市川郢康(オンライン掲載用)

土くれに母のにおい。土を手にすれば、懐かしい母のにおいがある。空行く雲に幼い日の思い出が生きている。青い空、緑の山並み、澄んだ空、小鳥のさえずり、すべて昔のままで時の隔たりを少しも感じぬ。「ふるさとは近くにありて思うもの」

市川勝也著 随筆『土くれに母のにおい』より

父母はかくして知り合い私の人生が生まれた

アメリカ文学を専門とする私がこの世に誕生したのも、父母の運命的な邂逅ゆえのこと。今はもはやこの世にはおらぬ二人だが、人間の運命とはかくも哀愁に満ちているか。

大正11年、母はお茶の産地で有名な福岡県八女郡星野村(現在八女市星野村)の祖父が経営する旅館の娘として生まれ、そこで育った。当時、大分県の鯛生金山の鉱脈が星野村の山まで伸びており、多くの鉱夫がこの旅館を利用したと聞いている。母の父は旅館から見える山々に杉の木を植林し、木材の取引にも関わっていた。炭鉱の資材課に勤務していた父は坑木として使う木材の買い付けで星野村を訪れ、この旅館に泊まっていて、母の父に見込まれたらしい。星野は良き星の降るところでな。と祖父が言ったかどうか、これは冗談だが、二人を出会わせたのだろう、めでたく結婚となって、生まれたのが私である。

そんなわけで、物心がつくまで、私は星野村の茶畑を駆け巡って育った。いつも母の目がゆきとどき、川遊びをしても母の心と一緒だった。星野川沿いの田んぼにホタルが舞い、蚊帳を吊るした部屋の縁側で祖父が育てた西瓜を井戸水で冷やして食べた。

炭鉱の労働者の生活を父は支える

父の最初の勤務先、明治鉱業の本社は、福岡県戸畑市(現在北九州市戸畑区)にあった。創業者である安川敬一郎は安川電機や九州工業専門学校(現在九州工業大学)の創設者でもあった。採掘労働者は炭住(炭鉱住宅)で生活し、事務系管理職の人々は山の手と呼ばれる社宅に住んでいた。私の家は山の手にあったが、落盤やガス爆発の事故を知らせるサイレンの鳴り響くのをよく耳にした。落盤やガス爆発の事故は頻々として起こった。前途ある責任感の強いヤマ男だった友人の父親がある日突然粉塵で真っ黒な死体で戻るという悲しい出来事。父も泣いた、母も泣いた。坑木で坑道を作る調査で父がヘルメットを被り、トロッコに乗る時には母は無事を祈って見送っている。子は父母の背中を見て育つというが、まさにその日々だった。

母は苦労にめげない人だった。

父の早朝からの出勤と私の通学の裏で家事の傍ら、暇を見つけては日本舞踊、茶道、華道、お琴といった日本伝統芸能を身につけた。周りの暮らしにはいつも同情して手伝いに走る母だったけれども、そんな習い事は、僕をどんな逆境に置かれてもしっかり育てねばと思う気持ちもあったのだろう。母は父にもいつも気づかっていた。疲れ果てて帰宅し、五右衛門風呂から上がって浴衣に着替えた父にお酌する母の手が少し震えている。二人とも疲れている。でも、あの、気づかいよう。私はここでも学んだ。

父の炭鉱の仕事は転勤がつきもので、本社のある戸畑市から筑豊炭田の田川郡赤池町(現在福智町)、飯塚市桂川町へと転々とした。家から一歩外に出ると、終日炭車の走る音、巻き上げ機や排水排気の機械音、選炭場の騒音が絶え間なかった。そして、私が中学2年の初めの頃、石炭産業は不況の時代を迎え、多くの採掘労働者の家族は極貧生活にあえぐ日々を余儀なくされた。

野の花は無心に咲く。廃鉱の瓦礫の脇にも彼岸花が。一句披露すると、

廃鉱の世相をよそに曼珠沙華

炭鉱の町には資源として使えない岩石が、長年にわたって捨て続けられうず高く積まれた山、即ちボタ山があった。学校帰りに化石を探しにボタ山に行くと幼子を背負った母親たちが石炭のかけらを探しに来ていた。生活困窮者がボタ山に立ち入り、石炭を見つけ出し、自分の家の家庭用燃料にするか、業者に売って生活の糧にしていた。石炭産業が最盛期の頃、お盆が来ると炭住の広場に沢山の人が集まって楽しく踊っていたのが小学校時代を炭鉱で過ごした私の脳裏に焼き付いている。炭鉱労働者によって唄われた民謡で、盆踊りの唄として欠かせなかった。ゼンマイ式蓄音機から「月が出た出た、月が出た、ヨイヨイ」と炭坑節の曲が流れた。

北海道の炭鉱の労働者を支える父の姿

父は会社の命を受け北海道へ。北海道の空知川の流域にある炭都赤平市の冬はマイナス20度にもなった。母は中学校まで歩いて通う私の両ポケットの中に茹で卵を入れてくれた。北海道での7年に渡る冬の生活は私にとっては耐えがたいものであった。中学2年生の夏の終わりの頃である。空知郡赤平市でこれまで経験の無い北海道の冬を迎えた時、酔って帰って来た父に「僕は九州に戻る」と言った。

その時、見返した父の瞳は忘れ得ない。怒っているのではない、なんとも言いようのない憂えに満ちていた。疲れてもいよう、仕事のことで頭は一杯だっただろう。それを思えば僕は何と思いやりのない言葉を投げ掛けたのだろう。申し訳なかった、ゆるしてくれ。仏壇に向かい、亡き父の写真を見ると言葉が詰まる。

父は黙っていたが、それが辛くて、僕は自分だけ良ければいい自分を恥じて、もう北海道にいようと思っていたが、父は私の心情を汲んでくれたのだ、中学3年の終わり頃一人久留米へ行くことになった。青函トンネルや新幹線が無い時代、久留米まではまる二日かかった。7年間勤めた北海道の炭鉱も遂には閉山となり、父は東京の明治鉱業本社に移ったが、やがて明治鉱業も解体したためその関連会社に暫く勤め、炭鉱の生活と別れを告げ、大阪へ。

そんなわけで、一家は住居を移動したけれども、父母は自らを見事に律していたことに今はよくわかる。

例えば炭鉱時代、父は気晴らしに囲碁や麻雀に饗しただけではない。弓道や剣道に通じ、弓道は四段、社宅の端の広場に作った練習場で的を目がけて矢を射っていた。その姿は日本人の大和魂を見るかの如く凛々しかった。父は数本の刀剣を所有し、刀の柄の部分に刻まれた銘を見ないで、作風で作者を当てる刀剣会を家で開催した後、庭で縄を竹に巻いて試し切りをする。

幼い私は興味深く見ていた。また、時には家に友人を招き、麻雀に夢中になることもあった。麻雀は夜更けまで行われ、お酒やつまみの準備で立ち回り、夜食を作ってもてなした裏方役の母も立派だった。母は私の寝床の横に座り裁縫をしていたが、麻雀牌をかき混ぜる音が煩くて眠れなかった思い出がある。

