近作詠草11 令和二年一月十一日 (No.1936)
             濱野成秋
 
歌人三井茂子より四首たまはり、その壱苔の歌
苔むした石に落ちたる一凉の
  椿語るがに静もる初冬   茂子
 
本歌取り。ためらふ心と訪なふ人を想ひて
苔はらひ棕櫚縄結びし関守の
  水面に映る手弱女の袖   成秋
 
もはや絶えなむか、いや蘇りとて嬉しく
みとせおも眠れるシャコバサボテンの
  今朝赤々と蕾膨らむ    茂子
 
本歌取り。想ひ想はれ良き人は逝く
これ吾と君がくれにしサボテンの
  参年みとせの春に紅の華咲く   成秋
伊豆山荘に遊びて詠める
ひきつめし山の庭なる枯葉鳴る
  誰そ歩むやハクビシンなる   茂子
 
閑居してよそ人の訪れに戸惑ひ
枯葉舞ひしとど濡れたる白路地を
  踏み来て乞ふる案内のよそ人  成秋
 
初春に想ふ人とお茶して
雛の日に君と逢い見む梅の里
  ままごと屋にて語る嬉しも   茂子
 
今年も春は廻り来るが帰らぬ人の俤や何処
雛近し蝋梅の枝掻ひ潜り
  訪れし君の笑顔やいずこに   成秋
 
かくしてわが心は里帰りをしてみるものの
盆暮れと古里おもきいと辛き今年の夏は去年こぞより重き
今年の郷里の盆踊りで、おそらく吾は
里人の笑みや太鼓のほとばしり草吹く踊りに吾怯ひるみをり
 
与謝野晶子の孫女から「われ転向せじ」の御詩賜りて詠める。
汝がこころ殺伐たるを歓ばず希わくば生きよ超えゐてまほし
 
苦悩も憤怒も忘れまじ吾らが世代はペンに託すのみにて
吾がペンも吾が書もゐるをる寄り添ひぬ
  何処いずこぞ吾だけ旅立つ朝まで
 
人の生と文の行方は測りがたき
なにゆえに喰らひて書くや何故に生きて何故死して何故
 
きのふ城ケ島に遊びて白秋の魂に遭ふて語れり
君問ふないくとせむなし城ケ島数へる指に雨粒の舞ふ
 
                     (No.1936は以上)
 近作詠草10 令和二年八月二十五日 (No.1936)
             濱野成秋
 
もうボロか捨てる仕草で目を泊めて
わが友は人とは限らぬこの下着
    諍いの日も小躍りの日も
 
この家こそ安住の地と定めたる吾を嗤う蜘蛛あり
が庵は密事みそかごとよと告げに寄る
    大蜘蛛つまみし紙音かみねぞ怖し
 
遺言を書くわが指よ
携帯に吾ゆいごんをしたたむる
    友は嗤ひて吾は真顔で
 
我が肉體よ滅びに向かふな
現身うつしみの指の動きを確かめつ
    朝起きわかに肺確かめつ
寂啄木の歌よ生かさめ逝きし日に
ふるさとの停車場路の川ばたの
    くるみの下に小石拾へり 啄木
 
寂しきを唄へる少年の心に
啄木のちひさき小石を拾へるを
    停車場いつしか変へられてをり 成秋
 
昔の肺病はコロナどころに非ずして
その名さへ忘られし頃飄然ひょうぜん
    ふるさとに来て咳せし男 啄木
 
今、コロナウイルスさかんにて、
わが胸に都会の痛み撫でさはる
    妻子も友もならぬ顔なる 成秋
 
今一度、啄木秀逸のふるさとの歌
ふるさとの訛なつかし停車場の
    人ごみの中にそを聴きにゆく 啄木
ふるさと北野田駅に父の姿あり
鉄の輪の踏切むこうに降りきたる
    父の帽子や見え隠れして  成秋
 
