東京スポーツ2020.12.20:関越道立ち往生は人災だ!米国より100年遅い高速道路の豪雪対策より

今季最強の寒気による大雪で発生した新潟、群馬県境付近の関越自動車道の約2100台による立ち往生は、交通対策の“脆弱さ”を改めて露呈した。18日午後10時15分ごろ、約52時間を経て解消した今回の立ち往生。雪は毎年降るものなのに、高速道路が長時間ストップするとはどうなっているのか。専門家によると、日本の高速の除雪対策は米国よりも100年遅れているという。

 東日本高速によると、立ち往生は16日午後6時ごろ始まり、上り線の塩沢石打サービスエリア付近で大型車が動けなくなった。上り線の小出インターチェンジ(IC)―塩沢石打ICの約30キロのうち、六日町IC(いずれも新潟)を挟んだ区間で18日まで続いていた。現在通行止めになっている小出IC―月夜野IC(群馬)の上下線を19日朝に再開させる方針。

 上り線は自衛隊員を含む約700人で作業し、六日町ICなど5か所から車を外へ誘導した。

 立ち往生は上下線で最大時約2100台に及んだ。東日本高速は18日午前7時時点で上り線に約70台が残されていると説明したが、その後撤回。正午に約1000台を確認した。小畠徹社長は東京都内で記者会見し謝罪。「チェックが不十分だった」としている。

 立ち往生騒動について、防災に詳しい警鐘作家の濱野成秋氏はこう語る。

「日本の除雪対策は100年遅れている。かつてニューヨーク州北部の大都市バファローの州立大で教鞭を執っていたことがあるが、大雪対策の徹底ぶりには驚嘆した」

 バファローでは、真夏の日差しがやや弱まると、数週間で大雪が来る。秋口になると、消防がせわしなく移動を始めるという。

「一夜にして2メートルの積雪だから、除雪車が何百台とガレージから出されて配備される。早朝、どの道路もディーゼル音を聞いて目覚める。いよいよ降り出したなと窓を開けると公道も私道も一斉に雪かきである。全部、市に雇われた除雪車がやってくれる。おかげで個人個人の車生活には何の支障もない」(同)

 日本では私道公道の区別なく、大雪の朝は雪かきに追われる。そんな情景は俳句の季題にはいいだろうが、雪は危険性をはらむ。

 濱野氏は「日本のハイウエーがなぜ大雪でストップするか。今回のドカ雪で、日本第1の幹線道路である関越道が大雪で何千台と車をストップさせても、除雪システムのないことを問題にする者は一人もいなかった。今回の大渋滞は自然災害だと思っているらしいが、事前に除雪車が配備されるシステムの欠落が招いた人災だという識者も出なかったのは残念」と語る。

 ニューヨーク州で万が一、こんな現象が出れば、ハイウエー当局はその任務不履行の罪で、責任を取らされるのだという。

「なぜなら雪が車の前後から積もりだすと、あっという間に2メートルに達し、車の排ガスで車内の人々は一酸化炭素中毒で死亡する危険性が極めて高いからだ。ニューヨーク州では今ではまれに見る事故となったが、降雪では絶対南へ走るなと言われる。なぜなら南部までたどり着く前に山間部で立ち往生して凍死するからだ」と濱野氏。

 実際、新潟県南魚沼市の消防によると18日午後6時時点で、立ち往生した車で待機中に体調不良などを訴えた30~60代の男女4人が病院に搬送された。

 濱野氏は「日本では関越のような幹線道路で雪による車の立ち往生現象が出ても、生命に及ぼす危険を与えたかどで、当局の責任者が罰せられることはない。運転手さんに温かい湯茶の接待をして美談となるが、それは車中凍死やガス中毒死がなかったから美談になっただけのこと。それを美風としてテレビのニュースとしているようでは、道路行政がまだまだ発展途上の国だと言われても仕方があるまい」と指摘している。

三浦短歌会  令和二年十一月二十一日  濱野成秋
 
 歌会と講演『浪漫歌人山川登美子によせて』
 
 三浦半島の突端、城ヶ島を間近に三崎港がある。そこは北原白秋が駆け落ちして隠れ住んだところでもある。当時、白秋は傷心の果て。駈け落ちは絶望の日々でもあって、暗澹たる心境であった。ところがここに、彼の歌碑が最初に建てられ、白秋自身が懐かしさを胸に訪れた。昭和十六年、真珠湾攻撃の年である。
 人生、はかなき出来事が次々起こると、人は旅をしたくなる。
 住み慣れた地で同じ顔ばかりに向かうのが辛い。天国のような住みやすい処でなくてよい、地獄の果ての、わが身の細る境遇に置かれても良い、どこか遠くに行きたい。そんな夕陽や月夜を視たければここにお出でな。筆者は山川登美子の講演も兼ねて車を飛ばした。
 歌会は午後1時半、勤労市民センターで。
 「今日はフルメンバーです」と声を弾ませる三宅尚道師匠が迎えてくれる。
 会場は料理教室のようなテーブルがあり、隣室から詩吟が聞こえる。
 
