日本浪漫学会主催 第二十五回「浪漫うたの旅」で会うた武人たち
 
  不滅の美学に賭けた若庭の里
    廃落武人になき不滅の実業家
             日本浪漫学会 会長 濱野成秋
 
  足立全康は現代の武人である
 
 この武道の達人と美術館で会った。
 中世の城郭を背景に、長髪も結わずに慧眼を光らせる、孤独な一匹狼に遭ったのである。この男の存在を考えると、わが父君を思い出す。
 島根県安来市の市街地からも外れた田園に全康は生れ育つ。折からの日中戦争。太平洋戦争の激動期と戦後の苦難の時期。彼も艱難辛苦の末、美に目覚め、日本画に目覚めて、この広大な庭園と美術館を自らの財産だけで出現させた男。彼は今もって生き続ける。肉体は絶え果てるとも、心は永遠だ。美庭に支えられて。安来産の鋼鉄の如く生き続けているのである。
 安来は全国でも珍しい特殊鋼の産地である。
 特殊鋼とはハイスの2種、3種、ホットダイスなどと呼ばれ、鉄をカットし、削り出す鋼鉄であって、その純度は鉄の比ではなく、いくら熱して叩いてみても、鉄は鉄。とうてい特殊鋼にはかなわない。
 だからかつてはここから産出する玉鋼で軍刀を量産した。
 零戦の胴体を走る鋼鉄線にも成った。
 ゼロ戦は空中戦になぜ強いか。それは操縦士が狭いコックピットの中で力一杯ペダルを踏み込むと鋼鉄製のワイヤーロープはその命令を間違いなく尾翼の上下フラップに伝える。と、尾翼が跳ね上がり、風圧にも負けず頑張るから、機体は宙返りして敵機の背後にピタリと付ける。
 ダダダダ…ペラとペラの間から飛び出す7・7ミリ機銃弾で…そんな話をよく聞いた、父から、防空壕の中で。
 自分が買った安来の玉鋼でゼロは連戦全勝だった、と父。
 東亜機工株式会社の社長は我が父親だったわけだが、敗戦は哀れである。8月15日の、あの、父の号泣ぶりを筆者は昨日の出来事のように、鮮明に覚えている。
 その目で足立全康の偉業の年譜を、安来に来て、エアコンの利いた立派な美術館で読むわけである。
 全康の人生はまぎれもなく、今に生きる。
 筆者の父も愛国の武人であったから、今に生かしてあげたいけれども、もはや回生の機会はない。いまやむかし。その陰は中空に。
 だが筆者のみ知るこの父の最後の仕事は岐阜県山中にあるマンガン鉱山の坑道の奥にあった。父が作った「幻の御座所」である。幼い自分はこの坑道に入った体験を持つ。
 ここで暮らすんやで。
 父の言葉で僕は泣いた。いやや、こわい、いやや、いやや…
 松代はダミーでここが本物。
 そんなことをやる父は狂っていたか?
 元総理の岸信介氏が戦後、スペースシャトルが有楽町に展示されたとき、父との縁で私を招待してくれた。彼の隣席はなぜか一つ空いていて、僕はそこに座った。その日のことも忘れ難い。御座所の構築を頼んだ岸氏もきっと父のことを想い出して僕を呼んでくれたのだろう。伝記にも、何にも書けない動きが多々あったのだ。
 だが今は、すべてはまぼろしである。
 かかる昭和前期の武人たちの体験は、加藤隼戦闘隊も橘中佐や江川北川作江の武勇伝も今は歴史家のみ知る域になっている。真下飛泉の存在も専門家の記憶に遺るだけとなった。
 「戦友」か。ここは御国の何百里 離れて遠き満州の…と続くから、たいていの国民は満州事変あたりの作かと思うであろうが、じつは日露戦争のときの、どう読んでも友愛を軍政直下の命令より上とする歌なのだが、「飛泉」と書いて「非戦」をイメージさせる作詞家の心情など、今更議論をしても誰も聴くまい。時の流れの、遥か彼方に去ってしまうと、政治家も心情も作詞家の心情も、何もかも一緒くたになって忘却の底なし沼に落ち込んでしまうのである。
 その同時代、足立美術館の祖、足立全康は稀有にも、現代の空間に見事に容を成して現存しているから凄い…と思いながら、筆者は身術館で独り佇み、彼の年譜を読んでは自分の体験した時代のうごめきを想起して涙の湧き出るのを禁じえなかった。
 