退職後は約2年間、父は大阪で私たち家族と居を共にしたが、二家族の同居に一抹の不安を覚えた父は、あっさりと家を売り払い、自分の故郷である九州、母の実家に近い久留米市の郊外に居を構えた。当時、家の廻りは田んぼで広がっており、春になると家のすぐ近くの野山でワラビを摘んで来て、母と山菜料理を楽しんだ。今は田んぼも野山も宅地に整備され、家が建ち並び昔の面影は残っていないのが寂しい。久留米では、母と共にそれぞれの趣味に親しみ、穏やかな人生をおくっていたが、父が周囲の反対を押し切って久留米大学医学部に献体の意思を表明したのもこの頃である。母はその夜、ホルマリン槽に沈んだ遺体を夢見て一晩中眠れなかったと言う。生きること、死ぬること。どちらにも達観する父に母はきっと尊敬の念を抱いていたと思われる。

社会批評家になった父の姿

炭鉱事業は文明の進歩と経済活動のせいで終息したけれども、父の苦労は息子の自分が知っている。父の努力は立派だった。俳句にすると、

懐かしや古書に交じりて亡父の文

父は福祉協議会の職業紹介で、久留米に来て1年半振りに再就職の機会を得た。中小企業の厳しさを肌で感じながらも積年の知識と経験を駆使し、老いの情熱を燃やしていた。ゆとりある勤務の傍ら、「らくがき亭」と名乗り、政治批判をはじめ幅広く文筆活動に取り組み、新聞に投稿を続けた。パイプ煙草を燻らせながら、原稿に向かう父の姿は忘れられない。
新聞の都合で時々、折角の原稿がボツになることがある。

たいていは紙面が確保できないとか、社会が突発的に新たな話題に移るせいだが、書いた方はがっくり。気分が滅入って酒の量が増える時もしばしばだったと母は語っていた。新聞に掲載された記事を切り抜き、スクラップブックが4冊になったら自費出版したいという父の願いは叶わず、私は病床の父の耳元で出版の念願を果たす約束をした。

昭和61年3月、私は研究員として1年間渡米することになった。父と母が大阪国際空港まで見送りに来てくれた。しかし、その日は成田空港が大雪のため閉鎖になり、渡米は二日遅れになった。「成るようにしか成らないよ」と言い残して母と共にそのまま久留米まで帰った父だったが、私にとってこれが最後の父の言葉となった。渡米後2カ月後、父が前立腺肥大部分切除のため国立久留米病院(現在久留米大学付属医療センター)入院。その後の検査で前立腺癌と判明、抗癌剤治療を終えて7月末に退院するも薬の副作用で心臓発作を起こし、再び古賀病院に入院。

生きることは辛苦を負うこと宿命なり。入院1週間後、病院のトイレで倒れ、発見が遅れたため危篤状態に陥った旨の連絡を受け、私は妻と3人の子供を残して、帰国の途につく。母と私は医師の説明を受け、CT検査の結果、左脳の後部半分が遣られていることが判明した。2週間ほど病院に通い、落ち着いた状態を見計らって、私は再びアメリカへ。その後、言語障害と右半身不随の後遺症が残るが、丸山病院(医師で詩人でもある丸山豊が設立)で半年間のリハビリ生活を送り、昭和62年3月、退院。しかし、2カ月後排尿困難なため国立久留米病院へ再入院。検査の結果、前立腺癌の末期で手術は不可能と告げられる。連日、母と私が見守る中、父は酸素吸入器を付けたまま、薄く白眼を開いて悶絶せんばかりに苦しむ。母は私に近くの寿司屋からお寿司を買って来るように頼み、病室で買ってきたお寿司を無理やり食べるよう強要した。母は父の死を目前にして強い心を持つことを私に伝えたかったようだ。この時初めて女としての母の強さを感じた。1カ月後の6月早朝容態が急変し、69歳で永眠。

献体の登録がなされていた久留米大学附属病院の許可を得て、遺体を家に運び入れ、通夜を済ませ、葬儀も父が6年間余生を楽しんだ家で行った。1年後、大学病院から戻った一部の遺骨は市川家の墓がある北九州市門司まで運ばれた。墓地は森に囲まれた小高い丘の上にあって、門司の街や港が一望できた。父方の祖父は門鉄(門司鉄道局)の機関士として働き、父は下に5人の弟と妹、上に1人の姉のいる貧しい家庭の中で育った。父は市立門司商業学校(現在福岡県立門司大翔館高等学校)を卒業後、明治鉱業株式会社に入社し、働きながら八幡大学(現在九州国際大学)の2部に通った。父の生まれ育った家は私が幼い頃売却され、一度も訪れたことは無い。

独りで生活するようになった65歳の母は、華道や茶道のお弟子さんを家に招き、指導に心を燃やした。常に凛々しい姿勢を保っていた母だったが、長期にわたる父の介護で腰の曲がりも酷くなっていった。3歳上の母の姉が時々星野村から訪ねて来て泊まり、母と一緒に過ごすのが何よりの楽しみだったようだ。しかし、母が70歳を迎えた頃から、独り暮らしの母のことが気がかりで常に頭に過り母の傍に寄り添いたいと思いが増すばかりであった。私は長い京都での生活から離れて母と共に過ごすことを心に決め、妻と3人の子供を残して友人の紹介で久留米大学に移る機会に恵まれた。

生まれて初めての二人での母との生活が始まる。華道と茶道に専念する70歳代の母はお弟子さんを相手にして生き生きとしていた。人にはそれぞれ人生がある。軽重の差異などない。どの人生も重い。書き終えた今、そう思えてならない。(了)

