日本浪漫歌壇 夏 水無月 令和三年六月十九日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 歌会の当日は雨だった。関東地方も数日前に梅雨入りが発表されていたので雨が降るのも仕方がない。雨が続くことで逆に六月になったことを実感する。梅は春の季語だが六月に雨が続くことを梅雨と書くのはなぜだろう。しかも梅雨と書いて「つゆ」と読む。気になったので辞典で調べてみた。花ではなく実に関係していた。梅の実が熟す時期に降る雨を中国の長江流域で「梅雨」と読んでいたのが江戸時代に日本に伝わったとされるようだ。しかし諸説あるとのこと。この時期の雨をもともと日本では五月雨と呼んでいた。梅雨の字を「つゆ」と呼ぶようになったことについても「梅の実が熟して潰れる『潰ゆ(つゆ)』からや「カビで物が損なわれる『費ゆ(つひゆ)』からなど諸説あって、要するにはっきりわからないのである。今年は例年より一週間ほど遅い梅雨入りとなったが、明けるのはいつになるのだろうか。
 今回の三浦短歌会と日本浪漫学会の合同歌会は、六月十九日の午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子の四氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の桜井艶子、清水和子、玉榮良江、田所晴美の四氏も詠草を寄せられた。
 
  東海の益荒男成りしマスターズ
     亡き夫ならばいかに思ふや 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。ゴルフのメジャー大会である「マスターズ」で松山英樹選手が日本人として初優勝を果たした。亡き夫はゴルフが好きだった。もし彼が生きていてこの快挙を知ったとしたらどんなに喜んだであろう。ゴルフのニュースに亡くなった旦那様のことを思い出されながら詠まれた一首。
 最近では野球の大谷選手やテニスの大坂選手など世界の第一線で活躍する日本人アスリートも登場しているが、体型によるものなのか長い間スポーツ界では日本人が活躍できなかった。いわゆる「世界の壁」があった。加藤さんによれば、とりわけ男子ゴルフはこの「壁」が高く、これまで幾多の日本人トップ選手が挑戦しても誰もメジャー大会で勝つことはできず、マスターズ制覇は男子ゴルフ界にとって祈願だったとのこと。
 
  ワクチンの接種予約は成功も
     スマホ操作に奮闘五時間 光枝
 
 この歌を詠まれた嘉山光枝さんはワクチン接種の予約にとても苦労された。嘉山さんのお話では、予約電話は混み合って一切つながらないため、スマホによるネット予約を行ったが、操作法がわからなかったり不具合が出たりして完了するまでに五時間もかかったそうである。
 この歌においては、他でもない「五時間」というのが秀逸である。結句にキレを出すためには一音になる数字を選ぶことになるが、二、四、五、九とある中でさすがに九では長すぎる。次に長く、奇数の五が最善だろう。筆者の私感だが、偶数は奇数よりも安定感があり優しい印象を受ける。奇数の「五」という数字が「奮闘」という言葉と相まって、慣れない作業への不安や苛立ち感を上手く醸し出している。
  コンビニの防犯カメラに燕の巣
     親鳥ひたすら餌をはこびくる 尚道
 
 三宅尚道さんの作で実際に目にした光景を詠んだもの。誰もが一度はつばめの巣を見たことがあるだろうが、さすがに防犯カメラの上の巣はないだろう。「防犯カメラという人間が同じ種族の人間を疑って取り付けている装置にお構いなしにつばめが巣を作るのが、人間をあざ笑っているかのようでとても面白い」というのは濱野会長のお言葉。
 
  くちびるや歯牙にまとひし言の葉を
     秋風に舞ふ瞳に告げをり 成秋
 
 濱野成秋会長の作。この歌は次の松尾芭蕉の俳句の本歌取り。
  
  物いへば唇寒し秋の風 芭蕉
  
 濱野会長によると、芭蕉はこの句の詞書で、余計なことを言うと災いを招くので言葉を発するときは注意しなさいと説いたそうで、俳聖ともあろう人物が詩歌でごく当たり前の市井の道徳を説いていることにがっかりしたと仰る。自分をさらけ出してこそ文学であろうと。
 人間はときに他人を非難したくなるが、「まとひし」と表現したようにたいていその言葉を声に出すことはしない。では非難しないかと言えば、否である。目は口ほどに物を言うというように、口では言わず、目で告げて非難しているのである。そんな嫌らしい我が心を見てくださいという歌であるとのご説明。参加者の皆さんも確かに人間は目で物を言っているが、とくに日本人の場合はそれが強いのではないかとのご意見であった。
  
  スーパーの入口にある貼り紙に
     「トンビに注意」今日は梅雨入り 良江
 
 作者は本日欠席の玉榮良江さん。ご本人に伺うこと出来なかったので、歌の内容についてはわからないが、実際に張り紙がされていたのをご覧になったのだろう。三浦ではとんびはよく見かけるそうだが、さすがにスーパーという場所との組み合わせは意表を突くもので、強く印象に残ったために歌に詠まれたのではないか。
 
  夕空に生気みなぎる点描画
     騎虎の勢ひむくどりの群れ 裕二
 
 筆者の作。毎年この時期になると住んでいる街の駅前にむくどりの群れがやって来る。その数たるや驚くほどで、鳴き声も大きくて人の話し声も聞こえないほどである。何かの拍子に一斉に飛び立つと右に左に旋回し、その光景は巨大な点描画が動いているかのようでその迫力に圧倒される。実際にむくどりの群れをご覧になったことのある嘉山さんより「まさにこの歌のようだった」というお言葉をいただいた。
  小雨降るブーゲンビルに鎮魂す
     万葉の歌父と捧げん 弘子
 