  信念の結晶は肉體がほろぶとも
 
 この美術館は精神力で生き続ける全康の居城である。不落の名城である。日本式大庭園には年間幾万人訪れようとも、矢玉一つ跳ばない。傷一つ生じる憂えもない。幻の城は威容を誇る。永遠を繰り広げてやまない。
 リアリズムより永遠性の高いロマンスを、この美術館はよく心得ている。我が浪漫学会人には、この足立美術館の大庭園は時間制限のない空間ロマンの至宝に見える。筆者はいつも人に語る。「人間の心のリアリティはリアリズム小説では語りつくせない」と。
 その典型が足立庭園なのである。
 作者の足立全康は実業家であるから、芭蕉や子規、式部といった虚業に専念した人ではない。だから工場も土地も建物も、ありとあらゆるアーティファクト(人造物)は皆、彼が代価を与え自ら進んで取り組める富である。巨万の富に徹したリアリストが全康のはずである。
 ところが、愉快なり。
 そのリアル極まる蓄財を投じて創ったこの庭園は価格づけをするも失礼千万といえるほど、超俗性に満ちている。全康氏はリアリズムを跳ね飛ばした、あの久米の仙人のような風貌で、その財貨を夢の構築物に容態変化させてしまったのである。
 この庭園はもはや美の空間そのものである。筆者は赤松の生え揃うフィギュアを見て思わず一首想い浮かんだ。
 
  若松も白砂に赤き幹そろえ
     美学に生きよと我等に諭す 成秋
 想いを中世には馳せれば足利義満もその権力を恣にして金閣寺を造営した経緯が浮かぶ。権力者義光も見事な庭園を後世に遺した。金閣寺は焼失させられ、三島の同名作品に化けてしまったが。金閣寺庭園も束の間に生きたこの権力者の置き土産となった。稀有なサバイバルである。だが政情不安で都に野盗が出没する時代に飢え死にした民の骸など気にも留めず、この権力者は美庭に耽ったか、の感が拭えない。だから美の中に醜悪が窺える。永遠の美の極致ではない。この種の美醜混在したアーティファクトは西洋にも多い。
 ベルサイユ宮殿もその典型である。
 ベルサイユの庭を歩いた時、筆者は権力者の金銭の浪費を憚らぬ貪欲ぶりに少々腹が立った。足立庭のもつ永遠の美とは異なった傍若無人さに、美というより醜悪さが鼻に突いた。
 美には醜悪さを背負った美の悪霊がある。
 アメリカ・マサチューセッツのコンコードに住む哲人たちは、開発者たちが森のスペースに値付けして鉄道の駅に近いか遠いか、それで価格差を取り決めたり、黒煙を吐いて驀進する機関車の線路から遠いか近いかで代価を決めた。かかる「自然」は自然VS人工の差異にしかすぎない。
 だから林や森の威容さに襲われることはなかった。
 コンコードの森はフロリダのジャングルとは異なり、荒地はなく、テイムな住にこごちのよい、ガーデンとなっている。
 エマソンもソロウも、ウィルダネスよりガーデンと史跡を愛した里見弴、吉屋信子、小津安二郎たちと似ている。
 ポーの幽玄とは大分にことなる。
 むろん、幽玄の美もコンコードのこごち良さも、義光の貪欲さも鑑識眼の視野外にあるが、それを知らずして美を味わえと言われても、戸惑う。殺人鬼信長の華麗な安土城を只で見せてやると言われても、戸惑いは隠しきれない。「浪漫の美」とはそういうものなのである。
 では足立庭園に「幽玄の美」があるかというと、それとは雰囲気を異にする。明るくて安全で。
 映像に目を転じて考えると、別の審美眼と出会う。
 映像作品『レベッカ』であるが、この死霊を擁するマンダレーの森の暗闇は鬱々として鎮まる、ポーのアッシャー家が古城に映す累代の怨念に似たうめき声に通じる。が、足立の美庭に、それはない。美庭は美庭でも、古式の石塔に象徴される陰々滅滅たる盛者必滅の想いはこの大庭園のどの隅をまさぐり診ても窺い知れないのである。そこに見るのは足立翁の風貌とは180度異なる無垢な若さである。
 「無垢」、つまりイノセンスの美なのである。
 赤松、孟宗竹、枯山水の、どれを取っても、若々しく生き生きとしている。気味悪くない。シェイクスピア『マクベス』の、三人の魔女が暗躍する森とは正反対の無邪気さがある。若い美である。
 
