河内裕二 令和3年4月1日

1.心に響かぬは歌ならず

ミュージックはあるがソングはない。

作詞家の阿久悠の言葉である。ほとんど歌詞が聞き取れない歌がミリオンセラーになる歌謡界の状況を憂えて彼はそう述べた。歌謡曲がJ-POPと呼ばれるようになった1990年代後半のことである。この言葉は、1998年に書かれたエッセイ「音楽と文楽」においては「音楽だけで文楽がない」と別の言い方がされる。「文楽」は「ぶんがく」と読み、文を楽しむという意味で、「ぶんがくと読むが文学じゃない。文楽と書くがぶんらくじゃない」とある。阿久らしい洒落た表現である。音楽を聴く人は、音は楽しんでいるが、文すなわち言葉は楽しまなくなった。彼は歌詞を軽視する世の中の風潮を嘆き続けていた。歌は言葉の存続にも関わる問題であるとし、次のように述べる。

歌に盛られた小さな言葉の一つ一つが、意外に重いことに気づいたり、思いもよらない広い世界へ導くものだということを、歌は使命として負っていたし、歌う人も聞く人もそれがあってこそ、しんみりしたり、元気づけられたり、心を開いたり、暗示を受けたりしていたのである。それは、たぶん、日常の言葉にも影響を与えていたと思う。(『昭和おもちゃ箱』120頁)

「歌は世につれ世は歌につれ」などと言われるが、歌が世相を映す鏡であるとすれば、言葉に無神経な社会になったことになる。時代や社会を言葉で表現する作詞家として阿久は誰よりもその変化を感じ取り、危機感を抱いていたのだろう。

1990年代に私は20代だった。当時、文学専攻の若者だった私が、テレビやラジオや街角で毎日耳にした流行歌こそが阿久が疑問視したミリオンセラーの歌だった。今にして思えば、人並みに流行には乗っていたが、歌に全く興味が湧かなかったのは、流れていたのが「ソング」ではなく「ミュージック」だったからだろう。心にしみなかったのだ。

あれから随分の年月が経った。最近心にしみた一曲がある。春日八郎の歌う「別れの一本杉」である。私の生まれる15年以上も前の1955年(昭和30年)に大ヒットした望郷演歌の名曲である。作詞は高野公男、作曲は船村徹。ふたりは音楽学校時代からコンビを組んで活動し、この作品でようやく成功を掴んだ。高野は翌1956年に結核のため26歳の若さで亡くなるが、船村は友の死の悲しみを乗り越えて活躍を続け、戦後歌謡界を代表する作曲家となる。船村は自伝にこう書いている。

歌は心でうたうものである。テクニックがどんなに優れていても、心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く者を感動させることはできない。(『歌は心でうたうもの』2頁)

歌とは何か。阿久は「ミュージックではなくソング」だと言い、船村は「テクニックではなく心」だと言う。ふたりの考えは同じだろう。耳ではなく心に響くのが歌なのである。船村は自身の人生について「邦楽を西洋音楽より下に見る風潮や、街の片隅や黙々と生きる人々の哀感をうたう歌謡曲や演歌を蔑む傾向に対する反逆だった」と述べる。彼がその作曲家人生を歩み始めることになった出世作が「別れの一本杉」である。

2.村の外れで涙は溢れる

 
泣けた 泣けた
こらえきれずに泣けたっけ
あの娘と別れた哀しさに
山のかけすも鳴いていた
一本杉の石の地蔵さんのよ
村はずれ

男は生涯で三度しか泣いてはいけない。

そんな言葉を子供の頃に聞いた気がする。「人前で」という言葉が入っていたかもしれない。泣いてもよいのは、生まれた時と親が亡くなった時とあと一度。最後の一つがどうしても思い出せないが、要するに男は簡単に泣いてはいけないということだ。現在ではこの言葉も「男らしさ」「女らしさ」を前提とする発言として「ジェンダーハラスメント」と見なされるだろう。しかし転んだ子供に親が「男の子なのだから泣かない」などと言う光景は、昔は日常的によく見られた。男は泣くもんじゃない。かつては皆の共通認識だった。

「別れの一本杉」は「泣けた 泣けた」という歌詞で始まる。恋人との別れが哀しくて泣けるのだが、堪えていた涙が村外れに来ると溢れてしまう。人前では泣けないというのもあるだろう。しかし堪えきれなくなるのは、村外れでいよいよ故郷との別れになるからだ。カケスまでもが鳴く。カケスは漢字で「懸巣」と書く。木の上に枯れ枝などで巣を懸けることが名前の由来である。鳥名までもがどこか故郷を思わせる。恋人や故郷をただ離れるのではなく捨てるという気持ちだろう。男にとって三度しか泣けない残りの一回である。別れを経験しない人はいない。たとえ恋人を残して故郷を去ったことがなくても、別れの辛さや哀しさは誰もが理解し共感できる。自然に歌の世界に引き込まれてゆく。