三崎白秋会
白秋「城ケ島の雨」によせて
       令和二年八月二日   濱野成秋
 
1.城ケ島の雨と三崎白秋会
 
 歌は友をつくる。歌心は受け継がれて花開く。
 まさにこの思いで筆者は三崎白秋会の方々とあいまみゆることとなった。白秋の歌碑を守り心を受け継いで研究部会まで作り、そこに招かれたのである。
 白秋が道ならぬ恋の果て、この三崎に来て鬱々たる思いで作った「城ケ島の雨」の詩が僕の寄る辺なき人生を思い起こさせたのも、行く気になった理由かもしれない。この詩が僕の心に最初にずしんと響いたのは、まだ二十歳代だった。生涯かけてやるべきは何か。一生に一回の人生を何に捧げるべきか。一向に見定まらない迷妄の日々だった僕は迷い心を奥底に秘め、さる高校に非常勤で勤めていた。そこの校長が宴席でこの暗い調子の歌を華やかであるべき宴席で歌ったのだ。周りはしいんと静まる。彼は甲府の出で、古武士の風格。日頃お会いする折に語られる説諭は胸に沁みるがごときで、一々納得できたから、僕にはこの歌の一節、一節が心に沁みて居たたまれない思いさえした。
 古武士のように胸を張り御老体が歌いだすと、音程が見事。歌詞も間違える懸念もない。人生を達観しておられた風貌で迷妄中の僕を諭す。これを作った白秋はまだ二十代後半だったが、僕とて同じ世代だから、白秋の偽らざる心と、目の前の、心から敬愛している校長の心とが、僕の胸の奥でしんしんと鳴るのである。
 その後、色々な機会にこの歌を聴くが、そのたびごとに、校長の声音を思い出す。自らの未熟さと迷妄に恥じ入り自分が情けなくて切なくて。文学を見つけ直して真正面から取り組んだのはこの頃からだった。
 後年の白秋もまた、おもえば三崎で己と対して作詩の後、小田原時代へと、進むことが出来たのではないか。若気の恋人と実家柳川の家運の傾きとの両方を背負って、三浦にもとほり訪れたのが人生の曲がり角か。三浦漁港の、その突端の海辺に立って沖を臨めば、城ケ島は折から驟雨にけぶる。暗雲垂れこめた驟雨は濃緑色にけぶる。
 人生、こんな八方ふさがりの気持ちは察するに余りある。
 私でなくともこの歌を聞いた者はだれしも、自分にもあった迷妄の日々を想起するはずだろう。今は大橋も出来て三崎や城ケ島の情景は白秋の時代ほどには人の心を曇らせないかもしれないが、この街に住み住人(まちびと)と触れ合えば、己が心もまた三崎にこそ息づくことを知るだろう。
 白秋はこの地に長くは逗留せず、むしろ小田原の地で数々の童謡をしたためたが、ながらえばまたこの頃やしのばれむで、初めての歌碑が三崎に建てられたのも、彼にはよかった。ここが第二のまほろばのはずだ。
2.白秋は入寂たへなむが
 
昭和十六年。折しも日本は太平洋戦争にさまよい出でる年。眼前に暗雲の垂れ籠めるさまを、歌人はその繊細な感覚でとらえ、無謀な奈落を肌で感じ押し留めようもなく瀬川に浮かぶ小笹舟の心境か。眼も不自由、身体も重い。老境の體でこの地に歩を運んだ。この若気の至りの地に。その心境や如何に。左の一首は彼のやるせなさを察して詠んだ私の作。
  このいのちおぼろ入寂たへなむひととせ
     超へて伏す身の耐へ難かりき 成秋
 
老い人と言へば茂吉もこんな恋歌を綴ってはゐるが、
 
  老びととなりてゆたけき君ゆゑに
     われは恋しよはるかなりとも
 
 白秋もまた歌詠みなれば、茂吉の心情に近いかも知れぬ。その心底に去来するは推測の域外であろうけれども、三崎は白秋にとって終生忘れがたい地であったことは否めない。
 だからこそ、こんにちも、三崎白秋会もあり三浦短歌会も脈々と生き続けているのであろう。
 僕は郷里堺にいて白秋の「帰去来の辞」に初めて接した中学時代を思い起こし、口ずさみながら白秋記念館へと急ぐ。
  山門やまとはわが産土うぶすな
  雲騰がる
  南風はえのまほら…
 
 この詩の最後のほうで、白秋は、
 
  帰らなむ、いざかささぎ
 
 と、白秋は異郷の地に立つ陶淵明の心境で遠く柳川の地に思いを馳せる。
 流離の地か。
 浪漫詩人の藤村も流離の日々を台町協会や小諸義塾で過ごし、そこをその時々の、心の住処としていた。白秋も三崎をこよなく愛し、閃光のように過ぎ去った日々を懐かしんだに違いない。
 吾人もまたここに腰を落ち着けて思いを過去に馳せよう。意を強く持つべきだ。そう考え、今や世界規模に発展拡大しつつある吾らの「オンライン万葉集」がこの三崎の街で開花する思いで先を急いだ。
 そんなわけで三崎白秋会とはご縁ができた。
 勉強会は潮騒の聞こえる城ケ島の「白秋記念館」で行われ、加藤会長様の温かい御心のあらわれで、自作の農園で採れた立派なメロンをお土産に頂戴することになった。
 「オンライン万葉集」について、日本の和の心を西洋に伝える大切さを語り、どの言の葉も朽ちて埋もれ木となる書籍の宿命を打ち破って、永久とこしえに読まれる可能性を語り続けた。人間の想念もまた肉體という有機体の死と共にこの世から掻き消えるが、オンラインに書きつけた言の葉は遺る。それも、いつ何時でも読めるゆえに活性化して生き続ける…。
 されど書籍も人工品。
 オンラインも人工品。
 中に想念が言の葉となってたゆたい
 人間ヒューマン不可解イニ有機体グマ
 がこの人工品に生命を吹き込む。
 未来永劫は誰の手に渉る
 創る者だけが守り人か?
 イニグマは無残な破壊者か?
 創るが故に
 破壊を歓ぶか?
 かくして壊れものとしての人間が破壊者ならぬ創造者として、ここに「オンライン万葉集」を造り上げ、白秋が縁で創設されたこの短歌会のお作を掲載する運びとなった。
3.心の命は永遠に
 白秋の取り持つ縁かいな、というわけで、温かい心の交流が三崎白秋会の研究部会と三浦短歌会とのご縁ができた。
 三宅尚道氏はこの度の講演の機会を設けられた世話人だが、「三浦短歌会」の維持についても長年にわたり努力しておられる。
 沿革を聞くと大事に継承される訳もよく分かった。今まで五回も「合同歌集」を出された会なのである。
 第一輯(昭和二三年)、第二輯(昭和二四年)、第三輯(昭和二七年)、第四輯(『群礁』、昭和五十年)、第五輯(平成二六年)。
 初期の方々はみな故人となられた。
 この会には規定があって、次のような約束事がある。
 「結社の如何を問わず、特定の指導者をおかず、あくまでもその作品を中心とし、批評と鑑賞を通じ、独善に陥ることなく、作歌の勉強と懇親を続けていく会である」としている。
 さっそく先人の歌を紹介しよう。解説は長崎三郎氏。
 
  外灯をめぐりて翔べる夜の蟲
     灯を消さばいずこにのがれん  飯島誠司
 作者、最晩年の歌。外燈を巡って、虫が飛んでいる様子を見ての感慨。灯を命と受けとめると、体の命がなくなると自分は何処へ行ってしまうのだろう。目に見える具体から、眼に見えない普遍的世界へと導く歌、と長崎氏は読み解く。飯島さんは代々三崎で医院を営む家柄とも聞いた。
 医師は常に死と向き合う職業であるから、街燈に蝟集する蛾の、無心に生き、無心に死ぬる命にも無関心ではいられないのであろう。
 文学を生きる糧として生涯を送っている私など、幼児の昔から、道端で転がるミミズや虫けらを、いとおしんだ。みな乾涸びて死んでいる。
 大人は「虫けらのように死ぬ」とか「犬死」とかいうが、そんな野卑な言い方を蟲や犬に与えるでないと、子供心に抵抗を感じた。自分もこのミミズ以上に弱い身体で近々このように乾涸びて死ぬるのだと、つくづく人生の儚さを幼時からかみしめたものである。
 その目でこの歌を再読すると、全身、だるさに襲われる。
 肉體が枯れ果てた後に吾が魂の行き場がどこか、やたらと気になったが、子供の頃は、わからんでいい、まだ先やと思い、成人すると、もうちょっと先や、もうちょっと先やで自分を誤魔化す。
 誘蛾灯に蝟集する蛾は自分の次の生まれ変わりだと真剣に思う。それも最近のことである。
 自分の命なんか、もう終わりや、次は蛾になって登場するのだろう。だからそんな運命を辿った奴らと自暴自棄になって、先を争って火に飛び込み、回生のライセンスを掴み取って、次の、もちっとましな生に駆け込む気なのだ。人間をいっぺんやってみると、その生命、なかなかによい。やっぱり人間で生まれ変わりたい、蛾は嫌だぜ、神様、と僕。蛾も、全蛾も人間になることを希っているのだろう。そうはいくものか、魚になってクジラに食われたり、ミミズになって魚の餌にされたり。いや待てよ…第一、人間って、そんなにましな生物なのか? それは疑問だ。人間なんて、虫けらの一体形かもしれん。この、根源的な疑問にも答えが出ない。いまも回答がなきまま、刻一刻と死に向かっているくせに、時間を浪費して短歌づくりなどに精を出している。…
 次の作。
 