  月山富田城はエリオットのウエストランド
 
 翌日、筆者はここから車で20分のところにある月山富田城にわが身を置いた。その頂きになる本丸の」小さな大地にて睥睨すれば、尼子一族の最盛期の心境にとても至らぬ、諸行無常の諦念に満ち溢れた自分の姿であった。
 
  亡び果てし尼子の城に越し来る
     我が現身うつしみよこれが終焉 成秋
 
 佳人薄命というが、月山富田城にあったのは、苛烈な負け戦の果てに見棄てられた廃城であった。可哀そうに。
 安来市立歴史資料館館長の平原金造氏の博学な説明をうけて、この城は面目を回復させたけれども、気の毒に、最後に戦った、嘗ての配下毛利一族の力攻めの果て五百年を経ると、もはや風雪の為すがままであった。風雪とは惨い。時間とは情け知らずだ。
 登りつ筆者はしばしばこの和歌を思い出す、
 
  人住まぬ不破の関屋の板廂
     荒れにし後はただ秋の風  藤原良経
 せめて城屋の板廂でも遺っておればと目で弄るも、自然の神も信長の如し。情け容赦なく遺れる人工物を召し上げていた。
 遺したのはただ佇まいだけ。朽ち果てた廂の断片さえ隠れ棲まわせるを赦さなかったのである。
 活き活きと息づいた足立美術館とはかけ離れた荒涼たる風景がここに実感できた。これもまた自然美には違いないのだが。
 これは度重なる戦で連戦連勝した武人たちが「勇者のみ佳人を得る」の類の美人とは凡そ不似合いな姿である。
 持ち主が戦で滅ぶとその庭も雑草で見苦しくなる。だが足立美術館は別だ。命の絶えることのない庭なのである。
 全康殿よ、見事だ、君の、この疲れをしらぬ美学は。
 西の京を誇った大内氏の館が思い浮かんだ。
 今、その庭園には、「人こそ見えね秋は来にけり…」の寂寞感が季節を問わず纏いつく。拭っても拭っても、拭い切れないだろう。
 ポーの散文詩にみるアルンハイムの地所には幽玄の連続性はあるけれども、足立氏の庭園にある「生の息吹」は少ない。久米の仙人のような風貌の足立全康に真正面から逢うと、彼の眼光に、どちらかというと、フロストやホイットマンの息吹を感じるから不思議である。
 戦前戦中、足立氏は日本式庭園の完成度を診ていたにちがいない。金閣寺と苔寺の庭園にプラスして兼六公園の老松群や前田公の美庭の石灯篭を重ね合わせたとでもいうか、類まれな現代人による古式美である。これには横山大観の日本画数十点と金箔螺鈿の紫檀茶棚のコレクションの展示館も併設されているが、全康氏の思いの結晶とも言える壮大な庭園の迫力には圧倒されて碌に鑑賞する気にもならない人も多かろう。
 全康氏は立派な武人である。
 彼をただ、信念の人と片づけてはいけない。
 まだ実業家として巨万の富を得た夢多き人と片付けてもいけない。
 全康氏は彼独自の流派に生きる武人である。
 若き日、彼は大金持ちしか買えない横山大観の絵に魅せられて金も充分にないのに「大観の絵を買うぞ」と密かに心に誓ったと年譜は語るが、この決意は、「よしこの地で大大名になってやる」と決めた尼子一族の初代と似ている。足立美術館と月山富田城とは車で20分の距離。同じ空気を吸うと同じ発想をするか? とんでもない。時代も境遇も異なるけれども、足立も決意を固めて大阪で自転車を漕ぐような仕事から身を起こして、大成功。
 尼子には当初から高い役職が保障されていたが、巨万の富を得て後、滅び去った。だが足立はほぼ無から身を興して大成功し、世界が羨む美の極致を創り上げた。皮肉にも現代の武人の美庭の至近距離に居て、尼子は裸同然の城跡を風雪に晒している。なぜ斯くも惨めな没落を招来したか。
 
