日本浪漫歌壇 冬 如月 令和三年二月二七日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 春を思わせる陽気が続いたかと思うと真冬のような寒さに逆戻り。三寒四温とはよく言ったものである。晴れ渡るも風はまだ冷たい。二月二七日、午後一時半より三浦短歌会の皆様と日本浪漫学会で歌会を行った。会場は三浦勤労市民センター。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、玉榮良江の五氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の桜井艶子、清水和子の二会員も詠草を寄せられた。
 
  初春に涙腺ゆるむ孫の書く
    はねだしそうな「新たな決意」 由良子
 
 お孫さんのお習字を見たときにその伸びやかな字を見て思わず涙が出たそうで、作者の加藤由良子さんは「最近はこんなことで涙腺が…」と仰る。お幸せな証拠である。元気に育つ孫とそれ温かく見守る祖母。参加者もみな温かい気持ちになった。「はねだしそうな」の言葉遣いが秀逸というのが皆の共通した意見であった。
 
  「歩いてる?」娘に訊かれ生返事
        愛犬逝きて運動不足 光枝
 娘さんに尋ねられ生返事でごまかす様子は微笑ましいが、その分愛犬を亡くした寂しさも伝わってくる。昨年愛犬が亡くなるまでは犬の散歩が日課だったとのこと。毎日時間になると、散歩を待ちきれない愛犬に催促される。そんな光景も目に浮かんでくる。
 若山牧水にもこんな歌がある。
 
  枯草にわが寝て居ればあそばむと
     来て顔のぞき眼をのぞく犬 牧水
 
 筆者は犬を飼っていないが、飼っている人を見ると犬の方が主導権を握っているように思えてしまう。気のせいだろうか。
 
  アネモネは信仰の花 花言葉
     「信じ従ふ」ラジオより聞く 尚道
 
 作者の三宅尚道氏の話では聖書には「野の花を見よ」という言葉が出てくるが、この花はアネモネだと言われている。毎日その日の花と花言葉を紹介するラジオ番組があり、アネモネの日があったことで生まれた歌。クリスチャンの三宅氏ならではの一首。調べてみると、赤いアネモネはキリストの受難を象徴するようだ。ギリシア神話ではアフロディテの愛したアドニスの血がアネモネに変わったとされる。
 筆者はこの歌に散文的な印象を受けたが、作者の三宅氏ご自身もどこかしっくり来ないと感じていて、皆で忌憚なく意見を述べあった。議論が行き詰まった時、絶妙なタイミングで濱野会長がユーモアを込めた本歌取りを披露。作者を愛する奥様がちょっぴり皮肉を込めて詠んだ歌との設定で、
 
  ナルシスは夜更けの花よあなたなら
     アネモネのごと信仰一途に 成秋
 
 この一首で場の雰囲気が一気に和んだ。
 
  お水取り越えねば春は来ぬといふ
        母の冬里思へば幾歳 成秋
 
 「お水取り」とあるので「冬里」は奈良だと判断できるが、作者の濱野会長のお母様は奈良のご出身。「お水取りが済むまでは春は来ない」とよく仰っていたそうで、奈良は盆地で冬はしんしんと冷えると伺って冬の奈良を知らない筆者も納得。「古里」や「故郷」では寒さは伝わらない。
 「思へば幾歳」と、お母様の出身地に対しても長い間欠礼していて申し訳ないと思えるのはお母様への深い愛ゆえ。中村憲吉にもお水取りを詠んだ歌がある。
  時雨して奈良はさむけれ御水取
     なほ二月堂に行を終らざる 憲吉
 
 同じくお水取りが終わらないと春は来ないと言っているが、母への思いを詠んだ濱野会長の作と比べると写実的である。
 実際の「母の冬里」は、神通力で空を飛んでいる時に若い女性の脛を見て墜落した久米仙人の話で有名な橿原の久米とのこと。それを伺ってにわかに親しみが湧いた。面白い仙人もいるものだ。
 
