日本浪漫学会主催 第二十五回「浪漫うたの旅」で会うた武人たち
 
  不滅の美学に賭けた若庭の里
    廃落武人になき不滅の実業家
             日本浪漫学会 会長 濱野成秋
 
  足立全康は現代の武人である
 
 この武道の達人と美術館で会った。
 中世の城郭を背景に、長髪も結わずに慧眼を光らせる、孤独な一匹狼に遭ったのである。この男の存在を考えると、わが父君を思い出す。
 島根県安来市の市街地からも外れた田園に全康は生れ育つ。折からの日中戦争。太平洋戦争の激動期と戦後の苦難の時期。彼も艱難辛苦の末、美に目覚め、日本画に目覚めて、この広大な庭園と美術館を自らの財産だけで出現させた男。彼は今もって生き続ける。肉体は絶え果てるとも、心は永遠だ。美庭に支えられて。安来産の鋼鉄の如く生き続けているのである。
 安来は全国でも珍しい特殊鋼の産地である。
 特殊鋼とはハイスの2種、3種、ホットダイスなどと呼ばれ、鉄をカットし、削り出す鋼鉄であって、その純度は鉄の比ではなく、いくら熱して叩いてみても、鉄は鉄。とうてい特殊鋼にはかなわない。
 だからかつてはここから産出する玉鋼で軍刀を量産した。
 零戦の胴体を走る鋼鉄線にも成った。
 ゼロ戦は空中戦になぜ強いか。それは操縦士が狭いコックピットの中で力一杯ペダルを踏み込むと鋼鉄製のワイヤーロープはその命令を間違いなく尾翼の上下フラップに伝える。と、尾翼が跳ね上がり、風圧にも負けず頑張るから、機体は宙返りして敵機の背後にピタリと付ける。
 ダダダダ…ペラとペラの間から飛び出す7・7ミリ機銃弾で…そんな話をよく聞いた、父から、防空壕の中で。
 自分が買った安来の玉鋼でゼロは連戦全勝だった、と父。
 東亜機工株式会社の社長は我が父親だったわけだが、敗戦は哀れである。8月15日の、あの、父の号泣ぶりを筆者は昨日の出来事のように、鮮明に覚えている。
 その目で足立全康の偉業の年譜を、安来に来て、エアコンの利いた立派な美術館で読むわけである。
 全康の人生はまぎれもなく、今に生きる。
 筆者の父も愛国の武人であったから、今に生かしてあげたいけれども、もはや回生の機会はない。いまやむかし。その陰は中空に。
 だが筆者のみ知るこの父の最後の仕事は岐阜県山中にあるマンガン鉱山の坑道の奥にあった。父が作った「幻の御座所」である。幼い自分はこの坑道に入った体験を持つ。
 ここで暮らすんやで。
 父の言葉で僕は泣いた。いやや、こわい、いやや、いやや…
 松代はダミーでここが本物。
 そんなことをやる父は狂っていたか?
 元総理の岸信介氏が戦後、スペースシャトルが有楽町に展示されたとき、父との縁で私を招待してくれた。彼の隣席はなぜか一つ空いていて、僕はそこに座った。その日のことも忘れ難い。御座所の構築を頼んだ岸氏もきっと父のことを想い出して僕を呼んでくれたのだろう。伝記にも、何にも書けない動きが多々あったのだ。
 だが今は、すべてはまぼろしである。
 かかる昭和前期の武人たちの体験は、加藤隼戦闘隊も橘中佐や江川北川作江の武勇伝も今は歴史家のみ知る域になっている。真下飛泉の存在も専門家の記憶に遺るだけとなった。
 「戦友」か。ここは御国の何百里 離れて遠き満州の…と続くから、たいていの国民は満州事変あたりの作かと思うであろうが、じつは日露戦争のときの、どう読んでも友愛を軍政直下の命令より上とする歌なのだが、「飛泉」と書いて「非戦」をイメージさせる作詞家の心情など、今更議論をしても誰も聴くまい。時の流れの、遥か彼方に去ってしまうと、政治家も心情も作詞家の心情も、何もかも一緒くたになって忘却の底なし沼に落ち込んでしまうのである。
 その同時代、足立美術館の祖、足立全康は稀有にも、現代の空間に見事に容を成して現存しているから凄い…と思いながら、筆者は身術館で独り佇み、彼の年譜を読んでは自分の体験した時代のうごめきを想起して涙の湧き出るのを禁じえなかった。
 