  石油危機きびしき日々に獣糞を
     焚く草原の生活たつきを憶ふ   水谷みずたに壽子かずこ
 
 作者は戦時中、中国の満州にいた。満州から引き揚げてきて、戦後の生活が始まり、石油危機にみまわれた。石油による生活は便利であるが、便利さは不便さに繋がっており、前の満州生活を思い浮かべている。
 右のコメントは長崎氏のもの。
 満州と言えば思い出す、戦時中、満州では俳句や短歌が大流行り。今でいうオンライン万葉集に当たる全国ネットの詩歌集には満州からの応募がわんさとあった。それがあの引き揚げの悲劇の直前まで続いたのに、戦乱でずたずたになった。平和は有難い。有難いから我々は平和ボケではいけない。
  ふるさとに汀つながる海の声
     やさしく今日の目ざめを誘ふ 松本文男
 
 松本文男さんは東日本大震災で三浦に避難されてきました。若い時より短歌に取り組み歌歴の長い人でした。震災の歌が多くありますが、この歌は短歌会に出された最後の詠草です。大津波に遭われても最後に海を歌われ、慰められます。 長崎三郎
 
 ふるさとに汀つながると詠むと思い出す光景がある。今から二十年ほど以前にハワイ諸島の一つカウアイ島でのことだが、僕は日系移民史の調査でお寺に泊まり、戦後に日本に来たという二世を紹介された。彼は例の二世部隊の勇士だが、もう八十歳近くになられ、それでも青年のように精力的だ。僕の研究内容を聞いて、それでは一世のお墓に案内しましょうとジープを飛ばす。猛烈なスピードでサトウキビ畑の赤土の中、真っ赤な砂塵を上げて疾駆する様はさながら戦時中だが、そのカーラジオでガンガン鳴るのはなんと坂本冬美の「火の国の女」だった。やくざ調の、ドスの利いた歌がこの臨場感にぴったりだった。やがて前方の視界が広がる。と、ドドドドドド…逆巻く大海原だ。東映映画のタイトルバックだった!
 「何でこんな断崖絶壁に、大海原に向かって墓標が立っていると思いますか?」と、元二世兵士。「そ、それは…そうか、この怒涛逆巻く向こうに…」
 「そう、ジャパンがある。故郷があるから、死んだらみな、海伝いに田舎に帰りたいからですよ!」
あの時の海鳴りは忘れられない。
 大詩人でもなんでもない、明治初年にハワイに渡り、明治時代に早くもこの異郷で果てる、大正初めに死んだ人も、昭和の人も…次々墓標を読んで、二度、三度、四度、荒海を眺める。
 もはや墓参に訪れる人もなくなり、どの墓標も粛然としてそそり立つ。
 これが死なのだ。俺も近々こうなるのだ。
 東日本大震災で異郷の汀にいても、思うことは故郷のことばかり。
 白秋の言うように、汀づたいに帰りなむ、いざ鵲、である。
 三崎白秋会よ、三浦短歌会よ、永遠に。
 遺された歌は重い。実に重く、深い。       (第1回は以上)
 

福田京一

2020年7月18日現在、世界の新型コロナ・ウイルスの感染患者数が約1400万人に、死者は60万人に達したとニュースが伝えている。感染が収まっているように見える地域では、第2波、第3波が必ず来るだろうと感染症の専門家は警告している。中国で最初に感染が報告されてからわずか半年間で感染がこれだけの規模で世界中に蔓延したことはまさにペスト以来の「歴史的事件」と言って良い。この事件によって生まれた様々な分野における新しい現象について、各界の識者はすでに様々な意見をメディアに発表している。気の早い人のなかには「ポスト・コロナ」の世界とか生き方とか言っている。なかには傾聴に値する説もないではないが、まだ終息してもいないのに「ポスト」とはこれ如何に、と考えてしまう。そこで、少し立ち止まってコロナ現象を本質的な枠組み、つまり病気を生と死の問題のなかに据えて考えてみたい。そのために、ペストが大流行した16世紀から17世紀のイギリスの文学に表象された死と生のあり方を出発点として、パンデミックの時代に生きる私たちの生のあり方について考えてみたい。

1.ペスト流行の惨状とエリザベス朝の詩人

病気の原因が科学的に究明され始める近代まで、古代から中世まで疫病(plague)は共同体を襲う災害であり悪であり天罰であるとみなされてきた。では、有効な対処法がなかった時代に疫病がもたらす死の影に人が捕らえられたとき、人はどのように行動したのか。どのように考えたのか。何百年も人類を苦しめてきたペストの流行を巡って詩人たちが残している作品は、私たちに大事なことを教えてくれる。

古代ローマの詩人ホラチウスの有名な一行「今は飲む時だ、今は気ままに踊る時だ」が表している「今を生きろ!」(carpe diem)のモットーは「我(死神)アルカディアにもあり」(図1)、つまり「死を想え」(memento mori)と意味の上で表裏をなしている。ペストの代わりに結核だろうと心臓病だろうと、エイズだろうと、コロナ・ウイルス感染症だろうと、有効な治療法が見つからない限り同じ。時代によって不治の病は異なるが、病気が生の意義を考えさせる死の暗喩であると理解すれば、それは生の問題と切り離すことはできない。ここに死と生の基本的な関係がある。

中世のヨーロッパは、死の恐怖を前にした生の儚さをキリスト教教義のなかに取り込んで、絶対的な存在への信仰を組織化して盤石な社会を作った。その礎石を崩した原因のひとつが後期中世の14世紀から断続的に流行した黒死病(ペスト)と名付けられた疫病である。推計7000万人が14世紀の第1次ペスト大流行によって死亡したと言われている(村上、132)。もともと中央アジアで発生したペスト菌が、ヨーロッパとの交易や交通の発達と侵略などによってヨロッパ全土に広がったという。