  西の空父母の顔あり悔ゆるのみ
     八十路往く身に老いのしかかる 艶子
 
 本日欠席の桜井艶子さんの作。人生を振り返り、今になって両親の存在が大きかったことを痛感し、感謝の気持ちともっと親孝行をしておけばよかったと悔やむ気持ちになられているのだろう。参加者の皆さんからこの気持ちはよく分かるとの声。
 作者の桜井さんは三崎の入船ご出身で加藤由良子さんとは幼なじみ。加藤さんのお話では桜井さんのお父様は県会議員をされていてお母様も旦那様を支えながら一生懸命働いておられたから、その姿を思い出されるのではないかとのこと。
 「西の空」とは西方浄土のことであろう。浄土が西にあるとされたのは、太陽も月も最後は西に沈むのですべてのものが最後は西に帰するとされたとする説が有力。美しい夕日が沈むのを見れば誰でもその先に浄土があると思うのではないか。そんなことを思っていたら、次の作、夕焼けの歌に。詠んだのは筆者である。
 
  冬夕焼赤く染めたる故郷の
     夕べの雲はどこへ向かふや 裕二
 
 場所が議論になった。作者はどこにいるのか。故郷に戻って詠んでいるのか。故郷を思って詠んでいるのか。また夕焼けも同様で、故郷の夕焼けか、今住んでいる場所の夕焼けか。両方の解釈が出て、どちらかと尋ねられた。
 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で始まる室生犀星の詩の「詠んだのは故郷か否か」問題が一瞬頭をよぎったが、著者としては、読者がどちらにでも解釈できるように意図して書いたので、どちらでもよいとお答えした。とくに夕日や夕焼けは、人それぞれが自分のイメージを持っている。現在住んでいる東京で見る夕焼けはオレンジ色とお話したら、三浦は真っ赤ですよと皆さん仰る。「夕焼け小焼け」の歌は八王子の恩方の情景だったが、もはやそこでは見られない。最近三浦で沈む夕日を見てここではまだ見られると思ったと仰ったのは濱野会長。嘉山さんによると諸磯湾に沈む夕日が最高に美しいとのこと。夕焼け話で盛り上がった。
 冬の夕焼けを表す言葉には「冬夕焼」「寒夕焼」「冬茜」「寒茜」がある。初句は「冬夕焼」と「冬茜」で迷い、音の並びですっきり聞こえる「冬茜」を考えていたが、濱野会長より「あかね」と言えば万葉集の額田王の有名な一首がある。
 
  あかねさす紫野行き標野行き
     野守は見ずや君が袖振る 額田王
 
 この歌は月光の中という解釈があり「あかね」が夕焼けを表さない場合もあるとのご指摘をいただいた。「冬茜」という語があまり使用されないために意味が分かりにくいことも考慮して「冬夕焼」にした。
 
  愛すれど猫は巧みに家を出で
     畑や山をグルグル回る 良江
 
 家猫がすきを見て時々逃げ出すので、作者はそのたびに探し回り、猫に振り回されている。先日も五時間探されたそうだ。
 「畑や山をグルグル回る」というどこかコミカルな後半部分が、飼い主になど全くお構いなしに自由奔放に行動する猫の特性と何となく人を馬鹿にしているような印象を上手く表現している。憎たらしいけど猫好きにはそれがたまらないのだろう。
  いにしえの塚の遺れる丘に立ち
     時の動きを中宙に視ゆ 弘子
 
 作者の嶋田さんは、三浦市火葬場を更に上った見晴らしの良い丘の上に畑をお借りになっていて、近くに十三塚がある。人から聞いた話では、十三塚は三浦道寸の十三人の家臣の塚で、彼らは新井城が燃えているのを見ながらそこで亡くなった。落城は一五一六年。北条に敗れ三浦氏は滅ぶ。
 作者が塚のある丘から見た空はとても美しかった。自刃した家臣たちが見た空もきっと美しかったのだろう。空は変わらないが時は変わると感じお詠みになったのがこの一首。
 嶋田さんのお話を伺い、次回の歌会後にぜひ皆で十三塚を訪れようという話になった。三浦半島には史跡が多い。最近濱野会長が見つけた戦跡は、海軍水上特攻隊の特攻艇「震洋」の格納庫。場所はカインズホーム三浦店近くの海岸の崖を降りた所。付近の丘陵地帯も戦争当時は零戦基地だったとの説明。
 