村外れにある一本杉とその脇の地蔵。情景が目に浮かぶ。仏教では地蔵菩薩は六道すべてに現れて衆生を救うとされる。村に来る旅人や先祖を出迎え、また去る時には見送る場所になる村の境界には地蔵が立っていることが多い。作詞した高野公男は故郷の茨城の風景を思い浮かべて書いたが、歌った春日八郎の故郷の福島にも同じ風景があった。日本には同じような場所が数多く存在するだろう。一本杉と地蔵は、自分が生まれる前からそこにあり、たとえ村が変わっても、自分が死んでも、変わらずにいつまでもそこにある。泣けたのが駅のホームでは土着な感じは出ない。

船村によると、高野が付けた歌のタイトルは「泣けたっけ」だった。レコード収録が決定した際に、プロデューサーが「別れの一本杉」に変えた。歌詞も含めて「泣けた」が多すぎるからとの理由だったが、その変更は見事である。「泣けたっけ」では情景が浮かばない。「別れの一本杉」であれば、情景が浮かび郷愁を感じられるし、さらに一本杉の佇まいから孤独や寂しさも伝わってくる。

「泣けたっけ」という言葉には作詞した高野の思いが込められている。発表当時この歌の新しさは口語体の歌詞だった。さらに言えば、地方訛りのある話し言葉が使われている。高野は茨城の出身だが、「っけ」という語尾は他の方言でも使われる。地方出身者にはどこか懐かしく聞こえただろう。高野は東京で「地方」にこだわっていた。相棒の船村には「おれは茨城弁で作詞する。おまえは栃木弁でそれを曲にしろ」と言ったそうだ。彼らの作る歌が、故郷を離れて都会で暮らす人びとの心をとらえないはずがない。私も20代で愛知から上京した。

3.遠い故郷と赤い頬っぺた

 
遠い 遠い
想い出しても 遠い空
必ず東京へついたなら
便りおくれと云った娘
りんごの様な赤い頬っぺたのよ
あの泪

東京に出てきた理由は語られない。捨てる思いで後にして戻れないから故郷は遠い。故郷は北海道や九州でなくても茨城や栃木でもよい。遠いのは心の距離だからだ。歌の故郷はどこなのかわからない。具体化が避けられているので誰もが自分の故郷になる。三橋美智也の『リンゴ村から』(1956)のように故郷とりんごが結びつけば、生産地の東北地方か長野の話になる。「りんごの様な赤い頬っぺた」であれば、東北や長野出身者は「りんご」に、他県の出身者は「赤い頬っぺた」に気持ちが向くだろう。「空」と「りんご」の二語が出てくることで、あるいは故郷で聴いた当時は誰もが知っていたであろう「リンゴの唄」(1945)を思い出すかもしれない。

「別れの一本杉」が歌われた昭和30年代には集団就職で多くの若者が東京にやって来た。農村部の中卒者が多かった。文科省の統計では、昭和30年の高校進学率は51.5%である。中卒者は日本の高度経済成長を支える「金の卵」と呼ばれ、彼らを就職先に送り届けるために運行されたのが集団就職列車だった。昭和29年4月5日の青森発上野行きの列車が第一号と言われるが、山口覚の『集団就職とは何か』などを読むとそれ以前にもあったようだ。「別れの一本杉」の九年ほど後にヒットする井沢八郎の「あゝ上野駅」は歌詞の設定がより具体的である。就職列車で上野駅に降り立った農家出身の若者が、辛い配達の仕事をしながら啄木のように上野駅で国訛りを聞いて故郷にいる両親を思い出すのである。この時代をイメージして作られた映画に2005年公開の『ALWAYS三丁目の夕日』がある。昭和33年の東京を舞台とするこの映画では、星野六子という女性が集団就職列車で青森から下町の自動車修理工場にやって来て住み込みで働く。まだあどけなさの残る彼女は特徴的なリンゴのような赤い頬をしている。

「あゝ上野駅」や『ALWAYS三丁目の夕日』も彼らの気持ちを慮って心を動かされるが、「余白」のある「別れの一本杉」の方が心にしみる。より詩的だと言えばよいか。最後の「あの泪」という語にしても、戻れない故郷にいる恋人のなみだだから、戻るが入る「涙」ではなく「泪」なのだろう。作者の思いが込められている。

4.都会の片隅にて何を思ふや

 
呼んで 呼んで
そっと月夜にゃ呼んでみた
嫁にもゆかずにこの俺の
帰りひたすら待っている
あの娘はいくつ とうに二十はよ
過ぎたろに

誰でも夜は寂しい気持ちになる。夜空に浮かぶ月は人の心も照らすのか。月を見るとなぜだか故郷を思い出す。古くは唐に渡った阿部仲麻呂が帰れぬ故郷を思い「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」と詠んだ。故郷を思う時、最初に思い浮かぶのは、風景か人か思い出か。女性が浮かべば望郷演歌になる。

故郷には自分の帰りを待つ女性がいる。彼女は手紙すら来ない相手を嫁にもゆかずにひたすら待っている。東京の空に浮かぶ月を見上げなから、男はどんな気持ちになったのか。彼女の名前を叫ぶのではなく、そっと呼ぶのだ。慚愧の思いだろう。だが帰るわけにはいかない。東京でまだ何も成し遂げていない。

