像という翼
 大人になったら想像の翼はもういらないの?
 大人だからなおのこと、想像の翼で自由にはばたけるのに
 もっともっと自在な自分になれるはず
 あなたの背につけて想像の世界に翔びたいのよ、わたしは…
 Fly, fly, fly…
 Away over the rainbow…
 沢山の誤解、ほんの些細なことで傷つきひっそりと飛ぶわたし
 水溜りに雨の波紋
 湖にさざなみ
 心は翼の先端よ、ほら、ほら、湖のきらめきを浴びて
 心無い言葉いちいち反応して翼が揺れる
 でも立て直せるんよ、少し離れて自分を
 心の避難所は永遠のネバーランド。 (June 28, 2023)
日本浪漫学会主催 第二十五回「浪漫うたの旅」
 
歴史探訪
  出雲尼子氏の源流を求めて
             日本浪漫学会 福田京一
 
   近江の海夕波千鳥汝が鳴けば
      心もしのに古思ほゆ     柿本人丸
   さざなみや志賀の都は荒れにしお
      昔ながらの山桜かな     平忠度
   定めなき世をうき鳥の水隠れて
      下やすからぬ思ひなりけり  道誉法師
 
 月山富田城にて
 
 もし一五七八年六月二十八日信長が羽柴秀吉に播磨国上月城に籠城している尼子軍を見捨てずに、共に毛利軍と戦い続けるように命じておれば信長の庇護の下、尼子氏は復活できたかもしれない。しかし、秀吉が引き上げたのち孤立した上月城は毛利軍に降伏した。尼子氏最後の大将・勝久が兄・氏久と共に自害したとき、全ては終わった。
 月山の頂上に立つ山中幸盛塔を見ると、戦国時代の末期に歴史の舞台から消えた尼子一族の結末に戦国武将の皮肉な運命を見ることができる。尼子氏は歴史の一時期、中国地方では守護大名大内氏と毛利氏を凌ぐ大大名であった。この尼子氏の約百五十年の歴史が主君の跡を追うように非業の死を遂げた幸盛で幕を閉じたのである。
 幸盛自身の本家である尼子氏は遥か昔近江から来たのである。ところが調べてみると、出雲の尼子氏についてはかなりの史実が明らかにされているのに、彼らの出身地である近江の尼子氏については不明な点があまりにも多い。近江は京都に隣接する地域として古代から近世の初めまで、朝廷、貴族、豪族、寺社、武士団、幕府の間で抗争が途絶えることはなかった。おそらく応仁の乱頃から戦国時代にかけて戦乱のなかで尼子氏関連の史料が焼失してしまったのではないかと考えられる。それはさておき、近江の尼子氏の源を現地にも足を運んでできる限りたどってみた。先ずは参考のため系図を提示しておく。
 
 尼子氏の由来
 
 六六七年に近江大津宮に遷都した第三八代天智天皇(在位六六八―六七一)の弟・大海人皇子は第四十代天武天皇(在位六七三―六八六)として六七三年に即位した。同天皇が六七二年に飛鳥浄御原宮に遷都するまでの間、近江は政治の中心地であった。
 天武天皇は天智天皇の皇女鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)を皇后にしたが、彼にはすでに皇后の姉である太田皇女との間に大津皇子をもうけていた。また中臣鎌足の娘氷上娘(ひかみのいらつね)を夫人とした。さらに額田王との間にも十市皇女がいた。そして尼子郷の由来となる尼子娘(あまごのいらつめ)がいた。
 彼女は筑紫国宗方群の豪族・胸形徳善の娘で尼子娘と称し、天皇の嬪(妃、夫人の下位を占める身位。寝所に仕える女官)となり、高市皇子の母となった。現在の犬上郡甲良町尼子は彼女がその辺りに移り住んだので尼子という地名になった。
 