  ”推し“などと粋な言葉を使われて
     吾人はたじろぎ若者を見る 和子
 前回に続きホームの外出許可が下りずにご欠席となった清水和子さんの作。三宅氏のご説明では、第一六四回芥川賞の受賞作である宇佐美りん『推し、燃ゆ』(二〇二〇)を踏まえて詠まれた歌とのこと。
 現在、宇佐美氏は大学生で二一歳。清水さんは九一歳と伺ったので、年齢差だけを見れば大きい。「推し」という言葉は、若者が使う場合「応援しているアイドル」といった意味で使われることが多く、かなり意味が拡大されているが、逆に「一推しアイドル」が略されて「推し」になったと考えたほうが適切かもしれない。「推し」は辞書的には「一推し」の意味なので、使われても「たじろぐ」ほどではないだろう。
 『推し、燃ゆ』のタイトルの二語で言えば、「推し」よりも「燃ゆ」の方がわかりにくい気がする。「燃ゆ」とはネットで炎上すること。「”推し“など」と「など」が付いているので、あるいは「推し、燃ゆ」という言葉にだじろがれたのだろうか。清水さんに伺えないのが残念である。
 『推し、燃ゆ』の主人公は、好きなアイドルの応援に心血を注ぐ女子高生だそうだ。では、同じ「燃ゆ」でもこの歌はいかがだろう。
 
  真昼日のひかり青きに燃えさかる
     炎か哀しわが若さ燃ゆ 牧水
 歌会を終え、コーヒーショップ・キーという名のカフェに移動してお茶をいただく。しばし歓談し、カフェを後にする頃には西の空は冬夕焼。充実した一日であった。今日は皆さんが仰っていたほど赤くはない。残念。
 帰り道、夕焼けを見て無意識のうちに浮かんできたのは「夕焼け小焼け」の歌だった。なぜ自分の「冬夕焼」の歌でない?歌人としてまだまだ修行が足りないようだ。
 
◎次回の合同歌会は三月二七日午前十一時より。この日は新人も加わっての花見の宴も用意されています。場所は三浦三崎の「民宿でぐち荘」(電話042‐881‐4778)。地元では定評のある魚介類が楽しめます。当日会費は三千三百円。入会希望者は、info@romanticism.jp または 090‐2735‐7495濱野成秋会長までご一報ください。年会費五千円。
三浦短歌会 一月歌会詠草 令和三年一月三十日  濱野成秋
 
 短歌の結社としてはもう古い方に属するだろう。今年で七十四年になる三浦短歌会。神奈川県の三浦半島を城ケ島に向かったところにある。
 正月三十日、宗匠の三宅尚道氏の車で料理屋旅館「でぐち荘」に向かう。随行は日本浪漫学会の副会長代理河内裕二氏。詠草を寄せられた三浦短歌会の会員は嘉山光枝、加藤由良子、三宅尚道、桜井艶子、三宅良江、嶋田弘子、清水和子の各会員に日本浪漫学会から河内裕二と濱野成秋が加わる。
 今は昨年春先より猛威を揮うコロナ感染症の最中で集会が出来にくい。だが意を決して集まった歌人たちは意気軒高である。
 
  初日の出畑道に立ちて手を合わせ
     コロナ感染終息願ふ   光江
 
  久々に息子は帰省せりなにげなく
     吹く口笛に時は戻りぬ  由良子
 
  短歌会七十四年経過して
     三浦の短歌二集歩ませ  尚道
 
  時経れば百年なりとも親しきに
     父母兄みな逝くそを如何にせむ 成秋
  息詰めて来光の時唯待ちぬ
     去りしあの時われのみぞ知る 艶子
 
  駅ホームの点字ブロックに人立ちて
     障害者への場所と知らさる 良江
 
 秋である。写生歌である。朗々と読み上げる。樹木と色と動物と。その動きの中で枯葉が舞う。英語に driftというのがあり、これは漂い落ちる感であって、dropでも fallでも scatterでもない。それを「舞い散る」と詠んだところが近似してゆかしい。
 
  あいみょんを聞きつつ深夜外に出る
     秋季ただよいブルームーン高し 由良子
 
  感染者五千人超え続いても
     八時になれば朝ドラ始まる 弘子
 
  今日も又何とはなしに日は暮れて
     ふくらむお餅を眺めて待ちぬ 和子
 
  厳冬の心に咲きし寒椿
     花弁ちりばむ春待つ君に 裕二
 右の歌で特に皆が心を寄せたのは「エデンの園」というホームに住んで今年九十一歳の清水和子会員の歌。本日は足止め欠席。ホームでは与えられぬ餅を密かに焼いて頃合いになるのを待っているご本人は、ほんとうに待っているのは何? 訪れる身内? それともやり甲斐のある何か? いや業平のいう、昨日けふとは思はざりしをの…? とは誰も口には出さねど、他人ごとではないとはこのことで。
 