  ナラ枯れて赤茶に染まる樫の木に
     リスが登れば枯葉舞い散る  光枝
 秋である。写生歌である。朗々と読み上げる。樹木と色と動物と。その動きの中で枯葉が舞う。英語に driftというのがあり、これは漂い落ちる感であって、dropでも fallでも scatterでもない。それを「舞い散る」と詠んだところが近似してゆかしい。
 
  あいみょんを聞きつつ深夜外に出る
     秋季ただよいブルームーン高し 由良子
 
 これまた秋の風情にて、先ほど誘うた三崎の浜近く、割烹旅館の女将らしい気風がある。明暗と天地が見える。ブルームーンはハワイの装い。六十年前、この地に嫁に来た加藤由良子さんには、もはや三崎は第二の故郷以上の親しみ。恋しかるべき夜半の月かな、が脳裏に。
 ところが筆者の葉山は第二の故郷。こここそ安住の地と定めたる吾を嗤うのは、座敷に侵入して来た大蜘蛛で、加藤さんの心には程遠く、
 
  が庵は密事みそかごとよと告げに寄る
     大蜘蛛つまみし紙音かみねぞ怖し  成秋
 
と詠みたるを思い起こせど、口にせず女将の言に聞き入る。
  雨上がり菊葉の珠の輝きは
     朝の空気の為せる業なり   弘子
 
 久々に静謐なお作にお目にかかった。静寂そのものである。前二作には動きがあり人の息遣いがあるのと対照的にこのお作は静止状態。Staticそのもの。正詩型というべきか。
 
  新型の肺炎ゆゑに天国へ
     旅立つときもマスクしてゆく  尚道
 
 これは狂歌ですかと言えば、このひと月の間に入院したので、とのこと。これを深刻に捉えずにギャグとして詠むしたたかさ。却って真剣になる思いである。マスクといえばコロナ感染症ゆえの流行ものと捉えるか。否。高峰秀子主演の映画『浮雲』のワンシーン、彼女が仏印から引き揚げて来る、そのボロ船からボロリュックを背負って上陸して来る姿を視よ。誰も可も、全員、マスク姿なり。
 
  てらてらと輝く背中踊らせて
     仕事に励むイルカたくまし 和子
 イルカショーは何とも気の毒。どう見ても知能は人間もイルカも同格。どこが違うかと言えば、人間はずるいから安全な役についていて、イルカは正直者だから身体を張っている。ひとたび着水が着地になれば、それでお陀仏。だから、「たくまし」より「いたまし」と変えたいと作者。至極もっともなり。
 
  庭の木に伸びたるツルを引きゆけば
     冬瓜三つ実をつけてをり  良江
 
 結構な収穫でした。三崎は平和なり。これぞ桃源郷。桃源郷とは義理の家族や夫と細君との仲たがいがあっては成り立たぬ。
 いや、もしもですよ、もしも次の歌のような家族関係もあるなら、歌にするもよし。短歌の世界に身を投じて、一首、
 兄と一緒に駅に父を迎へに来たものの
 
  腹ちがひ折れ曲がりたる兄こわ
     父を迎へるゐてまほしかれ 成秋
 続いて山川登美子の話となる。
 日本の浪漫主義文学は現代文学史では明治25年に夏目金之助のちの漱石がアメリカの詩人ホイットマンを日本に紹介したことに始まる、とよくまことしやかに書いているが、これは間違いである。いや、むろん、有島武郎でもない。そんな現代人ではなく、千年も前、額田王の頃に遡らねばならない。ここから説いて、古今、新古今と辿らねばならないが、それは次の機会にということで、登美子がなぜ日本女子大に来たか、なぜ晶子や雅子が名誉回復したのに、登美子だけが薄命にしてその生涯を閉じたかを語った。小浜の方々も短歌の会か盛ん。
 いつの日か、あい集う日が来ることを。
 三浦半島の三崎も小浜も、港町。
 その三崎で、筆者は良い子でいましたが、白秋もそうであったように、筆者も心は漂泊の思いにて、その果ての旅のごとく、会のあと、宵闇にキーコーヒーのカフェに行こうということになり、皆でお茶を。
 誰にも言わなかったが、その情景は、原田康子の『挽歌』に出て来る釧路の喫茶店「ダフネ」のようでありました。
山川登美子を救ひ度候
       日本浪漫学会会長
      「オンライン万葉集」主幹  濱野成秋
        (元日本女子大学文学部英文学科教授)
 