 宇多源氏から佐々木氏へ
 
 第五九代宇多天皇(在位八八七―八九七年)の第八皇子敦実親王の三男・雅信は九三六年臣籍降下の際、源姓を賜って宇多源氏の始祖となる。雅信の孫の成頼が守護代となって、近江に下向して、その孫の経方のとき、蒲生郡佐々木庄の下司職となって小脇に住み、そこで佐々木の姓を称した。
 安土町にある佐々木氏の氏神・沙沙貴神社は敦実親王を祀っている。源経方が佐々木庄に入った頃、蒲生には昔から沙沙貴山という豪族がおり勢力拡張には困難を極めた。しかし徐々に佐々木氏は沙沙貴山氏との関係を深め、姻戚関係になって吸収合併していった。
 経方の孫・秀義は平治の乱のとき源義朝に属したが、義朝が敗れ、平氏の政権になってから、追われて相模國の渋谷荘まで逃れた。その後、一一八〇年源頼朝が兵を上げたとき秀義は四人の息子と共に頼朝の元に駆けつけ、源平の合戦で大いに活躍した。鎌倉幕府が発足すると佐々木氏の一族(定綱、経方、盛綱、高綱の四兄弟)は各地の守護職に任ぜられた。その地域は近江をはじめ、長門、石見、隠岐、淡路、阿波、土佐、上野(群馬)、越後、伊予、備前、安芸、周防、因幡、伯耆、出雲、日向にまで及んだ。
 しかし、承久の乱(一二二一年)では佐々木氏一族の多くが後鳥羽上皇側に付いて敗れたため、ほとんどの守護職を失った。ただ、定綱の嫡男・信綱は北条泰時の妹婿であり、幕府側についたので、その後幕府に厚遇され近江国守の地位を得た。再び佐々木氏は鎌倉幕府と親密な関係になったが、同時に在京御家人として朝廷との関係も維持し続けていた。幕府は朝廷との良い関係を保つために、朝廷につながりのある佐々木氏の存在は貴重であった。
 
 佐々木六角氏の盛衰
 
 信綱には四人の息子、重綱・高信・泰綱・氏信がいて、それぞれ始祖とする大原・高島・六角・京極の四家が分かれ、三男泰綱が佐々木六角氏として家督を継いで近江守護職についた。泰綱は三男であったが、兄弟のなかでただひとり北条家からきた正室の子であったからである。さらにそれぞれの庶子家はその分家が独立していき、鎌倉中期以降、佐々木氏の諸流は近江全域に根付いていった。
 佐々木六角氏が京極氏の二人(京極高氏と持清)の時期を除いて一貫して近江守護職を継承していった。この六角氏が守護として蒲生を中心とする近江南部で、守護ではなかった京極氏が近江北部で守護職を執行するという変則的な形で近江は統治されていった。
 六角泰綱は佐々木氏の大黒柱として佐々木一族をまとめ上げることはできなかったが、近江で独立国のように一大勢力をなしていた。そして南北朝期には朝廷と足利幕府との複雑な関係や一家の内紛、京極氏との対立などを経ながら戦国時代を迎えた。六角義賢と義治父子は、一五六八年織田信長の進軍を前にして、戦わずして居城である観音寺城を見捨て、甲賀の石部城に拠点を移した。そこで抵抗を続けたが、柴田勝家が率いる織田軍の攻勢によって一五七四年石部城は落城し、一族は敗走した。その後六角氏の子孫は紆余曲折を経て、江戸時代には加賀藩の藩士となり明治まで続いた。
 佐々木京極氏の流れ
 