ホイジンガは『中世の秋』のなかで、人びとの心に死の思想が重くのしかかり、「死を想え」の叫びが、生のあらゆる局面に絶えず響きわっていたと述べている。それは、三つのメロディーとなって後期中世に流れていた。その一つは、昔の栄華は今いずこ、という嘆き、二つ目は、この世の美しいものが腐れ崩れるのを見て震える恐怖、三つ目は、知らぬ間に死に連れ去られていく運命にある自分への恐怖である。このうち一番目の嘆きは、後の二つに比べて軽い悲哀の感情でしかない。それに比べると、死後に美人の肉体が腐乱し、悪臭を放つ様は単に美の儚さを思い起こさせるだけではなく、美そのもの存在を疑わせた。また、木版画や絵画や劇で繰り返し表現された「死の舞踏」(danse macabre 図2)のイメージは、死の具象化を通して見るものに彼もその犠牲になることから逃れられないという戦慄を与えた。このような死のイメージから後期中世における人々の思想は、ホイジンガによれば、二つの極端な方向に別れた。一方は、権力、名声、享楽、美は儚いものであるという嘆きであり、他方は、彼岸における魂の救済を信じて、至福の喜びにあづかることであった。そして、その間にある考えや感情は無視され、「生きた心の動きが石と化している。」

図1 N. プッサン「アルカディアの牧人たち」1637
図2 M.ヴォルゲムート「死の舞踏」1493

 では、その後、つまりルネッサンス期に、石と化した心はどのように生き返ったのか。死のテーマを中心にして考えてみよう。黒死病(図3)は、イギリスに限って言えば、1360-63年、1471年、1479-80年、1603-11年、1665-66年に大流行した。厳密な記録がないために、これも推計にしか過ぎないが死者数は約15万人から18万人ほどだと言われている(ウキペディア「ペスト」のリストに依る)。また当時の記録によれば、1570年から1670年までに66万人が死亡したと推計しているものもある。ただし、大流行した時期以外にもペストは頻繁に発生したのである。たとえば1592年から1594年の間もイギリスの各地ではペストが蔓延し、ロンドンでは15,000人が亡くなったという。まさに日常生活は黒死病と隣り合わせであった。当然のことながら、当時の詩人は愛を死と結びつけて作詩した。

エリザベス朝を代表する詩人エドモンド・スペンサーは『神仙女王』( 1590-96)で、足早に過ぎゆく時の残酷な仕打ちに対して恋人たちに、たとえ無常な人生であっても愛に生きるようにと次のように歌っている。 

So passeth, in the passing of a day,
Of motall life the leafe, the bud, the flower;
Ne more doth florish after first decay,
That earst was sought to deck both bed and bowre
Of many a lady, and many a paramowre!
Gather therefore the rose, whilst yet is prime,
For soon comes age, that will her pride deflower;
Gather the rose of Love, whilst yet is time,
Whilst loving thou mayst loved be with equal crime.

Book 2, canto 12, sanza 75.

一日が過ぎていくうちに 過ぎていくのです
人の命の葉も 蕾も 花も
一度枯れれば咲くこともない
かつては求められてベッドと寝室を飾ったのに
多くの婦人の、そして多くの愛人の
だから 薔薇を摘みとりなさい 盛りのうちに
すぐに花の誇りを奪いとる老年がやってくるのだから
愛の薔薇を摘みとりなさい まだ時があるうちに
お前が愛するとき 同じ罪で愛されるのだ

神の愛(アガペ)でない人間の愛(エロス)は、愛することも愛されることも所詮は人の世の罪にしか過ぎないとスペンサーは認めている。しかし、それでも愛の喜びに生きることを咎めているわけではない。ルネッサンスの理想は、美と愛と徳の三美神(図4)が手に手をとっている調和的な世界にあった。この世界観、理想化されたアルカディアにも死の影が潜んでいたのである。そして死が災害、戦争、疫病など様々な姿をして人々の目の前に現れると、調和の世界は揺らいだのである。愛は消え去る美に対して、また喜びを抑える徳(貞節)に対してより強く自己を主張し始めたのだ。

図3 P. ブリューゲル「死の勝利」(一部) 1562(?)
図4 S.ボッティチェリ「春」(部分)1482年(?)

 当代を代表するもう一人の詩人フィリップ・シドニーは17歳になった1572年、ペストの発生により閉鎖されたオックスフォード大学を後にした。そして一時ケンブリッジに移ったとき、そこでスペンサーと知り合ったらしい。1580年代に自伝的な『アストロフィルとステラ』を書いた。そこで、アストロフィルは人妻ステラへのプラトニックな愛を語る宮廷愛の伝統を踏まえながら、精神的な愛と徳と美を讃えたが、その一方で自分のなかに抑えがたいエロチックな欲望を認めた。

So while thy beauty draws thy heart to love,
As fast thy virtue bends that love to good:
But “Ah,” Desire still cries, “Give me some food!” (Sonnet 71)

だから 貴女の美しさが心を愛へと引き寄せるとき
すぐさま貴女の徳がその愛を善行に向かわせる
だが、嗚呼 それでも欲望は叫ぶ 「もっと食べものをくれ」と

かつてジョバンニ・ボッカチオは、猛威をふるうペスト禍を避けてフィレンチェの郊外の別荘で男女10人が語った艶笑譚中心の物語集『デカメロン』(1353)を書いた。そこで語り手たちは笑いと悲哀の混じった性的な欲望を直截に語ることによって、かた時も忘れられない死の恐怖に対して生の喜びを語り合った。いわば死神が見守るなかで、人はそうあって欲しい人生のありようを本音で表現したと言ってもよい。同様に、エリザベス朝時代の詩人や劇作家もまた、宗教が教える愛と徳と美についての建前を繰り返すのではなく、死と隣り合わせの生命を直視して表現に工夫を加えて新しい作品を作り出した。良家に生まれ、教養と才能に恵まれ、穏健な宗教観をもち、宮廷でも地位を得たシドニーが欲望に「もっと食べものをくれ」と叫ばせた。それは彼自身の個人の声というより、時代の声と言わずして理解できないだろう。

1592年には、トーマス・ナッシュは風刺パンフレット『ピアス・ペニレス』を出版し、クリトファー・マーローは悲劇『フォースタス博士』を、シェイクスピアは喜劇『間違いつづき』を上演した。同年の後半、ロンドンの劇場は閉鎖されたが、その時までに上演されたナッシュの寓話的喜劇『夏の遺言と遺言書』のなかで、のちに「ペストの時の連禱」(1600)として出版された次の詩が唄われている。

Beauty is but a flower
Which wrinkles will devour ;
Brightness falls from the air,
Queens have died young and faire,
Dust hath closed Helen’s eye,
I am sick, I must die.
Lord, have mercy on us!
美は一輪の花
やがて皺が食い尽くすだろう
明るさは大気から消えて
女王たちも若く美しいまま死に
塵がヘレナの瞳も閉ざした
わたしは患い 死なねばならぬ
主よ われらを憐み給え