「とうに二十は過ぎたろ」とは何歳ぐらいを指すのだろうか。22、3歳か、あるいは20代後半までいくのだろうか。童謡「赤とんぼ」の姐やは15歳で嫁にゆくが、三木露風が作詞したのは34年も前の大正10年で姐やは奉公に来ていた女中のことだから、昭和30年代の歌の結婚年齢には参考にならない。厚生労働省の「人口動態統計」で調べてみると、昭和30年の女性の平均初婚年齢は23.8歳である。全国平均より農村部はもう少し若くなるとすると、待っている女性は結婚適齢期を越えてこのままだと結婚が難しくなる年齢だろう。結婚するのなら今直ぐにでもした方がよい。時間の余裕はない。

男は東京でどんな生活をしているのか。月を見て望郷の念がこみ上げてくるのだから、不本意でつらく厳しい生活だろう。こんな生活がいつまで続くのかと焦りや苛立ちを抱えて生きているのではないか。挫折して失意の底に沈んでいるようには思えないので、夢や希望を捨ててしまったわけではないだろう。ひたすら堪え忍ぶ日々か。

男の態度から恋人に待っていてほしいという心情は伝わってこない。どこかで自分のことは忘れて別の人を見つけてほしいと思っているのではないか。未練はあるがこれ以上待たせておくわけにもいかない。手紙を出さないのも、出せば将来を期待させるから。手紙で別れを告げることも考えただろう。しかし待ち望んだ手紙が別れの手紙だった時の彼女の悲しみは如何ばかりかと考えると書くことができない。手紙も来ない状況に実らぬ恋と諦めて自ら新たな道に歩み出してくれたなら、そう考えるのは男のずるさか優しさか。離愁に満ちた歌である。

「別れの一本杉」が発表された昭和30年は日本の高度経済成長が始まった元年である。翌31年には経済白書に「もはや戦後ではない」という有名な言葉が登場して戦後復興の終了が宣言され、高度成長は昭和48年のオイルショックまで続く。人々が豊かさや機会を求めて都会に出る。生まれ育った場所を離れた時に初めて故郷が誕生する。この時代に多くの故郷が生まれた。

望郷歌「別れの一本杉」について考える場合、都会と田舎であるとか、変わってしまった自分と変わらない故郷といった単純な二項図式で捉えるべきではない。船村が言ったように歌は心なのである。室生犀星が「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で始まる詩で表現したように、故郷は思うものであり、思うことで故郷は生まれる。「別れの一本杉」は故郷をうたうのではない。この歌をうたう時に心の中に故郷が生まれるのである。心の中にそれぞれの一本杉が。


本学会相談役 鈴木孝夫慶應義塾大学名誉教授追悼

畏敬の師とその時代

3.「知」は活性化してこそ価値をもつ

⑴知識人に取り囲まれて

鈴木教授は他の教授と大分かけはなれた存在だった。

“歩く知識の宝庫”というべきか。

授業で先生はこんなことまで知っているかと舌を巻いた私だったが、彼の知識の源泉に注目すると、慶應義塾にはその種の知識の宝庫が沢山おられた。授業中、なぜすぐにポンポンと知識が迸り出るのか。その頭脳構造に舌を巻く前に、僕は知識取り出しのプロセスに興味をもった。級友の中には自分らとは頭の出来が違うんだと追いつけない悔しさを生まれながらの優劣問題として片付けてしまう傾向もあった。だが、それは違うなと僕は思っていた。

T.S.エリオットのperfect criticとimperfect criticの差異を講義してくれた由良君美教授の授業も明快だった。僕の好きな展開法であったし、その解析法は自分と同じなので、エリオットの魅力は自分でも由良さん並に解釈出来た気がする。一口で言うとcause & effectとkey wordの掛け合わせから繰り出される知識系列には必然性があって理解に無理がなかったのだ。

その目で鈴木先生流の思考回路を解析すると、語学的な語句解釈から多岐に分化し、政治、社会、文化、歴史や国際関係へと波及していく。語学から別領域へ。際限もなく飛翔するのである。学術用語でいうと、当時はまだあまり知られていなかったinter-disciplinary(学際的展開)というジャーゴンで言えることだけれども、この技法で語学を説き分ければ、それは語学と関連性の深い文学だけでなく、社会学や哲学の弁証法にも結びつくし、さらに考察領域を拡大すれば、政治経済や自然界の、神羅万象の世界へと遡及できる。当然、諸データと共存させて多様性のある形象へと関係性を拡大することもできるのである。

つまり、鈴木氏の論考法は、一つの命題に関係性のあるポイントを引き出し、それがとても魅力的だと解ると、それからそれへと、一種の韻律をもって連鎖反応を起こす。思考回路の立体化である。その形成が無尽にできるということが聞く側には快かったのだった。

他方、対極にあるかと思える仏文の白井浩二、中文の奥野慎太郎、英文の西脇順三郎、厨川文夫の諸先生は知識量の差異というより専門性の蓄積量の差異と考えるとよいだろう。その神髄を引き出すには原典講読が欠かせないし、地味で時間もかかる。ゼミではその応用を続ければ与えた情報は熟成する。

学問とは方法論と定めたり、か。

ふと気づくと「昼食を食べに行こうか…」と誘われる。そんな先生が多くなり、そのうち食事をご一緒するのが当たり前の日々になった。池田弥三郎先生はよく幻の門を出てすぐ右に曲がった路地奥のあんみつ屋に連れて行ってくださった。談論風発、あんみつ屋で万葉集の講義である。江戸文学も出た。1体1で粋な小話もうんと聞いた。