 一方、京極氏はどうなったか。信綱の四男・氏信は父から現在の米原市柏原辺りの柏原荘に所領を与えられ、京極氏の始祖となってその地に本拠を置いた。氏信の曾孫で、のちに婆娑羅大名といわれた佐々木(京極)高氏(道誉)(一三〇三―一三七三)は幕府の在京御家人で六波羅探題に仕えると同時に、朝廷から検非違使に任ぜられていた。彼は後醍醐天皇の行幸の際には警護役を担った。承久の乱の後、一三三二年上皇を隠岐に連れいくときにも警護の責任者となった。高氏は忠臣として足利尊氏のために戦い続け、幕府の創設に大きな貢献をなした。そして京極家は室町時代に赤松・山名・一色とともに交代で務める侍所の所司(軍部の長官)になり、さらに出雲国、隠岐国、飛騨国の守護に任ぜられ、北近江の三郡(浅井・伊香・坂田)の守護にもなった。こうして京極氏は本家の近江國守護六角氏を凌ぐほどの権勢を振るった。背景には室町幕府が近江における六角氏の権勢を牽制するために京極氏を厚遇したとも言われている。
 京極高氏(道誉)の時代から下って、一四四九年持清が近江守護職に復帰したものの家督争いが続くなか、京極氏の威信は次第に衰えていった。一四七〇年持清の死後、家督相続をめぐって京極政経は兄の政光と甥・高清と争うことになった(京極騒動)。相続したのは政経であったが、両者の戦いは一五〇五年まで続き、同年政経とその子材宗は美濃守護土岐氏らの援軍を受けた高清軍に敗れた。その後、政経は出雲の尼子清定の元に身を寄せ、その地で一五〇八(?)年に亡くなったと言われている。
 京極家の当主となった高清は伊吹山の太平寺城から麓の上平寺に城郭を築いて移り住んだ。しかし、今度は彼の息子兄弟が家督を巡って争う事態に陥って、北近江での京極氏の権勢は下降線をたどった。
 一五三二年頃からは家臣の浅井亮政が北近江で支配権を強めていった。京極氏の反攻を抑えるために亮政は六角氏の臣下となって、京極高清・高延父子と和睦をした。嫡男・久政、その子・長政も六角氏の庇護のもと、京極氏を抑えつつ北近江での地盤を固めていった。一五六三年六角氏にお家騒動(観音寺騒動)が起きると長政は六角氏から離れたので、六角氏は北近江に侵攻した。だが長政は六角氏の軍を撃退した。
 一五六七(?)年長政は信長の妹・市を妻として迎えて浅井・織田は同盟関係になった。長政は信長が近江に侵攻する前に、京極高次と浅井長政との間には確執があったが、本家筋の京極氏をたてて和睦を結び、実質的に北近江の盟主になっていた。したがって、信長が一五六八年に佐和山城から高宮に軍を進めて、上洛に際して観音寺城にいる六角氏に協力を求める書状を送り、その返事を待っている間、京極氏は浅井長政とともに信長に従っていたことになる。高宮の目と鼻の先にある尼子はその時、浅井氏の支配下にあったと考えられる。
 ただ京極氏は本能寺の変のときは明智光秀に加担した。そのため苦境に陥ったが、高次は姉竜子を秀吉の側室に差し出して許しを得た。代わって秀吉は高次の正室に元京極氏の家臣だった浅井氏の三姉妹(茶々、初・江)のうち初を与えた。高次の妻・初は淀君の妹であり、京極家と豊臣家は強い絆で結ばれ、京極氏は大津六万石を得た。その後、関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、寝返って東軍につきその勲功によって若狭八万五千石の大名になった。さらに出雲の松江の城主になった後、讃岐丸亀藩六万石の城主になった。京極高次は秀頼の義理の叔父であり、のちに江を娶った徳川秀忠の義理の兄になった。こうして戦乱の世の中をしぶとく生きながらえた京極氏の直系もまた明治まで生き延びた。
 