  その名さへ忘られし頃飄然ひょうぜん
     ふるさとに来て咳せし男 啄木
 
 啄木はコロナウイルスで死んだわけではない。だが、肺を患い心細い足取りで飄然と故郷に姿を見せては咳をする男。ここなら死に場所にしてよいとする心情は今も昔も変わりはない。
 終わって持参せし河内裕二副会長代理の五首を披露して勉強会。
歌会の後は別室にて新年会。地魚に鮑に本場のマグロに。天下の三崎港の御膝元である。終わって海辺。対岸に富士の霊峰。いましも暮れゆく夕凪の彼方を酔眼にて望みをり。未だ脈打つことのせつなさを噛み締めて。

東京スポーツ2020.12.20:関越道立ち往生は人災だ!米国より100年遅い高速道路の豪雪対策より

今季最強の寒気による大雪で発生した新潟、群馬県境付近の関越自動車道の約2100台による立ち往生は、交通対策の“脆弱さ”を改めて露呈した。18日午後10時15分ごろ、約52時間を経て解消した今回の立ち往生。雪は毎年降るものなのに、高速道路が長時間ストップするとはどうなっているのか。専門家によると、日本の高速の除雪対策は米国よりも100年遅れているという。

 東日本高速によると、立ち往生は16日午後6時ごろ始まり、上り線の塩沢石打サービスエリア付近で大型車が動けなくなった。上り線の小出インターチェンジ(IC)―塩沢石打ICの約30キロのうち、六日町IC(いずれも新潟)を挟んだ区間で18日まで続いていた。現在通行止めになっている小出IC―月夜野IC(群馬)の上下線を19日朝に再開させる方針。

 上り線は自衛隊員を含む約700人で作業し、六日町ICなど5か所から車を外へ誘導した。

 立ち往生は上下線で最大時約2100台に及んだ。東日本高速は18日午前7時時点で上り線に約70台が残されていると説明したが、その後撤回。正午に約1000台を確認した。小畠徹社長は東京都内で記者会見し謝罪。「チェックが不十分だった」としている。

 立ち往生騒動について、防災に詳しい警鐘作家の濱野成秋氏はこう語る。

「日本の除雪対策は100年遅れている。かつてニューヨーク州北部の大都市バファローの州立大で教鞭を執っていたことがあるが、大雪対策の徹底ぶりには驚嘆した」

 バファローでは、真夏の日差しがやや弱まると、数週間で大雪が来る。秋口になると、消防がせわしなく移動を始めるという。

「一夜にして2メートルの積雪だから、除雪車が何百台とガレージから出されて配備される。早朝、どの道路もディーゼル音を聞いて目覚める。いよいよ降り出したなと窓を開けると公道も私道も一斉に雪かきである。全部、市に雇われた除雪車がやってくれる。おかげで個人個人の車生活には何の支障もない」(同)

 日本では私道公道の区別なく、大雪の朝は雪かきに追われる。そんな情景は俳句の季題にはいいだろうが、雪は危険性をはらむ。

 濱野氏は「日本のハイウエーがなぜ大雪でストップするか。今回のドカ雪で、日本第1の幹線道路である関越道が大雪で何千台と車をストップさせても、除雪システムのないことを問題にする者は一人もいなかった。今回の大渋滞は自然災害だと思っているらしいが、事前に除雪車が配備されるシステムの欠落が招いた人災だという識者も出なかったのは残念」と語る。

 ニューヨーク州で万が一、こんな現象が出れば、ハイウエー当局はその任務不履行の罪で、責任を取らされるのだという。

「なぜなら雪が車の前後から積もりだすと、あっという間に2メートルに達し、車の排ガスで車内の人々は一酸化炭素中毒で死亡する危険性が極めて高いからだ。ニューヨーク州では今ではまれに見る事故となったが、降雪では絶対南へ走るなと言われる。なぜなら南部までたどり着く前に山間部で立ち往生して凍死するからだ」と濱野氏。