  尼子は斯くして富田城を放す
 
 尼子一族の出発点は比較的恵まれていた。都で贅沢三昧に暮らす佐々木京極家の配下として認められ、守護として当地に派遣された。最初から支配階級であった。守護制度は中央政権がよほど強力な権力を持ってなければ、地方へ飛ばした守護を操ることが難しい。鎌倉時代以降、恩賞の大小で武士団は動いたので、戦国の世になって尼子が京極をあっさり裏切っても当然の成り行きとも見なせる。
 だが、その後の武士団の抗争ぶりは武略のみならず陰謀や調略、だまし討ちが横行していた。下っ端の、普段は田畑を耕す農民がつねに家来として駆り出されて、殺し合いをさせられるから、この身分関係は決して誉めたものではない。
 尼子は庶民階級に温かかったとする通説があるが、権謀術数に長けた毛利元就も尼子に攻められた時には、吉田郡山の小さな城郭に農民家族も何千人と匿い、温かい炊き出しを与えて労っている。近隣に布陣した尼子軍団が冬将軍の到来で凍死寸前となり、退き上げると見るや、その「しんがり」(最後尾の弱体軍団)に討って掛からせた。つまり「恩」に報いて当然というわけだ。
 下級武士団として農民たちも手なづけていたのは、武人の常套手段で、信長の「楽市楽座」や信玄の堤防工事、「人は石垣、人は城」の哲学もこの類であり、秀吉も家康も天下人となるには盛んに農民を利用している。尼子の場合も月山富田城の建築と守りの維持体制は下級軍団の命がけ防衛をやらせたから、どうも、あんまり誉めたやりくちとは言えない。
 元就は息子二人に吉川と小早川の二つの勢力圏に養子として入れ込むかたちで毛利軍団を多極化させ、大内と尼子という巨大軍団を策謀もって戦わせて両者をへとへとにした後、漁夫の利をもって自分の勢力だけを巨大化させることに成功。それをもって富田城を攻略、調略に次ぐ調略で籠城する尼子軍勢を寝返らせて、最終的にはこの広大な城には百五十名だけになったというから、毛利も悪きゃ、裏切り去る部下たちを押し留めることの出来ない尼子も情けない。
 権力抗争の果てとは斯くして埋没の途を辿るのである。
 
 中世の家名主義第一のなかで夥しい数の城郭が出現し、夥しい数の戦乱が続いたけれども、その家名が殆ど維持継続されなかった。ところが他方、個人主義の中で、こう言っては過言かも知れないがエゴイストだらけで、先祖を敬うことも少なくなった時代に、立派に後世に受け継がせるに足る価値ある庭園を誕生させた足立美術館の壮挙は立派である。奇跡である。その招来にどれだけ永続性があるか、幸あれと祈らずにはおけない。(了)

格言 「親の言葉は自分の永遠」

葉山カフェ・テーロにて 濱野成秋

 
 戦前は「親孝行」を徳目の第一に挙げていたが、現在は、個人主義のエゴを良しとする風潮からか、自分が第一であり、自分が幸せを求めて、何が悪い、となる。だが、高齢で己が肉体が果てる時、何も残らないと気づいて後悔する向きがつよい。自分の努力など消えて当然とあきらめるか? 肉体は枯れ果てた庭木と同じだが、百年程度しかもたない自分の心も思い入れも、一緒にくたばることになる。
 
 高齢の親はそれを知っている。だから筆者のように著書を遺す。自分史ではないが、著書の大半はそのたぐい。若い息子はそれをうざったいとガラクタ同然に処分してしまうかも。せいせいするからね、一時的に。だが生き永らえてみると自分の存在が怪しくなる。世間の泥沼にどっぷり浸かって、心が飢えて、寒さにふるえて、この先、死ぬしかない運命で。只の、朽ちる肉体でしかない。遺された手段は余命の使い方だけだ。まず温かい飯にありつきたい。それでうろつく。泥沼で、右往左往。…俺は親として哀しむ、その姿を。
 折角、親の愛が言葉となって、君の老後の安定と親自身の君への「心」を遺すために、遺贈した家の中に遺した著書群だから、大事に読んでみてくれ。それをむげに斬り棄てると、一時的解脱感があっても、君自身が徐々に、自分の人生の存在理由も怪しくなりだす。わが子に棄てられる恐怖感も湧いてくる。泥沼のなかで君ら親子がまたもや醜悪な生存競争になる。
 
 だから君、息子よ、しばらくは抵抗感があっても、親の言葉たる著書をとって置きなさい。自分も枯れた庭木にならず、永遠の生の息吹を得られるから。君自身が85歳になったとき、実感するはずだ。
 君、これを読んだ君よ、子孫に立派な言葉を遺しなさい。親の言葉と自分の言葉がちゃんと仏壇にしまわれて、ちゃんと永遠に続くから、未来世代も時々は読んで、蘇生させてくれる。 親があって自分があり、孫子よ、君らがあってこそ、未来に生き、その果てに、僕や君と一緒に、永遠に生きられる。では一足先に逝って待ってるぜ。

濱野家治家記録(エッセイ)
 