 作者は嶋田弘子さん。筆者は太平洋戦争の激戦地としてガダルカナル島という名は何度も聞いたことがあるが、同じソロモン諸島のブーゲンビル島については初めて聞いた。嶋田さんのお父様は戦争中にこのブーゲンビル島におられたので、戦後は島を訪れることなく亡くなられたが、きっと訪れたかったのでは。そう思われた嶋田さんは今から十二年ほど前にお父様の魂と一緒に行くつもりで、ブーゲンビル島に慰霊の旅をされた。本作はその旅の歌である。「万葉の歌」とは『万葉集』にある大伴家持の歌から詩が採られた『海行かば』のことだろう。
 
  九時に寝る忙しき頃の夢を見て
     五時四〇分 今日も日曜 和子
 
 清水和子さんの詠まれた歌であるが、ご本人が本日は欠席されていて内容について詳しく伺うことはできなかった。五時四十分というかなり細かい時間に何か特別な意味があるのだろうか。忙しくしていた頃には夜は九時に寝て翌朝早く起きていた。今は早く起きる必要がないのにその頃の夢をみて五時四十分に目が覚めてしまったという実体験を詠った歌だろうか。
 
  木漏れ陽の光鋭く空を裂く
     心ふるえる白内障オペ 艶子
 本日欠席の桜井艶子さんの作品。白内障の手術をしたことのある三宅さんはこの歌の「光鋭く」の部分などがよくわかると仰る。友人の加藤さんのお話では、桜井さんが手術を受けたのはこの歌会の前日とのことなので、歌は手術前に詠まれたことになる。「木漏れ陽」や「空」というあまり手術とイメージの重ならない言葉に「鋭く」や「裂く」のような言葉を組み合わせて下句の手術とイメージを繋げ、全体がうまくまとまるように工夫されている。
 
  クラス会年重ねたる老の身を
     忘れ乙女にもどるひと時 晴美
 
 加藤さんのご友人の田所晴美さんの歌。田所さんは千葉にお住いで、三浦で行われる歌会に参加することは難しいため投稿でのご参加となった。クラス会では皆が当時に戻ってしまうのは、クラス会に出席すれば誰もが経験することではないだろうか。クラス会での楽しい笑い声が聞こえてきそうな誰もが共感できる素晴らしい一首である。
 
 今回も皆さんの歌から多くを学ぶことができた。とくにお父様と戦争・平和への思いが込められた嶋田さんの歌を拝読して、平和であることが当たり前のように生きてきた筆者やさらに若い世代は戦争の記憶を風化させてはいけないと思った。戦没者追悼式で現在の上皇と天皇が「おことば」で毎回「過去を顧み、反省し、再び戦争が繰り返されないことを願う」と述べられていることを思い出した。本日も充実した歌会であった。
日本浪漫歌壇 春 卯月 令和三年四月十七日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 四月二十日頃のことを二十四節気で「穀雨」と言う。穀物を潤す春雨が降ることから名づけられた。この時期に降る雨について調べてみると、穀物を潤す雨で「穀雨」と同義の「瑞雨」、草木を潤す「甘雨」、菜の花が咲く頃に降る「菜種梅雨」、春の長雨の「春霖」、花の育成を促す「催花雨」、卯月に降る長雨の「卯の花腐し」など多くの名前がある。
 歌会当日はあいにくの雨だったが、三浦は畑が多く野菜の栽培が盛んである。植物にとっては恵みの雨になっただろう。四月十七日は午後一時半より三浦短歌会の皆様と日本浪漫学会が合同で歌会を行った。会場は三浦勤労市民センター。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、玉榮良江の六氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の桜井艶子氏も詠草を寄せられた。
 
  ゆく春の橋の上なるおぼろ月
    黄砂のせいとつれないラジオ 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。「おぼろ月」というと唱歌『朧月夜』を口ずさんでしまうのではないだろうか。『朧月夜』は作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一で、このコンビは他にも『故郷』『春が来た』『春の小川』などの素晴らしい日本の歌を作っている。「白地に赤く日の丸染めて」で始まる『日の丸の旗』も彼らによるものである。
加藤さんも「菜の花畠に入り日薄れではないが」と先ず『朧月夜』に言及され、ご自身が夜空に浮かぶ月を見て今日はおぼろ月だとロマンチックな気分になっていたら、ラジオで十年ぶりに関東でも黄砂が確認されたというニュースがあり、飛来した黄砂のせいで月が霞んでいたと知り少々興ざめしたとのこと。たしかにどこか不毛なイメージのする乾燥した砂漠の砂で霞むのと霧や靄などの空気中の水分に包まれて霞むのとでは「おぼろ月」も気分的に異なるだろう。
 おぼろに霞んだ月の美しさに日本人はずっと魅せられてきた。『新古今和歌集』にも朧月夜の歌がある。
 
  照りもせず曇りも果てぬ春の夜の
     朧月夜にしくものぞなき 大江千里
 
 この柔らかな光の感じを好むからこそ日本家屋では障子が使われるのではないだろうか。谷崎潤一郎の随筆に『陰翳礼讃』というのがあるが、日本人はあまりギラギラ明るいのを好まない。陰影の中で映えるものを美しいと思うのである。
 
  満人の近くの店から漂へる
     食欲そそる中華の匂ひ 光枝
 
 作者の嘉山光枝さんのご自宅の近所には中華料理屋があり、お昼時に美味しそうな中華料理の匂いが時々風に乗ってやって来る。その何気ない日常を詠った一首。
 初句の「満人の」によって歌のイメージが膨らむ。お店をされているのは中国の方だそうだが、東北部の満州出身かどうかは不明とのこと。そこをあえて満州出身とすることで彼らに対して興味を抱かせる。満州というと満鉄や満州国さらに終戦後に命がけで日本に引き上げてきた引揚者のことなどが頭をよぎる。ある時はロマン、またある時は悪夢。日本人にとって「満州」は中国の他の地名にはない特別な意味合いを持っている。
 「雪の降る夜は楽しいペチカ」という歌詞で始まる作詞北原白秋、作曲山田耕筰の『ペチカ』という童謡がある。筆者はずっとロシアについての歌だと思っていた。ペチカとはロシアの暖炉のことだからである。しかしこの歌はもともと一九二四年に発行された『満州唱歌集』に収められた唱歌で、当時の満州を舞台にしている。歌を依頼された白秋と耕筰の二人は満州まで行って制作した。今回その事実を知った。
 