  信念の結晶は肉體がほろぶとも
 
 この美術館は精神力で生き続ける全康の居城である。不落の名城である。日本式大庭園には年間幾万人訪れようとも、矢玉一つ跳ばない。傷一つ生じる憂えもない。幻の城は威容を誇る。永遠を繰り広げてやまない。
 リアリズムより永遠性の高いロマンスを、この美術館はよく心得ている。我が浪漫学会人には、この足立美術館の大庭園は時間制限のない空間ロマンの至宝に見える。筆者はいつも人に語る。「人間の心のリアリティはリアリズム小説では語りつくせない」と。
 その典型が足立庭園なのである。
 作者の足立全康は実業家であるから、芭蕉や子規、式部といった虚業に専念した人ではない。だから工場も土地も建物も、ありとあらゆるアーティファクト(人造物)は皆、彼が代価を与え自ら進んで取り組める富である。巨万の富に徹したリアリストが全康のはずである。
 ところが、愉快なり。
 そのリアル極まる蓄財を投じて創ったこの庭園は価格づけをするも失礼千万といえるほど、超俗性に満ちている。全康氏はリアリズムを跳ね飛ばした、あの久米の仙人のような風貌で、その財貨を夢の構築物に容態変化させてしまったのである。
 この庭園はもはや美の空間そのものである。筆者は赤松の生え揃うフィギュアを見て思わず一首想い浮かんだ。
 
  若松も白砂に赤き幹そろえ
     美学に生きよと我等に諭す 成秋
 想いを中世には馳せれば足利義満もその権力を恣にして金閣寺を造営した経緯が浮かぶ。権力者義光も見事な庭園を後世に遺した。金閣寺は焼失させられ、三島の同名作品に化けてしまったが。金閣寺庭園も束の間に生きたこの権力者の置き土産となった。稀有なサバイバルである。だが政情不安で都に野盗が出没する時代に飢え死にした民の骸など気にも留めず、この権力者は美庭に耽ったか、の感が拭えない。だから美の中に醜悪が窺える。永遠の美の極致ではない。この種の美醜混在したアーティファクトは西洋にも多い。
 ベルサイユ宮殿もその典型である。
 ベルサイユの庭を歩いた時、筆者は権力者の金銭の浪費を憚らぬ貪欲ぶりに少々腹が立った。足立庭のもつ永遠の美とは異なった傍若無人さに、美というより醜悪さが鼻に突いた。
 美には醜悪さを背負った美の悪霊がある。
 アメリカ・マサチューセッツのコンコードに住む哲人たちは、開発者たちが森のスペースに値付けして鉄道の駅に近いか遠いか、それで価格差を取り決めたり、黒煙を吐いて驀進する機関車の線路から遠いか近いかで代価を決めた。かかる「自然」は自然VS人工の差異にしかすぎない。
 だから林や森の威容さに襲われることはなかった。
 コンコードの森はフロリダのジャングルとは異なり、荒地はなく、テイムな住にこごちのよい、ガーデンとなっている。
 エマソンもソロウも、ウィルダネスよりガーデンと史跡を愛した里見弴、吉屋信子、小津安二郎たちと似ている。
 ポーの幽玄とは大分にことなる。
 むろん、幽玄の美もコンコードのこごち良さも、義光の貪欲さも鑑識眼の視野外にあるが、それを知らずして美を味わえと言われても、戸惑う。殺人鬼信長の華麗な安土城を只で見せてやると言われても、戸惑いは隠しきれない。「浪漫の美」とはそういうものなのである。
 では足立庭園に「幽玄の美」があるかというと、それとは雰囲気を異にする。明るくて安全で。
 映像に目を転じて考えると、別の審美眼と出会う。
 映像作品『レベッカ』であるが、この死霊を擁するマンダレーの森の暗闇は鬱々として鎮まる、ポーのアッシャー家が古城に映す累代の怨念に似たうめき声に通じる。が、足立の美庭に、それはない。美庭は美庭でも、古式の石塔に象徴される陰々滅滅たる盛者必滅の想いはこの大庭園のどの隅をまさぐり診ても窺い知れないのである。そこに見るのは足立翁の風貌とは180度異なる無垢な若さである。
 「無垢」、つまりイノセンスの美なのである。
 赤松、孟宗竹、枯山水の、どれを取っても、若々しく生き生きとしている。気味悪くない。シェイクスピア『マクベス』の、三人の魔女が暗躍する森とは正反対の無邪気さがある。若い美である。
 