 実際、新潟県南魚沼市の消防によると18日午後6時時点で、立ち往生した車で待機中に体調不良などを訴えた30~60代の男女4人が病院に搬送された。

 濱野氏は「日本では関越のような幹線道路で雪による車の立ち往生現象が出ても、生命に及ぼす危険を与えたかどで、当局の責任者が罰せられることはない。運転手さんに温かい湯茶の接待をして美談となるが、それは車中凍死やガス中毒死がなかったから美談になっただけのこと。それを美風としてテレビのニュースとしているようでは、道路行政がまだまだ発展途上の国だと言われても仕方があるまい」と指摘している。

三浦短歌会  令和二年十一月二十一日  濱野成秋
 
 歌会と講演『浪漫歌人山川登美子によせて』
 
 三浦半島の突端、城ヶ島を間近に三崎港がある。そこは北原白秋が駆け落ちして隠れ住んだところでもある。当時、白秋は傷心の果て。駈け落ちは絶望の日々でもあって、暗澹たる心境であった。ところがここに、彼の歌碑が最初に建てられ、白秋自身が懐かしさを胸に訪れた。昭和十六年、真珠湾攻撃の年である。
 人生、はかなき出来事が次々起こると、人は旅をしたくなる。
 住み慣れた地で同じ顔ばかりに向かうのが辛い。天国のような住みやすい処でなくてよい、地獄の果ての、わが身の細る境遇に置かれても良い、どこか遠くに行きたい。そんな夕陽や月夜を視たければここにお出でな。筆者は山川登美子の講演も兼ねて車を飛ばした。
 歌会は午後1時半、勤労市民センターで。
 「今日はフルメンバーです」と声を弾ませる三宅尚道師匠が迎えてくれる。
 会場は料理教室のようなテーブルがあり、隣室から詩吟が聞こえる。
 
  ナラ枯れて赤茶に染まる樫の木に
     リスが登れば枯葉舞い散る  光枝
 秋である。写生歌である。朗々と読み上げる。樹木と色と動物と。その動きの中で枯葉が舞う。英語に driftというのがあり、これは漂い落ちる感であって、dropでも fallでも scatterでもない。それを「舞い散る」と詠んだところが近似してゆかしい。
 
  あいみょんを聞きつつ深夜外に出る
     秋季ただよいブルームーン高し 由良子
 
 これまた秋の風情にて、先ほど誘うた三崎の浜近く、割烹旅館の女将らしい気風がある。明暗と天地が見える。ブルームーンはハワイの装い。六十年前、この地に嫁に来た加藤由良子さんには、もはや三崎は第二の故郷以上の親しみ。恋しかるべき夜半の月かな、が脳裏に。
 ところが筆者の葉山は第二の故郷。こここそ安住の地と定めたる吾を嗤うのは、座敷に侵入して来た大蜘蛛で、加藤さんの心には程遠く、
 
  が庵は密事みそかごとよと告げに寄る
     大蜘蛛つまみし紙音かみねぞ怖し  成秋
 
と詠みたるを思い起こせど、口にせず女将の言に聞き入る。
  雨上がり菊葉の珠の輝きは
     朝の空気の為せる業なり   弘子
 
 久々に静謐なお作にお目にかかった。静寂そのものである。前二作には動きがあり人の息遣いがあるのと対照的にこのお作は静止状態。Staticそのもの。正詩型というべきか。
 
  新型の肺炎ゆゑに天国へ
     旅立つときもマスクしてゆく  尚道
 
 これは狂歌ですかと言えば、このひと月の間に入院したので、とのこと。これを深刻に捉えずにギャグとして詠むしたたかさ。却って真剣になる思いである。マスクといえばコロナ感染症ゆえの流行ものと捉えるか。否。高峰秀子主演の映画『浮雲』のワンシーン、彼女が仏印から引き揚げて来る、そのボロ船からボロリュックを背負って上陸して来る姿を視よ。誰も可も、全員、マスク姿なり。
 
  てらてらと輝く背中踊らせて
     仕事に励むイルカたくまし 和子
 イルカショーは何とも気の毒。どう見ても知能は人間もイルカも同格。どこが違うかと言えば、人間はずるいから安全な役についていて、イルカは正直者だから身体を張っている。ひとたび着水が着地になれば、それでお陀仏。だから、「たくまし」より「いたまし」と変えたいと作者。至極もっともなり。
 