  病超へ遂げし娘の記録見て
     揺れる母御の心測れり 和子
 
 作者は清水和子さん。白血病を克服し日本選手権で優勝を果たした水泳選手の池江璃花子さんの話を聞いて詠まれた歌。池江さんご本人ではなく彼女のお母様の心境を歌われたのは、清水さんご自身がいつも母親としてお子さんのことを心配しているからで、お子さんが重い病気になった池江さんのお母様の気持ちを考えずにはいられなかったとのこと。
「今の若いお母さんは気持ちが強くて娘を絶対に勝たせてあげたいと思うかもしれないが、自分などは水泳が続けられなくてもオリンピックに出られなくても体を大事にしてただ元気でいてくれたらそれでよいと思ってしまう」と清水さんは仰る。食糧事情が悪く戦争もあって多くの人が亡くなった時代を生き抜いてきた清水さんの「ただ元気でいてくれたらよい」というお言葉には重みがある。たとえ清水さんの仰るように世代によって考え方に違いがあるにしても、わが子を想う親の気持ちは変わらないだろう。『万葉集』にも次のような歌がある。
  
  あの人もこの人も「いい人ね」って
     思える今日の元気な証拠しるし 弘子
 
 作者の嶋田弘子さんは、最近短歌は必ずしも古典的でなくてもよいのではないかと思われたそうで、俵万智や若い歌人の自由な歌からご自身も「五・七・五・七・七」の定型に縛られない歌をお詠みになったとのこと。他人を良く思えない時は、自分の調子があまり良くないと経験から感じておられて、そのご自身のバロメーターを歌にされた。誰でも自分のことを知るのは難しい。他人に対する気持ちから自分の状態を知る。たしかに自分の心に余裕がないと、人に対して優しくなれないものだ。
 
  銀も金も玉も何せむに
     まされる宝子にしかめやも 山上憶良
 山上憶良の「子等を思う歌」の一首である。
 
  この世をば散りて去りたるさくらばな
     実をば結ばめ春は来ずとも 成秋
 
 濱野成秋会長の歌。桜の花でご自身の気持ちを表現されている。一般的な桜であるソメイヨシノは、花は美しいが実を結ばない。桜の花のように自分も散ったら終わりなのだろうか。たとえ散ってしまって春が来なくとも実を結んで次の世代に残してほしいというお気持ちがある。ご自身のお仕事などを振り返ってみても、たいして実を結んでいない気がして、この歌が出てきたと仰る。参加者の皆さんもそれぞれ歩んでこられた道は違えど同じ気持ちであると共感された。
 『新古今和歌集』に後徳大寺左大臣の桜の歌が収められている。
 
  はかなさをほかにもいはじ桜花
     咲きては散りぬあはれ世の中 後徳大寺左大臣
 
 世の儚さは桜の花の他には喩えようがないと言っているが、濱野会長の歌にも通ずるところがあるだろう。
 
  だんボール入りし柔らか春キャベツ
     家族総出の収穫すすむ 良江
 作者は玉榮良江さん。玉榮さんの作品はいつも鮮明に情景が浮かんでくる。描写が巧みだからだろう。三浦はキャベツ畑が多く、春にはこの歌のようなシーンがよく見られる。キャベツは夏にも収穫されるが、収穫のスピードが要求されるのか家族総出で行うのは春だと仰るのは嘉山さん。柔らかくて甘い春キャベツも採れたては鮮度がよく当然美味しいのだろう。
 
  相模湾一望にして春霞
     湯舟につかり友と語らむ 艶子
 
 今回はご欠席の櫻井艶子さんの作品。ご友人と熱海に行き楽しい時間を過ごして幸せを感じた時に詠んだとのことで、この作品も玉榮さんの作品と同様に情景がはっきり浮かんでくる。まるで絵画を見ているかのようで描写に無駄がない。友と語らふ声までが聞こえてきそうである。「相模湾」という具体的な場所を示す固有名詞の使用もこの歌では成功している。作品に現実感を与えるとともに、この辺りを知る者なら海には何が見えるのか。伊豆大島か伊豆半島か三浦半島かなどと想像できるのもまた楽しい。。
 
  花時に自粛求むる時の
     太子偲びて現在いまを生きゆく 裕二
 今年は聖徳太子の千四百回忌の年で、四月の初めに奈良の法隆寺で法要が行われた。百年に一度の節目だったが、新型コロナウイルス感染症の影響で感染防止対策を行って規模を縮小しての実施となった。その様子をニュースで見て筆者が詠んだ歌である。
 美しく桜が咲いても昨年に続き花見はできす、接触や蜜を避けるため人に会うこともままならない。この生活はいつまで続くのだろうか。日本のように人びとの自粛に任せてそれなりに行動が抑えられている国は珍しいと言われている。国民性と言えばそれまでだが、なぜそうなったのか。聖徳太子が作った十七条の憲法は第一条「和を以って貴しと為す」で始まる。日本人はその精神を現在まで受け継いできたのではないか。聖徳太子は当時猛威を奮った流行り病で亡くなったとされている。三宅さんのお調べになったところでは天然痘のようだ。太子はちょうど今の筆者の年齢で亡くなった。千四百年の時を越えて、今一度太子の教えに耳を傾け、コロナ禍を生き抜いてゆかねばならない。そんな気持ちでこの歌を詠んだ。
 