  月山富田城はエリオットのウエストランド
 
 翌日、筆者はここから車で20分のところにある月山富田城にわが身を置いた。その頂きになる本丸の」小さな大地にて睥睨すれば、尼子一族の最盛期の心境にとても至らぬ、諸行無常の諦念に満ち溢れた自分の姿であった。
 
  亡び果てし尼子の城に越し来る
     我が現身うつしみよこれが終焉 成秋
 
 佳人薄命というが、月山富田城にあったのは、苛烈な負け戦の果てに見棄てられた廃城であった。可哀そうに。
 安来市立歴史資料館館長の平原金造氏の博学な説明をうけて、この城は面目を回復させたけれども、気の毒に、最後に戦った、嘗ての配下毛利一族の力攻めの果て五百年を経ると、もはや風雪の為すがままであった。風雪とは惨い。時間とは情け知らずだ。
 登りつ筆者はしばしばこの和歌を思い出す、
 
  人住まぬ不破の関屋の板廂
     荒れにし後はただ秋の風  藤原良経
 せめて城屋の板廂でも遺っておればと目で弄るも、自然の神も信長の如し。情け容赦なく遺れる人工物を召し上げていた。
 遺したのはただ佇まいだけ。朽ち果てた廂の断片さえ隠れ棲まわせるを赦さなかったのである。
 活き活きと息づいた足立美術館とはかけ離れた荒涼たる風景がここに実感できた。これもまた自然美には違いないのだが。
 これは度重なる戦で連戦連勝した武人たちが「勇者のみ佳人を得る」の類の美人とは凡そ不似合いな姿である。
 持ち主が戦で滅ぶとその庭も雑草で見苦しくなる。だが足立美術館は別だ。命の絶えることのない庭なのである。
 全康殿よ、見事だ、君の、この疲れをしらぬ美学は。
 西の京を誇った大内氏の館が思い浮かんだ。
 今、その庭園には、「人こそ見えね秋は来にけり…」の寂寞感が季節を問わず纏いつく。拭っても拭っても、拭い切れないだろう。
 ポーの散文詩にみるアルンハイムの地所には幽玄の連続性はあるけれども、足立氏の庭園にある「生の息吹」は少ない。久米の仙人のような風貌の足立全康に真正面から逢うと、彼の眼光に、どちらかというと、フロストやホイットマンの息吹を感じるから不思議である。
 戦前戦中、足立氏は日本式庭園の完成度を診ていたにちがいない。金閣寺と苔寺の庭園にプラスして兼六公園の老松群や前田公の美庭の石灯篭を重ね合わせたとでもいうか、類まれな現代人による古式美である。これには横山大観の日本画数十点と金箔螺鈿の紫檀茶棚のコレクションの展示館も併設されているが、全康氏の思いの結晶とも言える壮大な庭園の迫力には圧倒されて碌に鑑賞する気にもならない人も多かろう。
 全康氏は立派な武人である。
 彼をただ、信念の人と片づけてはいけない。
 まだ実業家として巨万の富を得た夢多き人と片付けてもいけない。
 全康氏は彼独自の流派に生きる武人である。
 若き日、彼は大金持ちしか買えない横山大観の絵に魅せられて金も充分にないのに「大観の絵を買うぞ」と密かに心に誓ったと年譜は語るが、この決意は、「よしこの地で大大名になってやる」と決めた尼子一族の初代と似ている。足立美術館と月山富田城とは車で20分の距離。同じ空気を吸うと同じ発想をするか? とんでもない。時代も境遇も異なるけれども、足立も決意を固めて大阪で自転車を漕ぐような仕事から身を起こして、大成功。
 尼子には当初から高い役職が保障されていたが、巨万の富を得て後、滅び去った。だが足立はほぼ無から身を興して大成功し、世界が羨む美の極致を創り上げた。皮肉にも現代の武人の美庭の至近距離に居て、尼子は裸同然の城跡を風雪に晒している。なぜ斯くも惨めな没落を招来したか。
 