 此度の小浜来訪には、私にとってはその薄幸なる山川登美子の晩年を思うにつけ、まさに参詣に近い心境が伴いました。
 日本女子大の英文学科教授として十四年間、文学講義に専念してきた私は、今から百年以上も前の人ではありますが、英文学科の生徒だった山川登美子さんの退学の成り行きをいつも残念に思っておりました。
 増田雅子さんは『恋衣』の一件で叱られても学内の教師と結婚したことでもあって、「茅野蕭々雅子奨学金」の名目で名誉回復を遂げた。だが山川さんは病を得て小浜に帰りその薄幸なる生涯を終える。今もその状態のままなのだ。つまり近現代に在って、浪漫歌人の第一人者たる山川登美子は日本女子大では特段の誉め言葉もなく事典に記載がある程度。若き世代の間で人口に膾炙する名誉回復もなきまま今日に至る。
 日本女子大は女子大では珍しく良妻賢母を標榜しない気骨ある女子大で、創始者成瀬仁蔵は、女性でありとも、立派な人間として育てるヴィジョンを掲げ、それに呼応して意想外に多くの入学希望者が現れたことは特記に値する。小生も成瀬イズムには共鳴すること多く、何も知らない新入生には建学の精神を語っていた。
それだけに、小浜より遠路はるばる入学され歌人としてかくも立派な仕事を果たされた山川登美子さんの扱いがいかにも気の毒。時代の風潮に押されて当局の指導に屈して処断したものの、その後の扱いが淡々に過ぎて浪漫華麗の向きにあらずして、その情熱なき無念さは今日も変わりなく続く。学寮委員としても幾度も成瀬イズムに籠る情熱を生徒に教えてきたなりに、今でも日本女子大の名誉にかけても登美子の名誉と情熱の回復を遂げさせてやりたい思いです。
 幸い生家が記念館となり小浜市も見事に行き届いた管理ゆえさぞかし登美子君も父君もお悦びと思いますが、その邸内の回廊を一歩、一歩踏みしめるにつけても、涙のこみ上げるを圧し留めることのできぬほど、痛ましく存じました。したがって、この一文は、玄関脇にある登美子の辞世の歌の歌碑を読んだ時点から、登美子の見果てぬ夢を追い焦がれる心情を、百年の過客を超えて、切々と物語ることになります。
 
 父君に召されていなむ永久とこしえ
    春あたたかき蓬莱のしま 登美子
 
 蓬莱にはもう鉄幹もいない。晶子も遠い存在。また会いたいかと自問すれば、否私の心は彼らから離した父君の愛の許にあります、と登美子は答えるだろう。小浜の登美子研究の方々も、おそらくそう解釈されるかと思いながら、入り口から畳の控えの間に。歩み入る第一歩で一首浮かぶ。
 君かめ生まれ変はりて父君ちちぎみ
   御膝みひざで食事ぞ稚児のかわゆき 成秋
 
 奥の間まで人の気配。訪れる人なきはずが、咳の声がしている。まさか登美子の? しばし廊下を歩む。空耳か。と、庭の蔓草が目に留まる。
 
 伸び盛るつる草にくえちぢむ
   あるじの心を知らでか庭にゐて 成秋
 
 さらに三歩あゆみて、庭の燈篭に飛び石の茶事を連想し、また一首。
 
 枯れしぼ御體みからだいとおし燈篭の
   赤き火影ほかげ密事みそかごと裳て 成秋
 
 廊下の奥でまた咳(しわぶき)の気配。やはり登美子はそれと気づいて黄泉より急ぎ戻りしや? それともあれは新詩社で滝野や勇と荷造りせし啄木か?
 
 その名さへ忘られし頃飄然ひょうぜん
   ふるさとに来て咳せし男 啄木
 いやあの咳は女性だ、登美子自身のはず。耳を欹てる。森閑とする館内。幻聴? 登美子よ、わが生徒よ、君らの背後に鉄幹の仕掛けが。気の毒だ。大学当局も官憲より君を庇って立ち往生。かろうじて採りし決断で成瀬もいかばかりの断腸の思いであったか。どうぞご賢察して下され度。
 
 それとなく赤き花みな友にゆずり
   そむきて泣きて忘れ草つむ 登美子
 
 この歌はあの時期の作ではないけれども、登美子の謙虚さはいつも変わらない。女子大開学前の世紀末、晶子と写った登美子をみよ。大店(おおだな)娘の晶子が椅子に座し、寄り添いて上級藩士のお姫様が床に。登美子も山川家もいかに節度ある御心か。
 廊下を歩きながら考える。と、また深窓から咳が。あの咳は女性だ、令嬢のはず。耳を欹てる。森閑とする館内。幻聴? 登美子よ、わが生徒よ、君の「恋衣」に罪はない。大学当局も苦肉の策で採りし措置。出来たばかりの学園である。成瀬氏もさぞや断腸の思いのはず。どうぞ察してやって下され度、とも筆者は思う。
 時の流れは惨(むご)い、切ない。取り戻せない。
 人の短い生涯など瀬川に浮かぶ小笹舟である。忘れ草でよいという登美子の見舞いに、僕は勿忘草を持って参じたい。白百合の君よ、君は余計なことをしたか。いや百年の流れの中で、あの日露の沸き立つ勝(かち)戦(いくさ)モードの中で浪漫主義文藝は小笹舟の如く翻弄された。だが今にして思えば、『恋衣』は日本人の、今の民主の時代を生む勇気ある雄叫びでもあったのだ。
 登美子よ、君こそホイットマンの言う自由人。なのに風潮の囚われ人にされた。自由主義という船の、船頭の一人として。かつて万葉集学者で日本女子大学長もつとめた青木生子教授は増田雅子と共に登美子も讃える中心的人物だが、私も同大学英文学科教授であり浪漫文学の研究者として、失意のうちに退学して去った登美子の後ろ姿に哀惜の情を禁じ得ない。山川登美子よ、願わくばあなたは蘇ってわがゼミに還るべきだ。僕は君のか弱き體と卓抜した学績を勘案し、飛び級にして卒業させてやりたかった。
 遂に寝室へ。登美子は? 奥座敷に姿はなく咳も聞こえず、ただ柔らかな陽光が私を迎え入れてくれた。登美子よ。
 