サルトルの白井浩司教授は翻訳でいつも多忙を極めておられたが、当時は塾に予算もなく、彼の研究室を『三田文学』の事務所に充てる有様。僕は英文学科生としてではなく、塾生として仏文の院生たちとサルトルを論じ合った。足りない知識は読書量で補うほかない。下宿に帰るなり話題になった作品を読み直し、翌日にはそのキーワードやファクトを頭中に入れ込んでトークに参加するわけだ。

大橋吉之輔教授はアメリカ文学で、当時はヘミングウエイやスタインベックが流行る世間とは異なり、大橋氏はきらびやかなロスト・ジェネレーションには志向せず、むしろ鄙びたアメリカ中西部の田舎町の暮らしぶりを描くアンダスンに興味がおありだった。長編『貧乏白人』や『ワインズバーグ・オハイオ』という短編集に描かれた人間模様に親しみを感じるお人柄であった。

僕は当時西海岸で興隆したビート・ジェネレーションと20年代ジャズ時代のロスト・ジェネレーションを比較して両方の作歌群像を網羅的に調査して彼らの生きる哲学の比較論を英語で書き上げら博論級の厚さになったが、それを提出したのだが、大橋氏には気に入らなかったようである。学部学生としてはあるまじき論文だとか不平を言われたのを、今も覚えている。

学部の4年間はこうして瞬く間に過ぎ、卒業後、僕は東京国立にある桐朋高校という進学校の英語教諭になった。

⑵鈴木流知識体系の演繹法

鈴木先生流の知識体系はしかし興味深く忘れ難い。面白い。面白いだけでは演繹法にならない。勉強法としても使うにはその演繹法を辿らねばならない。僕は自分なりに英文法論をもっていたので、それを研究社という辞書の会社から出版したけれども、西欧の文法学者の領域から解脱できるほどの大作にはなれず、文法路線で進行せず、やはり文学に返り咲いてモームの長編を片っ端から読んだり、『月と六ペンス』や『人間の絆』と言った長編や南海物の短編を読み飛ばして、人間というやつはかくも卑劣なものかと、作者モームの心境で読んでは受験に熱心な生徒ばかりの教室に行くものだから、授業はろうなものじゃなかったと思う。

低迷期であった。鈴木先生や由良先生の教室が懐かしく、酒に浸っていたこともある。だが、そんな自堕落もやがて治まり、鈴木先生の文化論を読み返す気になって、立ち直り、アメリカ留学のために本格始動を始めた。

僕のディベート論法にそれを心得として加えて組み直すと、鈴木流なら鈴木流の知識体系の各端末に、A→A‘→A″につながる端子を出して控えるようになる。この方式をわきまえて展開すれば痛快に使えるはずで、それをエリオット流の批評に専念して、アメリカ文学の新作を次々読んでは文芸誌に発表する日々になった。

池田弥三郎助教授の国文学研究法は実証的で、万葉集の読み解きも芭蕉のように現地を歩いて実感している感動が伝わってくるから、当然、聞く人に実感を与える講義ができる。これは私にも影響を与えて、アメリカ史の初期独立革命を知るために、ボストンのfreedom trailを歩き回り、東印度会社のオフィスやポール・リヴィアが馬を繋いだ杭まで行ったし、汽車に乗ってレキシントンやコンコードまで行って、イギリス正規軍とアメリカ民兵とのドンパチでめり込んだ銃弾の穴にまで指を突っ込むまでやってのけたから、講義に迫力が出たしその時点で出したデータは活き活きと使えた。

その頃、僕は中野にある『新日本文学』の会員で、野間宏、佐多稲子、中野重治さんたちとかなり革新的な文学運動を一緒にやり、他方では中央公論の『海』、文春の『文學界』、研究社の『英語青年』に連載で掲載され鶴見大学の専任講師となり、数年後、東北大の教官に推挙された。

僕は大学院に上がって英語論文で博士号をもらう機会を逸したわけだが、東北大では私が精神分析学者の書くWalker Percy, The Last Gentleman という難解な作品(450ページ)を翻訳し、そこに誤訳がほとんどないと判明して評価されていたことも招聘の大きな理由だった。

これは大学に奉職する技法などというくだらないものではない。パーシィ流の精神分析に耽溺して読んでいたら、自分自身も精神分析学者となり、当時はやりのフロイトをはじめ、聖心分析や心理学に傾倒していかからこそ取り組めた仕事だった。延々800枚。乗せられた枚数は重荷でも何でもなかった。面白く読んで鈴木流に解釈して、誰が読んでも納得のいく言語で翻訳していく。高校で受験英語を教えた後、けっこう楽しんで仕上げた一冊だった。

鈴木孝夫氏はアメリカを日本人の観点からとらえ直しておられるが、僕は卒後、高校教師をやりながら「アメリカ研究」という新分野を東大の駒場の先生方と縦軸と横軸を構成することに腐心した。つまり、当時はまだ斎藤光、斎藤眞、久保田きぬ子、本間長世教授がみなさんご健在で、研究熱心はこの上なく活発。そこから得た知識群で自分自身、少しは語れる存在になった。