  尼子は斯くして富田城を放す
 
 尼子一族の出発点は比較的恵まれていた。都で贅沢三昧に暮らす佐々木京極家の配下として認められ、守護として当地に派遣された。最初から支配階級であった。守護制度は中央政権がよほど強力な権力を持ってなければ、地方へ飛ばした守護を操ることが難しい。鎌倉時代以降、恩賞の大小で武士団は動いたので、戦国の世になって尼子が京極をあっさり裏切っても当然の成り行きとも見なせる。
 だが、その後の武士団の抗争ぶりは武略のみならず陰謀や調略、だまし討ちが横行していた。下っ端の、普段は田畑を耕す農民がつねに家来として駆り出されて、殺し合いをさせられるから、この身分関係は決して誉めたものではない。
 尼子は庶民階級に温かかったとする通説があるが、権謀術数に長けた毛利元就も尼子に攻められた時には、吉田郡山の小さな城郭に農民家族も何千人と匿い、温かい炊き出しを与えて労っている。近隣に布陣した尼子軍団が冬将軍の到来で凍死寸前となり、退き上げると見るや、その「しんがり」(最後尾の弱体軍団)に討って掛からせた。つまり「恩」に報いて当然というわけだ。
 下級武士団として農民たちも手なづけていたのは、武人の常套手段で、信長の「楽市楽座」や信玄の堤防工事、「人は石垣、人は城」の哲学もこの類であり、秀吉も家康も天下人となるには盛んに農民を利用している。尼子の場合も月山富田城の建築と守りの維持体制は下級軍団の命がけ防衛をやらせたから、どうも、あんまり誉めたやりくちとは言えない。
 元就は息子二人に吉川と小早川の二つの勢力圏に養子として入れ込むかたちで毛利軍団を多極化させ、大内と尼子という巨大軍団を策謀もって戦わせて両者をへとへとにした後、漁夫の利をもって自分の勢力だけを巨大化させることに成功。それをもって富田城を攻略、調略に次ぐ調略で籠城する尼子軍勢を寝返らせて、最終的にはこの広大な城には百五十名だけになったというから、毛利も悪きゃ、裏切り去る部下たちを押し留めることの出来ない尼子も情けない。
 権力抗争の果てとは斯くして埋没の途を辿るのである。
 
 中世の家名主義第一のなかで夥しい数の城郭が出現し、夥しい数の戦乱が続いたけれども、その家名が殆ど維持継続されなかった。ところが他方、個人主義の中で、こう言っては過言かも知れないがエゴイストだらけで、先祖を敬うことも少なくなった時代に、立派に後世に受け継がせるに足る価値ある庭園を誕生させた足立美術館の壮挙は立派である。奇跡である。その招来にどれだけ永続性があるか、幸あれと祈らずにはおけない。(了)
日本浪漫学会主催 第二十五回「浪漫うたの旅」
 