 ルネッサンス期のヨーロッパで流行した田園詩をもとに、自然と人生の儚さを神の救済への願いと結びつけた詩であるが、ロンドンのペスト禍を思うとき、その願いは切実であった。カトリック教、ピューリタニズム、無神論の間の緊張が政治と絡んで、波乱含みの状況にあったエリザベス朝時代において、ナッシュは女王の権威と社会的秩序と英国教会を擁護する側に立っていた。しかし、女王の美しさも命も長くは続かず、塵は塵にかえるという聖書の教えに変わりはなかった。1568年以降ロンドンではペスト患者の家は戸口に「主よ われらを憐み給え」と書かれた張り紙が貼られて閉された。こういう点で、七つの大罪が神の怒りを招きペストが持たされたのだという当時広く受け入れられた考えを彼も持っていた。

2.3人の劇作家とペスト

1592年に『フォースタス博士の悲劇』を上演したマーローは、無神論者ではないかと嫌疑をかけられて、一時当局に逮捕されたこともある進歩的思想の持ち主であった。劇のはじめフォースタスは自問する。「お前の医療のおかげで多くの町はペストを免れ、何千もの命を落とす病を治めたではないか・・・それでも俺はただのフォースタス、ただの人間にしかすぎない。お前は人間に永遠の命を与えたか。また、死んだものを生き返らせたか。もしそうならこの仕事も尊敬されるだろうが。医学よさらば。」彼は学問に行き詰まり、奇蹟で病人を治すという教会も信じられず、悪魔から魔術を学ぶ。24年間メフィストフィリスを従えて、思いのままに人生を送る権利と交換に魂を差し出す契約を結んだ。

彼は魔術によって七つの罪の世界へ案内され、そこで快楽や権力や偽りの信仰を体験する。そして、やがて己の選択が間違っていたことを悟る。しかし、救いを求めるには遅すぎて、約束の24年が過ぎる。もともと魂のない動物なら、死ねば土に帰るだけだが、「だが、俺の魂は地獄でペストにかかって生きながえねばならぬ。俺を産んだ親に呪いあれ。いや、フォースタスよ、己を呪え、天国の喜びを奪った悪魔を呪え」と言いながら、地獄に落ちる。最後にコーラスが「天の力が許す以上のことを行った」から、と歌う。

1603年のペスト大流行に先立つ15年間、すでに経済不況、凶作、スぺインとの戦争、増税に苦しでいたロンドンのスラム街の貧しい人びとに、信仰心が欠けているので罹患したのだと責める聖職者たちに義憤を覚えたマーローが、この劇を作った。この劇は、ルネッサンスの人文主義思想にある人間中心の世界観の理想と限界をよく表している。形骸化したキリスト教会を批判しながら、惨憺たる生の現状を前に無力な医学にも絶望する。近代は、フォースタスが捨てた学問、つまり科学あるいは合理的思考によって、徐々に神の領域に立ち入って、現世における人間の幸福を追求していく歴史である。ルネッサンスの異端児マーローは信仰と学問の間でさ迷う近代の端緒に位置していたと言える。

シェイクスピアの生涯もいつもペストの脅威に晒されていた。1564年彼が生まれたストラットフォードで200人以上がなくなっている。彼が洗礼を受けた日の教会の記録に「ペストここで始まる」(hic incepit pestis)とある。ロンドンの彼の劇場グローブ座も何度かペストの感染拡大を恐れて閉鎖された。上演できない期間彼は作詩に没頭したらしい。1592年から1594年までイギリスの各地でペストが流行った。シェイクスピのみならず当時の詩人や劇作家たちシドニー、ナッシュ、マーローはロンドンでペスト感染の拡大を防ぐために患者の家は閉ざされ、その中に彼らが閉じ込められた光景を目の当たりにしたのである。

『ロミオとジュリエット』(1595)は二人の恋人の悲劇で終わるが、その直接の原因はペストであった。僧ローレンスは若い恋人を一緒にするために計画をめぐらし、その仔細を説明した手紙をマンチュアにいるロミオに届けるために使者僧ジョンを送った。しかし僧ジョンが道連れに選んだ僧がちょうど病人を見舞に行ったところだった。運悪くそこで検疫官に見咎められ「われわれ二人を、恐ろしい伝染病患者の出た家に居合わせたという疑いで、戸口は封印するし、一切外出を禁止してしまったのです。そんなわけで、肝心のマンチュア行きが、すっかり遅れてしまったのです。」(中野好夫訳、5幕2場)その結果、一時的に眠っているジュリエットが本当に死んでしまったと思い込んだロミオは、悲嘆にくれ自害する場面へと劇は一直線に進む。

ペスト禍への言及が彼の作品に多くないのは、観客にわざわざ凄惨な生活状況を思い起こさせるのではなく、儚い人生の一瞬を楽しませるのが観劇の目的であったからだろう。言及するにしても軽く触れる程度で済ますのは、死を無視したからではない。むしろ感染による死の恐怖が、生の喜びを強調する方に反転したと考えるべきだろう。それはボッカチオが『デカメロン』を黒死病の蔓延するフィレンツェで書いた事情と同じだろう。

例えば『恋の骨折り損』(c1596)の冒頭で、ナヴァール王は儚い人生と長続きしない美を嘆くのではなく、また人の情念と世俗の欲望に誘惑されることなく、すべてを刈り取る「時」の鎌に対抗するために宮廷を不滅の学芸を極めるアカデミーにする理想を語る。そのために、王は三人の貴族とともに学問に打ち込むために、3年間は女性と接触しないと誓いを立てた。しかし、美しいフランス王女と三人の貴婦人に会うなり恋をし、あの誓いは破られる。その際、貴族のひとりビローンは彼が恋焦がれるロザラインに恋の病をペストに喩えて、誓約を破ったことを弁明する。彼は自分と同様に「あの三人の身の上に“主よ憐み給え”と書いてくれ。彼らは感染し、彼らの心は病に取り憑かれている。ペストに罹っているのだ。あなたたちの目からうつされたのだ。彼らは罰を受けているが、あなたたちも感染してないわけではないぞ。主の徴[ペスト感染]がお前たちの身の上にも見えるじゃないか」(5幕2場)。確かに、美しい女性に見つめられて、恋の病に青ざめ喘いでいる男たちを熱病の患者に喩え、また男に恋煩いさせた女性を感染元と喩える言い回しは特に珍しいわけではない。しかし、おぞましいペストがロンドンの人々を震え上がらせている真只中にあっても、シェイクスピアにとって、恋の苦悩はペストの苦しみと本質的に同じ性質のものであった。

学問も宗教もペストだけでなく恋の病も治せないとなれば、学問を神聖化することも、自然の情に背いて禁欲的に生きることも、欲望のままに生きることと同じ程度に「罪」である。芸術の意義を認めないプラトンのアカデミーを模範とする国を作ろうとしたナヴァール国王の夢が、彼自身の心に生まれた恋愛感情によって脆くも崩れ去るという皮肉は当然シェイクスピアの、そして時代のものであった。その恋愛感情が神の怒りの暗喩としてのペストであったとしても、それは人が人である限り避けようのない生の現実である。この現実を再現するために「いわば自然向かって鏡を差し出す」(『ハムレット』3幕2場)ことによって、時代のあるがままの姿を映し出すのがシェイクスピア劇の目的であった。