  夫とゆく揃いのマスクでコロナ禍を
     浮世さだむや総合病院 弘子
 
 上句を読んで仲の良いご夫婦が一緒にご旅行にでも出かけられるのかと思って下句に進むとお二人で通院されることがわかり一気に緊張が高まる。本作は先日夫に病気が見つかりご夫婦で病院に行かれたという嶋田弘子さんの歌。二人で通えるのは嬉しいが、その場所が病院でしかもコロナ禍。夫の病気とコロナの両方が心配になる。どうしたものか。その浮き世を定めてくれるのが大きな総合病院というまとめ方はお見事である。
  自衛隊訓練生はひたすらに
     パドル動かす春のうしほに 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。自衛隊武山駐屯地に陸上自衛隊高等工科学校があり親元を離れて全国から学生が集まってくる。今の時期は学校前の長井の湾でカヌーをやっている姿をよく見かけるそうで、学生は必死にパドルを漕いでカヌーを進めるが、腕力の違いが如実に現れると仰る。まだあどけなさが残る新入生も厳しい訓練を受けて卒業する頃には心身ともに逞しくなり立派な自衛官になって巣立ってゆく。在学中は給与が支給されるのだから規律や訓練は相当厳しいだろう。三宅さんの歌からもその厳しさが伝わってくる。
 「春の潮」という言葉から受ける温かい海でみんながのんびり遊んでいるような印象とそのような場所で「ひたすらにパドル動かす」と彼らが真面目に厳しい訓練に取り組んでいるという二つの言葉の組み合わせが秀逸であると仰るのは清水さん。たしかにその通りである。遊びたい盛りの若者たちが楽しくしている人たちを横目にストイックに訓練に打ち込むその姿が目に浮かんでくる。
 歌会を終えていつものようにカフェ・キーに移動する。お茶をいただきながらしばらく歓談する。
 今回の勉強では、五・七・五・七・七で各句を前後逆転させたり言葉を少し変えたりすることで短歌としてとても引き締まったように思う。その助言をされた濱野会長は後で申し訳なかったと言われたけれど、散文の調子から詩的な短歌に仕上がった感があり、皆さんに参考にしていただけた。筆者自身も皆さんの歌を読ませていただき、その歌をどのような思いで詠まれたのかを伺って、その思いを伝える表現を工夫するやり方を濱野会長の助言から学ぶことができて大変勉強になった。
 コーヒータイムを終え、お店を出るころには雨も小ぶりになっていた。港の向こうには城ヶ島が見える。今日はまさに「雨はふるふる」である。新型コロナウイルス収束の兆しは見えないが、これまで外出許可が下りずにご欠席されていた清水さんに初めてお目にかかることができた。今回も実りの多い大変充実した一日となった。
日本浪漫歌壇 春 弥生 令和三年三月二七日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 毎年気象庁から東京の桜の開花宣言が出される。今年は三月十四日で、昨年と同日の二年連続の観測史上最も早い開花日となった。桜は開花より一週間から十日ほどで満開となる。歌会が開催された三月二七日はまさに花は咲き誇り、木によっては少し散り始めて花びらが慎ましやかに舞っていた。桜を愛でるには最高の日となった。地球温暖化の思わぬ恩恵か。歌会は三浦三崎の「民宿でぐち荘」で午前十一時より始まり、第二部には花見の宴が催された。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、嘉山光枝、嶋田弘子、玉榮良江の四氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の加藤由良子、清水和子の二会員も詠草を寄せられた。
 
  コロナ禍で自粛の日々も桜咲き
    鶯鳴きて暫しの癒し 光枝
 
作者の嘉山光枝さんは自然豊かな場所にお住まいで、この時期にはご自宅の側に咲く桜の花を眺めていると鶯の鳴き声が聞こえてくると仰る。コロナ禍で自粛が求められる生活に変わってしまっても、自然の営みはいつもと変わらない。春になれば木々は芽吹き、鳥はさえずる。身近にある自然の美しさに癒やされ、安らぎを得ましょう。本作はコロナ禍でどこか窮屈で落ち着きを失った社会に対しての嘉山さんのメッセージだろう。
 鳥の中でも鳴き声が美しく印象的なのはやはり鶯である。容姿はメジロの方が「うぐいす色」で、鶯は緑よりもむしろ茶色っぽく、鑑賞するならメジロ、声を聴くなら鶯と皆の意見が一致。メジロの話が出たところで、濱野会長から「メジロ取り」という東京青梅市で聞いた慣習についてのお話があった。「メジロを取らせてください」と言って他人の庭に入って行くと、その家の奥様がどうぞどうぞと縁側に招き入れ、お茶が振る舞われる。しばし待っていると妙齢なお嬢さんが出てきて挨拶をする。実はこれは結婚の聞き合わせで、メジロ取りに扮して言うと相手もそれを心得ていて応対する。梅で有名な青梅市ならではの慣習である。
 梅の花にはどこか可愛らしさがある。「梅」といえば確かに「メジロ」が似合う。「桜」にはどんな鳥が似合うのか。「桜」と「鶯」というのであれば、こんな歌はどうだろう。
 
  世の中に絶えて桜のなかりせば
     春の心はのどけからまし 在原業平
 
 業平の有名な桜の歌を良寛が本歌取。
 
  鶯のたえてこの世になかりせば
     春の心はいかにかあらまし 良寛
 
 続いても桜の一首。
  潮風とお湯の温度が絶妙と
     露天に入る桜と共に 由良子
 
 作者は本日ご欠席の加藤由良子さん。海を望む露天風呂には桜の花びらが浮かび、潮風で温度は絶妙。そこまで言われてしまうと誰もが今すぐ行きたくなる。ご本人から寄せられたコメントによると、「新聞のチケット案内が当たり油壺の温泉ホテルに行って露天風呂を楽しんで詠んだ歌。春とは名ばかりで外は寒くお湯は熱い。目の前の桜の大木は散り始め、前方に海を見ながら入る露天は最高だった」とのこと。出席者の皆が羨ましく思うとともに加藤さんのますますのご健勝をお祈りした。
 