  出雲うた紀行
             日本浪漫学会 岩間滿美子
 
 昔から旅は大きなものを授けてくれると言われていまように、この旅もその通りになり大きな土産を背負って帰って来ることが出来ました。
 ほとんどご縁の無い尼子氏の歴史、足立美術館の思いも掛けない秘密、尼子氏を熱く語る郷土の方々との出会い、R.ハーンの足跡とご子孫の方や関係者の方々との出会い、月山富田城登頂の感激、尼子氏後の松江の城に纏わる歴史、安来の雲樹寺との出会い、松江市役所の危機管理課の方々と面談、旅の宿『竹葉』との出会い等々心に残るものは挙げきれません。
 そして、今回の旅にこうした運びになって行くようにと手配をしていただいた濱野、河内両先生には心より感謝申し上げます。
 また、三日目からご一緒された福田先生には、自らのお車で交通事情のままならない地を回ってくださったことにこの上なく有難いことと感謝いたしております。そして率直かつ明快なご発言に感じ入りましたし、初対面の私の気持ちを汲み取っていたことにも稀有なことと重ねて御礼申し上げます。
 こうした思いの中で、八首詠みました。
  出雲路に散りしもののふ幾多在り
     今も山桜咲て弔う
 
  春の暮れ遠く近くに山桜
     咲き出れどもなおさびしくて
 
  今出雲咲きい出したる桜には
     先争わぬ麗しさ覚ゆ
 
  はるばると月山富田城に登り来て
     もののふの跡なぞりて忍ぶ
 
  連れ立ちて旅行くほどに分け合うは
     真心なりしか思いのたけか
 
  吾こそと騒ぎ立てたる心こそ
     出雲の桜は癒し宥めむ
 
  出雲なる国なかに允つ優しさに
     競い疲るる心癒せと
 
  道化ぶりどぜう掬いに見えたるも
     道化に非ずその技を見せ
日本浪漫歌壇 春 弥生 令和五年三月十八日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 東京の桜の開花発表は平年より十日ほど早い三月十四日であった。最高気温が二十度を超える日が数日続いたのが、早い開花に影響したのだろう。暖かい日が続き、すっかり春になった気分だったが、歌会当日には雨が降り、風は冷たかった。桜の花が長く楽しめると思えば、少々寒いのも我慢できる。入学式にまだ桜の花は見られるのだろうか。
 歌会は三月十八日午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の七氏と河内裕二。
 
  包丁を毎日曜日研ぎくれし
     夫の心情十年後ととせご気づく 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。亡くなったご主人は、毎週日曜日の朝食後に何も言わずに包丁を研ぎ、終わるとご自分の部屋に戻って行かれた。その行動をずっと気にも留めなかったが、亡くなってから十年が過ぎて、ご夫婦での生活を振り返った時に、それはきっと旦那様の愛情だったのだと思われて歌に詠まれたそうである。
 
  ぬか床のきゅうりが苦い?宝物
     無くしてなるものかと手を入れる 弘子
 嶋田弘子さんの歌。お母様から受け継いだぬか床を現在も大切に使われている。嶋田さんにとってそれは宝物で、漬けた漬物をいつもご家族で美味しくいただいていたが、ある時きゅうりの味が苦くなった。このままではぬか床はダメになってしまう。「無くしてなるものか」という気持ちでできることはすべてやり必死に元のような状態にまで回復させた。かれこれ一か月もかかったとのこと。
 
  眼から鼻花粉は来たりくさめする
     年中行事の如く始まる 尚道
 
 作者は三宅尚道会さん。花粉症の方は共感できる歌である。まさに「年中行事」で、毎年同じ時期に苦しむことになる。三宅さんも花粉症になってもう二十年だそうで、それまで平気だった人もある日突然花粉症になると言われると、筆者のように花粉症でない者は不安な気持ちになる。花粉症の歌が詠めるとしても、この「年中行事」に参加するのは遠慮したい。
 