東北大助教授になったのはそれから数年後のことになるが、その間、僕は当時月例会が盛んな「アメリカ文学会」から声が掛かり、シンポジウムのパネリストになることが屡々で、それは月刊文芸誌の『海』、『新日文』、『三田文学』などに書きまくり、まだ若手の亀井俊介氏や僕も加わって、「アメリカ研究」を、「歴史」と「民族」と「移民」という三つの要素をもって構築。それが文学世界にも導入していた。ということは、一見、鈴木理論とは大分かけ離れた知識体系を作ることになったと見えるだろう。が、鈴木先生は、それはそれでいいと思われたと思う。

僕は後年、アメリカ文化センターで頂いたたくさんの情報や東大駒場で誕生した「アメリカ学会」で構築した「アメリカ研究」で、次々と著書を出していたから、鈴木先生とは観点視点も異なるけれども、歴史問答では面白くかみ合って、却ってよかったか、先生とはまた一段と親しくなった感がある。

⑶アメリカ時代での鈴木流研究法

僕が35歳頃だったが、東北大の助教授でいた時分、ニューヨーク州立大のバッファロー校で大学院生を相手にポストモダン米文学を教えていた時、近くの高校から講演に来てくれといわれた。レクチャーをあらかた終わって、日本でもシェイクスピアを読んでる、大学院でねと言ったら、高校生たちが怪訝そうな顔をする。

その空気が気になって後でレクチャー後、招いてくれた先生に訊いたら、「アメリカでは『ハムレット』や『マクベス』は高校の教科書で読みます、ほら、これです」と分厚いテキストをどさりと手に乗せられた。何と部分掲載ではなく、終わりまでスキップせず、一作を2週間で読むのだと言う。日本型の、少量を精緻に読み解く、というような読み方は果たして実力に結びつくのか。鈴木先生の膨大な知識量はどれもこれも活性化されているが、大学受験で培ったような精緻な、少量の知識は果たしてどんな実力になっているというのだ。

知識とは膨大な体系であって、一字一句きちんと覚えて100点を取る式では、とうてい知識人の端くれにもなれない。

結局、僕が明日の火種というか、話題に備えて必死に読んでは頭に叩き込んで、どの話題になっても直ぐ取り出せるように、いわば“文学のディベート”を続けたのがよかった。学生時代から始めた自己特訓が効を奏したのである。鈴木孝夫氏の『鈴木孝夫の世界』第3集(冨山房、2012)を例にとれば、それがよく解る。

鈴木先生から頂戴したご著書を前に、僕は慶應義塾の文学部英文学科で学んだことを今更ながら貴重な体験だったと述懐している。有難う鈴木先生。この想い出の記に登場された諸先生は今や総てこの世の人ではない。皆さん、有難う。僕ももう直ぐ黄泉の国へと出立しますが、まだまだ頑張りたい。どうぞ叱咤激励の目でお見守りを。(了)

本学会相談役 鈴木孝夫慶應義塾大学名誉教授追悼

畏敬の師とその時代

2.鈴木孝夫は明治以来つづく世捨て人の系譜

⑴慶應義塾は世捨て人も養成する

慶應義塾に入学して直観した言説は、福沢先生以下、文学部の先生は、みなさん、世捨て人ではないか、という感慨だった。俗に、「起きて半畳、寝て一畳。天下盗っても二合半」と言われる、芭蕉や山頭火に通じる言葉が慶應義塾にも通じた感があった。慶應義塾は政財界に幾多の大物を送ったけれども、文学部にあっては世捨て人づくりの本店ではないか。そんな雰囲気が横溢しているとさえ思えた。

理財科には通じない逆説が文学部では罷り通っているのは嗤える。だが当たっている。筆者のように、国立私立の両方で教鞭を執ってきた人間にいわせると、こう言っても過言ではなかった。

鈴木孝夫は『人にはどれだけの物が必要か』というタイトルの自著まで出しているが、いかにも医学部を捨てて文学部に来た仙人らしい。彼は言う、古代ローマやビザンチンの皇帝たちが愚民政策の常套とした「パンとサーカス」。こいつによく似たグルメにゴルフにテニスが今の日本。ホモ・エコノミクス(経済人)とホモ・ファベル(技術者)ばかりが目立って、環境破壊に取り組むホモ・フィロゾフックス(思想家)の姿を視えないと指摘。

この書の出版は平成6年。四半世紀前だが、その後この発想で汚染問題は表面化したけれども、今日に至っても、解決したと考えるには程遠い。鈴木はまたこの時点で、世界人口は56億、21世紀には100億を越すと嘆くが、ますます極貧化した国情がひろがり、その犠牲者として死んでいく新生児の数は増えるばかりである。彼の読みは残念ながら当たっているのに、どの富裕国もほとんどその手当てが出来ていない。

鈴木流に見ると、ジオポリティックス(地政学)が国家主義のエゴの下、戦前のコロニアリズムそのままに進む第二・第三の新興国の及ぼす勢いに先進国がひるんで退行現象を起こしてしまったせいとでも、診断できる。東大にはいるが、慶應義塾の文学部には、現行の官僚主義を愛でる者はいない。