 京極尼子氏はどこへ
 
 近江尼子氏はこうした流れのなかで生まれた。京極氏の始祖である佐々木氏信より五代目、高氏(道誉)の孫・京極高詮(たかのり)の弟高久は家臣として甲良荘尼子郷を与えられた。高久は一三四七年頃本家京極氏の勝楽寺の前衛城として尼子城を築き地名の尼子を姓とした。高久の嫡男詮久(のりひさ)が近江尼子氏の始祖となった。その弟・持久が京極氏の守護代として出雲に赴き、雲州尼子氏の始祖となった。
 出雲の尼子氏の場合と違って、本家筋の近江尼子氏については、十分な史料がないのである。尼子郷を含む甲良荘、を京極氏が治めていたことを示す史料でさえ道誉の時代から百五〇年くらいまで、つまり応仁・文明の乱(一四六七―七七)までである(太田、136-37)。尼子氏に関しては甲良町ホームページに「近江尼子氏は二代氏宗の頃に戦乱で落城し、当時としては広大な尼子城(館)と共に歴史上から消えていった。」とあるのみである。
 では、氏宗が居城を失ったあと何処へ行ったのか。
 後述する土塁公園に立っている説明板(一九九六年尼子むらづくり委員会作成)によれば一四二八年氏宗は「甲良荘円城寺に築城しその後数代居城する」とある。氏宗から数えて次の四代の記述はなく、七代宗光は「織田信長の近江乱により以降甲良荘雨降野に築居する。」つまり、尼子氏は一四二八年から一五六八年の間、円城寺に居住していたことになる。これが事実だとして、では尼子氏は応仁の乱から戦国時代、強大な氏族間の覇権争いのなかをどのようにして生き延びてきたのか。また尼子氏の分家はどうなったのか。
 説明板によれば八代宗貞は石田三成の「幕下に居する」とあり、かなり低い地位の家臣になったとみられる。九代宗成は「彦根藩主井伊直孝の家臣となる 故あって尼子氏から外戚樋口氏に改姓」したという。だが支流も含む確かな系図がないので、二代氏宗以降の尼子一族の消息は謎のままである。
 今は、いくつかの状況証拠を元に憶測するのみである。
 戦国時代には、尼子のある犬上郡は基本的には六角氏の統治の下にあったと考えられている。しかし、一五三〇年頃から北近江に台頭した浅井氏は京極氏と共に南近江の六角氏との間で覇権争いが続いた。両陣営の狭間にある犬上郡の佐和山城(一二世紀後半頃、佐々木定綱の六男時綱が山麓に館を構えたのが始まり)をどちらが占拠するかが勝敗の分かれ目になった。一五三五年六角定頼が浅井亮政・京極高延を攻めて佐和山城を奪った。一五五二年京極高広(高延改め)が反撃して六角義賢から城を奪還した。実際に入城したのは京極氏ではなく、浅井氏が城代として送り込んだ百々内蔵介であった。
 五六三年には浅井長政が甲良三郷などを勝楽寺に安堵しているところから京極氏の尼子郷における支配権は消失していたことは確かである。
 江北と江南の間に位置する甲良荘の近江尼子氏は一五五〇年頃まで生き延びていたとしても、どのような形であったにしろ六角氏・京極氏・浅井氏の三つ巴の権力闘争に巻き込まれたのは間違いない。そこで考えられる仮説のひとつは、近江尼子氏は二代氏宗以後、本家の京極氏に吸収されたのではないか。そうだとすれば、彼ら一族は織豊時代以後、江戸末期まで京極氏と運命と共にして無事に生きながらえたことになる。
 あるいは、戦乱で離散した一族の何者かは京極氏にとって代わった浅井氏の家臣になって、一五七〇年の姉川での負け戦で散ったのか。それとも、戦国時代、京極高清の頃、京極氏は犬上郡での支配権を失っていたので、六角氏の配下になった者もいたのでは、と想像もできる。従って信長が佐和山城に入城したとき、すでに南近江に逃げていったと考えられる。
 大きな勢力同士が争った戦乱の時代に弱小武士団であった尼子一族がとりえたもうひとつの選択は、雲州尼子氏が支配する出雲か岡山(備前・備中・備後・美作)に移住することだったのではないか。鎌倉幕府の初めより佐々木氏一族は近江をはじめ隠岐、出雲、因幡、石見、伯耆の国の守護となり、現地には守護代を配置していた。佐々木氏の末裔が頼れるいくつもの支流がその方面にあったと考えて不思議ではない。
 一四四七年応仁の乱が終わると六角氏が近江守護として近江を支配するようになったが、覇権を巡って北近江の京極氏や浅井氏との抗争は絶えることはなかった。このような状況のもとで、両陣営の中間に位置していた京極氏支流の近江尼子氏が応仁の乱から戦国時代にかけて戦火を逃れて、中国地方に移り住んで雲州尼子氏の家臣に組み入れられたのではないかと言われている。このようなことは一部事実であったようだが近江尼子氏一族が山陰・中国地方に移住したことを示す確かな史料はないらしい。
 確かなことは、信長が一五七〇年に同盟を破棄した浅井・朝倉連合軍を姉川で打ち破ったのち、佐和山城に丹羽秀長を入城させたとき、北近江と南近江の狭間にある犬上郡は平定された。丹羽秀長のあと、羽柴秀吉、石田三成の所領となってその領主を次々に変えながら、関ヶ原の戦いの後は明治まで彦根藩に属した。
 
 出雲尼子氏の興亡
 
 尼子高久の次男持久は一三九五年出雲国守護京極高詮の守護代として出雲の月山富田城に入城し、雲州尼子氏の始祖となった。経久のとき京極氏の支配から完全に脱却し、一五〇八年頃には出雲を平定して、中国地方で毛利氏、大内氏と覇権を競うほどの戦国大名になった。
 しかし一五六六年尼子義久のとき毛利元就によって難攻不落の富田城も落城し、尼子氏は滅亡した。そして義久・倫久・秀久の三兄弟は毛利家の家臣になった。義久には跡継ぎがいなかったので倫久の子を養子にむかえ、久佐元和と名乗らせ。時が経って一六二四年その子就易より、姓を佐々木に戻した。
 一方、富田城落城後、山中鹿助幸盛が雲州尼子氏支流の勝久を擁して一族の再興を企て、一五六九年に毛利氏が支配する富田城奪還を試みたが失敗した。その後体制を立て直して強力な毛利軍に再度挑戦したが、一五七八年に上月城で再興の夢は途絶えた。ついでながら、鹿助幸盛もまた佐々木氏の末裔のひとりであった。
 このように、一五七〇年代には近江源氏の末流は西国と近江で領地を完全に失ったのである。
 