 まぼろしの御座所 濱野成秋
 
  大正初期、山持ちの惣領息子が養子に出され
 
 父濱野定雄は1907年岐阜県揖斐郡小島村にあった所家の長男として生まれた。祖父の姓は所。名は弥太郎。生前、高さ五メートルにもなる墓碑を自分で建てる奇人である。
 
 日本は日露戦争で超大国ロシアと闘い、日本海海戦で勝利して世界を驚かせたのが明治38年で、その2年後の生まれである。国威盛んな時期の大地主の長男だから、さぞ期待も大きかっただろう。屋敷の背後の山々は皆自分が相続すべき数百万坪の山林。ほかに田畑が何十枚も。といえば典型的な田舎のおだいじんとなる身だった。筆者の幼児期の記憶では、岐阜の家には柿の木もあり門前には小川があった。その流れを利用した水車小屋が門を入った右、隅っこにあった。
 
 この屋敷と僕の誕生はかなり稀有な運勢で彩られている。父はなぜ、大阪府南河内郡長曾根村の濱野家に養子にだされたのか。この経緯については別にかくが、いずれの家系も彦根の井伊家と通底する。
 岐阜県揖斐郡の、そんな田舎地主の男の子と、山深い奈良県高取藩の藩校教授の末裔だった石井家の、上から5番目の子女秋野との縁組は、思えばあり得ない奇縁である。しかも堺の中心部から離れた、野田村丈六という田園の村落で僕は誕生した。まだ日米戦の前のことである。届を出す母に、役場はネルの布一巻きを祝にくれたそうだ。その年の12月、帝国海軍は真珠湾を攻撃しているが、僕は虚弱体質で隣室の茶棚の上の3球ラヂオから襖のすき間を通して聞こえて来る臨時ニュウスが鳴る…「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋上で米英と戦闘状態に入れり…」
 
 もう耳慣れた「臨時ニュースを申し上げます…」の音声の初発を天皇の赤子として誕生した僕は寝床の中で聴いたのである。
 
 読者諸君もゼロ戦が未明の空に向けて空母の甲板を蹴って飛び立つニュース映画を何度も見たことだろう。歴史としてゴミだらけの画面に空戦にやたら強い軽戦闘機が母艦から飛び立つ雄姿は僕の脆弱な身体とは凡そ不似合いな取り合わせだが、一緒にこの世の1ページになったのだった。アーカイブズの画像と真空管ラヂオの音声が歴史の証言者で、それを何回も聞かされ、勇ましく、大勝利を予感させる大国に誕生した僕と、一足早くこの、大日本帝国に登場した父定雄は野田村丈六の暗い奥の畳の間で、雪見障子の彼方、中庭の、石灯篭の左側にみえる白壁土蔵の扉を見ながら生きていた。
 その頃の父はまだ三十代半ば。岐阜からほうりだされて三十年後。早くも軍需工場の社長で会社員を何人も抱えて軍と業界との間で走り回っていた。岐阜にはマンガン鉱を持ち、村人を何百人と使って、村長より上座に座って床の間をしょって座り、村のお歴々と酒を酌み交わしては崇められていたのである。父は僕に似て、筋骨は脆弱で甲種合格の下士官と並べ座ると馬鹿にされそうなほど女々しい姿だったと想像する。だが村民は皆、父を、岐阜出身の、誰よりも立派な人物として頭を下げていた。それには訳があった。
 
 軍との関係は秘密裡に続く
 
 父は軍需一辺倒の中で政府に直結していた。彼の作るワイヤーロープはゼロ戦の胴体を走り、高性能でドッグファイトにうってつけ。切れ込みが良いのでグラマンに連戦連勝、戦艦武蔵の主砲を巻く特殊鋼も濱野はん、と言われていたから一目置かれる存在だった。軍も気を遣う。誰にでも威張り腐る軍人でも、濱野はん、濱野はん、とペコペコしていたという。父自身、根っからの愛国者で、二十歳そこそこで鉄鋼業界に入り、持ち前の作戦才覚で八幡製鉄(現在の日本製鉄)や日立製作所と取引先を開拓する。二十歳の後半には早くも独立して大東亜機工という名称で特殊鋼を一手扱う、ソウル・エージェントになっていたという。安来ハガネは有名だが、少量の出産だけで奪い合いになる。日本国内に特殊鋼は少ない。ドジョウ掬いの踊りで有名な「安来節」で誰もが知る島根県安来町に出かけては、原料となる安来ハガネの調達までやっていた。父は当然考え方が変わる。
 マンガン鉱脈を村人全部を使って
 