 わが胸の棘の痛みは刺しさわ
   百年ももとせ過ぎてもゼミに復せよ 成秋
                            合掌

市川郢康(オンライン掲載用)

土くれに母のにおい。土を手にすれば、懐かしい母のにおいがある。空行く雲に幼い日の思い出が生きている。青い空、緑の山並み、澄んだ空、小鳥のさえずり、すべて昔のままで時の隔たりを少しも感じぬ。「ふるさとは近くにありて思うもの」

市川勝也著 随筆『土くれに母のにおい』より

父母はかくして知り合い私の人生が生まれた

アメリカ文学を専門とする私がこの世に誕生したのも、父母の運命的な邂逅ゆえのこと。今はもはやこの世にはおらぬ二人だが、人間の運命とはかくも哀愁に満ちているか。

大正11年、母はお茶の産地で有名な福岡県八女郡星野村(現在八女市星野村)の祖父が経営する旅館の娘として生まれ、そこで育った。当時、大分県の鯛生金山の鉱脈が星野村の山まで伸びており、多くの鉱夫がこの旅館を利用したと聞いている。母の父は旅館から見える山々に杉の木を植林し、木材の取引にも関わっていた。炭鉱の資材課に勤務していた父は坑木として使う木材の買い付けで星野村を訪れ、この旅館に泊まっていて、母の父に見込まれたらしい。星野は良き星の降るところでな。と祖父が言ったかどうか、これは冗談だが、二人を出会わせたのだろう、めでたく結婚となって、生まれたのが私である。

そんなわけで、物心がつくまで、私は星野村の茶畑を駆け巡って育った。いつも母の目がゆきとどき、川遊びをしても母の心と一緒だった。星野川沿いの田んぼにホタルが舞い、蚊帳を吊るした部屋の縁側で祖父が育てた西瓜を井戸水で冷やして食べた。

炭鉱の労働者の生活を父は支える

父の最初の勤務先、明治鉱業の本社は、福岡県戸畑市(現在北九州市戸畑区)にあった。創業者である安川敬一郎は安川電機や九州工業専門学校(現在九州工業大学)の創設者でもあった。採掘労働者は炭住(炭鉱住宅)で生活し、事務系管理職の人々は山の手と呼ばれる社宅に住んでいた。私の家は山の手にあったが、落盤やガス爆発の事故を知らせるサイレンの鳴り響くのをよく耳にした。落盤やガス爆発の事故は頻々として起こった。前途ある責任感の強いヤマ男だった友人の父親がある日突然粉塵で真っ黒な死体で戻るという悲しい出来事。父も泣いた、母も泣いた。坑木で坑道を作る調査で父がヘルメットを被り、トロッコに乗る時には母は無事を祈って見送っている。子は父母の背中を見て育つというが、まさにその日々だった。

母は苦労にめげない人だった。

父の早朝からの出勤と私の通学の裏で家事の傍ら、暇を見つけては日本舞踊、茶道、華道、お琴といった日本伝統芸能を身につけた。周りの暮らしにはいつも同情して手伝いに走る母だったけれども、そんな習い事は、僕をどんな逆境に置かれてもしっかり育てねばと思う気持ちもあったのだろう。母は父にもいつも気づかっていた。疲れ果てて帰宅し、五右衛門風呂から上がって浴衣に着替えた父にお酌する母の手が少し震えている。二人とも疲れている。でも、あの、気づかいよう。私はここでも学んだ。

父の炭鉱の仕事は転勤がつきもので、本社のある戸畑市から筑豊炭田の田川郡赤池町(現在福智町)、飯塚市桂川町へと転々とした。家から一歩外に出ると、終日炭車の走る音、巻き上げ機や排水排気の機械音、選炭場の騒音が絶え間なかった。そして、私が中学2年の初めの頃、石炭産業は不況の時代を迎え、多くの採掘労働者の家族は極貧生活にあえぐ日々を余儀なくされた。

野の花は無心に咲く。廃鉱の瓦礫の脇にも彼岸花が。一句披露すると、

廃鉱の世相をよそに曼珠沙華

炭鉱の町には資源として使えない岩石が、長年にわたって捨て続けられうず高く積まれた山、即ちボタ山があった。学校帰りに化石を探しにボタ山に行くと幼子を背負った母親たちが石炭のかけらを探しに来ていた。生活困窮者がボタ山に立ち入り、石炭を見つけ出し、自分の家の家庭用燃料にするか、業者に売って生活の糧にしていた。石炭産業が最盛期の頃、お盆が来ると炭住の広場に沢山の人が集まって楽しく踊っていたのが小学校時代を炭鉱で過ごした私の脳裏に焼き付いている。炭鉱労働者によって唄われた民謡で、盆踊りの唄として欠かせなかった。ゼンマイ式蓄音機から「月が出た出た、月が出た、ヨイヨイ」と炭坑節の曲が流れた。