『十二夜』(1602)のなかで、トービィとアンドルーに歌を所望された道化は「愛の歌、それとも良き生活の歌、どちらを?」と尋ねる。前者は「愛の歌だ、愛の歌だ」と、後者は「そうそう、良き生活の歌なんて気に入らないね」と言うので道化は次のように歌う。

O mistress mine, where are you roaming?
Oh, stay and hear, your truelove’s coming,
That can sing both high and low.
Trip no further, pretty sweeting,
Journeys end in love meeting,
Every wise man’s son doth know.
私の恋人よ どこへ行くの
ここに居て聞いておくれ 愛する人がくるよ
高い声でも低い声でも歌えるのだよ
どうか遠くに行かないで 可愛い人よ
旅は愛の出会いで終わるもの
賢い人の子ならみんな知っているよ
What is love? ‘Tis not hereafter,
Present mirth hath present laughter,
What’s to come is still unsure.
In delay there lies no plenty,
Then come kiss me, sweet and twenty,
Youth’s stuff will not endure.
          (Act. II, sc. iii)
愛とは何でしょうか 来世にはないよ
今の喜びに今の笑いがあるのだよ
未来などあてにならないよ
遅れたら何も残らないよ
さあここへ来てキスしておくれ 可愛い人
若さは長くは続かないから

 当時、「良き生活」といえばカトリック教であれ、プロテスタントであれ、贖罪と救済の教義に基づいて、神の恩恵を得るために備える現世の生活を意味した。とりわけ、ピューリタンたちの禁欲的な現世否定のカルヴァン主義は社会を根底から揺り動かす大きな影響力を発揮した。このような状況を背景にして、欲望を押し殺し、表面だけ品行方正な生き方を取り繕っている執事マルヴォーリオを「ピューリタンの一種だ」とトービーたちはからかうのである。ある意味で、シェイクスピアにとってピューリタンはペストでもあった。それはイデーを遠ざけるという理由で芸術を忌避したプラトンと同様に、ペストや災害や戦争や陰謀に毒されたイギリスの現実を見つめないで、観念や理想主義によって目を曇らせる人たちこそがペストであると言っているに等しい。実際、国教会に弾圧されて、浄化することを諦めて国外に新天地を求めた分離派も、また教会内にとどまって制度と礼拝様式を改革しようとする非分離派の人たちも、広い意味で、ピューリタンと呼ばれた。彼らの一部は、よく知られているように新大陸に「良き生活」の場としてニュー・イスラエルを建設するために移住した。

一方イギリスでは、1640年カトリック教徒のチャールズI世が処刑され、ピューリタン革命が成功した。そして、ピューリタンは劇場を閉鎖した。その理由は、演劇は人生の真実から目をそらす無秩序な、有毒な病とみなされた。また、偶像崇拝を助長した中世のカトリック教の堕落とペストが関係づけられて、さらに現世の偽りの生活を再現して観客を毒する演劇がペストと結びつけられたのであった。しかし、革命の熱病も1760年の王政復古とともに消える。それでも、ペストは不死身であった。

14世紀の大航海時代の幕開け以降、交易のため人の移動空間が拡大し、かつ頻繁になることによって、さらに長引く戦争(30年戦争、100年戦争、7年戦争など)によって人同士の接触が増加した。感染症の蔓延は人の動きと接触が増えるにつれ断続的に起こることとなった。このような中世世界の延長線上に近代があるとすれば、感染症が含意している文化的意味はより広範な広がりを持つのは必然であった。

人はそれぞれに与えられた役割をほんの短時間演じた後、舞台から消えていく。それなら、楽しめる限り楽しくやろうじゃないか、という訳である。人生は喜びと希望に満ちた喜劇の舞台。しかし、一方で、舞台で楽しく踊り終わった後に何が待ち受けているのか、と考えた場合、マクベスが告白するように人生は阿呆が語る「響と怒りの話」にしかすぎず、何の意味もないことになる。人生は、喜びと希望に満ちた生の饗宴であってほしいと願う喜劇であると同時に、そこに「死の舞踏」を見る人に受難と憐みを喚起する悲劇でもある。この二つの間を行きつ戻りつ、人の意識はどこに向かおうとしたのか。17世紀の死生観が内在している二つの方向のその後の展開を見ると、ペストが中世後期からルネッサンス人に受け継がれた実存への不安は近代後期にある現在のそれといかに酷似していることか、驚かざるを得ない。

ベン・ジョンソンはシェイクスピアの同時代人として同じ文化的境遇のなかにいた。彼は1603年7歳の長男をペストで亡くした。その直後、彼は最愛の息子の死を悼むエレジー「初めての息子へ」(1603)を書いた。

Farewell, thou child of my right hand, and joy;
My sinne was too much hope of thee, lov’d boy,
Seven yeeres thou’wert lent to me, and I thee pay,
Exacted by thy fate, on the just day.
O, could I lose all father, now. For why
Will man lament the state he should envy?
To have so soone scap’d worlds, and fleshes rage,
And, if no other miserie, yet age?
Rest in soft peace, and, ask’d, say here doth lye
Ben. Jonson his best piece of poetrie,
For whose sake, hence-forth, all his vows be such,
As what he loves may never like too much.

さらば わが大事の子、喜びの子
お前に望みをかけ過ぎたのは俺の罪 愛する子よ
七年俺に貸し与えられたお前、いまお前を返すのだ
運命によって取り立てられたのだ 期限が来たので
おお いま父のすべてを失うことができればよいが なぜ
羨むべき状態を嘆き悲しむのか
こんなに早くこの世の煩いと肉体の狂気から逃れたのに
ほかに不幸がないとしても 少なくとも老年からは
安らかに休め もし尋ねられたら答えよ ここに
ベン・ジョンソンの最良の詩が眠っていると
お前のために俺がこれから立てる誓いは
愛することはあっても決して愛しすぎないこと

あまりにも大きな喪失感をもたらした最愛の息子の死が彼の信仰を深める契機になったようには読めない。また、普通のエレジーに見られる穏やかな諦念と慰めによって彼の悲しみが和らげられたようにも見えない。その後の彼の作品に対する世間の良い評判とは別に、彼の自己評価は息子という「最良の詩」に匹敵できる作品は残せなかったということだ。ここには風刺、皮肉、諧謔、哄笑、冷笑に充満した彼の劇のなかに込められた説教じみた教訓は見られない、死への深い悲しみがあるのみである。

「今を生きろ」のモットーに関連して言えば、喜劇『ヴォルポーネ』(c1606)なかで詐欺師ヴォルポーネが人妻を誘惑する時に歌った詩はのちに「歌:シーリアへ」(1606)として出版された。それは次のように始まる。

Come my Celia, let us prove,
While we may, the sports of love;
Time will not be ours forever:
He, at length, our good sever.
Spend not then his gifts in vain:
Sun that set may rise again;
But if once we lose this light,
‘Tis with us perpetual night.
Why should we defer our joys?
おいでシーリア 楽しもうよ
いまのうちに 恋の遊びを
時はいつまでも居てくれないよ
われらの恩恵もやがて終わらせる
彼の贈り物を無駄にしないように
沈む陽はまた昇るが
ひとたびわれらがその光を失えば
残るのは永遠の闇だけ
楽しみを先に延ばしてどうするのか