  庭の木に伸びたるツルを引きゆけば
     冬瓜三つ実をつけてをり  良江
 
 結構な収穫でした。三崎は平和なり。これぞ桃源郷。桃源郷とは義理の家族や夫と細君との仲たがいがあっては成り立たぬ。
 いや、もしもですよ、もしも次の歌のような家族関係もあるなら、歌にするもよし。短歌の世界に身を投じて、一首、
 兄と一緒に駅に父を迎へに来たものの
 
  腹ちがひ折れ曲がりたる兄こわ
     父を迎へるゐてまほしかれ 成秋
 続いて山川登美子の話となる。
 日本の浪漫主義文学は現代文学史では明治25年に夏目金之助のちの漱石がアメリカの詩人ホイットマンを日本に紹介したことに始まる、とよくまことしやかに書いているが、これは間違いである。いや、むろん、有島武郎でもない。そんな現代人ではなく、千年も前、額田王の頃に遡らねばならない。ここから説いて、古今、新古今と辿らねばならないが、それは次の機会にということで、登美子がなぜ日本女子大に来たか、なぜ晶子や雅子が名誉回復したのに、登美子だけが薄命にしてその生涯を閉じたかを語った。小浜の方々も短歌の会か盛ん。
 いつの日か、あい集う日が来ることを。
 三浦半島の三崎も小浜も、港町。
 その三崎で、筆者は良い子でいましたが、白秋もそうであったように、筆者も心は漂泊の思いにて、その果ての旅のごとく、会のあと、宵闇にキーコーヒーのカフェに行こうということになり、皆でお茶を。
 誰にも言わなかったが、その情景は、原田康子の『挽歌』に出て来る釧路の喫茶店「ダフネ」のようでありました。
山川登美子を救ひ度候
       日本浪漫学会会長
      「オンライン万葉集」主幹  濱野成秋
        (元日本女子大学文学部英文学科教授)
 
 此度の小浜来訪には、私にとってはその薄幸なる山川登美子の晩年を思うにつけ、まさに参詣に近い心境が伴いました。
 日本女子大の英文学科教授として十四年間、文学講義に専念してきた私は、今から百年以上も前の人ではありますが、英文学科の生徒だった山川登美子さんの退学の成り行きをいつも残念に思っておりました。
 増田雅子さんは『恋衣』の一件で叱られても学内の教師と結婚したことでもあって、「茅野蕭々雅子奨学金」の名目で名誉回復を遂げた。だが山川さんは病を得て小浜に帰りその薄幸なる生涯を終える。今もその状態のままなのだ。つまり近現代に在って、浪漫歌人の第一人者たる山川登美子は日本女子大では特段の誉め言葉もなく事典に記載がある程度。若き世代の間で人口に膾炙する名誉回復もなきまま今日に至る。
 日本女子大は女子大では珍しく良妻賢母を標榜しない気骨ある女子大で、創始者成瀬仁蔵は、女性でありとも、立派な人間として育てるヴィジョンを掲げ、それに呼応して意想外に多くの入学希望者が現れたことは特記に値する。小生も成瀬イズムには共鳴すること多く、何も知らない新入生には建学の精神を語っていた。
それだけに、小浜より遠路はるばる入学され歌人としてかくも立派な仕事を果たされた山川登美子さんの扱いがいかにも気の毒。時代の風潮に押されて当局の指導に屈して処断したものの、その後の扱いが淡々に過ぎて浪漫華麗の向きにあらずして、その情熱なき無念さは今日も変わりなく続く。学寮委員としても幾度も成瀬イズムに籠る情熱を生徒に教えてきたなりに、今でも日本女子大の名誉にかけても登美子の名誉と情熱の回復を遂げさせてやりたい思いです。
 幸い生家が記念館となり小浜市も見事に行き届いた管理ゆえさぞかし登美子君も父君もお悦びと思いますが、その邸内の回廊を一歩、一歩踏みしめるにつけても、涙のこみ上げるを圧し留めることのできぬほど、痛ましく存じました。したがって、この一文は、玄関脇にある登美子の辞世の歌の歌碑を読んだ時点から、登美子の見果てぬ夢を追い焦がれる心情を、百年の過客を超えて、切々と物語ることになります。
 