  在りし日の姿思ひて読むメール
     用件のみも言葉優しく 裕二
 
 筆者の歌。日々の仕事においては手紙ではなくメールでやり取りをすることがほとんどになった。過去のメールを確認することが必要になりキーワードで検索すると、探しているメール以外にも予期せぬメールが検索にかかることがある。先日も偶然に亡くなった方から生前にいただいたメールが出てきた。亡くなられてもう七年ほどになる。その方のことを思い出しながらメールの文面を読んでみると、用件のみを伝えるものであったが、言葉使いなどは生前にいつも優しくしてくださったその方のお人柄がにじみ出ていた。
  大阪は見所多しと息子より
     行く先々の写メール届く 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。大阪に転勤なった息子さんから送られてくる関西の様々な場所の写真を見ると、旅行気分になるそうである。楽しい気持ちを母親と共有したいと思う息子さんとその写真を楽しみにしている嘉山さん。心温まる歌である。
 
  思ふまま生きられぬとも年嵩ね
     なほ迫り来る波迎えなむ 滿美子
 
 作者は岩間滿美子さん。ある程度の年齢になれば、この歌に共感する人は多いのではないだろうか。「迫り来る波」をよけるのか、それとも迎えるのか。これまでの人生の経験を活かして「波を迎えて」よりよい人生を送りたいというお気持ちで詠まれたのだろう。筆者もそうしたいものである。
 
  いにし世を知らぬ存ぜぬ子らたちに
     すさむ思ひを語るも空し 成秋
  
 濱野成秋会長の作。「慌む思ひ」とは戦時中や終戦直後の大変な時期のことで、子供たちに話そうとしても、そんなことは関係ないという態度を取られてしまう。作者にとって非常に重要な現実も彼らにとってはただの歴史に過ぎない。歴史は繰り返すと言うが、再び戦争が起こらないようにするには、戦争とはどういうものなのか知る必要がある。しかし聞く耳を持たないのではどうしようもない。空しいお気持ちを歌に詠まれた。
  手の切れしヴィトンのバッグが買い取られ
     八千円にてらとランチす 員子
 
 作者は羽床員子さん。「手の切れし」というのは、縁が切れたのではなく持ち手が切れたという意味。そのような状態のバッグでも八千円で買い取られるとは驚きである。修理して中古品で売るのだろうが、持ち手が切れるほど使い込まれたものでも欲しい人はいるのだろうか。
  
  トンネルを越えれば雪国白銀に
     今一度会いたし待つ人なけれど 和子
 
 作者は清水和子さん。川端康成の「雪国」を思わせる上句に、下句は百人一首にある「小倉山」で始まる藤原忠平の歌の下句「いまひとたびのみゆきまたなむ」を思わせる。どこか聞き覚えのある歌になっているが、光景が目に浮かんできて、映画の一シーンを見ているようである。待つ人はいないけど会いたいという気持ちも理解できるし、三月とはいえ北国の山間部ではまだ雪が残っている場所もあるだろうから、現実の光景と言ってもおかしくない作品だろう。
 
 春夏秋冬、日本の四季は素晴らしい。季語を入れなくてはいけない俳句とちがい短歌は季節感を全面的に表す必要はないが、それでも季節感は歌に彩りを添える重要な要素である。今回は三宅さんと清水さんの作品が季節の歌であった。自然を描写すれば自ずと季節が現れる。次回は四月。春を迎え、桜を詠む歌は何首よせられるのであろうか。

格言 「親の言葉は自分の永遠」

葉山カフェ・テーロにて 濱野成秋

 
 戦前は「親孝行」を徳目の第一に挙げていたが、現在は、個人主義のエゴを良しとする風潮からか、自分が第一であり、自分が幸せを求めて、何が悪い、となる。だが、高齢で己が肉体が果てる時、何も残らないと気づいて後悔する向きがつよい。自分の努力など消えて当然とあきらめるか? 肉体は枯れ果てた庭木と同じだが、百年程度しかもたない自分の心も思い入れも、一緒にくたばることになる。
 