北海道の炭鉱の労働者を支える父の姿

父は会社の命を受け北海道へ。北海道の空知川の流域にある炭都赤平市の冬はマイナス20度にもなった。母は中学校まで歩いて通う私の両ポケットの中に茹で卵を入れてくれた。北海道での7年に渡る冬の生活は私にとっては耐えがたいものであった。中学2年生の夏の終わりの頃である。空知郡赤平市でこれまで経験の無い北海道の冬を迎えた時、酔って帰って来た父に「僕は九州に戻る」と言った。

その時、見返した父の瞳は忘れ得ない。怒っているのではない、なんとも言いようのない憂えに満ちていた。疲れてもいよう、仕事のことで頭は一杯だっただろう。それを思えば僕は何と思いやりのない言葉を投げ掛けたのだろう。申し訳なかった、ゆるしてくれ。仏壇に向かい、亡き父の写真を見ると言葉が詰まる。

父は黙っていたが、それが辛くて、僕は自分だけ良ければいい自分を恥じて、もう北海道にいようと思っていたが、父は私の心情を汲んでくれたのだ、中学3年の終わり頃一人久留米へ行くことになった。青函トンネルや新幹線が無い時代、久留米まではまる二日かかった。7年間勤めた北海道の炭鉱も遂には閉山となり、父は東京の明治鉱業本社に移ったが、やがて明治鉱業も解体したためその関連会社に暫く勤め、炭鉱の生活と別れを告げ、大阪へ。

そんなわけで、一家は住居を移動したけれども、父母は自らを見事に律していたことに今はよくわかる。

例えば炭鉱時代、父は気晴らしに囲碁や麻雀に饗しただけではない。弓道や剣道に通じ、弓道は四段、社宅の端の広場に作った練習場で的を目がけて矢を射っていた。その姿は日本人の大和魂を見るかの如く凛々しかった。父は数本の刀剣を所有し、刀の柄の部分に刻まれた銘を見ないで、作風で作者を当てる刀剣会を家で開催した後、庭で縄を竹に巻いて試し切りをする。

幼い私は興味深く見ていた。また、時には家に友人を招き、麻雀に夢中になることもあった。麻雀は夜更けまで行われ、お酒やつまみの準備で立ち回り、夜食を作ってもてなした裏方役の母も立派だった。母は私の寝床の横に座り裁縫をしていたが、麻雀牌をかき混ぜる音が煩くて眠れなかった思い出がある。

退職後は約2年間、父は大阪で私たち家族と居を共にしたが、二家族の同居に一抹の不安を覚えた父は、あっさりと家を売り払い、自分の故郷である九州、母の実家に近い久留米市の郊外に居を構えた。当時、家の廻りは田んぼで広がっており、春になると家のすぐ近くの野山でワラビを摘んで来て、母と山菜料理を楽しんだ。今は田んぼも野山も宅地に整備され、家が建ち並び昔の面影は残っていないのが寂しい。久留米では、母と共にそれぞれの趣味に親しみ、穏やかな人生をおくっていたが、父が周囲の反対を押し切って久留米大学医学部に献体の意思を表明したのもこの頃である。母はその夜、ホルマリン槽に沈んだ遺体を夢見て一晩中眠れなかったと言う。生きること、死ぬること。どちらにも達観する父に母はきっと尊敬の念を抱いていたと思われる。

社会批評家になった父の姿

炭鉱事業は文明の進歩と経済活動のせいで終息したけれども、父の苦労は息子の自分が知っている。父の努力は立派だった。俳句にすると、

懐かしや古書に交じりて亡父の文

父は福祉協議会の職業紹介で、久留米に来て1年半振りに再就職の機会を得た。中小企業の厳しさを肌で感じながらも積年の知識と経験を駆使し、老いの情熱を燃やしていた。ゆとりある勤務の傍ら、「らくがき亭」と名乗り、政治批判をはじめ幅広く文筆活動に取り組み、新聞に投稿を続けた。パイプ煙草を燻らせながら、原稿に向かう父の姿は忘れられない。
新聞の都合で時々、折角の原稿がボツになることがある。

たいていは紙面が確保できないとか、社会が突発的に新たな話題に移るせいだが、書いた方はがっくり。気分が滅入って酒の量が増える時もしばしばだったと母は語っていた。新聞に掲載された記事を切り抜き、スクラップブックが4冊になったら自費出版したいという父の願いは叶わず、私は病床の父の耳元で出版の念願を果たす約束をした。

昭和61年3月、私は研究員として1年間渡米することになった。父と母が大阪国際空港まで見送りに来てくれた。しかし、その日は成田空港が大雪のため閉鎖になり、渡米は二日遅れになった。「成るようにしか成らないよ」と言い残して母と共にそのまま久留米まで帰った父だったが、私にとってこれが最後の父の言葉となった。渡米後2カ月後、父が前立腺肥大部分切除のため国立久留米病院(現在久留米大学付属医療センター)入院。その後の検査で前立腺癌と判明、抗癌剤治療を終えて7月末に退院するも薬の副作用で心臓発作を起こし、再び古賀病院に入院。