  あの人もこの人も「いい人ね」って
     思える今日の元気な証拠しるし 弘子
 
 作者の嶋田弘子さんは、最近短歌は必ずしも古典的でなくてもよいのではないかと思われたそうで、俵万智や若い歌人の自由な歌からご自身も「五・七・五・七・七」の定型に縛られない歌をお詠みになったとのこと。他人を良く思えない時は、自分の調子があまり良くないと経験から感じておられて、そのご自身のバロメーターを歌にされた。誰でも自分のことを知るのは難しい。他人に対する気持ちから自分の状態を知る。たしかに自分の心に余裕がないと、人に対して優しくなれないものだ。
 濱野会長より上田三四二の短歌論『短歌一生』に「心の色」と題する文章があることを教わった。上田三四二は謡曲「熊野ゆや」で覚えた「思ひうちにあれば、色ほかにあらわる」という文句はまさに短歌に当てはまると述べている。短歌の技法とはこの内なる思いをどう形にあらわすかの工夫に他ならず、作品の高低は、作者のその時期における生き方の気息に照応しているとする。「思ひうちにあれば、色ほかにあらわる」すなわち歌には心の色があらわれる。これほど明解な短歌論があるだろうか。紀貫之が『古今和歌集』「仮名序」に書いた「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」にも通づる。
 嶋田さんの歌は心の色がストレートに出ていて素晴らしい。
 
  春は惜しみまかる師の影時移り
     桜吹雪の日和も疎まし 成秋
 
この春に敬愛する二人の恩師と小学校のクラスメートを亡くされた濱野会長がお詠みになった歌。春といって思い出されるのは西行法師の歌だそうで、同じ死ぬなら花が咲いているその下で自分は死にたいと西行法師は言うが、いくら春でも大切な方がこんなに多く一度に亡くなられてはたまらない。春が散らすのは桜の花だけではないのだとしんみり仰る。
 
  願はくは花の下にて春死なむ
     そのきさらぎの望月のころ 西行
 先生との良き思い出の時が移り師の薨る姿に手を合わせなくてはならない日が来た。それも春に。薨る人がこんなに多いと桜の花を見てもよい日和だなんて思えない。本日この会に来てその暗い気持ちからようやく抜け出せて桜を愛でて春になってよかったと思える心境になれたと濱野会長。
 筆者は「薨」という漢字を初めて見た。「身罷る」の漢字表記が普通だが、「夢」の下の部分に「死」と書いて「みまかる」となるのは知らなかった。調べてみると、「薨去」という言葉があり、皇族などが亡くなった際に使われるとのこと。「身罷る」ではなく「薨る」。濱野会長がいかに恩師を敬愛されていたのかが漢字一字で表現される。日本語は奥深い。
 
  雨は降る舟よ動けと念じても
     舟は繋がれ 白秋を恋う 和子
 
 今回も外出許可が下りずにご欠席の清水和子さんの作品。コロナ禍で外出できないご自身を舟に喩えられたのでしょうか。嘉山さんによると清水さんがお住まいのホームはすぐ前が諸磯湾とのことなので、湾の船を見てお詠みになったのかもしれない。「白秋を恋う」という結句から白秋と何か関係があるのかと思っていたら、三宅さんが白秋の作詞した『城ヶ島の雨』という歌があり、詩には「雨はふるふる」や「舟はゆくゆく」という言葉もあるので、その歌で白秋を思って詠んだのだろうと推断。
調べてみると『城ヶ島の雨』は大正二年に三崎に住んでいた白秋が作った詩に「どんぐりころころ」などを手掛けた梁田貞が曲をつけた舟歌である。詩は当時の白秋の苦しい心境を表していると思うが、舟歌にしたのは自らの新たな船出を願ってのことではないか。現在城ヶ島大橋のたもとには白秋直筆の詩碑がある。
 
  病む友の恢復願ひ宮参り
     梅の匂ひのけふは柔らか 裕二
 
 知人が病気で治療中と聞いて、一日も早く完治してもとの生活に戻って欲しいと願いお宮に参拝した。その時に筆者が詠んだ一首。病気がよくなるという意味では「快復」という漢字が使われるが、知人は行動的な人でいつも忙しくしていた。病気はもちろんその活動的な生活も元に戻って欲しいとの思いから「恢復」にした。
 下句の柔らかい印象から作者の友人を思う気持ちが伝わってくるとのご感想を皆さんからいただいた。菊は香るが梅は香らない。梅の「香り」ではなく「匂ひ」としているところが良い。この歌には気品さえあるとは濱野会長のお言葉。
 
  枇杷の花、梅の花へとくる野鳥
     しばらく群れて直ぐに飛び立つ 良江
 三浦は野鳥が多い。先日もとんびの行動が印象的だったと作者の玉榮良江さんは仰る。玉榮さんのお話では、ご自宅の近所の山にとんびが巣を作っていた大木があり、その木が伐り倒される際に作業員に向かってとんびが飛んできた。まるで伐採に抗議するかのようだった。山には小さいとんびも飛んでいたので、その木で生まれて巣立ったのかもしれない。なぜ木が切られたのかは伺わなかったが、巣を失ったとんびはどこへ行ったのだろうか。
 「しばらく群れて直ぐに飛び立つ」の部分はまったくその通りで、鳥というのは、いるのは一時で直ぐにいなくなる。よく俳句は写生と言われるが、短歌も自然やものをよく見ることが基本だろうと三宅さん。写生歌といえば正岡子規の有名な一首が思い浮かぶ。
 
  瓶にさす藤の花ぶさみじかれば
     たゝみの上にとゞかざりけり 子規
 
 何気ない客観描写のようだが、子規が晩年病床に伏していたことを知る者ならば、花をどこから見ているのかと視線の位置を考え、歌に描かれていない作者の姿さえ見えてくる。さらに描写自体がどこか彼の心の声のようにも思えてくる。優れた写生歌は多くのことを物語る。
  五十円大根二本求めると
     傷ある大根一本おまけ 尚道
 