兄と一緒に父を迎へに来たものの
腹ちがひ折れ曲がりたる兄こわし
    父を迎へるゐてまほしかれ 成秋
 
 
ふるさとを想起するに去りにし父母の姿よりも、義理の仲にて常に
険しき心情を漂はせし義兄のことが想われてならぬ。
 
                     (No.1936は以上)
 近作詠草9 令和元年八月二十五日 (No.1934)
             濱野成秋
 
我と長年過ごせし某氏の御心を思いやり
産土うぶすなを厭ひ越し来て早や五十路いそじここぞはべらふ煮魚を喰ふ
 
その目に師となる吾身を思ひやりて某氏は詠めるか
が墓は何処いずこと問ひたる師の肩に寂しき影の移ろふ哀し
 
逗子の旧家を手放す心を謳う
浪子去り強きおのこも語り草星霜担ぎし生家もやがては
 
脳血栓間近か頭痛はじまる
襲い来る頭痛の潮や騒がしく
     今しも死ぬるを告げる便りか
 
浪漫の会よ、果たして汝は永き命や?
この会は吾の励みと凝る耳に忍び囁く放念の声

他人ひとの心に分け入るとは不遜も甚だしきか
他人の世をいじるは不遜と言ひたきか
     ふみ書くわが指キーから離れ
 
じんじんと頭痛は続く
じんじんと頭痛は吾身に迫り寄る
     ネット原稿投げてぞ逝かめと
 
身辺を片付けること至難に思へ
わが生に脈絡つけむとペン執るも
     行方知らぬは父母の物たち
 
今日の朝こそ心機一転よ
投げ出せばさぞ楽かれと思ひつつ
     朝日に負けじと跳び起きてみる
 
今晶子のお孫さんの心情を思いやり
祖父母こそ勝手気儘と棄てたるも
     利晶の杜に行く友厭いとへず

敢えて再び与謝野晶子孫女へ献じる我が歌を入れる
こころ屈折したるを歓ばず
     希わくば生きよ超えゐてまほし
 
古里大阪に墓参し法善寺の不動尊に打ち水。赤提灯「さち」さんで
法善寺水かけ不動に手を合はせ
     幸とは何ぞや旅立つ間近で
 
観心寺にて管主永島龍弘和尚と語らふ
なにゆえに観心寺は恋しきや
     父母と通ひし水彩の紅葉
 
永島和尚に感謝。また同行された原嘉彌、大浦実夫、紅竹みずほ、
河内裕二の四氏にも心から感謝。まことに佳き日にてこれを幸せと
言ひたし。
 
                     (No.1934は以上)
 近作詠草8 令和元年七月六日 (No.1932)
   以下、すべて7の本歌と。 濱野成秋
 
 
今やデスクにも背かれるや? なんの。
幾年をこの書き机に背ぐくまる
  そはいたずらが死を問ふや
 
想いの糸をそっと捨てたり
この作を時に郷土に植えたしと
  読み直す目に田んぼの白鷺
 
子も孫も先祖になんかまるで関心なし
失ひし古アルバムは哀しけれ
  母の手父の指いま亡きがゆえ 慟哭
 
郷里にある西除川に筆の罪なし
西除にしよけの粘土無心に採りゐたる
  幼な指に罪なき土筆つくしが    成秋
歌人前田夕暮の歌集「虹」(昭和三年)にて
水あかり顔に受けつつ川底の
  砂礫すくひゐる人さむげなり  夕暮
 
と夕暮が詠みたるに、吾、小粋にかく歌ひをり
冬の川渡る舟人舵を絶へ
  雪見炬燵もまたたのしけれ    成秋
 
前田夕暮は同じ歌集で
野さらしの風日を吹きてうら寒し
  われは露佛ろぶつに物申したき    夕暮
 
と詠んだので、吾は、水子と称して天に戻さる常習を
重ね石戻さる嬰児ちごのはかなきに
  涙す母子も百年ももとせ経ちゐて    成秋
と詠む。野仏を見舞ひて、産婆のいふ「上げますか戻しますか?」とは何。
「上げる」とは赤子を生かして育てること。「戻す」とは天に召されよと、
産婆が暗闇に出て間引く。
 かほどに辛きこと、我が国では常習にて、現今の教科書には記載なく、
人はたまたま川辺の片隅に積まれし水子供養の重ね石が何かも知らず
踏みつけて通る。
 