 高齢の親はそれを知っている。だから筆者のように著書を遺す。自分史ではないが、著書の大半はそのたぐい。若い息子はそれをうざったいとガラクタ同然に処分してしまうかも。せいせいするからね、一時的に。だが生き永らえてみると自分の存在が怪しくなる。世間の泥沼にどっぷり浸かって、心が飢えて、寒さにふるえて、この先、死ぬしかない運命で。只の、朽ちる肉体でしかない。遺された手段は余命の使い方だけだ。まず温かい飯にありつきたい。それでうろつく。泥沼で、右往左往。…俺は親として哀しむ、その姿を。
 折角、親の愛が言葉となって、君の老後の安定と親自身の君への「心」を遺すために、遺贈した家の中に遺した著書群だから、大事に読んでみてくれ。それをむげに斬り棄てると、一時的解脱感があっても、君自身が徐々に、自分の人生の存在理由も怪しくなりだす。わが子に棄てられる恐怖感も湧いてくる。泥沼のなかで君ら親子がまたもや醜悪な生存競争になる。
 
 だから君、息子よ、しばらくは抵抗感があっても、親の言葉たる著書をとって置きなさい。自分も枯れた庭木にならず、永遠の生の息吹を得られるから。君自身が85歳になったとき、実感するはずだ。
 君、これを読んだ君よ、子孫に立派な言葉を遺しなさい。親の言葉と自分の言葉がちゃんと仏壇にしまわれて、ちゃんと永遠に続くから、未来世代も時々は読んで、蘇生させてくれる。 親があって自分があり、孫子よ、君らがあってこそ、未来に生き、その果てに、僕や君と一緒に、永遠に生きられる。では一足先に逝って待ってるぜ。

日本浪漫歌壇 冬 如月 令和五年二月二五日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 二月は異称で「きさらぎ」というが、漢字表記で「如月」を「きさらぎ」と読むのには無理がある。実は、漢字は中国の二月の異称「如月(じょげつ)」が由来で、日本語とは由来が異なっている。では日本語の「きさらぎ」の由来は何か。いくつかの説がある。『日本国語大辞典』では、寒さのために衣を重ねるところから(衣更着)、陽気が発達する時節であるから(気更来)、正月に来た春が更に春めくところから(来更来)など多くの説が示されている。『広辞苑』では、「生更ぎ」の意。草木の更生することをいう。着物をさらに重ね着る意とするのは誤り、としている。複数の辞典を見てみると、「衣更着」の説が有力とされているようである。
 歌会は二月二五日午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の七氏と河内裕二。三浦短歌会の加藤由良子氏も詠草を寄せられた。
 
  久しぶり肩をたたかれ誰だっけ
     マスクはずして友は笑いし 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。コロナ禍で誰もがマスクを着用する中で同様の経験をした人もいるのではないか。頻繁に会う人であれば目だけでもわかる。ところがしばらく会っていないと、歌のように誰なのかわからなかったり、自分が思っている人と違うのではないかと不安になったりする。声が重要な手がかりとなるが、マスク越しではクリアに聞こえなかったりするので厄介である。友の笑顔も含めどこか楽しそうな光景が目に浮かぶ歌である。
 
  福はうち海南様へと御神酒 升
     用意し夫の帰り待ちおり 由良子
 本日欠席の加藤由良子さんの歌。「福はうち」とあるので節分だろう。「海南様」とは三崎にある海南神社のことで、九八二年に創建された歴史ある神社である。食の神も祀られていて、境内には包丁塚や包丁奉納殿もある。三崎で料亭をされていた加藤さんには特別な場所なのかもしれない。お供えした御神酒を家に持ち帰って升でいただくのが風習だそうで、亡くなった旦那様と過ごした節分を思い出されて詠まれたのだろう。
 