顧みれば創設者の福沢諭吉はいつも国家指導の、つまり民衆を置いてきぼりにした政策主導のビューロクラシー(官僚主義)を慨嘆していた。だからこそ、その傘下に甘んじて惰眠を貪ることを潔しとはしなかった。その精神的脈流を受けて福沢の代弁者のように気炎を吐いていたのが鈴木ではなかったか。

⑵日本の、明治初年、戒告当時の実情に思いを馳せよう。

近現代の覇権主義の台頭に呼応して富国強兵策を国是とした明治政府はヨーロッパの国家体制の安定策に必要不可欠なロジックとして外周に「利益線」後に「生命線」と呼ばれた線引きをして自国を守る戦略を立てた。日本は朝鮮半島を利益線の対象にしていたから、日清日露の戦争が不可欠かのように是認した時代でもあった。それは欧米列強とロシアの脅威もあり、やむを得ぬ状況下でもあったともいえるが、強引な派兵工作は現地の民衆はもちろん、国内の下級兵士の立場から見れば、かなり無理無体は政策だった。当時はまだ国家安泰のためなら、民衆は喜んで命を捧げて当然とする風潮があった。公害問題も然りである。民衆が我慢さえすればよい、モクモクと黒煙を吐く工場や機関車や軍艦は国力発展のシンボルぐらいにしか考えられていなかった。労働問題や政体の改革など問題にならない時代でもあった。

しかし福沢をはじめ、指導者を失って欧米列強の植民地主義に国土を席捲されるさまを気の毒に思って革命家を保護するなどしていたから、やはりカウンター・カルチュラルな思考回路をすでに持っていた知識人はいたのである。

福沢型あるいは鈴木型の発想は当時の庶民からも受け入れ難い。体制派からみれば、かかる思想は排斥されるべきであり、帝国大学と名の付く7つの大学からは、学長自らが軍国主義に逆らう例はきわめて少なかった。

むろん帝大系でも教授陣において問題視する傾向もあり、それが高じると、○○事件と呼ばれて、官憲の弾圧対象になっていた。今から考えると、なぜあの程度の国家論に官僚主義者がこだわったか苦笑するほどの窮屈な時代だったとしかいいようがないが、鈴木孝夫氏はその時代でではなく、現代において、言論の自由で、いや、言論のフレキシビリティのお陰で、いや言論の「自由裁量権」のお陰で、異端視されず、問題視されなくなったのであろう。(つづく)

本学会相談役 鈴木孝夫慶應義塾大学名誉教授追悼

畏敬の師とその時代

⑴鈴木孝夫先生との出会いは60年安保の年

鈴木孝夫先生と私の出会いは昭和35年春、日吉から三田へ、英米文学専攻生として本格授業を受けに来た初日のことであった。授業はSimeon Potterの Our Language で、英語の組成を歴史的に説く歯ごたえのあるテキストで行われ、受験英語とは段違いに難解な内容をものともせず、驚くべき博学で内容の面白さに耽溺なさって饒舌に名講義を展開される鈴木先生には圧倒された。福沢諭吉の再来か。この授業はまさに慶應義塾に相応しい、悲痛な思いさえ籠められている。教室にいる学友は皆、一様にそう思ったはずだった。

というのは、当時は1960年。60年安保の真っただ中だった。国会周辺は全学連のデモ隊が何万と犇めく。現代アメリカ文学が専門の大橋吉之輔教授が戦時中にダンテの『神曲』を持っていただけで、特高に捕まり暗所に連れ込まれて拷問された話をなさると、我々もまた学徒動員が待ち構えている強迫観念に捉われ、清水谷公園から国会への行列に加わった。そんな時代だったからである。

厨川文夫教授は古代中世英語学の権威で、慶應義塾は明治維新の直前、江戸城の開門を巡って戦乱の最中でも講義を休まず続けられた話をされた。学問とは、一時的な感情の高ぶりに左右されてはならずと諭される。鈴木孝夫の授業がまさにそれだった。彼は政治抜きの学者肌で、講義内容から明確にされたのは、欧米の思想体系が必ずしも政治思想に毒されて歪んでいる存在ではないということであった。
 
偏在や偏見に陥る勿れ。まだ19歳の僕も自分自身にそう言い聞かせた。渋谷の東横デパートの屋上から眼下を睥睨すれば、ここに蝟集する人々の歩くさまがよく見える。自分もまた都会のゼロ記号になってはならぬ。そうは思えどエゴ・セントリックに考えても所詮はゼロ記号意識から解脱できない自分が情けなかった。

渋谷の下宿に帰ると机の上には、渋谷の大盛堂で買い込んだ大岡昇平の『野火』や『俘虜記』、田宮虎彦の『足摺岬』、火野葦平の『土と兵隊』、それに忘れもしない大江健三郎の『死者の奢り』や『ワレラノ時代』が積み上がり、学研連の「文学研究会」の話題に不可欠の作家群やサルトルやカミユの不条理実存主義の思想群や、「怒れる若者たち」グループのコリン・ウイルソンのDeclarationの英語論文。へたばるものか。父や兄の奮闘を思えば学問など苦労のうちに入らず。と、また自分に言い聞かせて読書とノート取りの日々だった。