 特殊鋼と鉄はどう違うか。全く違う。父の話だと、先ず、値段が桁違いで、鉄なら拳大で今のお金にしてせいぜい500円ぐらい。特殊鋼なら百万円。なぜなら、特殊鋼はぐるぐる回転する旋盤に円形の鉄を置き、それを削って丸棒状にするには、削るしかない。その刃は特殊鋼で摩耗しない硬度の高いものを使う。分子の組成が違うのであって、焼き入れをして硬度を上げただけの鉄とは土台、出来が違う。鋼材は伸び縮みしない。だからワイヤーロープにすると、伸びないから、零戦に追いつく敵機を躱して急上昇するには、ペダルを力一杯踏んで、尾翼の昇降舵を跳ね上げたまま急上昇し、空中で宙がえりをやって、あっという間にグラマンの背後にピタリと付け、ダ、ダ、ダ…と、ペラとペラの間から撃ちだす7・7ミリ機銃で…というような話を、父とお風呂に入って聞かされる。戦後も、ハイスの3種とかハイスの4種だとか、そんな呼称のハガネはもの凄く高い値段で取引されると父から聞いた。
 
 もし昇降舵を固定するワイヤーロープがただの鉄のハリガネだったら、風圧に負けて伸び切り、零戦の性能も悪くなる…と、父は愛国心から純度の極めて高いワイヤーロープを納入していたから、海軍からは非常に請けが良かったという。
 安来には軍刀作りの工人たちが群がる。軍刀も戦争には欠かせない。だが父は太刀に使うより、零戦だ、戦艦だ、これからは鋼板を戦車に貼らねば敵弾が貫通するぞと説得して買い占めていたが、それは玉鋼といって、安来には鉱脈はあるが量産できない。味方同士が原料の争奪戦を国内でやっていては戦争に負ける。
 
 こう思って、原料から掘り出す方針に切り替え、それに乗った軍部や官僚が父の存在を大いに重宝したという。だが鉱石を掘り出しても精錬技術が良くないと良い製品にはならない。八幡製鉄に送り込んで精錬してもらう。そのころ、「岸さんがうちにちょくちょく来て、お茶漬けを食べてはったよ」という。
 
 その話は戦後もレジェンドとなったが、僕は話半分に聞いていた。父のほら話だろう。
 
 ところがアメリカがスペースシャトルの展示会を有楽町でやったとき、岸さんが招待してくれたことがあった。そのとき、あのレジェンドは本当だったのだと思った。招かれて儀式の日に行ってみると、岸さんが僕と握手しながらニコニコして「君のお父さんには色々、ほんとに親切にしてくれた」と相好をくずしておっしゃり、僕は未だ若くて周りに政治家たちが注視するなかで戸惑っていると、「遠慮せずにここに座りなさい」とすぐ横の席に座らされたのである。並んで腰かけること小一時間、岸元総理は僕と一緒だった。あの時ほど、父の遺徳の凄さを感じたことはない。戦中、あのマンガン鉱山に一度連れられて行った日のことがまざまざと蘇った。
 あわや坑道の暗闇で暮らす運命が
 
 坑道にはトロッコが敷かれ、裸電球が粗削りの岩面に点々と灯る。その中を奥へ、奥へ。ポタポタ…ポタポタ…頭上から落ちる雫。襟の中に落ちて来る水滴はあまり気持ちのいいものではない。この想い出は後でも書くが、その時、トロッコに同乗していた父は、
 「成生、ここで暮らすことになるんやで…」と事も無げにいう。
 「いやや、怖い、こんなとこ、いやや…」
 
 僕は泣きだしたが、間もなく終戦となり、軍の注文もなく、鉱山は閉山。操業停止で、本土決戦もせずに済んだからよかったが、もし天皇の終戦の詔勅を一日二日遅らせていたら、米軍の大部隊は神奈川県葉山町の海岸から上陸して、あっという間に水際作戦の機関銃部隊は蹴散らされて火炎放射器で焼土となり、そのまま横浜も焼土と化して首都は制圧されていたことだろう。僕らはその時分、まだ堺市の端に住んでいたので、岐阜まで逃げて、マンガン鉱山の洞窟で暮らしていた可能性が十分あった。
 
 それを想うと、父の予言は無視できない。
 あそこは天皇陛下の御座所まで造る積りやった。ほんまかいな? 御座所は松代だったはずだが、戦時中から松代は有名だったから、天皇陛下はこっちに来はる予定だった、という父の言葉には信憑性がある。岸総理は父に、天皇の御座所を頼んでいたのでは…?
 