生きることは辛苦を負うこと宿命なり。入院1週間後、病院のトイレで倒れ、発見が遅れたため危篤状態に陥った旨の連絡を受け、私は妻と3人の子供を残して、帰国の途につく。母と私は医師の説明を受け、CT検査の結果、左脳の後部半分が遣られていることが判明した。2週間ほど病院に通い、落ち着いた状態を見計らって、私は再びアメリカへ。その後、言語障害と右半身不随の後遺症が残るが、丸山病院(医師で詩人でもある丸山豊が設立)で半年間のリハビリ生活を送り、昭和62年3月、退院。しかし、2カ月後排尿困難なため国立久留米病院へ再入院。検査の結果、前立腺癌の末期で手術は不可能と告げられる。連日、母と私が見守る中、父は酸素吸入器を付けたまま、薄く白眼を開いて悶絶せんばかりに苦しむ。母は私に近くの寿司屋からお寿司を買って来るように頼み、病室で買ってきたお寿司を無理やり食べるよう強要した。母は父の死を目前にして強い心を持つことを私に伝えたかったようだ。この時初めて女としての母の強さを感じた。1カ月後の6月早朝容態が急変し、69歳で永眠。

献体の登録がなされていた久留米大学附属病院の許可を得て、遺体を家に運び入れ、通夜を済ませ、葬儀も父が6年間余生を楽しんだ家で行った。1年後、大学病院から戻った一部の遺骨は市川家の墓がある北九州市門司まで運ばれた。墓地は森に囲まれた小高い丘の上にあって、門司の街や港が一望できた。父方の祖父は門鉄(門司鉄道局)の機関士として働き、父は下に5人の弟と妹、上に1人の姉のいる貧しい家庭の中で育った。父は市立門司商業学校(現在福岡県立門司大翔館高等学校)を卒業後、明治鉱業株式会社に入社し、働きながら八幡大学(現在九州国際大学)の2部に通った。父の生まれ育った家は私が幼い頃売却され、一度も訪れたことは無い。

独りで生活するようになった65歳の母は、華道や茶道のお弟子さんを家に招き、指導に心を燃やした。常に凛々しい姿勢を保っていた母だったが、長期にわたる父の介護で腰の曲がりも酷くなっていった。3歳上の母の姉が時々星野村から訪ねて来て泊まり、母と一緒に過ごすのが何よりの楽しみだったようだ。しかし、母が70歳を迎えた頃から、独り暮らしの母のことが気がかりで常に頭に過り母の傍に寄り添いたいと思いが増すばかりであった。私は長い京都での生活から離れて母と共に過ごすことを心に決め、妻と3人の子供を残して友人の紹介で久留米大学に移る機会に恵まれた。

生まれて初めての二人での母との生活が始まる。華道と茶道に専念する70歳代の母はお弟子さんを相手にして生き生きとしていた。人にはそれぞれ人生がある。軽重の差異などない。どの人生も重い。書き終えた今、そう思えてならない。(了)

三崎白秋会
白秋「城ケ島の雨」によせて
       令和二年八月二日   濱野成秋
 
1.城ケ島の雨と三崎白秋会
 
 歌は友をつくる。歌心は受け継がれて花開く。
 まさにこの思いで筆者は三崎白秋会の方々とあいまみゆることとなった。白秋の歌碑を守り心を受け継いで研究部会まで作り、そこに招かれたのである。
 白秋が道ならぬ恋の果て、この三崎に来て鬱々たる思いで作った「城ケ島の雨」の詩が僕の寄る辺なき人生を思い起こさせたのも、行く気になった理由かもしれない。この詩が僕の心に最初にずしんと響いたのは、まだ二十歳代だった。生涯かけてやるべきは何か。一生に一回の人生を何に捧げるべきか。一向に見定まらない迷妄の日々だった僕は迷い心を奥底に秘め、さる高校に非常勤で勤めていた。そこの校長が宴席でこの暗い調子の歌を華やかであるべき宴席で歌ったのだ。周りはしいんと静まる。彼は甲府の出で、古武士の風格。日頃お会いする折に語られる説諭は胸に沁みるがごときで、一々納得できたから、僕にはこの歌の一節、一節が心に沁みて居たたまれない思いさえした。
 古武士のように胸を張り御老体が歌いだすと、音程が見事。歌詞も間違える懸念もない。人生を達観しておられた風貌で迷妄中の僕を諭す。これを作った白秋はまだ二十代後半だったが、僕とて同じ世代だから、白秋の偽らざる心と、目の前の、心から敬愛している校長の心とが、僕の胸の奥でしんしんと鳴るのである。
 その後、色々な機会にこの歌を聴くが、そのたびごとに、校長の声音を思い出す。自らの未熟さと迷妄に恥じ入り自分が情けなくて切なくて。文学を見つけ直して真正面から取り組んだのはこの頃からだった。
 後年の白秋もまた、おもえば三崎で己と対して作詩の後、小田原時代へと、進むことが出来たのではないか。若気の恋人と実家柳川の家運の傾きとの両方を背負って、三浦にもとほり訪れたのが人生の曲がり角か。三浦漁港の、その突端の海辺に立って沖を臨めば、城ケ島は折から驟雨にけぶる。暗雲垂れこめた驟雨は濃緑色にけぶる。
 人生、こんな八方ふさがりの気持ちは察するに余りある。
 私でなくともこの歌を聞いた者はだれしも、自分にもあった迷妄の日々を想起するはずだろう。今は大橋も出来て三崎や城ケ島の情景は白秋の時代ほどには人の心を曇らせないかもしれないが、この街に住み住人(まちびと)と触れ合えば、己が心もまた三崎にこそ息づくことを知るだろう。
 白秋はこの地に長くは逗留せず、むしろ小田原の地で数々の童謡をしたためたが、ながらえばまたこの頃やしのばれむで、初めての歌碑が三崎に建てられたのも、彼にはよかった。ここが第二のまほろばのはずだ。
2.白秋は入寂たへなむが
 