 父君に召されていなむ永久とこしえ
    春あたたかき蓬莱のしま 登美子
 
 蓬莱にはもう鉄幹もいない。晶子も遠い存在。また会いたいかと自問すれば、否私の心は彼らから離した父君の愛の許にあります、と登美子は答えるだろう。小浜の登美子研究の方々も、おそらくそう解釈されるかと思いながら、入り口から畳の控えの間に。歩み入る第一歩で一首浮かぶ。
 君かめ生まれ変はりて父君ちちぎみ
   御膝みひざで食事ぞ稚児のかわゆき 成秋
 
 奥の間まで人の気配。訪れる人なきはずが、咳の声がしている。まさか登美子の? しばし廊下を歩む。空耳か。と、庭の蔓草が目に留まる。
 
 伸び盛るつる草にくえちぢむ
   あるじの心を知らでか庭にゐて 成秋
 
 さらに三歩あゆみて、庭の燈篭に飛び石の茶事を連想し、また一首。
 
 枯れしぼ御體みからだいとおし燈篭の
   赤き火影ほかげ密事みそかごと裳て 成秋
 
 廊下の奥でまた咳(しわぶき)の気配。やはり登美子はそれと気づいて黄泉より急ぎ戻りしや? それともあれは新詩社で滝野や勇と荷造りせし啄木か?
 
 その名さへ忘られし頃飄然ひょうぜん
   ふるさとに来て咳せし男 啄木
 いやあの咳は女性だ、登美子自身のはず。耳を欹てる。森閑とする館内。幻聴? 登美子よ、わが生徒よ、君らの背後に鉄幹の仕掛けが。気の毒だ。大学当局も官憲より君を庇って立ち往生。かろうじて採りし決断で成瀬もいかばかりの断腸の思いであったか。どうぞご賢察して下され度。
 
 それとなく赤き花みな友にゆずり
   そむきて泣きて忘れ草つむ 登美子
 
 この歌はあの時期の作ではないけれども、登美子の謙虚さはいつも変わらない。女子大開学前の世紀末、晶子と写った登美子をみよ。大店(おおだな)娘の晶子が椅子に座し、寄り添いて上級藩士のお姫様が床に。登美子も山川家もいかに節度ある御心か。
 廊下を歩きながら考える。と、また深窓から咳が。あの咳は女性だ、令嬢のはず。耳を欹てる。森閑とする館内。幻聴? 登美子よ、わが生徒よ、君の「恋衣」に罪はない。大学当局も苦肉の策で採りし措置。出来たばかりの学園である。成瀬氏もさぞや断腸の思いのはず。どうぞ察してやって下され度、とも筆者は思う。
 時の流れは惨(むご)い、切ない。取り戻せない。
 人の短い生涯など瀬川に浮かぶ小笹舟である。忘れ草でよいという登美子の見舞いに、僕は勿忘草を持って参じたい。白百合の君よ、君は余計なことをしたか。いや百年の流れの中で、あの日露の沸き立つ勝(かち)戦(いくさ)モードの中で浪漫主義文藝は小笹舟の如く翻弄された。だが今にして思えば、『恋衣』は日本人の、今の民主の時代を生む勇気ある雄叫びでもあったのだ。
 登美子よ、君こそホイットマンの言う自由人。なのに風潮の囚われ人にされた。自由主義という船の、船頭の一人として。かつて万葉集学者で日本女子大学長もつとめた青木生子教授は増田雅子と共に登美子も讃える中心的人物だが、私も同大学英文学科教授であり浪漫文学の研究者として、失意のうちに退学して去った登美子の後ろ姿に哀惜の情を禁じ得ない。山川登美子よ、願わくばあなたは蘇ってわがゼミに還るべきだ。僕は君のか弱き體と卓抜した学績を勘案し、飛び級にして卒業させてやりたかった。
 遂に寝室へ。登美子は? 奥座敷に姿はなく咳も聞こえず、ただ柔らかな陽光が私を迎え入れてくれた。登美子よ。
 
 わが胸の棘の痛みは刺しさわ
   百年ももとせ過ぎてもゼミに復せよ 成秋
                            合掌