  黄泉の日はけふかあすかで春となり
     娘の慶事でしばし沙汰止み 成秋
 
 作者は濱野成秋会長。会長は病弱だったので、小さい頃は、明日にでも亡くなるのではないかとご両親に心配された。現在も今日亡くなるのか、それとも明日なのかといつもご自身で考えてしまい、気持ちが落ち込んでしまうそうだが、最近娘さんにおめでたいことがあり、さすがにこんな時には神様も命を取ったりはしないはずと思われた。何があったのかうかがうと、大学院に合格されたとのことで、学者である会長にとって娘さんが学問の道に進まれたことは特別な喜びであろう。
 
  青天に昨日も明日も手離して
     力を抜いて今を味わう 弘子
 
 嶋田弘子さんの歌。人生を達観されているような内容で、あれもこれもと様々なことが気になってしまう者を諭すような歌である。過去や未来に囚われれば、後悔や不安に苛まれる。作者の嶋田さんは、軟酥の法と呼ばれる瞑想法を実践されていて、それによって自分の中にあるものを出していくような、すべてのものを手放していくような感覚を体験される。「力を抜いて」とあるが、脱力によりとても楽な気持ちになり、今ここに生きていることだけを感じることができるそうである。晴れ渡った空という初句の言葉の選択も秀逸である。
  何気ないバッグに明るいスカーフを
     結わえて明日はどこへ行こうか 員子
 
 作者は羽床員子さん。前向きなお気持ちが伝わってくる歌である。歌のスカーフのように、読むと気分が明るくなる。本日も歌会の気分に合わせてスカーフを選ばれた。「明」の字が繰り返されることで、視覚的にも歌全体が明るいイメージに包まれる。
 
  きさらぎの草木に見ゆる我が夢の
     その根の内に春を待つらむ 滿美子
 
 作者は岩間滿美子さん。「きさらぎの草木」とは冬枯れした草木のことだろう。枯れてしまっているように見えるが、実際には根は生きていて新しい芽や葉を出そうと春を待っている。ご自身のお気持ちを植物になぞらえて、とにかく生きることに執着する姿勢を宣言された歌だと解釈した。すべては生きていればこそ。よいことも悪いこともすべて受け止めて生き続ける。過去に大きな病気をされた岩間さんの現在の死生観を表された歌であろう。
 
  学生の作る映画の切なさに
     心ともなく涙こぼれつ 裕二
  
 筆者の作。勤め先で学生が制作した卒業作品の発表会が行われた。その中に女子学生の友情を描いた映像作品があった。まだまだ荒削りで、話の内容もよくあるメロドラマと言えるものであったが、それでも若者らしい真っ直ぐでひたむきな思いが伝わってくる作品で心を打たれた。友情であれ、愛であれ、人間関係こそが感動を生む。当たり前過ぎて忘れがちなことを改めて教えられた気がした。
  車椅子に引かれる妻のあと追いし
     夫の杖の音廊下に響く 和子
 
 作者は清水和子さん。実際にお住まいのホームでご覧になった光景を詠まれた。このようなお二人の姿を見て思うことは人それぞれだろうが、いずれにしても悲哀が漂う。夫婦でご健在とはいえ、「夫の杖の音」は、もの悲しく廊下に響いているようにしか想像できない。歳をとれば衰えていく。その事実を無視することは誰にもできない。老いは誰にとっても最重要な問題である。この歌を読んで、例えば事故に遭った若い夫婦の歌だと思う人はいないだろう。
  
  午後六時家猫ソラは目を合わす
     「何か忘れてないか」と迫る 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。飼い猫が餌を欲しがっている。ただそれだけの内容が見事に歌になる。三宅さんの表現力には脱帽である。
  
 歌会ではまず作者の名前を伏せて歌が披露されるが、その作者の歌を過去に何首も読んでいると、どなたの作品なのか想像できることが多い。ところが時にその想像は裏切られて驚かされることもある。このような歌も詠まれるのか。それぞれの歌人の新たな一面や豊かな表現力を知ることができるのも歌会の楽しみである。今回もそのような歌が何首かあった。楽しく勉強になる会になった。