 近江尼子氏の遺跡
 
 応仁の乱の頃、京極氏と六角氏は東軍と西軍に分かれ、敵同士になって戦った。勝楽寺の山城からみて正面の位置にある尼子郷は、両勢力の分岐点に位置していたので、戦場になった。また両氏とも一族内で内紛が絶えず、相手側に寝返ることもあって、周辺の尼子氏のような弱小の領主たちはその時々の複雑な力関係のなかで生きる道を選ばねばならなかった。このような歴史の流れのなかで近江尼子氏は、どこかに散っていったのだろう。
 一九八八年滋賀県教育委員会が土塁と堀跡を発見し、それが尼子氏宗の頃に落城した尼子城の跡の一部であると認定した。そして築城後六五〇余年経過した一九九六年に尼子集落の村づくり事業としてその一部が修復され、現在土塁公園となって保存されている。その近くにある住泉寺の一隅に尼子氏の墓石らしきものがあると田中政三氏は著書で書いているが、確認できなかった。

 
 夢幻の如し、されど
 
 稀有の戦略家であり、教養人であり、その破天荒な立ち振る舞いと身なりで「バサラ風流ヲ尽シテ」と『太平記』で形容され、波乱万丈の生涯を終えた佐々木(京極)高氏(道誉)は次の句を残している。
 
  ことし猶花を見するは命にて
  古郷は月や主になりぬらん
  人はむかしの秋にかわらず
 
 佐々木六角氏の重臣伊庭氏の出であるといわれている連歌師・宗祗法師(一四二一―一五〇二)には次の三句がある。
 
  はなにしてしりぬ世のはるかぜ
  世の中よいづれが先といひいひ
  世にふるもさらにしぐれのやどりかな
 
 これらの句は、武士(もののふ)が激動の中世に生きることをどのように捉ええていたのか、その一端を教えてくれる。
 武士は生き抜くために、二君に仕えたり、主君を次々に変えたり、親戚同士、兄弟同士が争い、子や姉妹を人質に差し出すこともしばしば。時に部下をも見捨てて敵に命乞いをする。それでいて、その時々に命をかけて戦い、大義に生きた。花、うき世、命の三重奏がその土地、その時、その人によって奏でられたのだ。その歌には過酷な現実から逃避することなく、ありのままの世と短い命を凛とした倫理性をもって受け止め、短い一生を生き抜く強い意志が秘められているように思う。それはよく言われる風流とは一味違った感受性が創り出したものだといえよう。
 近江は昔も今も美しい湖と豊穣な土地に恵まれている。だが北陸、東山、東海の道から都への入り口に位置する近江は古代から近世にかけて常に日本の政治の要衝であったので、たえず戦場となり、実に多くの血が流れた。無辜の農民の血は言うに及ばず、大きな力に滅ぼされた数々の武士団の血もまた大地を赤く染めた。
 現在の平和な風景からは想像できない激しい生存競争が近江を舞台に繰り広げられた。だが耳を澄ませば歴史の記憶から落ちこぼれた死者たちの呻き声が聞こえるようだ。現下の世界情勢をみれば、その声に耳を傾けることはあながち無意味でもあるまい。
和歌・連歌出典と参考資料・文献
『万葉集』
『小倉百人一首』
『千載和歌集』
『新撰古今集』
『菟玖波集』
『新撰菟玖波集』
『信長公記』
「中世の石部 第一章第一節近江守護佐々木氏の成立」、『新修石部町史通史篇』湖南市デジタルアーカイブ、一九八九年
『近江源氏と沙沙貴神社』安土城考古学博物館、二〇〇二年
『図録 戦国大名尼子氏の興亡展図録』島根県立古代出雲歴史博物館、二〇一二年
『甲良町誌』甲良町史編纂委員会、一九八四年
『法養寺誌』甲良町法養寺誌編集委員会、二〇〇四年
山田徹・他『鎌倉幕府と室町幕府』光文社新書、二〇二二年
田中政三『近江源氏』 二巻 弘文堂、一九八〇年
徳永眞一郎『近江源氏の系譜』創元社、一九八一年
林屋辰三郎『佐々木道誉』平凡社、一九九五年
村井裕樹『戦国大名佐々木六角氏の基礎研究』思文閣、二〇一二年
寺田英視『婆娑羅大名佐々木道誉』文春新書、二〇一九年
下坂守「京極氏の系譜と事歴」、『室町幕府守護職家事典 上巻』所収、新物往来社、一九八八年
北村圭弘「南北朝期・室町期の近江における京極氏権力の形成」、『滋賀県文化財保護協会紀要31』所収、二〇一八年
太田浩司「京極家の流れと京極道誉」『甲良の賜』所収、甲良町教育委員会、二〇〇九年
妹尾豊三郎『尼子物語』ハーベスト出版、二〇〇三年           
妹尾豊三郎『尼子氏関連武将事典』ハーベスト出版、二〇一七年