昭和十六年。折しも日本は太平洋戦争にさまよい出でる年。眼前に暗雲の垂れ籠めるさまを、歌人はその繊細な感覚でとらえ、無謀な奈落を肌で感じ押し留めようもなく瀬川に浮かぶ小笹舟の心境か。眼も不自由、身体も重い。老境の體でこの地に歩を運んだ。この若気の至りの地に。その心境や如何に。左の一首は彼のやるせなさを察して詠んだ私の作。
  このいのちおぼろ入寂たへなむひととせ
     超へて伏す身の耐へ難かりき 成秋
 
老い人と言へば茂吉もこんな恋歌を綴ってはゐるが、
 
  老びととなりてゆたけき君ゆゑに
     われは恋しよはるかなりとも
 
 白秋もまた歌詠みなれば、茂吉の心情に近いかも知れぬ。その心底に去来するは推測の域外であろうけれども、三崎は白秋にとって終生忘れがたい地であったことは否めない。
 だからこそ、こんにちも、三崎白秋会もあり三浦短歌会も脈々と生き続けているのであろう。
 僕は郷里堺にいて白秋の「帰去来の辞」に初めて接した中学時代を思い起こし、口ずさみながら白秋記念館へと急ぐ。
  山門やまとはわが産土うぶすな
  雲騰がる
  南風はえのまほら…
 
 この詩の最後のほうで、白秋は、
 
  帰らなむ、いざかささぎ
 
 と、白秋は異郷の地に立つ陶淵明の心境で遠く柳川の地に思いを馳せる。
 流離の地か。
 浪漫詩人の藤村も流離の日々を台町協会や小諸義塾で過ごし、そこをその時々の、心の住処としていた。白秋も三崎をこよなく愛し、閃光のように過ぎ去った日々を懐かしんだに違いない。
 吾人もまたここに腰を落ち着けて思いを過去に馳せよう。意を強く持つべきだ。そう考え、今や世界規模に発展拡大しつつある吾らの「オンライン万葉集」がこの三崎の街で開花する思いで先を急いだ。
 そんなわけで三崎白秋会とはご縁ができた。
 勉強会は潮騒の聞こえる城ケ島の「白秋記念館」で行われ、加藤会長様の温かい御心のあらわれで、自作の農園で採れた立派なメロンをお土産に頂戴することになった。
 「オンライン万葉集」について、日本の和の心を西洋に伝える大切さを語り、どの言の葉も朽ちて埋もれ木となる書籍の宿命を打ち破って、永久とこしえに読まれる可能性を語り続けた。人間の想念もまた肉體という有機体の死と共にこの世から掻き消えるが、オンラインに書きつけた言の葉は遺る。それも、いつ何時でも読めるゆえに活性化して生き続ける…。
 されど書籍も人工品。
 オンラインも人工品。
 中に想念が言の葉となってたゆたい
 人間ヒューマン不可解イニ有機体グマ
 がこの人工品に生命を吹き込む。
 未来永劫は誰の手に渉る
 創る者だけが守り人か?
 イニグマは無残な破壊者か?
 創るが故に
 破壊を歓ぶか?
 かくして壊れものとしての人間が破壊者ならぬ創造者として、ここに「オンライン万葉集」を造り上げ、白秋が縁で創設されたこの短歌会のお作を掲載する運びとなった。
3.心の命は永遠に
 白秋の取り持つ縁かいな、というわけで、温かい心の交流が三崎白秋会の研究部会と三浦短歌会とのご縁ができた。
 三宅尚道氏はこの度の講演の機会を設けられた世話人だが、「三浦短歌会」の維持についても長年にわたり努力しておられる。
 沿革を聞くと大事に継承される訳もよく分かった。今まで五回も「合同歌集」を出された会なのである。
 第一輯(昭和二三年)、第二輯(昭和二四年)、第三輯(昭和二七年)、第四輯(『群礁』、昭和五十年)、第五輯(平成二六年)。
 初期の方々はみな故人となられた。
 この会には規定があって、次のような約束事がある。
 「結社の如何を問わず、特定の指導者をおかず、あくまでもその作品を中心とし、批評と鑑賞を通じ、独善に陥ることなく、作歌の勉強と懇親を続けていく会である」としている。
 さっそく先人の歌を紹介しよう。解説は長崎三郎氏。
 