この時代、鈴木先生は岩波の、今でも売れている名著『言葉と文化』を書き、大橋先生はNorman Mailerの評論White Negroを『三田文学』に翻訳され、さっそくそれを読んだ僕はsquareあるいは organization manというキーワードに対峙するhipsterという語に憑りつかれた。メイラーは1950年代というAmericanism全盛時代に順応主義者として生きるアメリカ大衆に失望していたから、beatという「打ちのめされた世代」とは別にhipsterという、敢然と冷戦という米ソの対立状況に立ち向かう存在を明記したわけだが、自分もまたかかる立場を採らねば、わざわざ関西から上京して学問の門を敲いたことにはならないと思った。

兄は私が東京に出立するという日に、母に向かって言ったそうだ、それは後年、兄自身から聞いたことなのだが、「成生はもう大阪へは帰って来よらんよ」

それは異母兄弟として育った、自分から見れば、母のたった一人の息子であり、兄とは姑を介在して戦中から続いた確執が絶えない、その時代に郷里を後にした私の存在を、兄は見事に見抜いて言った言葉であった。 

「親不孝者か、自分は…」

この思いは、学生時代はおろか現代に至るまで続いている悔悟の念である。確かに慶應義塾の門に入ったことは正解であった。ここに来なければ、私は関西人として政治も社会の矛盾撞着ともあまり拘泥せず、平凡な暮しで生涯を終えたはずだった。

賢明な兄はそんな弟の行く末まで見抜いていたわけだが、自分としては塾生として日々4年間送った毎日が自問に自問を重ねる日々であり、どの師を前にしても未だ浅学の我が胸中を思えば自信喪失でその空白を埋めるが如き悪戦苦闘の日々ともなったのだった。

60年安保の響きは現在の静けさからみれば、想像を絶するほど、喧噪著しいものがあった。

連日連夜、国会周辺を十重二十重に取り巻いて「岸を倒せ!」「日米安保反対!」のシュプレヒコール。全国の主要都市でもこのシュプレヒコールは鳴り響く。それは曇天の梅雨空に響きわたり、東大生の樺美智子さんが警官隊に圧し潰されて亡くなった。22歳だった。僕らはアメリカ政府の手先にされて、また軍隊に無理やり放り込まれ、朝鮮半島に送り込まれるのだろうと、参加者全員がそう危惧したのだ。まだ朝鮮戦争が終結して7年だった。

現在、「日米同盟」と呼ばれる、US-Japan Security Treaty には、当時の若者たちの悲痛な叫びが届いたせいか、「即入隊、即原子戦争」というメイラーが『白い黒人』で示唆したinstant deathのイメージは明白ではない。それはソヴィエト(今のロシア)が共産国としての国家権力を放棄宣言したのが最大の原因であると言われるが、果たしてそうか。喉元過ぎれば何とやらで、日本人の心の中で、警戒心がその後急速に薄れ果て雲散霧消してしまったのが主たる原因ではないか。日本人は「仕方がない」とすぐあきらめる。それだと筆者には思えるのだが、これも鈴木先生の思考回路の影響かもしれぬ。

それはともかく、自分は生涯をかけて、この日本の国を良くせねばならないと心に決める大きな起因はこの期に培われたと思う。当時、自分自身の知識体系が果たしてどこまで可能か、自分自身の開発力に挑戦する日々であったが、今にして思えば、僕の達成目標の一つは、鈴木先生の知識体系であったことは疑う余地もない。(つづく)

「古典芸能」和泉流狂言と日本人の心

日本浪漫学会副会長代理 河内裕二
2021年2月10日

日本浪漫学会は、先人が大切にしてきた日本人の心を世界と後世に伝えてゆく活動を行っている。濱野成秋会長は和泉流宗家とは三十年に及ぶ親交を続けられており、この度神田明神で開催された和泉流宗家狂言会に私も同行した。古典芸能である狂言は約六百年の歴史を持つ。伝統を守り継承してゆくとはどういうことなのか。「オンライン万葉集」の活動の一環として公演を鑑賞した。以下はそのコメントである。

公演前に二十世宗家と。左から濱野成秋会長、二十世宗家和泉元彌氏、河内裕二副会長代理。

令和3年1月31日午後2時より、東京都千代田区外神田にある神田明神内の文化交流館EDOCCO 4階「令和の間」にて、和泉流宗家EDOCCO狂言会が行われた。昨年7月から始まったこの狂言会は今回が13回目となる。
 天平2年(730)創建の神田明神は東京で最も歴史ある神社の一つで、江戸時代より江戸総鎮守として江戸の人々を守護してきた。公演当日も御社殿前には参拝者の長い列ができていた。

公演の副題には「睦月~コロナと闘う皆様に感謝を込めて」とあり、演目に新作狂言小舞「アマビエ」も加えられている。もともとは神事であった狂言をこの場所で行うことには、和泉流宗家の皆様や関係者の方々の、新型コロナウィルス感染症の一日も早い終息を願う強い思いが込められている。年明け早々に緊急事態宣言が再び発令された。社会に重苦しい空気が広がる中、狂言の「笑い」で人々の心を明るくしたいという厚情にも感動したが、何より和泉流宗家全員で力を合わせ万難を排して伝統を守り続ける姿に感銘を受けた。とくにご子息、ご息女がみな狂言の道を歩まれ、逞しくご成長されていることに心を打たれた。一切の妥協や迷いを感じさせない堂々とした謡や舞を披露された。芸は体で覚えるしかない。無形の芸術である狂言を受け継いでゆく覚悟と日々の努力は大変なものであろう。