 この貧しさは昭和二十年八月十五日の終戦の、その日の後も続いていた。
二・二六事件の反乱部隊に参加した将兵の多くは貧農の出で、どんぞこの
暮らしをよそに、勝手気ままに政治を執る上部への怒りと鬱屈を持っていた。
かくして起こった哀しい背景を知らぬ素振りの歴史家は、これを軽視し、
唯、隊内における皇道派が粛清され統制派が実権を握ったと記すのみ。
これは史実を歪める乱暴な記録であり、歴史家の歴史家たる使命を知らぬ
所業とさえいえる。
 ところで筆者は二〇〇一年一月一日に発刊した小説『父の宿』の冒頭に
自作短歌を三首掲載している。父の人生は私にとって大きな謎であるが、
それを想うだに、六月三十日の末期の水は辛く、窶れ果てた父を読んだ
最初の歌の、「泣き」は「鳴き」にあらず。わが心の嗚咽にて。
 
かりそめの宿を想ひて病む父の
  鬢にしんしんしぎ泣きわた
 
道頓の父が語りし屋形船
  清談したかや女子おなごもいたかや
 
故郷ふるさとの河内太鼓は哀しかり
  みちゆく人の皆変りゐて
 
 
                     (No.1932は以上)
 近作詠草7 令和元年六月二十六日 (No.1932)
             濱野成秋
 
 
今や日記とは後世に語り掛けるデバイスか
日記もて書き遺すべく一隅の
   デスクしづかに吾が死ぬるを待つ 成秋
 
想いの糸をそっと捨てたり
日記とは時に郷土の歴史なれ
   なまじな心は田んぼにおとさめ 成秋
 
子も孫も先祖になんかまるで関心なし。成秋寂しく。
古日記あたら読む人吾ひとり
   結縁けちえん虚しや打つ手もなきや
 
郷里に西除川といふ川あり
春泥の川面かわもしずけき西除にしよけ
   粘土採りをる吾が幼な背は  成秋
 
歌人前田夕暮の歌集「虹」(昭和三年)にて
水あかり顔に受けつつ川底の
   砂礫すくひゐる人さむげなり 夕暮
 
と詠みたるに、吾、川床ふかく人知れず横たはるは
誰そと問ひて
冬の川渡し人あり棹の先
   うずしかばねそもまたたのし     成秋
 
前田夕暮は同じ歌集で
野さらしの風日を吹きてうら寒し
   われは露佛ろぶつに物申したき   夕暮
 
と詠んだので、吾は、水子と称して天に戻さる常習を
重ね石戻さる嬰児ちごのはかなきに
   涙す母子も百年ももとせ経ちゐて   成秋
 
と詠む。野仏を見舞ひて、産婆のいふ「上げますか戻しますか?」とは何。
「上げる」とは赤子を生かして育てること。
「戻す」とは天に召されよと、産婆が暗闇に出て間引く。
かほどに辛きこと、我が国では常習にて、今の世の人は知らず、
唯水子供養の重ね石が川辺の洞穴などに遺るも哀れ。
 
この貧しさは昭和二十年八月十五日の終戦の日まで続いた。
二・二六事件はかくして起こった。この哀しい背景を知らねば
真に歴史を知ったことにはならない。
 
しかるに歴史家でこれを知らず、唯、皇道派が粛清され
統制派が実験を握ったと書くは、乱暴であり、歴史家の
歴史家たる使命を知らぬ所為にほかならない。本日は以上にて。
 
 
                     (No.1932は以上)