 今となればその可能性を辿るよすがはない。
 
 御座所があり、「陛下! 敵軍が攻めて来ました!」
 
 父はそう言って山奥へ…一緒に…思っただけでぞっとする。戦争末期、マンガン鉱石の精錬もままならず、父の作るワイヤーロープは特攻機の餞別に使われた。知覧から飛び立ち、途中、グラマンに遭っても機銃弾一発も積んでないと可哀そうだと進言して銃弾をなるべく沢山積み込ませ、伸び切った鋼鉄線を新しいのに取り替えて離陸させる。「その線がな、物資の不足で、だんだん細くなりよるもんやから、伸びた古いのと捩じって使うたんや」
 
 岸さんと父は飛び立つ姿を涙で送り出したという。
 あれからもう80年。自分は今、葉山の御用邸付近の住まいで無事に、のうのうと生きている。人生なんて、先代の風変わりな曲がり角のお陰で生かして貰えてる。父のお陰で、戦後、家で何度もダンスパーティを催した父は、アメリカ軍を誤解しとった、ええ奴らばっかりや、こんな奴らと戦争してたとは情けない…父の口癖だった。が、応接間で僕は蓄音機係をやらされ、米軍の将校たちが母とブルースを踊る姿を視る父の胸中はと想うとぐっとこみ上げてくるものがある。
 
 すべては夢か。岸信介元総理は僕に、署名入りの分厚い個人史をくれた。毛筆の署名は日米安保のときと同じ筆致である。
 
 だが岐阜のマンガン鉱山の記述はない。父との交友録もない。
 
 陰の世界に生きたのか、岸さんと父は。その、誰にも言えない埋もれた友情は消えてしまったのか? いやいやお二人の友情は今も心なしか、そこはかとなく我が家の書斎の稀覯書棚の辺りに漂っている。
(以下次号)

シンポジウム資料 開催:初芝体育館 2021.5.9

地元出身警鐘作家 濱野成秋

☆八ヶ岳構想で出発した政令都市堺市はこれで躍進する

[筆者略歴]登美丘中学4期生。慶大アメリカ文学専攻卒。東大アメリカ研究所研究員。東北大助教授を経てニューヨーク州立大客員教授。日本女子大大学院教授。早大・青学・一橋大講師、京都外大大学院教授。警鐘作家としてTVや新聞論評。著書編著30点。主要著書『日朝、もし戦えば』(中央公論社)、『日本の、次の戦争』(ゴマブックス、電子書籍キンドル)、『ユダヤ系アメリカ文学の出発』(研究社)、『愚劣少年法』(中公)、『ビーライフ!白亜館物語』(中公)、短編集『別れる季節』ほか文芸選書5点ほか学術書多し。現在ネット検索できる『オンライン万葉集』を主宰し、「日本の和の心」を世界に発信中。登美丘中学創立50周年記念式典卒業生総代。

[開催目的]今を去る15年前の2006年4月、堺市は政令指定都市に移行しましたが、当時、東区の中心であった登美丘町北野田の商店街はシャッター通りとなり、疲弊の極にありました。私共と町内会連合会は市民の意向を重視して大規模再開発を提起し、市政も協力体制にあって4本の高層ビルを建設でき、文化会館を始め多くの施設を導入できました。あれから早くも15年が経過。果たして現在も活性化が継続中か? あるいは停滞が著しいのか。その原因は何なのか?

Ⅰ文化会館の活用で強力な求心力を持とう

[経緯概説]今までの15年間の前半(市民活動によるもの、2007~2015)と後半(行政OBの運営によるもの、2016~2021)に分けてルックバックしてみよう。

⑴15年前の文化産業構想:池崎守氏と筆者がペンクラブの早乙女貢氏、越智道夫氏らを招聘して堺区でシンポジウムを開催。堺市長も積極的に同調されて、市政を「富士山構想」から「八ヶ岳構想」へ。東区を文化村の中核都市と位置づけた。これは東京都渋谷区のBunkamura the Museum に匹敵する。発信型イコール集中型。「遠心力」centrifugal force→「求心力」centripetal force

⑵「界隈」は消滅しても住民の団結は続いた:北野田シャッター通りは高層ビル4本の建築へ。地蔵さんはじめ「界隈」が消滅する無念さはあったが、市民の生活を支える施設をもって町全体の崩壊は救われ、近代化に変身できたとき、市民の大活躍が復活した。