  外灯をめぐりて翔べる夜の蟲
     灯を消さばいずこにのがれん  飯島誠司
 作者、最晩年の歌。外燈を巡って、虫が飛んでいる様子を見ての感慨。灯を命と受けとめると、体の命がなくなると自分は何処へ行ってしまうのだろう。目に見える具体から、眼に見えない普遍的世界へと導く歌、と長崎氏は読み解く。飯島さんは代々三崎で医院を営む家柄とも聞いた。
 医師は常に死と向き合う職業であるから、街燈に蝟集する蛾の、無心に生き、無心に死ぬる命にも無関心ではいられないのであろう。
 文学を生きる糧として生涯を送っている私など、幼児の昔から、道端で転がるミミズや虫けらを、いとおしんだ。みな乾涸びて死んでいる。
 大人は「虫けらのように死ぬ」とか「犬死」とかいうが、そんな野卑な言い方を蟲や犬に与えるでないと、子供心に抵抗を感じた。自分もこのミミズ以上に弱い身体で近々このように乾涸びて死ぬるのだと、つくづく人生の儚さを幼時からかみしめたものである。
 その目でこの歌を再読すると、全身、だるさに襲われる。
 肉體が枯れ果てた後に吾が魂の行き場がどこか、やたらと気になったが、子供の頃は、わからんでいい、まだ先やと思い、成人すると、もうちょっと先や、もうちょっと先やで自分を誤魔化す。
 誘蛾灯に蝟集する蛾は自分の次の生まれ変わりだと真剣に思う。それも最近のことである。
 自分の命なんか、もう終わりや、次は蛾になって登場するのだろう。だからそんな運命を辿った奴らと自暴自棄になって、先を争って火に飛び込み、回生のライセンスを掴み取って、次の、もちっとましな生に駆け込む気なのだ。人間をいっぺんやってみると、その生命、なかなかによい。やっぱり人間で生まれ変わりたい、蛾は嫌だぜ、神様、と僕。蛾も、全蛾も人間になることを希っているのだろう。そうはいくものか、魚になってクジラに食われたり、ミミズになって魚の餌にされたり。いや待てよ…第一、人間って、そんなにましな生物なのか? それは疑問だ。人間なんて、虫けらの一体形かもしれん。この、根源的な疑問にも答えが出ない。いまも回答がなきまま、刻一刻と死に向かっているくせに、時間を浪費して短歌づくりなどに精を出している。…
 次の作。
 
  石油危機きびしき日々に獣糞を
     焚く草原の生活たつきを憶ふ   水谷みずたに壽子かずこ
 
 作者は戦時中、中国の満州にいた。満州から引き揚げてきて、戦後の生活が始まり、石油危機にみまわれた。石油による生活は便利であるが、便利さは不便さに繋がっており、前の満州生活を思い浮かべている。
 右のコメントは長崎氏のもの。
 満州と言えば思い出す、戦時中、満州では俳句や短歌が大流行り。今でいうオンライン万葉集に当たる全国ネットの詩歌集には満州からの応募がわんさとあった。それがあの引き揚げの悲劇の直前まで続いたのに、戦乱でずたずたになった。平和は有難い。有難いから我々は平和ボケではいけない。
  ふるさとに汀つながる海の声
     やさしく今日の目ざめを誘ふ 松本文男
 
 松本文男さんは東日本大震災で三浦に避難されてきました。若い時より短歌に取り組み歌歴の長い人でした。震災の歌が多くありますが、この歌は短歌会に出された最後の詠草です。大津波に遭われても最後に海を歌われ、慰められます。 長崎三郎
 
 ふるさとに汀つながると詠むと思い出す光景がある。今から二十年ほど以前にハワイ諸島の一つカウアイ島でのことだが、僕は日系移民史の調査でお寺に泊まり、戦後に日本に来たという二世を紹介された。彼は例の二世部隊の勇士だが、もう八十歳近くになられ、それでも青年のように精力的だ。僕の研究内容を聞いて、それでは一世のお墓に案内しましょうとジープを飛ばす。猛烈なスピードでサトウキビ畑の赤土の中、真っ赤な砂塵を上げて疾駆する様はさながら戦時中だが、そのカーラジオでガンガン鳴るのはなんと坂本冬美の「火の国の女」だった。やくざ調の、ドスの利いた歌がこの臨場感にぴったりだった。やがて前方の視界が広がる。と、ドドドドドド…逆巻く大海原だ。東映映画のタイトルバックだった!
 「何でこんな断崖絶壁に、大海原に向かって墓標が立っていると思いますか?」と、元二世兵士。「そ、それは…そうか、この怒涛逆巻く向こうに…」
 「そう、ジャパンがある。故郷があるから、死んだらみな、海伝いに田舎に帰りたいからですよ!」
あの時の海鳴りは忘れられない。
 大詩人でもなんでもない、明治初年にハワイに渡り、明治時代に早くもこの異郷で果てる、大正初めに死んだ人も、昭和の人も…次々墓標を読んで、二度、三度、四度、荒海を眺める。
 もはや墓参に訪れる人もなくなり、どの墓標も粛然としてそそり立つ。
 これが死なのだ。俺も近々こうなるのだ。
 東日本大震災で異郷の汀にいても、思うことは故郷のことばかり。
 白秋の言うように、汀づたいに帰りなむ、いざ鵲、である。
 三崎白秋会よ、三浦短歌会よ、永遠に。
 遺された歌は重い。実に重く、深い。       (第1回は以上)