なんとも個性的な歌である。「五十円」「二本」「一本」と数詞が多く使われ、出てくるのは「大根」だけ。普通ならばただの説明になるところだが、これが歌になっているから不思議である。
 本作は以前にも「五十円大根」を詠んだことがあると仰る三宅尚道さんの歌。今年は野菜が豊作なのにコロナの影響で需要が減り売れなくて農家は困っている。捨ててしまうくらいなら五十円でも売った方がよい。形が悪かったり傷ついたりしたものは出荷ができないからおまけで付けられているそうだ。三浦なので三浦大根だろうか。筆者の暮らす東京のスーパーでは青首大根ばかりで三浦大根は見かけないが、煮物にすると美味しいですよと皆さんが教えてくださった。
 大きくて美味しい大根が五十円とはなんとお得かと思ってしまった筆者はこの地では「よそ者」の証拠だろう。誰にとっても安いのはありがたいが、地元の誇りの大根が投げ売りされていれば、どこか悲しく切ない気持ちになる。そうさせる社会に対しての疑問や怒りの感情も静かに湧いてくる。スーパーの広告文句のように淡々と述べられるとなおさらである。作者はそこまで計算している。
 充実した歌会を終えて別室に移り春の宴が始まる。地元で評判の「でぐち荘」さんのお料理をいただく。筆者は三度目だが、皆さんはよく来られているようで、三浦は海と山の両方の幸に恵まれた土地ゆえに地の食材を活かしたお料理はどれも絶品だった。三崎の鮪も入ったお造りに金目鯛の煮付けやサザエの壺焼きなどの海のものに加え、和え物や煮豆に天ぷらや茶碗蒸しなどの山のもの。美味しいだけでなく品数も多い。天ぷらの盛り合わせには蕗もあった。蕗の天ぷらをいただくのは初めてだったが、歯ごたえがあってとても美味だった。大根のはりはり漬けはもしかすると三浦大根だろうか。目の前の諸磯湾の天草で作った自家製のところてんをデザートにいただき大満足でお食事を終了。
 前回の歌会で嶋田さんから伺った十三塚に皆で向かう。車でしばらく坂を上がって行くと四方を見渡せる見晴らしの良い丘の上にある嶋田さんの菜園に到着。とにかく景色が素晴らしい。なるほどここに立って空を見れば歌を詠んだ嶋田さんの気持ちもよく分かる。
 十三塚に関しては三宅さんが調べて資料をくださった。みうらガイド協会が発行する『三浦の散歩道』に田中健介氏による十三塚への言及がある。田中氏によると『新編相模国風土記稿』(一八四一)に十三塚は「村の東方に相並て在り、高さ六尺許」と記されているとのことで、田中氏は地元の歴史研究家の案内で一箇所だけ塚を見つけることができたと書かれている。
 嶋田さんはすでに塚の土地の所有者の方から話を伺い塚についてお詳しい。嶋田さんの案内で私たちは三箇所を訪れることができた。そのうちの一つは残念ながらそこにあったと伝え聞くのみで塚の痕跡はなかった。他の二つは高さ一メートルにも満たない小さな塚が確認でき、一つには卒塔婆も立っていた。『新編相模国風土記稿』の高さ六尺となると百八十センチぐらいになるので、この塚ではないだろう。
 十三塚は三浦道寸の十三人の家臣の塚だと言われているが、彼らが亡くなってから約五百年が経過し、現在わずかにいくつかの塚が残るのみである。実際に塚に家臣は埋葬されたのか。他の塚はどこにあるのか。歴史家であれば事実も重要だろう。しかし事実よりも先人を思う気持ちが重要ではないかと筆者はこの場所に来て実感した。先人も同じ空を見たのだろうかと思って嶋田さんは「時の動きを中宙に視ゆ」と詠んだ。上田三四二は「歌には心の色があらわれる」と言うが、人を思う気持ちが歌になる。濱野会長は恩師を、筆者は病気の友を、清水さんは白秋を、より広く植物まで含めた衆生となれば、本日の詠草はすべて彼らへの思いを詠んだものだ。晴天の空の下、眼下に広がる風景と畑に咲く花を眺めながら催されたノンアルコールの「酒宴」の席でそんなこともふと考えた心洗われる佳き日であった。
嶋田さんの菜園にて。左より嶋田弘子氏、嘉山光枝氏、濱野成秋会長、玉榮良江氏、三宅尚道氏。
別の塚。草に覆われて見えにくいが卒塔婆も立つ。
十三塚の一つ。畑の中ほどにある突起が塚。
日本浪漫歌壇 冬 如月 令和三年二月二七日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 春を思わせる陽気が続いたかと思うと真冬のような寒さに逆戻り。三寒四温とはよく言ったものである。晴れ渡るも風はまだ冷たい。二月二七日、午後一時半より三浦短歌会の皆様と日本浪漫学会で歌会を行った。会場は三浦勤労市民センター。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、玉榮良江の五氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の桜井艶子、清水和子の二会員も詠草を寄せられた。
 
  初春に涙腺ゆるむ孫の書く
    はねだしそうな「新たな決意」 由良子
 
 お孫さんのお習字を見たときにその伸びやかな字を見て思わず涙が出たそうで、作者の加藤由良子さんは「最近はこんなことで涙腺が…」と仰る。お幸せな証拠である。元気に育つ孫とそれ温かく見守る祖母。参加者もみな温かい気持ちになった。「はねだしそうな」の言葉遣いが秀逸というのが皆の共通した意見であった。
 
  「歩いてる?」娘に訊かれ生返事
        愛犬逝きて運動不足 光枝
 娘さんに尋ねられ生返事でごまかす様子は微笑ましいが、その分愛犬を亡くした寂しさも伝わってくる。昨年愛犬が亡くなるまでは犬の散歩が日課だったとのこと。毎日時間になると、散歩を待ちきれない愛犬に催促される。そんな光景も目に浮かんでくる。
 若山牧水にもこんな歌がある。
 