⑶東区の文化会館・図書館のオープン:前期つまり市民の自主運営・自主企画が次々成功。NHK大河ドラマ主演中の伝統狂言宗家和泉元彌氏が登美丘中学創立50周年祝賀行事に。文化会館開設後、FM局が開局。カフェの賑わい顕著。ところが後期、市民のNPOから旧市役所OBによる運営に移行。貸舞台・貸ホールとなり、館内は灯が消えた如し。

提言:地元住民が企画運営し市の財政的予算を得て、採算・損益分岐点で不可能とならぬ運営で次々と発信、東区の求心力を。また登美中・登美高の大活躍にみるように、吹奏楽部・ダンス部の目覚ましい活躍を堺の文化村の宝にして文化活動の未来を担う人材となって欲しい。

Ⅱ日本初「世界防災センター」World Anti-disaster Centerの開設を堺市東区で実現しよう

未発達の法整備:コロナ禍でWHOがクローズアップされているが、日本はバイオだけでなく、自然災害や原発公害など、多様な問題を抱えている。ハイウエイの大雪対策一つ取ってみても、我が国は、いまだ十分な組織化がなされないままである。コロナ対策もワクチンづくりも遅々として進まず、急場しのぎの施設で外国製ワクチンに頼る始末。特に遅れが目立つのは、先進国では当たり前となっている産官学協同体が機能する組織づくりがないこと。法整備がなく、国会においてでさえ、的確な議員立法として上程するに至っていない。標記センターは法整備の在り方を含め、世界の最新情報で対応策を政府に提示できます。

筆者の阪神淡路:阪神淡路大震災のさい夙川にあった友人宅の救出に向かい、知事部局と協議の上、時の自治大臣の野中広務氏と永田町の大臣室で協議し、6800億円の緊急支援を取り付けた。これは成功したが、二重ローンの問題をはじめ、読売新聞と日赤本社の協力で1兆円基金創設を進めたが、損保事業とのバッティングで省内が難航。基金制度だけでは自然災害抑止は困難となった。標記センターは災害に伴う財政問題の打開策も実働可能なファクターを入れて提示できる。

NBCR対策推進機構:その後、筆者はこの機構の特別顧問となり、日本医師会や自衛隊幹部と長年地道な活動を共にすることになった。日本医師会の支援、消防・自衛隊・地方自治体の理解と協力で全国の医師を対象に治療法教育で成果を上げた。日本における防災センターが不可欠だと判断したのは、この活動から得た教訓からであった。すなわち、折しも東京五輪パラを目前に、日本は保健所・警察・自衛隊・医師団・消防がコロナと闘いながら各領域ごとに努力するけれども、いまだに領域をまたぐ連係プレイが出来てないまま五輪開催に突入するわけである。

提案⑴:堺市東区は国も認める危機管理機構として「世界防災センター」を開設しよう

「世界防災センター」を東区に開設し、①国の防災機構と直結して情報収集と「防災士」教育を行う。②bio-, chemi-, nuc-, radio- 対応の最新知識教育。医師・看護師の最新教育。③WHO(世界保健機構)、ユニセフ(unicef、公益財団法人日本ユニセフ協会)、国連安全保障理事会とのドッキング。もちろん、区議会、市議会、国会、国連、各国大使館や研究機関とのパイプも構築する。筆者はNBCRと並行して、青山学院大学では長年公官庁館員のリカレント教育を担ってきたが、このセンターは国庫援助でカリキュラム化し修得単位を普遍化させる。

提案⑵:Civilian Controlはつねに財政支援政治と行政の協力がなければ結実できない。予算を順当にもらい、消化して市民のためになる住民主導型組織の運営で実効を上げよう

民主主義国家におけるcivilian control は19世紀末のアメリカで台頭したindustrialization(産業主義)で本格化しました。discretion(自由裁量)を最大限に。但しdiscretionary zone(自由裁量の権限範囲)の規定なし。それでも産業主義が統制型の国家主義より繁栄したのは、市民の着想が繁栄に結びついて欧州経済圏を凌駕できた。我が国の公共機関においては、とかく管理第一主義になるか特殊法人のように全面的に任せた結果資金管理不能となった。コントロールに必要な方式は、法人化させた上でdiscretionary zoneを決め、次々と出る企画の損益分岐点を診て、さらにzoning(権限範囲)を拡大させ予算組に反映させる方式がよい。市民と行政の人事比率は7対3と決め、以上を「東区方式」として堺市のパワーアップに役立ててほしい。(以上)