 劇中では、己の欲望を満たすことしか考えていない誘惑者の甘言として、あるいは、中世のロマンスの主題である人妻へのプラトニックな愛をパロディにした歌として聞くことができる。シーリアの夫は高貴な騎士でも貴族でもなく、金銭欲に囚われた俗物ブルジョワであるが、彼女は貞節を守り抜く。そして、最後にその貞節は報われる。一方、劇から切り離してこの詩だけを読む場合は、違う解釈が成り立つ。道徳に縛られ、短い人生を愛なく無駄に過ごす若い女性を口説く恋の歌として、あるいは「命短し恋せよ乙女」と切々と訴える求愛の詩として読める。シーリアは「永遠の闇」が訪れる前に束の間の愛あるいは快楽を楽しもうとする男の欲望の対象である。そして彼女は男が仕掛ける「恋の遊び」に生きがいを見つけるかもしれない。

徳と愛の葛藤は、中世の騎士道物語のなかで理想化された男性の苦悩の源であった。そして、現在から見れば自由がなかった時代に女性は愛を選ぶことは許されず、徳のみを押し付けられたのである。このような意味で、この詩をいずれの文脈で解釈する場合でも、美が無常にも足早に消え去っていくなら、中世の世界はもとより、徳と愛の葛藤を美が仲裁することで成り立っていたルネッサンスの理想的世界も崩れているという意識がある。近代への過渡期にあるルネッサンス後期には、徳に囚われない男は愛つまり欲望に生きることができるが、以前と変わらず徳を押しつけられた女性は徳と愛の葛藤に苦しむ。偏在する死神の足音がその葛藤を一層強く意識させたのだ。こうして男の「死を想え」は徳を忘れて「今を生きろ!」という女性へのメッセージに変換されたのだ。

1600年頃ロンドンの人口は約25万人で1650年には40万人になり、ヨーロッパ最大の都市になりつつあった。1603年に派生したペストが広がると、国王の諮問機関である枢密院は121の教区に対してペストによって死亡した人数を報告させた。週に121人に達した時、集会と劇場の開催を禁じた。こうして1608年7月頃から1610年1月まで劇場は封鎖された。その間ジョンソンは再開される劇場で上演する風刺喜劇『錬金術師』(1610)を書いていた。そこで観客に当時のロンドンの社会的状況、政治、宗教、演劇界を詳しく反映させた。富裕層はペストを恐れて郊外に逃げだした後、町に残った人たちを相手に罪を悔い改めよと説く説教者、インチキな薬を売るいかさま医者たち、浅薄な劇で観客から高い切符を売りつけて大儲けする劇場主や作家を風刺した。彼のこの風刺の精神の根っこに、死の側から見た現世の悲しくも愚かしい人間の営みへの激しい倫理的怒りがあった。

2020年7月19日

参考文献

Reid Barbour, “Thomas Nashe.” Poetry Foundation. Org. 
Ingo Berensmeyer ed. Handbook of English Renaissance Literature. 2019.
A. C. Hamilton, Sir Philip Sidney: A Study of His Life and Works. 1977.
Margaret Healy, Fictions of Diseases in Early Modern England. 2001.
Holly Kelsey, “Pestilence and playwright.” Shakespeare Birthplace Trust, 07 Sep. 2016.
Ellen Mackay, Persecution, Plague, and Fire. 2011
Emilien Mohsen, Time and the Calender in Edmund Spencer’s Poetical Works. http:www.publibook.com
Susan Sontag, Illness as Metaphor. 1977
Nigel Wheale, “A Constant Register of Public Facts 1589-1662” in Writing and Society. 2005.
F. P. Wilson, The Plague in Shakespeare’s London. 1924.
“A Pleasant Comedy Called Summer’s Last Will and Testament.” http: www. oxford-shakespeare.com.
ジャーコブ・C・ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』1860.
ヨーハン・ホイジンガ『中世の秋』1919.
高階秀爾『ルネッサンスの光と闇』1971.
村上陽一郎『ペスト大流行』1983.

 短歌詠草 令和二年二月十七日
             東京府中 河内裕二
 
近所の公園の光景もどこか生きづらい世の中に見えてくる。
梅雨時の南風を黒南風といふとか。
黒南風くろはえに蓮より落ちる水玉に
     揺られし水面鯉が顔出す  
 
 
暗闇に立つ一本の老木に思いを寄せて
五月さつきやみ空き家の庭の老木は
     過去見つむるや朽ち果つるまで  
 
 
濡羽色の鴉は死と再生のシンボルとされている。
路地裏に震えしこゑでなく鴉
     黒き瞳に空映りたり  
花の香りは昔の記憶を呼び戻す。
ジャスミンのかほり残して去りしきみ
     春にはわれを想ふならむや  
 
 
コロナ禍で使用禁止中のグランドを見つめ
雨上がり土の匂ひのグランドに
     若かりしわれ握りめし喰ふ  


「オンライン万葉集」鎌倉会

現代の万葉集はTVドラマも歌謡作詩も含めます

かつて鎌倉は文士の街でした。ロマンとドラマが渦巻いていました。今はオンラインの時代ですから、才能さえあればグローバルに活動できます。歌謡も映像も舞台芸術も、傑作が生まれれば審査して「オンライン万葉集」にアップします。これは特許庁出願中の、日本で唯一の存在です。品位のある日本文化を世界に発信させたく企画しました。

☆毎月2回。8月から個々にスタートし順次曜日をきめて10月から本格始動。
 ☆楽しい食事会のあと、作品朗読や語らいと新作発表会になります。
 ☆プロの努力譚も聞け、歌詞、作曲、詩歌を「オンライン万葉集」やCDに。

日取りと場所:

コロナ騒ぎ中はオンライン参加だけでも入会可能です。
8月からは個別開始ですが、10月からは水曜か日曜日にまとめます。

☆ミーティングは「Café Ethica」(カフェ・エチカ)にて。住所と電話は鎌倉市雪ノ下1-4-32 2F。
  ☎0467-23-7292です。店内はジャズ時代のspeak easyっぽい雰囲気。

☆アクセス:JR鎌倉駅から赤い鳥居のある小町通を真っすぐ歩いて、左手にある教会を過ぎてすぐ、
  町屋風の木造店舗の2階です。カフェなのに書籍もいろいろあります。

☆Café Ethicaのマスターは演劇人で文芸の話題も豊富だから居心地は満点です。

会合方式と個性:既成の作品よりもオリジナルを歓ぶセミナー

☆上位者には自由度の高い創作が主ですが、初心者には文章道から指導します。
 ☆会員が揃えば、自作を増し刷りして持参し、読み合わせをします。
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☆会費は月額3,000円。Original memberは月額2000円です。
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★入会は事務局:090-2735-7495またはinfo@romanticism.jpに

☆事務局:〒240-0111神奈川県葉山町一色 オンライン万葉集編纂所(委細面談)
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