  枯草にわが寝て居ればあそばむと
     来て顔のぞき眼をのぞく犬 牧水
 
 筆者は犬を飼っていないが、飼っている人を見ると犬の方が主導権を握っているように思えてしまう。気のせいだろうか。
 
  アネモネは信仰の花 花言葉
     「信じ従ふ」ラジオより聞く 尚道
 
 作者の三宅尚道氏の話では聖書には「野の花を見よ」という言葉が出てくるが、この花はアネモネだと言われている。毎日その日の花と花言葉を紹介するラジオ番組があり、アネモネの日があったことで生まれた歌。クリスチャンの三宅氏ならではの一首。調べてみると、赤いアネモネはキリストの受難を象徴するようだ。ギリシア神話ではアフロディテの愛したアドニスの血がアネモネに変わったとされる。
 筆者はこの歌に散文的な印象を受けたが、作者の三宅氏ご自身もどこかしっくり来ないと感じていて、皆で忌憚なく意見を述べあった。議論が行き詰まった時、絶妙なタイミングで濱野会長がユーモアを込めた本歌取りを披露。作者を愛する奥様がちょっぴり皮肉を込めて詠んだ歌との設定で、
 
  ナルシスは夜更けの花よあなたなら
     アネモネのごと信仰一途に 成秋
 
 この一首で場の雰囲気が一気に和んだ。
 
  お水取り越えねば春は来ぬといふ
        母の冬里思へば幾歳 成秋
 
 「お水取り」とあるので「冬里」は奈良だと判断できるが、作者の濱野会長のお母様は奈良のご出身。「お水取りが済むまでは春は来ない」とよく仰っていたそうで、奈良は盆地で冬はしんしんと冷えると伺って冬の奈良を知らない筆者も納得。「古里」や「故郷」では寒さは伝わらない。
 「思へば幾歳」と、お母様の出身地に対しても長い間欠礼していて申し訳ないと思えるのはお母様への深い愛ゆえ。中村憲吉にもお水取りを詠んだ歌がある。
  時雨して奈良はさむけれ御水取
     なほ二月堂に行を終らざる 憲吉
 
 同じくお水取りが終わらないと春は来ないと言っているが、母への思いを詠んだ濱野会長の作と比べると写実的である。
 実際の「母の冬里」は、神通力で空を飛んでいる時に若い女性の脛を見て墜落した久米仙人の話で有名な橿原の久米とのこと。それを伺ってにわかに親しみが湧いた。面白い仙人もいるものだ。
 
  西の空父母の顔あり悔ゆるのみ
     八十路往く身に老いのしかかる 艶子
 
 本日欠席の桜井艶子さんの作。人生を振り返り、今になって両親の存在が大きかったことを痛感し、感謝の気持ちともっと親孝行をしておけばよかったと悔やむ気持ちになられているのだろう。参加者の皆さんからこの気持ちはよく分かるとの声。
 作者の桜井さんは三崎の入船ご出身で加藤由良子さんとは幼なじみ。加藤さんのお話では桜井さんのお父様は県会議員をされていてお母様も旦那様を支えながら一生懸命働いておられたから、その姿を思い出されるのではないかとのこと。
 「西の空」とは西方浄土のことであろう。浄土が西にあるとされたのは、太陽も月も最後は西に沈むのですべてのものが最後は西に帰するとされたとする説が有力。美しい夕日が沈むのを見れば誰でもその先に浄土があると思うのではないか。そんなことを思っていたら、次の作、夕焼けの歌に。詠んだのは筆者である。
 
  冬夕焼赤く染めたる故郷の
     夕べの雲はどこへ向かふや 裕二
 
 場所が議論になった。作者はどこにいるのか。故郷に戻って詠んでいるのか。故郷を思って詠んでいるのか。また夕焼けも同様で、故郷の夕焼けか、今住んでいる場所の夕焼けか。両方の解釈が出て、どちらかと尋ねられた。
 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で始まる室生犀星の詩の「詠んだのは故郷か否か」問題が一瞬頭をよぎったが、著者としては、読者がどちらにでも解釈できるように意図して書いたので、どちらでもよいとお答えした。とくに夕日や夕焼けは、人それぞれが自分のイメージを持っている。現在住んでいる東京で見る夕焼けはオレンジ色とお話したら、三浦は真っ赤ですよと皆さん仰る。「夕焼け小焼け」の歌は八王子の恩方の情景だったが、もはやそこでは見られない。最近三浦で沈む夕日を見てここではまだ見られると思ったと仰ったのは濱野会長。嘉山さんによると諸磯湾に沈む夕日が最高に美しいとのこと。夕焼け話で盛り上がった。
 冬の夕焼けを表す言葉には「冬夕焼」「寒夕焼」「冬茜」「寒茜」がある。初句は「冬夕焼」と「冬茜」で迷い、音の並びですっきり聞こえる「冬茜」を考えていたが、濱野会長より「あかね」と言えば万葉集の額田王の有名な一首がある。
 
  あかねさす紫野行き標野行き
     野守は見ずや君が袖振る 額田王
 
 この歌は月光の中という解釈があり「あかね」が夕焼けを表さない場合もあるとのご指摘をいただいた。「冬茜」という語があまり使用されないために意味が分かりにくいことも考慮して「冬夕焼」にした。
 
  愛すれど猫は巧みに家を出で
     畑や山をグルグル回る 良江
 
 家猫がすきを見て時々逃げ出すので、作者はそのたびに探し回り、猫に振り回されている。先日も五時間探されたそうだ。
 「畑や山をグルグル回る」というどこかコミカルな後半部分が、飼い主になど全くお構いなしに自由奔放に行動する猫の特性と何となく人を馬鹿にしているような印象を上手く表現している。憎たらしいけど猫好きにはそれがたまらないのだろう。
  いにしえの塚の遺れる丘に立ち
     時の動きを中宙に視ゆ 弘子
 
 作者の嶋田さんは、三浦市火葬場を更に上った見晴らしの良い丘の上に畑をお借りになっていて、近くに十三塚がある。人から聞いた話では、十三塚は三浦道寸の十三人の家臣の塚で、彼らは新井城が燃えているのを見ながらそこで亡くなった。落城は一五一六年。北条に敗れ三浦氏は滅ぶ。
 作者が塚のある丘から見た空はとても美しかった。自刃した家臣たちが見た空もきっと美しかったのだろう。空は変わらないが時は変わると感じお詠みになったのがこの一首。
 嶋田さんのお話を伺い、次回の歌会後にぜひ皆で十三塚を訪れようという話になった。三浦半島には史跡が多い。最近濱野会長が見つけた戦跡は、海軍水上特攻隊の特攻艇「震洋」の格納庫。場所はカインズホーム三浦店近くの海岸の崖を降りた所。付近の丘陵地帯も戦争当時は零戦基地だったとの説明。
 