公演ポスター

舞台芸術は劇場という生きた空間がなくては成立しない。とくに狂言は最小限の演出により観る側が想像力を働かせて舞台を作り上げる。演者によって披露される「型」には六百年の歴史があり、観衆はその重みを厳粛に受け止める。張り詰めた空気が場を包む。その空気が笑いによって一瞬にして和らぐ。空気は「肌」で感じるもので、生の舞台でなければ味わうことはできない。現在は外出自粛やテレワークで直接人と会う機会が減り、人や場の発するエネルギーや空気を身体で感じることも少ない。たいへん貴重で心豊かな時間となった。

公演終了後は場所を移して和泉流宗家の皆様と濱野会長、河内で歓談。宗家会理事長の和泉節子氏から和泉流宗家の歴史を始めご自身の死生観や宗教観など様々なお話を伺った。いつも明るくお元気な節子氏だが、今年で嫁いで54年が経ったとのこと。多くの苦難を乗り越え、強い家族の絆を築いて和泉流宗家をここまでにされた。伝統の継承は如何に大変なことか。節子氏のお人柄に触れて温かい気持ちになった。

第13回公演内容

狂言のおはなし

公演プログラム

十世三宅藤九郎氏による「狂言のおはなし」では、約六百年の伝統を持つ狂言の特徴や今回の演目の解説があった。その中で筆者はとくに松の木についての話が印象に残った。舞台の松は神様が現れる影向の松がモデルで、狂言はその松に向かって捧げられていた芸能であったので、現在でも狂言師は舞台上には神様がいらっしゃると思って演じているとのこと。これまで和泉流狂言を何度も拝見したがその演技には一度も小過どころかわずかな綻びすら感じたことがない。喜劇として滑稽な登場人物を演じながらも、常に緊張感が伴うのは、神事だった頃の精神が受け継がれているからであろう。狂言は神様とともに生きてきた日本人の心を観衆に伝えている。

狂言 福の神

福の神を二十世宗家和泉元彌氏、参詣人を史上初女性狂言師和泉淳子、三宅藤九郎の両氏。舞台は出雲大社。
 毎年暮れに出雲大社に参詣し、豆まきをして年を越す二人の男の前に福の神が現れる。富貴繁盛を祈願する参詣人に福の神は富貴になるには元手がいると言う。元手がないから来たのだと言い返す参詣人に福の神は元手とは金銀米銭のことではなく、五常の徳を守り、神を敬い、慈悲を持ち正直でいることだと諭す。話したらのどが渇いたと福の神。参詣人に神酒を催促し、日本大小の神祇と酒神である松の尾の大明神に神酒を捧げ、自らも飲む。富貴になりたければ、早起きし、慈悲を持ち、夫婦仲や人付き合いを良くせよ、さらに私のような福の神にたくさん神酒を捧げれば楽しくなることは間違いないと言って笑いながら福の神は帰ってゆく。
「笑う門には福来たる」と言うが、福の神は笑いながら現れ、笑いながら去ってゆく。役を演じた元彌氏の明るい笑い声が今も耳に残る。

狂言「福の神」を演じた三氏。
左より十世三宅藤九郎、二十世宗家和泉元彌、史上初女性狂言師和泉淳子の各氏。

狂言小舞 鮒

和泉采明、和泉慶子の両氏による連舞で地謡を和泉元彌氏が務める。
 狂言の所作の基本となるのが狂言小舞で、「鮒」では勧進聖の一行を乗せた舟の前に現れた琵琶湖の水神である鮒が舞う。
 「狂言のおはなし」で三宅藤九郎氏が説明されたが、小舞は役柄を演じないので装束は着ず、今回は正月で特別な会ということで正装である紋付、裃を着用して舞を演じる。
 美しい所作と躍動感。若い二人の息の合った連舞に鮒が飛び跳ねる光景が目に浮かんだ。

狂言小謡 景清

謡は和泉元聖、和泉元彌の両氏。
 狂言の台詞の発声の基礎となるのが狂言小謡。「景清」は平家物語の一節で、坂東武者に崇敬された神田明神とのご縁に因んで選ばれた演目。
 親子とはいえここまで一糸乱れぬものか。二人の息の合った謡は見事であった。

新作狂言小舞 アマビエ

和泉和秀氏が舞を和泉淳子氏が地謡を務める。
 新型コロナウィルス感染症の終息と疫病退散を願って作られた小舞。
 この小舞でアマビエが肥後国の海に出現したとされるのを知った。和秀氏の立派な体格を活かしたダイナミックな舞と力強い台詞にコロナも退散するはず。頼もしさを感じた。後で伺ったが、和秀氏はまだ12歳とのこと。驚いた。

和泉流宗家の皆様。中央でご挨拶するのは和泉元聖氏。左より十世三宅藤九郎、和泉采明、二十世宗家和泉元彌、和泉和秀、和泉慶子、史上初女性狂言師和泉淳子、和泉流宗家宗家会理事長和泉節子の各氏。