  ”推し“などと粋な言葉を使われて
     吾人はたじろぎ若者を見る 和子
 前回に続きホームの外出許可が下りずにご欠席となった清水和子さんの作。三宅氏のご説明では、第一六四回芥川賞の受賞作である宇佐美りん『推し、燃ゆ』(二〇二〇)を踏まえて詠まれた歌とのこと。
 現在、宇佐美氏は大学生で二一歳。清水さんは九一歳と伺ったので、年齢差だけを見れば大きい。「推し」という言葉は、若者が使う場合「応援しているアイドル」といった意味で使われることが多く、かなり意味が拡大されているが、逆に「一推しアイドル」が略されて「推し」になったと考えたほうが適切かもしれない。「推し」は辞書的には「一推し」の意味なので、使われても「たじろぐ」ほどではないだろう。
 『推し、燃ゆ』のタイトルの二語で言えば、「推し」よりも「燃ゆ」の方がわかりにくい気がする。「燃ゆ」とはネットで炎上すること。「”推し“など」と「など」が付いているので、あるいは「推し、燃ゆ」という言葉にだじろがれたのだろうか。清水さんに伺えないのが残念である。
 『推し、燃ゆ』の主人公は、好きなアイドルの応援に心血を注ぐ女子高生だそうだ。では、同じ「燃ゆ」でもこの歌はいかがだろう。
 
  真昼日のひかり青きに燃えさかる
     炎か哀しわが若さ燃ゆ 牧水
 歌会を終え、コーヒーショップ・キーという名のカフェに移動してお茶をいただく。しばし歓談し、カフェを後にする頃には西の空は冬夕焼。充実した一日であった。今日は皆さんが仰っていたほど赤くはない。残念。
 帰り道、夕焼けを見て無意識のうちに浮かんできたのは「夕焼け小焼け」の歌だった。なぜ自分の「冬夕焼」の歌でない?歌人としてまだまだ修行が足りないようだ。
 
◎次回の合同歌会は三月二七日午前十一時より。この日は新人も加わっての花見の宴も用意されています。場所は三浦三崎の「民宿でぐち荘」(電話042‐881‐4778)。地元では定評のある魚介類が楽しめます。当日会費は三千三百円。入会希望者は、info@romanticism.jp または 090‐2735‐7495濱野成秋会長までご一報ください。年会費五千円。
三浦短歌会 一月歌会詠草 令和三年一月三十日  濱野成秋
 
 短歌の結社としてはもう古い方に属するだろう。今年で七十四年になる三浦短歌会。神奈川県の三浦半島を城ケ島に向かったところにある。
 正月三十日、宗匠の三宅尚道氏の車で料理屋旅館「でぐち荘」に向かう。随行は日本浪漫学会の副会長代理河内裕二氏。詠草を寄せられた三浦短歌会の会員は嘉山光枝、加藤由良子、三宅尚道、桜井艶子、三宅良江、嶋田弘子、清水和子の各会員に日本浪漫学会から河内裕二と濱野成秋が加わる。
 今は昨年春先より猛威を揮うコロナ感染症の最中で集会が出来にくい。だが意を決して集まった歌人たちは意気軒高である。
 
  初日の出畑道に立ちて手を合わせ
     コロナ感染終息願ふ   光江
 
  久々に息子は帰省せりなにげなく
     吹く口笛に時は戻りぬ  由良子
 
  短歌会七十四年経過して
     三浦の短歌二集歩ませ  尚道
 
  時経れば百年なりとも親しきに
     父母兄みな逝くそを如何にせむ 成秋
  息詰めて来光の時唯待ちぬ
     去りしあの時われのみぞ知る 艶子
 
  駅ホームの点字ブロックに人立ちて
     障害者への場所と知らさる 良江
 
 秋である。写生歌である。朗々と読み上げる。樹木と色と動物と。その動きの中で枯葉が舞う。英語に driftというのがあり、これは漂い落ちる感であって、dropでも fallでも scatterでもない。それを「舞い散る」と詠んだところが近似してゆかしい。
 
  あいみょんを聞きつつ深夜外に出る
     秋季ただよいブルームーン高し 由良子
 
  感染者五千人超え続いても
     八時になれば朝ドラ始まる 弘子
 
  今日も又何とはなしに日は暮れて
     ふくらむお餅を眺めて待ちぬ 和子
 
  厳冬の心に咲きし寒椿
     花弁ちりばむ春待つ君に 裕二
 右の歌で特に皆が心を寄せたのは「エデンの園」というホームに住んで今年九十一歳の清水和子会員の歌。本日は足止め欠席。ホームでは与えられぬ餅を密かに焼いて頃合いになるのを待っているご本人は、ほんとうに待っているのは何? 訪れる身内? それともやり甲斐のある何か? いや業平のいう、昨日けふとは思はざりしをの…? とは誰も口には出さねど、他人ごとではないとはこのことで。
 
  その名さへ忘られし頃飄然ひょうぜん
     ふるさとに来て咳せし男 啄木
 
 啄木はコロナウイルスで死んだわけではない。だが、肺を患い心細い足取りで飄然と故郷に姿を見せては咳をする男。ここなら死に場所にしてよいとする心情は今も昔も変わりはない。
 終わって持参せし河内裕二副会長代理の五首を披露して勉強会。
歌会の後は別室にて新年会。地魚に鮑に本場のマグロに。天下の三崎港の御膝元である。終わって海辺。対岸に富士の霊峰。いましも暮れゆく夕凪の彼方を酔眼にて望みをり。未だ脈打つことのせつなさを噛み締めて。